午後からバスで堺市内にでかけ、市内を少し歩くことにする。
ソテツを見に入った妙国寺だが蘇鉄は見つからず土佐十一烈士の碑。
本願寺堺別院。もと堺県の役所が置かれた場所。大きな本堂に新しい南蛮絵の金ふすまがあり、ポルトガル人の来航が描かれていた。出るとすぐそこに、与謝野晶子を鉄幹に引き合わせた河野鉄南の寺 覚応寺
そのとなりの十輪寺。御本尊は1300年代に流行した阿弥陀如来と地蔵菩薩を同体とする信仰のものだそうで、境内に可愛い地蔵菩薩がたくさんあった。塔状の地蔵は1391年のもの。
このあたりは三歩歩くごとに寺に当たるという感じ。
越前屋山口久右衛門を代々名乗った堺の豪商・山口家住宅。2007年まで実際に住んでいらっしゃったそうな。江戸時代初期の建築部分が重文指定。カンナがまだ無い時代で、手斧(ちょうな)の跡が柱に残っている。広い土間にいくつも口の開いたへっついが残り、梁に何代目かの当主の妻が輿入れに乗ってきた駕籠が吊ってあった。 1888年 (明治21) 生まれの当主義一氏は東京帝大卒業後, 政友会所属の衆議院議員として活躍したそうである。
重文指定などを受けていると、クーラーも付けられないし、コンセント一個増やすのにも許可がいるということで、住み続けるのは現実的ではなくなってしまう。それで山口家はこの家を家具や食器等も含めて堺に寄贈したのだとか。ただその際に、古文書等は譲られなかったため、山口家が江戸時代にどういう商業活動に携わっていたかなどは不明だそうである。山口家が市街地に住みながら、北庄村 (北庄・中筋・舳松・湊=堺廻り4か村の一つ) の庄屋 (「町庄屋」 と呼ぶ) を務めていたことはわかっている。
次は火縄銃を作っていた鉄砲鍛冶屋跡で、火縄銃の歴史、仕組み、制作方法などを歴史ボランティアの人が教えてくれる。鋳造ではなくて鍛造、砲身を巻きで締めている、先込め、火蓋と火皿、持ち手は樫の木、銃身の手元側の塞ぎは螺子で、これは日本で最初の実用螺子、弾は鉛の円形、砲弾は鉛の鋳造で真円形。
クレー射撃場に練習に行くと周囲からじろじろ見るという。音が大きいのでみんなびっくり。火縄銃所持には免許はいるが、撃つのにはいらないそうなので、火縄銃保存会に入ってくれれば撃たせてあげますよ、とのご冗談。
次は河口慧海が学んだ寺子屋。 不動明王を祭る山伏系の信仰の場所。
日記の絵葉書を買った。我が先達よ。
その近所の生家跡には、民家の隙間に石碑だけが残っていた。この土地の登記どうなってんだろ。
チン電。
土居川にかかっていたはずの極楽橋。今は土居川公園に残されている。
道標も。「右 かうや(高野)山 大峯山」「左 妙国寺 大坂道」
高校を卒業して大学に入る前の初めてのバイト先、楓林閣。
堺タカシマヤの地下にある、高校〜大学時のごちそうラーメン古潭。
おまけ:関西人なら平坦に読めない看板