***このブログについて***
書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。
1997年3月31日月曜日
ゴアへ移動
旅行一年目の記念日にふさわしいのかふさわしくないのか微妙なり。移動日。HospetからGoa行きの列車がないとはゴさんであった。Goa行きのバスはガイドブックによれば所要時間6時間、バスターミナルの職員によれば8時間、現実には実に十時間半になるとは、誰が思うだろうか。別に故障もなしである。そして座席の周囲のフォーメーションがこんなかんじ。機種依存文字使っちゃうけど出るかな。
前
○③ ○○○
①② ④⑤⑥
私夫 ⑦○○
○⑧ ○○○
後
真ん中は通路。まず①の女性が吐いた。いち早く察した私は素早く窓を閉めたが、さもなくばゲロまみれであっただろう。窓ガラスが無残に汚れてしまったので、以後は車窓の風景を楽しむどころではない。続いて②の幼児が吐く。この子は祖母らしき老婆の膝に抱かれていたのだが、その老婆のスカーフの中に吐く。老婆は風通しの良いんバスの通路でスカーフを振り、汚れを落とす。④と⑦の人に見事なとばっちりが行く。老婆、周囲に大声で注意される。この後①と②は交互に吐き続ける。そして③の小学生男児、周囲の大人が止めるまもなく、③と②と④の間の通路に吐く。わざわざ振りむいて、後ろに見せつけるように吐く。床はゲロまみれ。
さて④の老婆、異様に臭い。インド人にはキョーレツな体臭持ちが珍しくないので特にに気にならないのだが、この老婆の臭いは膿の臭いだ。傷口をひどく化膿させてしまった時の臭い。どこか怪我でもしているのだろうか。とか考えながら、正直な私が感じていたのは、感染る病気じゃなかったらいいなあ、である。
さてこのバスに乗車していた外国人は実は我々だけではなく、⑤⑥⑦はひどいイスラエル人の典型だった。物乞いのインド人よりもひどい格好で、背中はできものだらけ。頭髪も汚いのなんのって。バスの中でタバコを吸うのはやめてくれ。特に周囲に車酔いでゲロゲロの人々がいるときには。
とどめは⑧。乳児。泣きっぱなし。当然だよな。快適とは口が裂けても言えん環境だもんな。
さて、バスは夜7時になってようやくPanaji到着。Goa州観光局経営のTourist Hostelが294Rps。極めて清潔で、バルコニー付きの部屋。石鹸やらタオルやらまで付いているので、値段に見合ったいい部屋だと思う。しかしフロントの女性にもう少し安い部屋はないかと念のため訊ねると、張り切ってあちこちに電話をかけまくり、私達をそちらへ遣ろうとする。リクシャ代はもちろんタダよ、ここより安いわよ、等々。みるからにコミッション狙いという気がしたので、ここ、つまりその女性の職場にチェックインすると告げるととたんに不機嫌に。やっぱなあ。
1997年3月30日日曜日
ハンピ遺跡
六時半に起床。昨夜の移動疲れでゆうべは風呂も入らずに死に寝したので、シャワーを浴びてしゃっきりする。相棒の起床後に、まずバス停からGoa行きのバスの時間を聴く。6時半、8時半、9時半の三本。鉄道駅は何キロ先かと尋ねると、一キロもないということだったので、リクシャに乗るほどのこともないなと歩き始めたらたっぷり3キロは先立った。くーっ。
そしてたどり着いた駅ではGoa行きの列車はないと言われ、無駄足ですごすごと引き返す。バスターミナルからHampi行きのバスに揺られること半時間、Hampi到着時には南インドの遺跡見物には最も避けるべきだと考えられる時間帯にさしかかろうとしていた。11時。腹が減っては歩けないので、Mealsを平らげてめし屋を出ると、南国の強烈な太陽がほぼ南中にさしかかっていまして…。なんて愚かな私達。
灼熱の太陽をいっぱいに浴びつつ、太陽熱を存分に吸収した岩の上を喘ぎつつ歩く。気をつけないとあっという間に熱射病だ。スカーフを頭からかぶる。相棒にも布を帽子がわりに頭に巻かせる。岩だらけの道を、あちこちに残る遺跡に寄り道し目をやりながら、ニキロほど歩く。やっとビッダラ寺院に到着。だんじり型の石造建築という面白い建物が、この寺院の一番の見もの。建物の脇に大きな車輪が付いているはず。だがそれらしい建物はない。む?あれはなんだ?バナナの葉のむしろで囲まれた工事現場を覗いてみると、案の定それがメインのし建築物であった。修復中とか。残念残念。しかし周囲の神殿の彫刻は素晴らしく、かすかに残る彩色が昔の栄華を偲ばせた。この神殿にかぎらず、Hampiの遺跡のほとんどが巨石を積み木式に、あまりかみ合わせなどもなしに積み上げるだけでできているようで、傾いたり崩れたりしているものが多かった。
川べりを歩いてバザールへ戻る。巨大なNandi(聖牛)像の横で一休み。このバザールは本来はNandiとゴプラム(南インド式の塔)の間を結ぶ石の回廊であったものが、周囲の住民が両脇の柱と柱の間に壁や仕切りをこしらえて自宅とし、前に店を出しているという愉快な門前町。ここから南に向けても幾つか見所がある。でかいガネーシャ像ともっとでかいラクシュマン(人獅子)像とか、ヴィシュヌ寺院とか、床に水を張ったリンが寺院とか。あたりの荒涼とした岩石だらけの風景はとても異様で、中国にはない風景だと相棒が言った。これは彼にとっては最大の褒め言葉のうちのひとつである。
山がすべて岩からできている。おそらく元はひとつの岩であった山が、過酷な気候のもとで風化し、こうなったのだろう。こんな場所でもひとは棲むのだなあ。夕方のバスを捕まえてHospetに戻る。よほど雨が降らない気候なのだろう。ホテルのレストランは中庭だった。羊肉のフライとビールを頼む。マサラ(カレー味のスパイス)を使っていない料理は久しぶり。満足の行く夕食だった。
1997年3月29日土曜日
ハンピを目指すも時間切れ
列車は一時間遅れで朝の8時過ぎにBangarore到着。駅前のバスターミナルでHampi行きバスを探すも直行は見つからない。Bellarかなんか、そんな名の街で乗り換えの必要あり。9時発、そのBellarとやらには4時前にやっとこさ到着。途中、風力発電の白い巨大な風車が数十本、いや数百本?も立ち並ぶ平原を横切った。壮観だった。
Hampi行きを探すも、そこからも直通は無し。Hampiが地図にもなか名乗らないような小さな村だというのは最初からわかっていたので、その付近のHospetという町を探す。というより、HampiがHospetの近郊なのである。バスターミナルの職員が三番プラットフォームで待てというので一時間近く待ってみたが、いつまでたってもHospet行きはこない。偵察に出た相棒がバスターミナルの外に私営のミニバスがいて、客がいっぱいになると出発しているということをそのへんのインド人に教えてもらってきた。早速行ってみると、かなり頻繁に出ているではないかミニバス!ターミナル職員は呪われよ。すぐにミニバスで出発するも一時間のロスは痛く、六時半に到着した時にはもうすっかり日が暮れており、移動には時間切れ。Hospetで一番いい宿の一番安い部屋に泊まる。バス停からリクシャで5Rps、ダブルでシャワーとトイレ付きで124Rpsなり。
Hampi行きを探すも、そこからも直通は無し。Hampiが地図にもなか名乗らないような小さな村だというのは最初からわかっていたので、その付近のHospetという町を探す。というより、HampiがHospetの近郊なのである。バスターミナルの職員が三番プラットフォームで待てというので一時間近く待ってみたが、いつまでたってもHospet行きはこない。偵察に出た相棒がバスターミナルの外に私営のミニバスがいて、客がいっぱいになると出発しているということをそのへんのインド人に教えてもらってきた。早速行ってみると、かなり頻繁に出ているではないかミニバス!ターミナル職員は呪われよ。すぐにミニバスで出発するも一時間のロスは痛く、六時半に到着した時にはもうすっかり日が暮れており、移動には時間切れ。Hospetで一番いい宿の一番安い部屋に泊まる。バス停からリクシャで5Rps、ダブルでシャワーとトイレ付きで124Rpsなり。
1997年3月28日金曜日
マドゥライのミーナクシ寺院
朝八時のバスに乗るべくバスターミナルに行ったら7時半のバスがちょうど出るところで、職員が切符の裏に何やら書き込みをして言った。「急げ!」
私らの希望もなにもあったもんではないです・・・。しかも乗車の際に荷物の重量を計られ、二つのバックパックがあわせて40キロ、その他に相棒がカメラバッグ、私がデイパックを持っているので一人20キロの制限を超えているということで、追加料金を10Rps取られた。これってほんまに払わねばならんものなのだろーか。なんかどさくさに紛れて掠め取られたような気がしてならん。
バスはスカスカ気持よく走り、昼二時にはMadurai到着。駅に荷物を預け、さっそくMeenaksi寺院へ行く。偏執狂的なデザインの塔が4つ。びっしりと隙間なく、リアリスティックかつグロテスクな彫刻で表面を埋め尽くされ、ペンキのようなけばけばしい色を塗られている。いかにもある種のインド的な好みだ。(タイガーバームガーデンみたいな感じね)
中の千柱堂は博物館になっており、あまり手入れは行き届いていないが、しかし結構いい展示が並んでいた。ただ残念ながら明かり取りの窓が殆ど無い壁なし吹き抜けの空間を、展示物用に壁をどっさりこしらえて採光と通風を大変悪くしてあるので、薄暗くて展示物がよく見えない上に冗談じゃないほど暑い。湿度も高いので体に危険なほど暑い。もっとじっくりみたかったが、早々に退散。
時間が少し開いたので、国際電話を掛けられる場所を見つけて香港に電話。電話の待ち客から「」ビルマ人か?」とさんざん聞かれた。なにかゆかりのある土地なのか。
夜八時、乗車。
私らの希望もなにもあったもんではないです・・・。しかも乗車の際に荷物の重量を計られ、二つのバックパックがあわせて40キロ、その他に相棒がカメラバッグ、私がデイパックを持っているので一人20キロの制限を超えているということで、追加料金を10Rps取られた。これってほんまに払わねばならんものなのだろーか。なんかどさくさに紛れて掠め取られたような気がしてならん。
バスはスカスカ気持よく走り、昼二時にはMadurai到着。駅に荷物を預け、さっそくMeenaksi寺院へ行く。偏執狂的なデザインの塔が4つ。びっしりと隙間なく、リアリスティックかつグロテスクな彫刻で表面を埋め尽くされ、ペンキのようなけばけばしい色を塗られている。いかにもある種のインド的な好みだ。(タイガーバームガーデンみたいな感じね)
中の千柱堂は博物館になっており、あまり手入れは行き届いていないが、しかし結構いい展示が並んでいた。ただ残念ながら明かり取りの窓が殆ど無い壁なし吹き抜けの空間を、展示物用に壁をどっさりこしらえて採光と通風を大変悪くしてあるので、薄暗くて展示物がよく見えない上に冗談じゃないほど暑い。湿度も高いので体に危険なほど暑い。もっとじっくりみたかったが、早々に退散。
時間が少し開いたので、国際電話を掛けられる場所を見つけて香港に電話。電話の待ち客から「」ビルマ人か?」とさんざん聞かれた。なにかゆかりのある土地なのか。
夜八時、乗車。
1997年3月27日木曜日
カーニャクマリ
起床、しかし体が異様にだるい。ここ二日間の成り行きを考えるとまあ妥当か。3月24日には濃すぎる茶の飲み過ぎで二時間ほどしか眠れず、よく3月25日には空港ロビーの石張りの床で二時間ほど仮眠したのみ。その後ソファで一時何ほどまどろむもすぐ搭乗。飛行機で寝ればいいのに苦手の英語の雑誌を食い入るように読み、ビールを飲んできっちり酔っ払う。軽い頭痛をかかえたままバスの乗り、二時間半のバス旅の中、やはり一時間ほど眠る。到着後にミールスを食べてインドに帰ってきた!と実感し、シャワーを浴びて夜九時に倒れ寝、起きたら翌朝八時で、低血圧の一番ひどい時のように頭がぼうっとし、体が自分のものではないような感覚だ。
相棒は朝食を仕入れに出かけ、私はのろのろと起きだしてベランダの籐椅子に座る。いい眺めである。目の前にはインド洋、左手には背の高い尖塔を持つ真っ白な教会が建ち、さらに左へ目をやると、ごつごつした岩の岬が海の方へ突き出している。手前は漁村と椰子の木。海は明るい青。
私の印象に残るスリランカとインドの違い。
(1) スリランカでは野外の用足しを見なかった。12日間の滞在で2回だけ、一度は5歳ぐらいの子供だったし、もう一度は漁師が浜辺で尻を洗っているのを目撃、しかし落し物は見当たらなかったので海の中で済ませたかと思われる。インドでは砂浜や岩の上に落し物が異臭を放っていて、夕暮れの散策の興を削いでくれることおびただしい。都市、農村、漁村を問わず、一日必ず数度は現在進行形のやつを目撃し、かつ歩いている最中にも大小両便の確かな痕跡を嗅ぐことしょっちゅうなのであるが、スリランカでは全くなかった。なお、暗闇の中でどこならともなく漂ってくるこういう臭いを、中国語では諧謔を込めて夜来香(夜に芳香を放ちつつ咲く白い花の名)と呼ぶ。
(2) スリランカの車は、道を横断したがっている歩行者を見ると停車する!オドロキだ!日本や香港ですらこんなに停まってくれないと思う。インドや中国では横断したがっている歩行者を見るとアクセルを踏むのがデフォルト。
(3) カレーが辛い。とんでもなく辛い。今まで食べたどこのカレーより辛い。しかも具が少ない。ゆうべ久しぶりにTamil Mealsを食べて幸せだった…。しかも私の大好きなバナナの葉っぱの上にごはんをどさり式。おかわりも自由だったし、白米そのものもおいしかった。
というわけで、(1)および(2)においてスリランカが先行したにも関わらず、軍配はインドに上がるのであった。(なんの勝負だ)
さてさて、インド最南端、聖なるクマリの岬を見物に行く前に、ここを離れる切符の手配。列車駅でゴア行きの直通はないのかと聞く。無い。最も便利なのはバンガロール乗り換えだと。またバンガロールか。ま、いいや、じゃそれくださいと言うと、なんと明日も明後日もウェイティングリストが100番以上になっていて、席がまわってくる確率は随分と低そう。といって、この距離をバスで行くのはツライ(列車でも22時間)ので、何か別の方法はないかと相談すると、Trivandrum発バンガロール行きの今日の便ならあいてると教えてくれた。でも今日ってのはなあ。昨日そこから来たのに、今日またもどるのは馬鹿馬鹿しいし、だいたいまだカーニャクマリの見物を済ませていない。明日は?と尋ねると、明日夜Madurai発なら取れるというので、やた!それだ。まだ行ってない街だし、Maduraiの目玉Meenakusi寺院は見ておきたかったのだ。いいぞいいぞ。
Maduraiまではバスで7~8時間、朝のバスの乗れば観光の時間はありそうだ。Madurai発Bangarore行きの二等寝台を買い、バスターミナルへ向かう。ホテルかと思ったほど綺麗な建物でびっくり。実際、二階はリタイヤニングルームのようだ。Madurai行きのバスは午前中なら半時間おきにあり、8時発のスーパーエクスプレスとやらを買った。
出る足を確保したので観光に行く。博物館のエントランスフィーがたったの1Rpsで、えらいなあインド。岬は風が強く、満月の直後だけあって波が高く、海底の砂を巻き上げていて海が濁っている。岩だらけの海岸で泳げるような場所はなく、海パンを穿いてきた夫はガッカリ。海岸沿いに砂浜を探して歩くも、どこも例によってうんこビーチ。
部屋から見える白い協会まで歩く。周囲はクリスチャンの漁村であるらしく、いずれの民家もみすぼらしい風情であった。白くそびえたつ教会とは好対照だったが、まさにインドのこういった民を救いにきたのがインド現代のキリスト教であるわけで。インド聖地における異教徒の村。余所者が言及するには重すぎる歴史があるに違いない。
相棒は朝食を仕入れに出かけ、私はのろのろと起きだしてベランダの籐椅子に座る。いい眺めである。目の前にはインド洋、左手には背の高い尖塔を持つ真っ白な教会が建ち、さらに左へ目をやると、ごつごつした岩の岬が海の方へ突き出している。手前は漁村と椰子の木。海は明るい青。
私の印象に残るスリランカとインドの違い。
(1) スリランカでは野外の用足しを見なかった。12日間の滞在で2回だけ、一度は5歳ぐらいの子供だったし、もう一度は漁師が浜辺で尻を洗っているのを目撃、しかし落し物は見当たらなかったので海の中で済ませたかと思われる。インドでは砂浜や岩の上に落し物が異臭を放っていて、夕暮れの散策の興を削いでくれることおびただしい。都市、農村、漁村を問わず、一日必ず数度は現在進行形のやつを目撃し、かつ歩いている最中にも大小両便の確かな痕跡を嗅ぐことしょっちゅうなのであるが、スリランカでは全くなかった。なお、暗闇の中でどこならともなく漂ってくるこういう臭いを、中国語では諧謔を込めて夜来香(夜に芳香を放ちつつ咲く白い花の名)と呼ぶ。
(2) スリランカの車は、道を横断したがっている歩行者を見ると停車する!オドロキだ!日本や香港ですらこんなに停まってくれないと思う。インドや中国では横断したがっている歩行者を見るとアクセルを踏むのがデフォルト。
(3) カレーが辛い。とんでもなく辛い。今まで食べたどこのカレーより辛い。しかも具が少ない。ゆうべ久しぶりにTamil Mealsを食べて幸せだった…。しかも私の大好きなバナナの葉っぱの上にごはんをどさり式。おかわりも自由だったし、白米そのものもおいしかった。
というわけで、(1)および(2)においてスリランカが先行したにも関わらず、軍配はインドに上がるのであった。(なんの勝負だ)
さてさて、インド最南端、聖なるクマリの岬を見物に行く前に、ここを離れる切符の手配。列車駅でゴア行きの直通はないのかと聞く。無い。最も便利なのはバンガロール乗り換えだと。またバンガロールか。ま、いいや、じゃそれくださいと言うと、なんと明日も明後日もウェイティングリストが100番以上になっていて、席がまわってくる確率は随分と低そう。といって、この距離をバスで行くのはツライ(列車でも22時間)ので、何か別の方法はないかと相談すると、Trivandrum発バンガロール行きの今日の便ならあいてると教えてくれた。でも今日ってのはなあ。昨日そこから来たのに、今日またもどるのは馬鹿馬鹿しいし、だいたいまだカーニャクマリの見物を済ませていない。明日は?と尋ねると、明日夜Madurai発なら取れるというので、やた!それだ。まだ行ってない街だし、Maduraiの目玉Meenakusi寺院は見ておきたかったのだ。いいぞいいぞ。
Maduraiまではバスで7~8時間、朝のバスの乗れば観光の時間はありそうだ。Madurai発Bangarore行きの二等寝台を買い、バスターミナルへ向かう。ホテルかと思ったほど綺麗な建物でびっくり。実際、二階はリタイヤニングルームのようだ。Madurai行きのバスは午前中なら半時間おきにあり、8時発のスーパーエクスプレスとやらを買った。
出る足を確保したので観光に行く。博物館のエントランスフィーがたったの1Rpsで、えらいなあインド。岬は風が強く、満月の直後だけあって波が高く、海底の砂を巻き上げていて海が濁っている。岩だらけの海岸で泳げるような場所はなく、海パンを穿いてきた夫はガッカリ。海岸沿いに砂浜を探して歩くも、どこも例によってうんこビーチ。
部屋から見える白い協会まで歩く。周囲はクリスチャンの漁村であるらしく、いずれの民家もみすぼらしい風情であった。白くそびえたつ教会とは好対照だったが、まさにインドのこういった民を救いにきたのがインド現代のキリスト教であるわけで。インド聖地における異教徒の村。余所者が言及するには重すぎる歴史があるに違いない。
1997年3月26日水曜日
インドへ帰る
Air Indiaよりはマシという評判だったに、六時間も遅れやがってAir Lanka!もう二度と乗ってやらん。(乗る機会があればな)
今回の機内食は辛いツナサンド。ビールを注文し、飲む。相棒が目ざとくTimeの最新号を見つけた。中国に関する記事をチェック。新疆独立闘争激化というのはやはりマジらしい。といって、記事の論調からすると現時点でパキスタンからの陸路入国が不可能なほど荒れているわけでもなさそうだ。しかしTime、中国の地方独立の可能性を真剣に検証していて、チベット、新疆、内蒙古あたりなら民族問題もあってまあまあわかるが、漢民族の多様性についても9つの言語区に15の方言を話す漢民族、だから…という論調でやや違和感。
中国は絶対に分裂しないだろう。ヨーロッパ全体とと同じような面積の国なのだから、分離独立するとか地方自治権を拡大するとかした場合のメリットはいろいろ考えるだろうと思うが(例えば日本の近代の成長なども、幕藩体制の地方分権により中央/周辺という格差が拡大再生産されなかったという歴史的経緯に支えられていると思う)、中国には全史と全土を通じて「統一への意思」があるので(漢字によるwriting systemによるところが大きいと思う)、いまさら台湾を除く漢民族の地域が、中央政権に対して分離独立を要求することはありえない。
非武装路線をとっているチベットの独立は事実上ありえないし、内蒙古は外蒙古経済と現代の中国経済の格差を目の前にして、独立や外蒙古への合併を望むということは無さそうな気がする。残る新疆、ここが最も可能性高いし、そのぶんきな臭くなるんだろうなとは思う。何しろ武器調達が用意な立地だ。
インド到着。リクシャーでバス停へ40Rps。四時半のバスでKanyakumari(カーニャクマリ)へ向かう。7時到着。Hotel Sangar、シービューと部屋の広さ、清潔さをしつこくチェックし、見せてもらった4つ目の部屋にチェックイン。ダブルで165Rps。
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