***このブログについて***

書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

2023年6月20日火曜日

姫路→倉敷

 


お天気よろしすぎ(焼けた) 姫路城と好古園のセットで一人1,050円。


天守閣からJR姫路駅を見やる
老婆が石垣建設に石臼を供出したという言い伝えの石。


古墳の石棺も石垣様に流用されていた模様。
好古園。母は城よりこちらの方がいいと言っていたが、園芸に興味があればまあそうかも。

古代ハス。

除虫菊ってこんなんか。
昼食は駅前商店街で、ちらし寿司丼 刺身定食 さきイカ天ぷら2725円 食べすぎた。






















さて移動。姫路→倉敷は二時間程度。鈍行で1,980円。今夜のお宿は今回唯一のホテルじゃなくてゲストハウス。倉敷美観地区の、駅とは反対側のはずれにある。外国人バックパッカー向けぽくしつらえられてるけど、コロナのときはそんなこと言ってられなかっただろうな。バスルーム共同の部屋が最安で迷ったが、一応シャワー付きの部屋にした。もんのすごい狭くて笑っちゃうほどだったが(体格によっては使えない人もいるだろうというレベル)、きれいはきれいで文句なし。


しかし美観地区、予想して然るべきだったが夫が三分で飽きた。美術館にも興味がないと言う。倉敷に来て大原博物館と浮世絵博物館をふたつともスキップするのはどうなのよ…。



とりあえず丘の上の鎮守さんに登ってみる。立派な能舞台があった。
こういう坂は旅情をそそるねえ
クラボウは倉敷か。そりゃそうだな。



浮世絵国芳館があってちょっと入りたいが、おっちゃんがまるで興味が無いからな…。せめて大原博物館は明日行くか。
でかい家の前に黒板がたててあって、達筆で経済動向の見立てが書いてあった。きっと難儀なオッサンが当主なんだろうな。
倉敷は湿地帯を埋め立てた地とのこと。塩分のせいで綿花以外は植えられず、しかしそのせいで繊維の街となったそうなので災い転じてなんとやら



弥生遺跡と古墳をめぐる旅とか、私は興味アリアリだが、おっちゃんにとってはどうでもいいしな。





















おっちゃんはたちまち町並みに飽きて、繁華街へ行きたがる。駅の反対側のショッピングセンターへ行く。倉敷に来てんのにサイゼリヤにアカチャンホンポに無印良品...。結局無印でスカート(香港で見て日本で見つけたら買おうと思ってたやつ)、おっちゃんが綿の室内ぞうりを購入。このスカート、この日試着したときにはきつきつだったが、香港に帰って穿いてみたら楽ちんになっていたので、毎日中数キロ歩くと違うもんだねえ。

大原美術館は明日見に行くよ。
お宿併設のバーでギネスを飲んで、本日は終了。

今日は15.19km歩いた。



















































2023年6月19日月曜日

大阪→姫路

里帰りは本日で終了。ここから今回のメインイベント、10日間かけて鈍行で大阪から九州までの旅。

昼食後、13:39の乗り合いタクシーで駅へ、55分の快速で大阪、神戸線に乗換えて姫路に四時前到着。1320円、二時間。

駅前の地下街で生牡蠣と生ビールで乾杯。



一応これが目当てだったライトアップ。夜の白鷺城。大学生の頃に、玉三郎がここに野外舞台を設えて鷺娘を踊るのを見に来たことがある。三十数年ぶりですね。

夕食は四割引のスーパーの寿司。

宿。日本円決済でお願いしますって言ったんだけど、何のことか分かってなかったらしくて、奥へカード持って行って香港ドル換算のレシートと一緒に帰ってきた。心づもりの香港ドルより少し高かったけど、この安いホテルの懐に入るんならまあいいかと思ってサインしてから約款を見たら、3.99%はホテルに入る訳では無い。とてもくやちい。


おっちゃんが、この布団の掛け心地には覚えがありすぎると言いながら寝ていたが、翌朝起きて調べたら案の定、ウチで使ってるIKEAの同じ布団で、布団の皮まで同じやつだった。今日は9.61km歩いた。

2023年6月18日日曜日

墓参りと堺の街歩き

朝から父の墓参り。母が死んでここに入ったら、もう誰も積極的に私をここには連れてこないので、ここに来ることはなくなるんだろうな。


午後からバスで堺市内にでかけ、市内を少し歩くことにする。

ソテツを見に入った妙国寺だが蘇鉄は見つからず土佐十一烈士の碑。
本願寺堺別院。もと堺県の役所が置かれた場所。大きな本堂に新しい南蛮絵の金ふすまがあり、ポルトガル人の来航が描かれていた。



出るとすぐそこに、与謝野晶子を鉄幹に引き合わせた河野鉄南の寺  覚応寺

そのとなりの十輪寺。御本尊は1300年代に流行した阿弥陀如来と地蔵菩薩を同体とする信仰のものだそうで、境内に可愛い地蔵菩薩がたくさんあった。塔状の地蔵は1391年のもの。

このあたりは三歩歩くごとに寺に当たるという感じ。
越前屋山口久右衛門を代々名乗った堺の豪商・山口家住宅。2007年まで実際に住んでいらっしゃったそうな。江戸時代初期の建築部分が重文指定。カンナがまだ無い時代で、手斧(ちょうな)の跡が柱に残っている。広い土間にいくつも口の開いたへっついが残り、梁に何代目かの当主の妻が輿入れに乗ってきた駕籠が吊ってあった。 1888年 (明治21) 生まれの当主義一氏は東京帝大卒業後, 政友会所属の衆議院議員として活躍したそうである。


重文指定などを受けていると、クーラーも付けられないし、コンセント一個増やすのにも許可がいるということで、住み続けるのは現実的ではなくなってしまう。それで山口家はこの家を家具や食器等も含めて堺に寄贈したのだとか。ただその際に、古文書等は譲られなかったため、山口家が江戸時代にどういう商業活動に携わっていたかなどは不明だそうである。山口家が市街地に住みながら、北庄村 (北庄・中筋・舳松・湊=堺廻り4か村の一つ) の庄屋 (「町庄屋」 と呼ぶ) を務めていたことはわかっている。
次は火縄銃を作っていた鉄砲鍛冶屋跡で、火縄銃の歴史、仕組み、制作方法などを歴史ボランティアの人が教えてくれる。鋳造ではなくて鍛造、砲身を巻きで締めている、先込め、火蓋と火皿、持ち手は樫の木、銃身の手元側の塞ぎは螺子で、これは日本で最初の実用螺子、弾は鉛の円形、砲弾は鉛の鋳造で真円形。


クレー射撃場に練習に行くと周囲からじろじろ見るという。音が大きいのでみんなびっくり。火縄銃所持には免許はいるが、撃つのにはいらないそうなので、火縄銃保存会に入ってくれれば撃たせてあげますよ、とのご冗談。

次は河口慧海が学んだ寺子屋。 不動明王を祭る山伏系の信仰の場所。



日記の絵葉書を買った。我が先達よ。
その近所の生家跡には、民家の隙間に石碑だけが残っていた。この土地の登記どうなってんだろ。



チン電。
土居川にかかっていたはずの極楽橋。今は土居川公園に残されている。

道標も。「右 かうや(高野)山   大峯山」「左  妙国寺 大坂道」

高校を卒業して大学に入る前の初めてのバイト先、楓林閣。

堺タカシマヤの地下にある、高校〜大学時のごちそうラーメン古潭。
おまけ:関西人なら平坦に読めない看板