***このブログについて***

書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1997年5月15日木曜日

忘れ物が戻る

バスターミナルの職員に「明天!」と言われたとおりに朝から行ってみるも、収穫なし。昨日のバスは今日営業するつもりなら確実にここに来るそうなのだが、私営バスなのでいつ来るかは誰も知らない。中身は洗濯が必要な服、歯磨きと歯ブラシ、そして相棒の日記帳。これが痛い。私のと違って簡便な内容ながら、1年以上つけてた日記ですからな。外側はタイで買ったビニールのしましまカバン。貴重品が何一つ入ってないので、返ってくる可能性は高いと思うのだがな…。

さて、気を取り直して観光。近郊の農村で市が立つ日だそうである。朝食を食べたウィグル人のめし屋でその村の名を聞く。Laashuqui(ラーシュクイ)と聞こえた。街の中心からバスが出るそうだ。

そこへ行くのは街で昼食をとってからにすることにして、まずはホータン名物の絨毯工場へ行く。相棒が「工場にしては静かやなあ」とマヌケなことをぬかすが、当たり前だ。手織りに決まっとろうが。手織りだから価値が高いの。機械織りで良ければ天津の大量生産ものを買ってなさい。

体育館のように大きな建物の中で、幾つも並んだ織り機に女性たちが向かい合い、一心に絨毯を織っていた。私達が香港から来たと告げると、責任者の女性が別館入れてくれた。そこでは香港返還式典に間に合うように織らせている巨大な絨毯を一対織っている最中で、一枚は地が白、一枚は臙脂で、どちらも新疆に住む13の民族が並んで踊る姿と、白地のものにはウィグル語、臙脂のものには中文で、「祝賀香港特別行政区成立」と書いてある、そうだ。私達にはもちろんウィグル語の方は読めない。

元のデザインでは「祝賀回復主権」だったそうなのだが、その後「祝賀香港特別行政区政府成立」と変更になり、しかし「政府」と漬けると北京と香港に二つ別個の政府があるようでまずいということで、最終的にこのデザインになったのだという。そのせいで制作が遅れ、今頃まだ織っているんだと責任者は笑った。私達が写真を取ろうとすると、他の絨毯は問題ないが、これだけは完成して香港に送るまで機密扱いなので遠慮してください、と断られた。私たちはいずれ湾xのコンベンションセンターでこの絨毯に再会できるのだろうか。

さて、食事をとってラーシュクゥイへ。大変な賑わいだ。羊、ヤギ、牛、ロバ、馬などの売買で人々は忙しい。なぜか私達を見て人々が「パキスタン!パキスタン!」と騒ぐのがおかしい。相棒がパキスタン人とは、いくらなんでも無理があると思うのだが。やはり長く伸ばした山羊ヒゲのせいだろうか。最近どこへ行っても漢人とは思ってもらえない。

タクシーもロバタクも非常に安く、タクシーなら市内どこでも5元ほど、ロバタクは一人1元。短距離なら二人で1元。

1997年5月14日水曜日

バスに忘れ物


北京時間9時発のはずのバスは9時半にやっとバスターミナルを出発した。出たのはいいが、出るなり別の駐車場のような広場に入っていき、運転席前の行き先の看板を掛け変えた。「皮山行き」。皮山ってどこ!?そしてなぜ???和田はどーなったの!?

運転手と切符もぎの話を総合するとこういうことらしい。乗客は八割ぐらい乗っているがそのうち和田まで行くのは我々含めて6人だけ。少なすぎて採算が合わないので途中の皮山行きに変更し、後の皮山→和田間は切符代は負担するから皮山で別のバスを探して乗り換えてもらうう、と。中国語ではこういうのを「売猪(豚を売る)」と言う。いいけどさあ…。

このバスは超おんぼろで全くスピードが出ず、三時間かかって通過した地点の看板に「カシュガルまで87キロ」と書いてるのを見た時にはめまいがした。時速30キロ切っとるがな!500キロ走るのに何時間かかるの実際…。今から本気出したら10時間ぐらい?と楽観していたら、結局9時間半かかって皮山という町にやっとこさたどり着いた。

すでに夕方6時半、ここでバスを乗り換える。中型バスでさっきよりは走りそうな見かけである。しかし香港なら厳格に定員16人にバスに、38人乗せて走るからなあ。きっちきちだ。7時半にやっと出発の運びとなり、いくつかのオアシスを縫うようにして砂漠を突っ走った。ほどなく日が暮れた。

揺られること4時間、すっかり真っ暗になった深夜11時半、バスは停車し、道端で乗客を下ろし始めた。バスターミナルには入らないらしい。慌ててバスを降りた私たちは真っ暗な道端でかろうじてオート三輪を拾い、宿にたどり着いたのは良いがそこで相棒が声を上げた。「カバン忘れた!」

なんてこと!慌てて同じオート三輪に乗りさっき下車した地点へ引き返すが、時すでに遅し、カバンを荷棚に載せたまま、バスはいづこともなく消え去っていた。ここは実はバスターミナルの真ん前だった。さっきのバスは公営でなく私営だったので、ターミナルに入らなかったのだ。バスターミナル職員に救いを求めるも、ウィグル人で漢語があまり通じず、「明天明天!」と繰り返すばかりでどうしようもなかったので、仕方なくホテルに引き返す。なにしろ夜中だし。ふうぅ。

四人部屋は18元/ベッド、三人部屋は20元。外人ばその倍。私たちは「香港人は中国人だ!」と言い張って、1.5倍で折り合った。そして三人部屋に60元で泊まり、かつフロントの小姐は相客を部屋に入れないと明言してくれたので、結局三人部屋を国内人士が包したのと同じ費用。安くはないが納得して止まることにする。しかし、歯磨きと歯ブラシは忘れた鞄の中だ。

1997年5月13日火曜日

7年ぶりのカシュガル

私は7年ぶり、相棒は8年ぶりのカシュガルなり。

宿のそばで3元の麺を食べ、街をうろつく。新しいビルがいっぱいだ。エイティガールバザールにも行ってみた。記憶の中の姿と随分違うような気がする。バザール入口近くの陶器屋で、店主に話しかけられた。「どこから来た?」相棒が珍しく本当のことを言った。「香港。」

店主は我々をじっと見て、「香港はいいなあ。」と真面目な顔で言った。相棒がいつものように「香港のどこがいいもんか。物価は高いし・・・」と笑い飛ばそうとすると、店主はこう言ったのだった。「誰が物価のことなんか言ってるか。香港はいい。カシュガルはよくない。『これ』のことだ。なんのことかわかるな?」店主は『これ』と言いながら、両手で自分の首を絞める仕草をしてみせた。

・・・わからいでか。

店主は香港人が大量に移民として香港を離れている現状を詳しく知っていた。私たちは少し真面目な話をした。ごくありきたりの、しかし中国境内で漢民族と少数民族が交わすにしては、ややありきたりではない会話。私は話をしながら、7年前にこの通りで国民党時代の紙幣を一枚買ったことを思い出した。政権が変わっても、エイティガールに礼拝に来る人々は変わらない。変換後の香港はどう変わるのだろうか。


この日、身長と体重を測る。166センチ61キロ。トレッキングシューズを履いたままだったので、身長から3センチ、体重から500g~1kg差し引く必要があると思う。一年半で体重が20キロ減った。

1997年5月12日月曜日

カシュガルへの移動日

朝食をいつもの店で食べる。店主に、我々が買いに行くとチケット代が100元も高いから、代わりにチケットを買ってくれないかなーとお願いしてみる。店主は嫌な顔ひとつせず買ってきてくれた。しかしチケットを見てどっきり。外地人&外国人用のチケットとはぜんぜん違う。バレバレでーす。うーん。

(この日の記述がここまでしかなく、結局どうなったのかは15年後の現在ではとても思い出せない。無事カシュガルに到着しているのは間違いないのだが。あとで夫の日記帳を参照させてもらう。2012年4月29日)