朝7時半のバスでゴラクプルへ向かい、そこからリクシャでバラナシ行きのバスが泊まっている畑の中まで行ってもらった。そして私はここで、大勢のインド農民たちに見守られながらの野グソを決意するまで、20分ぐらいやみくもに畑をあるき続けた。橋のたもとで用を足して、身繕いを終わって顔を上げると、インド人たちが橋の上から私を見下ろしている。せめて見ないふりをするだけの最低限の文化はないのかキミらには!!!と、瞬間激しい怒りがこみ上げたが、しかし男たちの顔にはスケベそうな、または卑しい、あるいは好奇心すらも現れておらず、険しい、無表情に似た、むしろ何かに耐えているような眉間の寄った表情ばかりであることに気づき、やや怒りがおさまる。そういえば私とて見られた、恥ずかしい、といったこれまでであれば当然の感情はもはや全くわかない。
私が立ち去ると、男たちのうちのひとりは私のしゃがみこんでいた場所まで降りて、自分も用を足し始めた。あれはつまり私が「便場」を開拓したことになるのか。ようわからん。
サールナート到着。オートリクシャでツーリストバンガローまで行くも客満。日本寺へ行ってみた。日月山妙法寺という日蓮系のお寺で、一人30ルピーで食事もご一緒させていただけるという。ご住職はものすごい江戸弁で、関西人の私にはヒヤリングが厳しい。その他に若い僧がおふたり。
***このブログについて***
書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。
1997年2月9日日曜日
1997年2月8日土曜日
インドは濃ゆい
昨夜相棒のベッドで枕を上げたとき、ピーナッツの殻が残っていて、「誰や! ベッドで花生食ったやつは! 人間のやることとは思えん!!!」と相棒はカンカンに怒っていたのだが、やはり人間の仕業ではなかった模様。夜中、ビニール袋ががさごそ鳴る音で目が覚め、同時に悟った。ねずみだ。相棒は大胆にごーすか寝ているのだが、私はビニール袋が カサ と鳴るたびに目が冴え、まんじりともせず。
朝、涅槃仏を拝んで2キロほど散策。もういちど中国寺へ行ってみると、今日は100ルピーの部屋が空いているという。みせてもらうと、今泊まっているところより「少し」きれいだ。トイレが別で、全く離れたところにあるのが却ってありがたい。移ることにする。
ミャンマー寺に戻り、宿代としてのドネーションはどこに払えばいいのかと寺の作男に尋ねると、本堂二階の賽銭箱を示された。いくばくかを入れて荷物を中華寺に移し、めし屋で昼食をとっていると、ミャンマー寺のインド僧がやってきて、お布施はしたのかという。賽銭箱に入れたよと答えると、あれとこれとは別、宿泊の布施は自分に払ってもらわないと困ると言い出したので、ちょっと笑ってしまった。僧衣にもポケット付いてんのか。
この僧はゆうべ仏像を売りつけに来たときも、焼き物の仏像を「まだ旅は長いから、割れ物はちょっと」と婉曲に断ると、「割れやすくないよ、これは」と言って仏像を床に打ち付けてみせたのだった。やっぱりインドは濃ゆいなあ。
荷物も移してるのであっさり断る。スリランカ寺の仏塔に登って読書。すると塔の下にインド人がたくさん集まってきて、私を指してなにやらどうこう言っている。もしかして女性は登ったらアカンのか。しかし非難しているような口ぶりでもない。ようわからん。
一旦退散することにして、中華寺へ散歩に行く。今日はご住職がいらした。ベトナム系アメリカ人の女性で、中国語は全く話せなかった。
朝、涅槃仏を拝んで2キロほど散策。もういちど中国寺へ行ってみると、今日は100ルピーの部屋が空いているという。みせてもらうと、今泊まっているところより「少し」きれいだ。トイレが別で、全く離れたところにあるのが却ってありがたい。移ることにする。
ミャンマー寺に戻り、宿代としてのドネーションはどこに払えばいいのかと寺の作男に尋ねると、本堂二階の賽銭箱を示された。いくばくかを入れて荷物を中華寺に移し、めし屋で昼食をとっていると、ミャンマー寺のインド僧がやってきて、お布施はしたのかという。賽銭箱に入れたよと答えると、あれとこれとは別、宿泊の布施は自分に払ってもらわないと困ると言い出したので、ちょっと笑ってしまった。僧衣にもポケット付いてんのか。
この僧はゆうべ仏像を売りつけに来たときも、焼き物の仏像を「まだ旅は長いから、割れ物はちょっと」と婉曲に断ると、「割れやすくないよ、これは」と言って仏像を床に打ち付けてみせたのだった。やっぱりインドは濃ゆいなあ。
荷物も移してるのであっさり断る。スリランカ寺の仏塔に登って読書。すると塔の下にインド人がたくさん集まってきて、私を指してなにやらどうこう言っている。もしかして女性は登ったらアカンのか。しかし非難しているような口ぶりでもない。ようわからん。
一旦退散することにして、中華寺へ散歩に行く。今日はご住職がいらした。ベトナム系アメリカ人の女性で、中国語は全く話せなかった。
1997年2月7日金曜日
旧暦元旦に鹿を見る
早朝5時に目が覚め、寺の周囲に散歩に出る。森を切り開いただけのような、何もない土地である。朝霧の中に鹿が二頭現れ、草をはんでしばし後にゆっくりと去っていった。息を詰めてそれを見送りながら気がついたが、今日は旧暦の元旦だ。一年の始まりの日に、釈迦が生まれた場所で、釈迦の第一の弟子を見かけたとは。今年もいい年だといいな。
早朝の読経に参加。いいお声でした。朝食は豆ごはんで、匂いを嗅いだだけで芳しさのあまり涙が出そうだった。ほうれん草のおひたしにごまとごま油をふったもの。なすびの炊いたの。卵の白身の部分だけを蒸したもの。すまし汁。
私達はこのとき経済的にとても切り詰めた旅行をしていたので、宿坊代としてごく普通の額のお布施しかできなかったのだが、いつか余裕ができたときに何らかのご恩返しをしたいと折りに触れ夫婦で語りつつ、今に至る。いつか、きっと。ご住職のお名前は覺賢法信(Gak Hyun Bub Sin)とおっしゃいました。
さて出立。バスでバイラワに戻り、国境のスノウリ行きのバスをキャッチ。20ルピーを渡すと、10インドルピーが帰ってきた。国境ではインドルピー100に対し、ネパールルピー160.40のレートだった。のどかな国境を越えてインド側へ。きわめて順調に通関を済ませ、ゴラクプル行きのバスに乗る。30ルピーのミニバスと、35ルピーのバスがあり、大きな方のバスに乗った。二時間でゴラクプル到着、私はバスの窓からの風に吹かれて熱が上がり始め、あわててゴラクプルでみかんを3つ買いもとめ、そのまま路上でふたつ食った。
ゴラクプル→クシナガルのバスの上では風に当たらず、しかし太陽の当たる席で三十分、ぐうぐう眠ったら治った。しかしでかいみかんだったので二時間後のクシナガル到着時には猛烈にトイレに行きたくなり、しかしインドは中国とはちがってバスターミナルに使えるようなきちんとしたトイレが必ずしも提供されているとは限らないので、まあどういうことかというと、白昼のまちなかで物陰を探して用を足した。もはや達人なので動じない。落ち着いたものである。
さて、中国寺へ行ってみるも、漢字は書いてあるが、なんだか妙な中華寺だ。ベトナム語とかヒンディーとかでも何かいろいろ表示があり、そして中国語を話せる人が全くいない。宿坊は300ルピーとかなり高め。
隣のミャンマー寺に行く。隣室とトイレが共同のツインがあり、簡素だがまあまあ清潔。おいくらですかと尋ねたら、お好きなようにとのこと。ありがたく泊まらせていただく。でもここも中国寺と同じで、ミャンマー人はいないようだ。宿泊客はスリランカの僧侶団と、チベットからの巡礼家族。管理人のインド僧は、夜に部屋まで数珠と仏像を売りに来た。クシナガル自体も、ルンビニの静寂とはまったくちがい、人の多いざわざわした街である。
早朝の読経に参加。いいお声でした。朝食は豆ごはんで、匂いを嗅いだだけで芳しさのあまり涙が出そうだった。ほうれん草のおひたしにごまとごま油をふったもの。なすびの炊いたの。卵の白身の部分だけを蒸したもの。すまし汁。
私達はこのとき経済的にとても切り詰めた旅行をしていたので、宿坊代としてごく普通の額のお布施しかできなかったのだが、いつか余裕ができたときに何らかのご恩返しをしたいと折りに触れ夫婦で語りつつ、今に至る。いつか、きっと。ご住職のお名前は覺賢法信(Gak Hyun Bub Sin)とおっしゃいました。
さて出立。バスでバイラワに戻り、国境のスノウリ行きのバスをキャッチ。20ルピーを渡すと、10インドルピーが帰ってきた。国境ではインドルピー100に対し、ネパールルピー160.40のレートだった。のどかな国境を越えてインド側へ。きわめて順調に通関を済ませ、ゴラクプル行きのバスに乗る。30ルピーのミニバスと、35ルピーのバスがあり、大きな方のバスに乗った。二時間でゴラクプル到着、私はバスの窓からの風に吹かれて熱が上がり始め、あわててゴラクプルでみかんを3つ買いもとめ、そのまま路上でふたつ食った。
ゴラクプル→クシナガルのバスの上では風に当たらず、しかし太陽の当たる席で三十分、ぐうぐう眠ったら治った。しかしでかいみかんだったので二時間後のクシナガル到着時には猛烈にトイレに行きたくなり、しかしインドは中国とはちがってバスターミナルに使えるようなきちんとしたトイレが必ずしも提供されているとは限らないので、まあどういうことかというと、白昼のまちなかで物陰を探して用を足した。もはや達人なので動じない。落ち着いたものである。
さて、中国寺へ行ってみるも、漢字は書いてあるが、なんだか妙な中華寺だ。ベトナム語とかヒンディーとかでも何かいろいろ表示があり、そして中国語を話せる人が全くいない。宿坊は300ルピーとかなり高め。
隣のミャンマー寺に行く。隣室とトイレが共同のツインがあり、簡素だがまあまあ清潔。おいくらですかと尋ねたら、お好きなようにとのこと。ありがたく泊まらせていただく。でもここも中国寺と同じで、ミャンマー人はいないようだ。宿泊客はスリランカの僧侶団と、チベットからの巡礼家族。管理人のインド僧は、夜に部屋まで数珠と仏像を売りに来た。クシナガル自体も、ルンビニの静寂とはまったくちがい、人の多いざわざわした街である。
1997年2月6日木曜日
本日は陰暦の大晦日
12時間の深い眠りの後に目覚めると、本日は陰暦の大晦日。こういうのを中国語では像豬一樣睡覺(豚のようにいぎたなく眠る)と言う。起床、昨日の果物を食べきってから、昨夜おいしかったヴェジタリアンレストランで朝食をとる。やはりダヒー(ヨーグルト)がおいしい。ネパールのヨーグルトは水のようで、私には物足りなかった。
ルンピニーまでバスで一時間、10ルピー。バスを降りるとEnquiryがあり、聞いてみた。宿泊できる寺のうちのひとつである韓国寺はここから2キロもなく、徒歩で行けるということなので行ってみた。ドミトリー一室を二人で使わせてくださった。ほかには韓国人学生と、日本人旅行者がいた。部屋は簡素で清潔で、しかも一日中お湯の出るシャワー室があった。
ご住職が食事を提供してくださった。韓国料理は当然ながら日本食や中華と同じ文脈にある味なので、相棒が特に嬉しがった。とくに圧力釜で炊いた米の旨さときたら…。米はネパールの普通のお米だということだが、炊き方が違うだけでこうも味が違うとは。甘い。また、キムチや紫蘇など、この地では貴重なのではないかと思われる食材を、惜しげもなく振る舞っていただいた。感謝に耐えない。
さて、この地に来た目的のルンピニ苑に行く。淋浴池があり、ネパール寺とチベット寺が有り、どこにも属しないMahadevi寺院があったが、現在改修中で中には入れなかった。淋浴池のほとりには大きな菩提樹が有り、幹の根本に日本式の可愛らしい地蔵菩薩が鎮座していた。後に日本人旅行者から聞いたが、瀬戸内寂聴が日本から持ってきた地蔵なのだそうだ。
地蔵菩薩はインド系の参拝者が掛けるプジャという赤い粉でまっかっか、そして同じ参拝者が撒く米粒を食べに、菩提樹に住むシマリスが5~6匹ほども地蔵の周りに降りてきてきているのが可愛らしかった。どのシマリスも、鼻の先がまっかっかだ。近づくとみんな慌てて樹上に戻っていくのだが、1匹だけ大胆なやつがいて、近づいてもぽりぽり米を食っていた。
夕食をまた韓国寺でごちそうになる。というか、食事ができるところなどどこにもないのだ。夕食には日本のと全く同じ味噌汁と韓国海苔が供されて、日本の旅館に泊まっているような不思議な気分だった。私はご飯をおかわりしてしてしまった。食後にはコーヒーまで頂いたのだ。なんて豊かな一日だったろう。
ルンピニーまでバスで一時間、10ルピー。バスを降りるとEnquiryがあり、聞いてみた。宿泊できる寺のうちのひとつである韓国寺はここから2キロもなく、徒歩で行けるということなので行ってみた。ドミトリー一室を二人で使わせてくださった。ほかには韓国人学生と、日本人旅行者がいた。部屋は簡素で清潔で、しかも一日中お湯の出るシャワー室があった。
ご住職が食事を提供してくださった。韓国料理は当然ながら日本食や中華と同じ文脈にある味なので、相棒が特に嬉しがった。とくに圧力釜で炊いた米の旨さときたら…。米はネパールの普通のお米だということだが、炊き方が違うだけでこうも味が違うとは。甘い。また、キムチや紫蘇など、この地では貴重なのではないかと思われる食材を、惜しげもなく振る舞っていただいた。感謝に耐えない。
さて、この地に来た目的のルンピニ苑に行く。淋浴池があり、ネパール寺とチベット寺が有り、どこにも属しないMahadevi寺院があったが、現在改修中で中には入れなかった。淋浴池のほとりには大きな菩提樹が有り、幹の根本に日本式の可愛らしい地蔵菩薩が鎮座していた。後に日本人旅行者から聞いたが、瀬戸内寂聴が日本から持ってきた地蔵なのだそうだ。
地蔵菩薩はインド系の参拝者が掛けるプジャという赤い粉でまっかっか、そして同じ参拝者が撒く米粒を食べに、菩提樹に住むシマリスが5~6匹ほども地蔵の周りに降りてきてきているのが可愛らしかった。どのシマリスも、鼻の先がまっかっかだ。近づくとみんな慌てて樹上に戻っていくのだが、1匹だけ大胆なやつがいて、近づいてもぽりぽり米を食っていた。
夕食をまた韓国寺でごちそうになる。というか、食事ができるところなどどこにもないのだ。夕食には日本のと全く同じ味噌汁と韓国海苔が供されて、日本の旅館に泊まっているような不思議な気分だった。私はご飯をおかわりしてしてしまった。食後にはコーヒーまで頂いたのだ。なんて豊かな一日だったろう。
1997年2月5日水曜日
インド国境のバイラワ
朝5時半頃目が覚めた。相棒の熱はまだ下がりきってはいないものの、体の震えはおさまっており、昨夜よりはずっとマシらしい。薬を飲んで出発するという。バスは高い方を買ったので、リクライニングシートで座り心地よかった。荷物は天井に乗せるタイプ。
山道を縫って7時間走り、バスはインド国境まで4kmのバイラワ到着。取り立てて見どころのない町なので大抵のツーリストは乗り換えて直接ルンピニーを目指すが、相棒に休みが必要だと考えてここで一泊。みかん1kg(7個)24ルピー、ざくろ1kg(3個)48ルピーなどを購入。ちょっと高級そうなレストランに入ったら、ヴェジタリアンレストランで全く高くなかった。マサラ各種が24ルピーから、ナン12ルピー、ダヒーとラッシーが12ルピー。このダヒーとラッシーがばつぐんに濃い味で、驚きの旨さだった。クリームチーズのような濃厚さで、しかもくどくない。
部屋に戻り、軽くシャワーを浴びて就寝。
山道を縫って7時間走り、バスはインド国境まで4kmのバイラワ到着。取り立てて見どころのない町なので大抵のツーリストは乗り換えて直接ルンピニーを目指すが、相棒に休みが必要だと考えてここで一泊。みかん1kg(7個)24ルピー、ざくろ1kg(3個)48ルピーなどを購入。ちょっと高級そうなレストランに入ったら、ヴェジタリアンレストランで全く高くなかった。マサラ各種が24ルピーから、ナン12ルピー、ダヒーとラッシーが12ルピー。このダヒーとラッシーがばつぐんに濃い味で、驚きの旨さだった。クリームチーズのような濃厚さで、しかもくどくない。
部屋に戻り、軽くシャワーを浴びて就寝。
1997年2月4日火曜日
「光の王」、読了。
朝までかかって「光の王」、読了。満足。
歩いてダムサイドへ行く。レイクサイドよりも静かである。土産物屋もあまり見当たらず、旅行会社もなく、客引きの「ナマステー」もない。そのかわりにめし屋もあんまりないので、食事には不便なのであった。
ポカラはレイクサイドとダムサイド以外が道も舗装されていないような田舎で、市の中心部以外は「村」であった。散歩にはとてもよい。
しかしなぜだろう。私はこの静かで居心地良いネパールを早く逃げ出したくてしょうがない。この国とは合わない。自分でも何故かはわからない。多くの人にとってここは楽園か、すくなくとも長期滞在にもってこいの場所なのに。多分私はもっと「旅」がしたいのだ。もっと緊張と忍耐を強いられるような、そしてやはり「移動」をともなった、旅。
私はインドに行きたくてうずうずしている。私は多分インドで、緊張と忍耐にも関わらず、数多くの痛い目に合うだろう。それがむしろ楽しみで仕方がない。気の毒なのは相棒で、この人は明白に、極めて明白に行きたがっていない。むしろ、帰りたがっている。私は何度も帰れと勧告したのだが、この人の感覚では私をインドにやって自分は香港に帰るというのは不可能だ。で、仕方なく私についてくる。私を守るつもりで。正直に言うと、私には重荷だ。
今日、国境行きのチケットを買った。
ここまで書いたところで、明日早朝のバスに乗るべく今夜のうちに支払いを済ませておこうとしたら、来たよ来た来た、150ルピー/泊のはずが220ルピーだと。値段を文書にさせておかなかったこちらが悪いと言えば悪いのだが、率直に言ってネパールの民宿でやられるとは思っていなかったので、油断した。五年前なら払っていただろうが、いまなんとか交渉に持ち込むガッツと能力があるので、険悪な話し合いの末に150+10%の165ルピー/泊で決着をつける。インドへの序曲としてはまずまずだ。
と、ひさびさに嬉しくなってきたところでふと相棒を見ると、手が震えている。どうした?額を触るとなんてこと、高熱だ。歯の根が合わないほどの悪寒に震えているのだ。すぐにベッドに入れ、まず胃の保護薬を飲ませ、それからイブプロフェンを飲ませた。様子を見て、数時間後にイブプロフェンをもう1錠追加、それから枕元に白湯と薬を置いて眠る。
歩いてダムサイドへ行く。レイクサイドよりも静かである。土産物屋もあまり見当たらず、旅行会社もなく、客引きの「ナマステー」もない。そのかわりにめし屋もあんまりないので、食事には不便なのであった。
ポカラはレイクサイドとダムサイド以外が道も舗装されていないような田舎で、市の中心部以外は「村」であった。散歩にはとてもよい。
しかしなぜだろう。私はこの静かで居心地良いネパールを早く逃げ出したくてしょうがない。この国とは合わない。自分でも何故かはわからない。多くの人にとってここは楽園か、すくなくとも長期滞在にもってこいの場所なのに。多分私はもっと「旅」がしたいのだ。もっと緊張と忍耐を強いられるような、そしてやはり「移動」をともなった、旅。
私はインドに行きたくてうずうずしている。私は多分インドで、緊張と忍耐にも関わらず、数多くの痛い目に合うだろう。それがむしろ楽しみで仕方がない。気の毒なのは相棒で、この人は明白に、極めて明白に行きたがっていない。むしろ、帰りたがっている。私は何度も帰れと勧告したのだが、この人の感覚では私をインドにやって自分は香港に帰るというのは不可能だ。で、仕方なく私についてくる。私を守るつもりで。正直に言うと、私には重荷だ。
今日、国境行きのチケットを買った。
ここまで書いたところで、明日早朝のバスに乗るべく今夜のうちに支払いを済ませておこうとしたら、来たよ来た来た、150ルピー/泊のはずが220ルピーだと。値段を文書にさせておかなかったこちらが悪いと言えば悪いのだが、率直に言ってネパールの民宿でやられるとは思っていなかったので、油断した。五年前なら払っていただろうが、いまなんとか交渉に持ち込むガッツと能力があるので、険悪な話し合いの末に150+10%の165ルピー/泊で決着をつける。インドへの序曲としてはまずまずだ。
と、ひさびさに嬉しくなってきたところでふと相棒を見ると、手が震えている。どうした?額を触るとなんてこと、高熱だ。歯の根が合わないほどの悪寒に震えているのだ。すぐにベッドに入れ、まず胃の保護薬を飲ませ、それからイブプロフェンを飲ませた。様子を見て、数時間後にイブプロフェンをもう1錠追加、それから枕元に白湯と薬を置いて眠る。
1997年2月3日月曜日
ロジャー・ゼラズニイの「光の王」
朝から雨。どこにも行けない。朝食を久しぶりにEgg&Toastで食べてみた。ブラウンブレッド2枚、バター、ジャム、ハッシュドポテト、トマト、チーズ、スクランブルドエッグが卵二つ分、ホットミルク、以上で50ルピー。
昼食を韓国レストランで。私が頼んだミネストローネはさほどの味ではなかったが、相棒は炒麺がウマイウマイとご機嫌である。店のマガジンラックはほとんど韓国語ばかりだったが、一冊だけASIA WEEKを見つけ、「アジアで一番住みやすい都市」特集を読む。基準は人口一万人あたりの病床数、教育状況、道路に占める車面積の割合、空気汚染度、住宅問題、治安、ナイトライフ、インフレ、税率、失業率など、様々な指数を総合した結果、一位はなんと東京とあった。そっかぁ?!
以下シンガポール、バンダルスリブガワン、大阪、香港、そして仙台と続く。三位のバンダルスリブガワンというのは選んだ方も意外だったらしく、コメントで色々言い訳をしていた。税率0%ってのがやっぱり点数稼いだらしい。ただ、これを読んで知ったことだが、ブルネイに多く住む華僑は公式には市民と認められておらず、従って教育や医療の無償制度の枠外にいるということだった。国王、サルタンだもんなあ。
本屋でロジャー・ゼラズニイの「光の王」を発見、SFを読み漁っていた高校生の頃の記憶が、紅茶マドレーヌを直接鼻につっこんだようにごうごうを溢れ出てきて、ついに195ルピーもするその本を値切りもせずに購入してしまったのだった。
昼食を韓国レストランで。私が頼んだミネストローネはさほどの味ではなかったが、相棒は炒麺がウマイウマイとご機嫌である。店のマガジンラックはほとんど韓国語ばかりだったが、一冊だけASIA WEEKを見つけ、「アジアで一番住みやすい都市」特集を読む。基準は人口一万人あたりの病床数、教育状況、道路に占める車面積の割合、空気汚染度、住宅問題、治安、ナイトライフ、インフレ、税率、失業率など、様々な指数を総合した結果、一位はなんと東京とあった。そっかぁ?!
以下シンガポール、バンダルスリブガワン、大阪、香港、そして仙台と続く。三位のバンダルスリブガワンというのは選んだ方も意外だったらしく、コメントで色々言い訳をしていた。税率0%ってのがやっぱり点数稼いだらしい。ただ、これを読んで知ったことだが、ブルネイに多く住む華僑は公式には市民と認められておらず、従って教育や医療の無償制度の枠外にいるということだった。国王、サルタンだもんなあ。
本屋でロジャー・ゼラズニイの「光の王」を発見、SFを読み漁っていた高校生の頃の記憶が、紅茶マドレーヌを直接鼻につっこんだようにごうごうを溢れ出てきて、ついに195ルピーもするその本を値切りもせずに購入してしまったのだった。
1997年2月2日日曜日
森に帰る白鷺を見た日
朝、ポリッジ(バナナとオートミール)とミューズリーを食べた。このレストラン、味は良いのだが毎回勘定書が多めに計算されているので、もう来ないことにする。昨夜雨が降ったので空気が澄んでいて、朝の間は雪山が見えた。朝食を食べているうちに、山はゆっくりと雲の向こうに隠れていった。
相棒、吐きはしないのだが胃の具合は本調子ではないとのことで、再び薬局で消化剤2種類と、胃腸のガスを抜くという薬を買ってきた。屋上に座って暮色を楽しんでいると、白鷺が次から次へと隊列を組んで、同じ森へ帰っていく。あの森には幾千の白鷺が住んでいるのだろう?
夕食をレイクサイドに一軒だけある中華屋で食べた。おいしくはなかったが、まあ中華の味であった。
相棒、吐きはしないのだが胃の具合は本調子ではないとのことで、再び薬局で消化剤2種類と、胃腸のガスを抜くという薬を買ってきた。屋上に座って暮色を楽しんでいると、白鷺が次から次へと隊列を組んで、同じ森へ帰っていく。あの森には幾千の白鷺が住んでいるのだろう?
夕食をレイクサイドに一軒だけある中華屋で食べた。おいしくはなかったが、まあ中華の味であった。
1997年2月1日土曜日
チャリを借りて市内へ
相棒、朝食にトマトをいくつか食べた後、再び吐く。熱なし下痢なしの完全な胃だけの問題で、今の所吐いてしまえば気分的にも体力的にも問題なしだと言うのでやや安心。体調に異常はないというので、チャリを借りて市内へでかけ、大きめの薬局で消化剤(昨日と同じ)、吐きどめ(胃の保護薬)を買う。それとはべつに、上気道感染時の抗生物質とししてAmoxicillinともう一種、喉シロップなどを購入。
昼に私は再度スパゲティ、相棒はバナナヨーグルトを食した。薬がよく効いたか、今度は吐かなかった。夕食は私はミネストローネのみ、相棒は野菜チャーハン。胃が悪いというのにチャーハンを注文するってのは、日本人の感覚ではちょっとありえないです。しかし今夜は吐かなかった。これで復活か。
昼に私は再度スパゲティ、相棒はバナナヨーグルトを食した。薬がよく効いたか、今度は吐かなかった。夕食は私はミネストローネのみ、相棒は野菜チャーハン。胃が悪いというのにチャーハンを注文するってのは、日本人の感覚ではちょっとありえないです。しかし今夜は吐かなかった。これで復活か。
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