***このブログについて***

書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

2012年4月6日金曜日

day 08 タシルンポ寺拝観

タシルンポ寺観光の日。8時起床。宿の主人は早朝に行くと門票を買わなくていいよと教えてくれたが、やはりというか起きられませんでした。夕べは背中が寒くて眠れなかったなり。やっぱ厚着をして寝んとな。

さて、四川人というのはどこでもめし屋を開業する人々である。稀飯,雞蛋,咸蛋,包子,泡菜で12元。タクシーでタシルンポ寺まで行く。

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並んでるよ並んでる!私達も並びました。再び100年分ぐらい仏を拝む。

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12時半から勤行があり、例によって比叡山の僧兵、よりはちと若い少年僧と青年僧たちがわらわらと集まってきて、黄色いマントに黄色い毛の付いた帽子をかぶり、歌うようにがなるように何か(おそらくは経の一節)を唱え始めた。

その歌がふっと途切れたかと思うと、僧たちは一斉に狭い扉に向かって殺到し、本堂に突っ込んでいった。僧たちが全て建物の中に消えると、参拝客は半分閉められた門から一人ずつ中に入った。中では僧たちが黄色いマントを脱ぎ捨てて元の僧服に戻り、並んで座ってお経を上げ始めていた。お経というのはまたなんでこう好聴なんでしょうな。と、清少納言のようなことを言うてみる。

人を見るのも楽しい。ものを見るのも楽しい。建物を見るのもまた楽しい。

標高3800mの、信仰の形。

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脱ぎ捨てられた僧の靴。

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老ラマ。

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一人離れたところにいるこの老ラマを見て、私は20年近く前にブッダガヤで逢った年老いた漢族のラマを思い出した。インドのブッダガヤには各国の寺がある。チベット仏教の寺を拝観中だった。青海の人ではなかったかと思う。彼の村では葬儀はラマを呼んでお経を上げてもらうのが普通で、道教の寺よりもチベット仏教の寺の方が身近な宗教だったのだという。子供の頃の事故で足に障害が残り、農作業に適さない体になった彼は小学校卒業後にそこで出家をした。学業の見込みがあったらしく、修業を続けるうちにそこからどんどん大きな寺へ送られ、最後にはラサの某寺にいた。そして1960年代に14世の後を追って多くの学僧とともに徒歩でヒマラヤを越え、インドへ亡命したのだという。

漢民族であるという出自柄ダラムサラには次第に居づらくなり、ブッダガヤへ身を移し、今は最後のお迎えを待っているところだと、老ラマは訥々と言葉を思い出し思い出ししながら語った。それが本当かどうか私には真偽を確かめるすべを持たなかったが、それがどうだというのだろう。そんな人生がなかったと、誰が言えるだろう。


ここにも桜が咲いていた。

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四時間ぐらいたっぷり見物して、とうとう寺を出た。門前町をぶらぶら歩き、昼食をとりにチベタンレストランに入る。完全に外人向け。揚げたヤク肉とネパール式ターリーとお茶2杯で90元。当然というか、あまりうまくない。夕食は中華にすっか…。

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タクシーを拾ってシガツェ宗山(Fort)へ行く。

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運転手の言うとおり、博物館になる予定のコンクリート造りの味気ない建物は閉まっていたが、シガツェ市街を一望できる眺めは悪くなかった。

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斜面に立つ無数の民家を抜けて街まで降りたかったが、運転手に絶対にやめておけと止められた。民家の番犬がものすごく凶暴で、見境なしに攻撃してくるそうだ。実際、私たちが山の上にいることを匂いと足音で察したらしく、眼下の集落から咆哮の大合唱が始まった。みんなあのふかふかのチベット犬なのかな。


車で登ってきた道をゆるゆると降りる。途中に札があった。海抜3888m。

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燃料用のヤクの糞。

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Diamoxは大変良く効いていて、ここまで高山病的な症状は一切出ていない。ぶらぶら歩いて露天市場へ戻る。こういう場所な何度歩いても飽きない。

滑らかな舌触りのバター茶を作るための攪拌機。
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タルチョ。
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レンガ状に固められた茶葉。モンゴルでもこういうのを飲んでいるはずで、遊牧民の貴重なビタミン源。
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牛の胃袋に何かを詰めたもの。干しチーズか牛の脂か、たぶんそんなところ。
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裏に毛皮のついた晴れ着。
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銀行の入り口にもチベット模様のキルティングのカーテン。田舎では中国銀行よりも建設銀行よりも、この農業銀行が多い。
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昨日見た脚付きの灯明皿を買う。青と白の一組で、チベット様式の模様が書いてある。それを手にしたまま昨日のチベットレストランに入り、午後のお茶にする。ポット一杯10元。私は普通のミルクティー(右)、夫はヤクバター茶(左)にした。店の女性たちが、青い灯明皿と白い灯明皿のどちらがきれいかを真剣に議論している。結論は白のほうだった。私は青のほうが好き。最初はアイスクリームの器にしようと思って手に取ったのだが、灯明皿だと気がついたので失礼な気がしてもう出来ない。飾るだけ。

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夫はこのヤクバター茶が大変気に入り、結局農貿市場のチベット族の店で大きなヤクバターの塊を買った。よく売られている黄色く熟したバターではなく、真っ白でまだあまり匂いもしない搾りたての新鮮なバター。(現在我が家の冷蔵庫に入っております)

いったん宿に返り、気温がまだあまり下がらないうちにシャワーを浴びることにする。チベットの宿のシャワーというのは大抵の場合、太陽熱を利用したものだ。天気の悪い日はお湯がぬるいし、夜も遅くなると無くなってしまう。本日のシャワーは猛烈にいい湯なり。

シャワー後、確たる用もなく買い物に出る。雑貨屋でピーナツの量り売りを買っていると、十中八九香港人だがおそらくわざと中国人風のみなりをした若い女の子が、康師傅のカップラーメンを買い込んでいるのにでくわした。普通話で話しかけると返答のその一言で確実に中国人ではないとわかった。その時点で夫が「啊,你都係廣東人。」と、わざと香港人とは言わずにカマをかけたら、「そう、広東から。」と。夫と彼女はそのまま香港人同士、白こい会話を続けた。女の子は完全に香港人の広東語だった。(私は広東語をほとんど話せないが、香港語、広州語、その他の広東語はかなりはっきり識別できる)夫は長じてから香港に出てきた福建人であるため、香港人からすると「この訛りはどこなんだろうな」と思いながら聞いているんだろう。一人で来ているそうだ。普段なら時間も時間だし夕食に誘ってみたりするところなのであるが、なにしろこちらにややこしい事情があるのでそれもなし。

この絵のついた車をよく見かけた。雲南北部からラサ、そして西寧へ抜けるルートは、中国人には人気の観光路線らしい。

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農奴。「農奴から主人になれました。ハタを共産党に捧げましょう。」

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ハタ(カタ)というのはチベット人が尊敬する人物に捧げる白いスカーフ。3.28農奴解放記念日というのは、2008年暴動の翌年、急遽制定された記念日。

奴隷と農奴のちがいは、社会にもよるがだいたいは私有財産として奴隷個人で売買の対象となるかどうかで区別する。農奴の売買は土地の売買に付属する。農奴と農民の差は土地の貸借の有無を見たりもするが、遊牧民の場合、土地貸借のあたりの定義は曖昧だだ。あとは収穫物の所有のあたりを見て判別するしかないのだろうが、農奴と小作の境目というのは限りなく曖昧になる。しかし、やはりなんといっても移動の自由を禁ずるあたりが農奴と農民との境目なので、牦牛と羊を連れて放牧に出るというのが主産業というような社会では農奴というのは成り立ちにくそうに思えるんだがな…。純粋に農耕だけで食ってける地域ってチベットのうちでも西蔵の地区にはあんまりなさそうに見えますよな。いや知らんけどな。ちらっと見ただやけどな。

身分の差とそれに連動する貧富の差は当然あったはずだが、それをむりやり農奴制とまで言い切って言い切って押し通す必要はどこにあるのか。(明白ですね。)



さて四川菜館へ行く。清炒青筍と家常豆腐にする。夫が厨房まで入って各野菜の鮮度と豆腐の具合を確認し、油を少なめに、味精(グルタミン酸ソーダ、いわゆる味の素)は無し、辣子(唐辛子)も無し、と五月蝿く注文をつけていたら、老板がゲラゲラ笑って「あんたら香港人だろ。男がそんな赤い服を着て、めしにウルサイ注文をつけるのは香港人しかおらん。」と。夫は無事シガツェまでたどり着いた安堵感から、それまで封印していたNorthfaceのまっかっかのゴアテックスのジャケットを着ていた。どう見ても中国人に見えなさすぎるのでしまいこんでいたのであるが、あまりの寒さにとうとう着込んだとたんにこれだ。笑った。

四川老板、老板娘(おやじさん、おかみさん)と世間話をしながらめしを食う。「学校の先生か?それとも勤め人か?」これは昔からしょっちゅう聞かれる。職業を尋ねる際の一種の定型句なのか、それとも私達の見た目がそれほどまでに「做生意的」(商売人)に見えないのか、どちらなのだろう。ちなみに、少し前までは教師というのは貧乏人の代名詞に近かったが、最近の都市部では保護者からの付け届けなどのが額外収入が多く、そうでもなくなってきている模様。

おしゃべりをしていると、隣のテーブルにやってきた漢族と蔵族の若い女の子二人という珍しい二人連れが話しかけてきた。蔵族の女の子が、「香港人だったのね!さっきあなたと目が合った時チベット語で挨拶しそうになったんだけど、顔は蔵族だけど服が違うし、連れは漢族だからどうかなあと思ったの。」と。

彼女たちはラサの婦人服卸業者のセールスで、チベット各地を営業で回っているのだそうだ。婦人服だから女性の方が商品筋を信用されやすいし、若い女性一人より二人のほうが安全だし、漢族の店には漢族の彼女が、蔵族の店には蔵族の彼女が営業をかけるのだろそうだ。完璧なコンビですね。

食事は旨く、おしゃべりは楽しく、夜は更けた。風呂も済ませてあるし、あとはかえって寝るだけだ。

今夜のトラップはこちら。

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