バスターミナルには行方不明の子供を捜す両親の悲痛な張り紙がどっさり張られていて、震え上がった。小僧の手をぎゅっと握り締めつつ乗車。わりとましなバスでほっとする。
街を出てすぐ山に入る。私はこの道を、16年前にも通ったことがあるはずである。中国語がようやく無理なく話せるようになってきたころで、off the beaten trackな旅がしてみたくなってきたのだ。当時の私は、頭の中は綿菓子みたいにふわふわで甘ちゃんなくせに、自ら「夢も無く、恐れも無く/Nec spe nec metu」とうそぶくようなお年頃、今だってそりゃあ未熟ではあるが、まあ未熟にも未熟にもほどがある阿呆な娘ちゃんだった。まあでも、それが若いというということですよね。
16年前は昆明から狭軌列車に乗って開遠、そこから路線バスを乗り継いで建水、個舊、通海とめぐった。開遠では郊外の少数民族の村を訪れ、建水で最南境の漢人の街なみを楽しみ、通海では郊外の雲南モンゴル族の村を訪問して、民家で昼食をご馳走になった上、女主人の民族服を着せてもらった。どれも懐かしい思い出である。そしてまたこれが、私の最後の一人旅となった。この後にとうとう覚悟を決めて香港に住むことにし、相棒とつがいを組んでしまったからだ。
開遠郊外の少数民族の村の名を、記憶の中から探り出してみた。三文字。明らかに漢文の名詞ではない地名。思い出した。麻栗坡だ。この地名はどうやらミャオ語では一般名詞的な地名(中国語だと「橋頭」とかそういうの)であるらしく、雲南省の地図を詳細に見ているとあちこちで散見される。もっと大きな地名として広西との省境に麻栗坡縣もある。開遠郊外の麻栗坡村もミャオ族の村で、ピンク色の民族衣装を着た女子供たちが、ため池で洗濯をしていた。当時ここで撮った写真がある。
そんなことをつらつらと思い出しながらバスに揺られていると、「麻栗坡」という小さな路牌が視界に入った。16年前の記憶が稲妻のように蘇って右手を見やると、記憶の中にかすかにあるとおりの濁ったため池で、女が洗濯をしていた…。あれはもしや、私の写真に写っている赤ん坊のうちの一人であるやも知れぬ。
涼田というところから高速に乗り、阿三龍で降りた。いかにも漢民族的ではない地名であるが、民家の様子からはほとんど区別がつかない。女性たちの服はミャオ族かイ族かどちらかという感じ、しかしミャオ族の刺繍ゲートルは巻いていない。ややあって松山、民家の装飾(門扉など)にモスク状のものがあり、回族鎮と知れる。硯山県平通鎮到着が10時半。稼衣鎮(これも中文ぽくない)、維摩鎮(イ族)を経て、12:40丘北到着。
170キロを5時間というので、よほどの山道を想像したのだが、そうでもなかった。ほとんど高速を走らず、村々を縫う旧道を走るため、余計な時間がかかるのだ。旧道にはただでさえスピードの出ない古いトラックが貨物を満載にしてのろのろ走っており、狭い街道でそれを抜くのに、対向車のいないタイミングがなかなかつかめない。おまけに途中で客を拾い降ろしつつの道中なので、時間がかかるというわけだ。高速をフルに使えば、2時間半ほどの距離なのではないだろうか。
維摩のあたりからカルスト地形になり、くしの歯のような岩にひっかかったいくばくかの土に、ささやかな苗を植えつけているような土地が続く。貴州の黄果樹のあたりで、布依族の土地でもこんな土地を耕していたことを思い出す。考え無しに打ち込んだら、鍬の歯がすぐだめになりそうな、そんな土地だ。途中から小僧ぐらいの年の男の子が、鶏を一羽抱えて載ってきた。席の関係で鶏は男の子の席とは離れた所に置かれ、以後鶏が「ココッ」と鳴くたび、男の子は「我的雞・・・」とつぶやくのが、なんともいえず微笑ましかった。
バスターミナルでタクシーを拾い、旧市街で一番いいホテルと指定して連れて行ってもらう。瑞和大酒店、ツイン130元。清潔で、まあまあの広さ服務員が愛想が良く、かつキビキビと良く働くのが見ていて気持ちよく、喜んで泊まることにする。
刺繍ゲートルを巻いているのはミャオ族ではないかと思う。


多分こちらは壮族。広西も近いし。


セミの幼虫を売っていた。これだけ掘り出すの、相当な手間だと思うのだが・・・。しかし南雲南はよく昆虫を食べるな。

さて、目的地の普者黒へはバスターミナルから循環バスが出ており、簡単な昼食を済ませてそのバスに乗ってみる。17キロを30分、2元。バスは漢、回、イ、ミャオ、壮族と、いろんな民族の農村を抜けて、普者黒到着。
村の周辺をぶらぶらする。湖に橋がかかっており、水のきれいな浅い湖に、水草がたくさん茂っている。小船が水草を収穫していた。何にするのだろう?干して、家畜飼料?

男の子たちが、ざりがにを捕まえていた。

農民たちのほうから私たちに親しみの表情を見せることはないが(当然だ)、こちらから打個招呼をすると、とたんに笑顔になる。そして、うちに来ないかと誘う人もいる。もっとも、若い世代の漢族を除けば、普通話はほとんど通じない。普者黒は観光上は「イ族の村」というキャッチフレーズだが、実際の住民はほとんどが漢族である。湖は実は党が作った灌漑用の人造湖なので、もともと「普者黒」というイ族の集落があった湿地帯に、政策として漢族が入殖してきたのではないかと思う。どこからの移民だろう。建水郊外の団山は、イ族集落への江西からの入植だった。麗江の虎跳峡の集落は、四川省からの入植である。漢族の人口圧力が、雲南のハゲ山を生んでいる・・・と思うのだが、大声で言っていい話なのだろうか。
さっきの男の子が、水牛に乗って帰ってきた。

夕方のバスで丘北へ帰還。明日は満を持して普者黒の近郊の山に登り、村の全景を見下ろそう。
息子ちゃん日記
きょうのあさ、ぼくとかぞくでばすにのりました。目的地は丘北でした。目的地についたとき、ぼくたちはさきに酒店にとまって。それから普者黒にいきました。普者黒についたとき、ぼくははじめてばしゃをみました。あるいているとちゅうに、ざりがにをとっているひとがおりました。さいごにおかあさんがべったんをかいました。