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書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1997年4月15日火曜日

ジョドプル到着、ジャイサルメールへ移動

朝7時過ぎにジョドプル到着。駅で朝食を済ませてからオートに乗り、プライベートバスのバス停へ。この運転手はコミッション欲しさに途中で旅行代理店へ寄り、バスならここで予約せよとウルサイので難儀した。

どうにかバス停へ向かわせる。バスターミナルとは名ばかり、ただの道端に私営バスが数台止まっており、道端でチケットを売っている。観察するとインド人には70Rsで売っているのに、我々には二枚で180Rsと言いよった。「じゃ、買わん」と言うと140Rsに。油断のならんところだのう。荷物を荷物入れに入れろというので係員についていく。トランクにバックパックを入れて「荷物代10Rs」「じゃ、乗らん」「・・・・・」うやむやのうちに係員は去った。ホンマ油断ならんのう。

バスは結構乗り心地よく、砂漠を走ること六時間でジャイサルメール到着。途中で野生の孔雀をたくさん見た。街の中心に近いAmel Sagal Pol付近に到着したので便利便利。インド銀行近くのホテルん入る。清潔なバストイレ付きで50Rs。食事をとると、ゆうべは各駅停車の寝台上段でほとんど眠れなかったという相棒が眠たがり、宿に戻って昼寝。わたしはどこでもぐっすり眠れる方で平気でありましたので、ロジャー・ゼラズニィの「光の王」を読む。しかしながら六時間たっても目を覚ます気配がなく、夕食を食べはぐってしまうので揺り起こす。夜10時過ぎ、閉店間際のめし屋になんとか駆け込んで、Thaliにありつくことができた。

1997年4月14日月曜日

ウダイプル王宮参観

朝、駅までチケットを買いに行く。300kmに十時間かかるとてつもないスロートレイン、これまで乗ったのは一晩乗って二人分300Rsぐらいのチケット代だったので、300Rs握りしめて窓口に向かう。言われた金額は「ワンハンドレッドエイトフォーむにゃむにゃ…」という感じに聞こえたので、184Rsか?なんか安すぎないか?と訝しみつつ、おそるおそる200Rs渡すと、チケットは140Rpsだった。「ワンハンドレッドアンドフォーティ」だった模様。

なんでこんなに安いのだ。いやだよう。十時間乗る寝台の料金が一人2ドルだなんて。よほど遅い列車なのだ。チケットを見ると、Express(特急)でもMail(急行)でもないPassenger(普通)だった。でもこれしか無いので仕方がない。

王宮を見に行く。石材をあまり使っておらず、失礼ながらとっても豪華という感じはしない。しかしながら滑らかに塗られた漆喰に、細かい色ガラスをはめ込んだ壁の装飾は華麗で軽やかだ。そして湖から吹く風は日中でもとても涼しく、住みやすい宮殿、住み心地の良い宮殿だったのだろうなという気がする。マハーラーナの子孫は今でもここに住んでいるとか。うらやましい。いつかお金の出来た時に、付属のホテルに泊まっていい気分になってみたいもんだ。

本日は相棒の誕生日だということをコロッと忘れており、駅で列車待ちの時に「今日のおれはとってもいい気分だなー。嬉しいなあー」と何度もシツコク言われてやっと気がついた。列車は始発なのにホームに来るのが一時間半も遅れた。

1997年4月13日日曜日

ウダイプル到着

朝の検札時に、ウダイプル到着は何時頃かと尋ねる。昼の一時とのこと。5時間以上遅れてるなあ。

ゆうべ、クロークルームに荷物を預けるときに、仔ヤギを二匹預けようとしている人々がいて、おもしろかった。冗談で荷物預かり証をヤギの目の前でひらひらさせてやると、ヤギの持ち主が本気で慌てた。

列車には例によって勝手に床掃除の男の子が乗っており、掃除が終わるとケガをした脚を指さしながら掃除代を請求。とても哀れっぽい仕草だ。私達はいつもどおり小銭をやった。彼は脚を引きずりつつ次の客へ。ひと通り金を集め終わると、私達の向かいの空席に座った。多分どこに座っても歓迎はされないが、外人の私達はあまり邪険にしないからだろうと思う。

男の子は本日の稼ぎを一枚づつ数えだした。十数ルピーはあるだろうか。これで彼はこの日の食い扶持がなんとかなるのだ。手のひらいっぱいの小銭を数え終わり、彼は私達を見てにたぁと笑った。真っ白な歯がこぼれた。仕事は終わった。あの哀れっぽい仕草も仕事のうちなのだ。彼はただのコドモに戻り、外人相手にはしゃぎはじめた。周りのインド人たちはそんな私達をあからさまに不愉快そうに、険しい目つきで見ている。この子供の階層には分を過ぎた行為なのだろう。

相棒がタバコを取り出した。男の子相手にマッチを擦る真似をしてみせると、彼は待て待てという仕草をして、どこかへ去り、ほどなくマッチ箱を持って帰ってきた。相棒はそれを受け取り、50パイサを渡した。マッチはだいたい一箱50パイサなので。箱のなかにはマッチ棒が一本しか入っておらず、風のつよい車内でその一本はタバコに火を移す暇もなく消えてしまった。箱を男の子に返すと、男の子は50パイサを返してよこそうとしたのがなんとも微笑ましかった。もちろん受け取らない。

火もなく、一度くわえてしまった煙草を相棒が持て余していると、男の子はそれをくれとねだりはじめた。相棒が冗談で「2ルピーだ」と言うと、さっきの稼ぎから2Rsを取り出して本当に買おうとする。「おまえは小さすぎるからまだダメだ」と手真似で言ってやると、オレは小さくない!と背伸びをする。またマッチを擦る真似をしてやると、とび上がって探しに行った。その隙に、本当は持っているマッチで火をつけて吸い始めたので、またもやマッチを手に帰ってきた男の子は騙されたことを知って地団駄を踏んだ。そして「吸いさしでいいからちょうだいちょうだい」とねだりはじめたので、相棒は「子供はダメダメ」と、吸い殻を窓の外に放ってしまった。

それから男の子にお小遣いでもやったのかな。もう忘れてしまった。


ウダイプル到着は結局一時半、先に駅周辺で昼食を済ませ、翌日の夜行の手配に行くも、本日は日曜で窓口は2時までしか開いておらず、結局明日にもういちど足を運ぶことになる。

オートリクシャーでKunbh Palaceへ。運転手はコミッションを期待して5Rsでいいと言ったが、ホテルの位置をはっきりとは知っておらず、私達がホテルを見つけたのにそのまま行き過ぎてしまった。OK、歩いて引き返すからとリクシャーを降りて歩いて戻る。路地が狭すぎてオートは方向転換できず、運転手は歩いて追ってきたが結局そのホテルは満室で、運転手は諦めて帰った。すぐとなりのHotel Monalisaに入る。広い部屋にホットシャワー付き。前は木陰でテーブルと椅子があり、シマリスが20匹ぐらいうろちょろしているという天国のような環境。125Rsナリ。

荷物をおいて街に出る。今日は日曜なので王宮は休み、湖の周りを歩いて暑さにへとへとになり、水を飲んではへこたれる。ウダイプルは坂の多い街で、暑季に街をうろつくのは単なる愚か者だと思った。

夕食に、ホテルのレストランで30Rsもするトマトきのこピザを食べる。ウマイ。水分をたっぷり摂取して、本日は終了。

1997年4月12日土曜日

アジメーリー門でお買物


本日は空きの日。朝は相棒が牛乳を二リットルも買ってきた。南インドのコーヒーでカフェオレにして飲む。朝のベランダは日が当たらないのですごぶる気持ちが良い。風が程よく吹く。昼前からHawa Mahalに出かけ、折よくラジオの修理屋を見つけたので短波ラジオを修理してもらう。私のバレッタのネジがひとつとれていたのもついでに修理してもらって、20Rps。

アジメーリ門へゆき、政府経営の土産物屋をひやかす。どれも安くない。市価の1.5~2倍ぐらいか。相棒が玉に似た素材の象の彫刻に興味を持ち、手にとって見たらばりばりにひびが入っていた。中国人の感覚で言うと、いくら彫りが良くてもこれでは台無しである。200Rpsほど。私はドゥパッタ(ショールのような布)を探した。コットンの大判のものが125Rpsだが、同じサイズのシルクのドゥパッタが140Rpsなのと比べると割高な気がする。でもシルクのはドレッシーすぎて旅行中の服には合わない。サンガネール染めの超かわいいサリーも欲しくてたまらなくなるが、何に使うというのだ。模様がひとつながりなので途中で切るのも惜しいし、カーテンやテーブルクロスには薄すぎる。

店をひととおりじっくり見て、何も買わずに出たので店員が鼻でフンと笑った。相棒が朝の牛乳の飲み過ぎでおなかが賑やかになったというので、急いでリクシャで宿に戻る。間一髪で間に合ったそうである。正露丸をのませて一休みと思ったが、日が差す時間になると部屋は暑くてとても休んでいられない。昨日のThali屋で昼食、駅を行って空調の効いた予約オフィスで涼を撮る。ジャイプルでこの暑さなら、ジョドプールやジャイサルメールはどうなるのだろう。

駅前で飲んだ冷やし過ぎシャーベットペプシが激ウマなり。再びアジメーリー門まで遠征し、土産物屋をいくつか冷やかし、ついにドゥパッタを一枚買う。黒地に白のフラワーモチーフ。75Rps。パキスタンでは頭を隠していたほうがよさそうな気がするので、やはり一枚は必要。Hawa Mahal方面へ歩いていると、二人の若者に話しかけられた。曰く「ボクらはネパーリーで…。」昔、広州で三人組の男女に「僕らは北京大の学生で…」と話しかけられたことを懐かしく思い出す。もちろん相手にはしない。相棒二人に「そっかー、この通りはスリが多いから注意しろよ、あっ、後ろに!」と二人が振り返った隙にさっさと別の方向へ歩き出した。

政府直営店で125Rpsのドゥパッタを買う。これより気に入った柄は市場では見つからなかった。140Rpsのサリーはインド人にとってもたいへんお買い得感があるらしく、三人組のおじさんが20枚まとめて買っていた。

少し離れたところにある銀細工の専門店、相棒は象の置物に惹かれて店に入ったのだが、私はイヤリングに釘付けになった。暗いオリーブグリーンの縞の入ったオニキス、硬貨ぐらいあるサイズの平たいティアドロップ型で、周囲を厚めの銀細工が取り囲んでいる。銀は92.5%。かなり大きいが、地味な色合いなので派手ではない。店員の状況を見てこれはと思い、試しにに値段を聞いてみたら250Rps。あっと思った。そこまで下がれば買おうと考えていた値段ぴったりだったから。

この店はかなり大きな間口で立派な店構えなのだが、三人の店員のうち英語ができるのは一人だけだった。ということは、外国人を主要顧客にした土産物屋ではないはず。その英語が話せる店員は地元の女性客にかかりきりになっており、他の二人は値段すら英語では言えないので、接客中で悪いなとは思ったが値段だけ聞いてみたら、返ってきた答えがこれ。思うに、上客の前でふっかけられなかったんだと思う。言い値で買った。

上客の買い物が終わった店員と、少し話をした。基本的に卸売の店で、銀製品は量り売りなのだそうだ。外側一面に蔓草の彫金のある純銀のグラスがUSD40ほど。安くはないが彫金は見事だ。バングルも少しあり、細工も良かった。買い物らしい買い物を二ヶ月もしていなかったのに、昨日のスカート以来ばたばたと立て続けにほしいものが現れた。南インドではハイダラバードで見たダブル・イカット(縦と横双方の糸で模様を織り出す絣)以外には欲しい物があまりなかったが、北インドにはいろいろとある。

駅へ。二等寝台のチケットしか持っていないくせに、堂々と一頭の待合室に座り込み、夜10時発の列車を待つ。デリー発の列車で、距離から見てそんなに遅れないだろうと見積もっていたら、ほぼ時刻通りに到着した列車はそのまま駅に停車25分、出発したはいいがちょっと進んでは蹴っつまづくようにして止まり、後ろに下がり、またこころもち進み、蹴っつまづき・・・と繰り返しているうちに、駅から出ることもなくそのままなんと三時間。大丈夫なのかこの列車。脱線せんか?客も皆始めはがやがやしていたが、出発を待ちきれずにみんな寝台を下ろして寝てしまった。

夜中の二時頃目を覚ますと、列車は何事もなかったかのようにスカスカ走っていた…。

1997年4月11日金曜日

Amber Fort見物


バスでAmber Fortへ。宿のフロントでどこからバスに乗れるか訊ねると、有無をいわさず宿の前にいたオートに乗せようとするのでむっとした。たった一人英語の話せる従業員がこれでは利用価値の低い宿である。結局朝食をとっためし屋のオヤジに教えてもらい、」Hawa Hamal前からミニバスに乗る。しかしいくらか尋ねるのを忘れていて、一人10Rpsも請求された。10kmちょっとでそんなにするわけないのだ。案の定到着してからあちこちで訊ねると、公定価格は3Rpsということであった。三倍以上もぼりくさって、油断も隙もない連中である。

Fortは美しかった。Agra Fortの豪壮さには比すべくもないが、華麗で華奢で優雅だった。湖が見えるのも良い。象がたくさんいた。

市街へ戻り、王宮へ。普段は35Rpsの入場料が、本日はお祭りということで20Rps。神様がぼられたバス代を返して下さったのだと思います。王宮内の3つの博物館の入場料も含まれていた。一つはテキスタイル館。2つ目は武器と火器館、そして美術館。武器館には宝剣が多くあり、柄の細工と宝石の象嵌がどれも見事。私はほら貝がおもしろかった。貝、動物の角を始めとし、象牙、木、銅、皮など、さまざまな素材の法螺があった。

美術館で相棒が気に入ったのは、「薄い布をかぶっている顔」のトルソ。顔の上に薄い布をかぶっている様子が、薄布の細かいひだも含めて真っ白な石で克明に再現されていた。私はそういうスーパーリアリズム的なものよりは古典的な形式を持ったものが好き。細密画コレクションが素敵だった。なかでも水牛と戦うドゥルガーの連作のうちの一枚で、蹴りあげた後ろ足が絵の枠をはみ出ししつつ巨大な水牛を打つドゥルガーの絵が、細密画の形式を超えた躍動感に満ちていて、かつ緻密で繊細ですばらしかった。

インドでついに初めての買い物。茶色とベージュとカーキで一面に象が並んでいる愉快なスカート。象の一頭一頭が金糸のチェーンステッチで縁取りされている。インド以外のどこで穿くのだこれ…。香港で穿けるかな。帰ってみないとわからんな。

列車の予約に行く。期待していなかったがやはり当日のは取れず、明日の夜10時発、ウダイプル止まりの夜行となる。

遅い昼食をとりい、パレードを見に行く。本日がパレードの最終日。昨日よりもいい位置で見物でき、相棒がいい写真がとれたと喜んだ。私は最近なにやら全くカメラに興味がなく、見物のみ。ジャイプルの愛称はピンク・シティ。赤い砂岩の家が立ち並ぶピンク・シティは、夕暮れ時が一番美しい。街の色と空の色がおんなじになる。


夕食。ターミナルそばのThali屋、25Rpsとよそより高めだがよく流行っている。理由はおかわり自由なことにある。チャパティもふくふくしてうてバター付きだし、2品付くサブジーも具だくさん。アチャールも2品、ダールも二品。玉ねぎ、きゅうり、ライムのサラダ付き。そしてこのすべてがおかわり自由という気前の良さ。そうそう、Papadも付いてた。これでダヒーが付いてたら、もう少し高くてもパーフェクトなんだけどなあ。おまけにお勘定をすると私にだけスイートをくれた。商売上手だなあ。この街に住んでたら、毎日通っちゃっうよ。


1997年4月10日木曜日

ジャイプルへ移動


ジャイプルへ移動。バスで六時間ほど。ジャイプルのリクシャの客引きはアグラよりすごいなあ。相棒の好みでインド政府経営のホテルへ行くも、500Rpsは我々の予算を大幅に超えているので泊まれません。

バス停近くの路地を入ったところにGolden Hotelという大層な名前の安宿があり、前がベランダになっている四階の部屋が175Rps。まあ値段相応の出来。床が大理石で絨毯が一枚敷いてあるといえばひどく聞こえが良いが。

さて旧市街に行くとなんぞのパレードをやっており、夢中で見ているとインド痴漢に前を触られた。前って言っても上じゃねえぞ。けつならともかくそんなところを撫でられたのは初めてで、逆上のあまり思わず三発もぶん殴ってしまった。拳で。

1997年4月9日水曜日

ファテープル・シークリへ


バスでファテープル・シークリへ。でかい建築物好きんば相棒が嬉しがって写真をどんどん取る。栄華の跡が渺々と風に吹かれている。ピンク色の砂岩が美しい。ムガル帝国ってお金持ちやったんやなあ…。

午後からアグラ・フォートへ。中庭のリスが人馴れしており、舌を鳴らすと「何くれるの?」という顔で寄ってくる。かわいい。手のひらから食べる。

そして真打タージ・マハル。こないだ見たビビーカー・マクラムなど経の突っ張りにもならんですよ。その規模、美しさ、装飾の華麗さ、ロケーション、あまりにも完璧すぎて笑っちゃうほどだ。これと比べると金閣寺はグリコのおまけみたいに見える。三島の金閣寺を焼いた鬱々青年がタージ・マハルを見ていたら、絶望のあまりヤームナーに身を投げるしかなかったかも。何しろ大理石は燃えないし。

タージ・マハルから世界一の夕焼けを見て充実した本日はおしまい。

1997年4月8日火曜日

アグラへ移動

バスでJansiへ。Agra Canttまで列車で三時間というので、最も安い二等席を買う。窓口で運賃を訊ねると、「エイトハンドレッドトゥエルブ」と言われ、たまげる。そんなに高いわけあるもんか。"Eight Hundred Twelve? Are you sure?"と何度も尋ね返すが、係員はそうだと答える。私達の押し問答に気づいた隣の窓口の係員が横から口を出した。"One hundred and twelve." 私達の窓口の係員も、あっ、そうだ!という顔で"One hundred and twelve, please."と言い直した。思うに彼は英語で112Rpsと言うとき、Oneの部分をヒンディーで「エーク」といっていたらしい。「エークハンドレッドトゥエルブ」、それは812Rpsに聞こえるわい。


2時15分発の列車に乗車。'もちろん席があるはずもなく、寝台車の連結部分にぎゅうぎゅうに立っていると、車掌が来て検札を始めた。私達のチケットを見て、ここは寝台車だから差額を払いなさい。80Rpsと。たしかにここは寝台車両だが、席があるわけではなくトイレの横にたってるだけで追加料金を取られるのは割に合わない。規定を厳格に適用すれば追加料金は払うものなのかもしれないが、周囲のインド人には要求せず外人だけに要求するってのは、やはり見くびられているような気がする。私たちは「次の駅で座席車に移るからチケット返して」「払わん」と押し問答し、結局検札はものすごい怒りの表情で去っていった。ほれみい、払わんでもええもんではないか。そもそも誰も払っとらんぞ。

Agra Cantt駅から悪名高いAgraのリクシャを振り切って、イードガーバス停横のホテルに入る。一軒めで従業員のあまりの馴れ馴れしさにうんざりし、隣の一軒へ。部屋は広く、ホットシャワーが24時間使えて200Rps。アグラに一軒しかない中華料理を食べに行く。思ったより貧相な店でやや当て外れ。食べてナットク、これではリピーターはないわいな。オーナー家族はカルカッタから移住してきた客家人で、漢語は客家語しか話せなかった。料理はオーナ自らがしているようだ。とりあえず安いし、どうしてもカレー以外のものが食べたいなら行くといいと思う。

1997年4月7日月曜日

カジュラホのミトゥナ

朝7時サトナ到着。オートでバスターミナルへ移動し、カジュラホ直行はなかったものの、10キロ手前のPANNAまで行く政府経営バスを捕まえるのに成功。7時45分。昼前にPanna到着、すぐに接続するバスに飛び乗り、昼過ぎにはカジュラホにたどり着いた。なんだか最近移動することに喜びを見出している私達である。

宿を三軒ほどあたる。場所と値段が良かったHotel Lake Sideに泊まる。100Rps、部屋は狭いが大変きれいで清潔で、部屋もバスルームも床はすべて大理石張りだ。ホットシャワー付きでこの値段はありがたい。

荷物をおいて昼食に出る。イタリア語の名前(失念)のレストランでスパゲティを注文、一口食べて後悔する。腹の虫を黙らせるやいなや、カジュラホ西群遺跡を見物に行く。ここはご存知、男女交合像(ミトゥナ)で有名な寺院である。「見学」とか「鑑賞」というより、「見物」という表現になってしまうものではないか。遺跡は、わっはっは、やってはるわー、としか言えない。英語の説明板に"Erotic Couple"と書いてあるのだが、なんかあんまりエロくない。そして別にカップルではない。3P、4Pの方が多いです・・・。いつも思うが、インド人は何を考えているのだろう。

というのはこう。性的な事項というのは、たいていの社会では隠すことになっている。しかしそれが「性的」であると意識されていない場合、’もしくは(建前上)「性的ではない」「もっと崇高なものだ」ということになっている場合には、露出することもあり得る。たとえば女性が胸を見せることを恥じない社会はいくらでもある。昔のタイとか日本とかでもそうだ。私が子供のころには、公園での授乳はごく当たり前に見られた。

密教などに見られる男女交合図や歓喜仏は、たいてい人間ではなく神や超人間的な存在が宗教的な必然性のもとに交合を行なっているという設定であって、画風もあまりリアリスティックではなく、多くは形式に沿った形での表現である。神々しさや荘厳さ、あるいは異様な印象は受けるが、それを人間の日常の営みとちょくに結びつけて考えるにはちょっと遠い。性を主題にしつつ、それを昇華しているのだ。(すくなくともそういうことになっている)

ところがカジュラホのミトゥナは精を十分に意識しつつ、それを宗教的なものと関連させて表現し、崇拝の対象としつつ、かつ生々しい人間の性を忘れていないという二面性を持つところがおもしろい。

交合する男女の横で、両手で顔を覆って逃げ出そうとする女。顔や陰部を手のひらで隠して、恥ずかしさに身をよじる全裸の女。つまり、それが性的であると十分に意識し羞恥心を覚えつつ、その像を自らの崇拝する神像の横に並べて飾る。時にはその神像そのものより大きく。寺院の壁画の最も目立つ場所を、それらの像で埋める。埋め尽くす。

やはり感想は、インド人何を考えているのだ、である。

私はもう一泊して東群のジャイナ教寺院(ミトゥナはない。よって観光客はほとんど行かない)を見に行きたかったのだが、相棒が何やら旅を急いでいる。よほど里心がついたらしい。


1997年4月6日日曜日

初めての一等寝台

朝8時のバスでJalgaonへ向かう。列車の名前はゴラクプル・エクスプレス。国境へ向かう列車か。北が近づいてきた。

バスターミナルから駅までオートで10Rps、駅で最確認したことは、やはり我々の寝台は無いという厳然たる事実である。ウェイティングリスト4番5番なら、なんとか回ってくると思ってたのに。現に今まではなんとななっていた。

朝食をすませ、薬局で相棒の薬を買う。咳止めシロップと点鼻薬。スイカを買い、駅の待合室で食べ、待合室のベンチにいた南京虫に5箇所やられ(鉄のベンチだから大丈夫だとなんの根拠もなく思ってました…)、しているうちにもしつこく何度も窓口へ行ってキャンセルが出てないかどうか確かめたのだが無駄足。このままだと中国の火車で言ういわゆる無座で乗ることになる。どうしようかなあ。

待合室で、輪切りにしたスイカをスプーンでほじりながら食べていると、インド人からどこから来た?と聞かれた。相棒が愛想よく「ネパール。」ばか。ネパール人はヒンディーとよく似た言葉を話すから、バレバレなのに。

と思ったが相手はそんなことを全く知らない田舎の人らしく、すっかり頭から信じこんで「インドはどうだ?」とお決まりの会話となった。そのスイカはウマイか?と聞かれたので、「うまいうまい。これはネパールにはない果物だ。」と答える相棒。「そうか、ネパールにはないのか・・・。その果物はそういうふうに食べるのではなく、こういうふうに切って…」と、スイカの食べ方を詳しく教えてくれるインド人であった。ありがとう。そしてスマン。

さて、列車の到着は遅れ、’本来2時のはずだったが3時半に乗車。ついに無座のままである。乗車時に車掌を捕まえ、空いている寝台はないかと尋ねたが、やはり無し。ここで相棒が「おれは一等寝台に乗る!」と宣言、AC 2Tier Sleeperの車両に乗り込んで車掌に差額支払いを申し出た。

二頭と一等の差というのは天地の差で、エアコンがあるかないか、寝具があるかないかなどの差異のほか、要は乗客が違う。そのときの財布の厚みで乗り分けるというもんではないという気がする。ある階級に生まれればこちら、別の階級に生まれればこちらと、生まれつきでほぼ固定されているのではないかな。

さて差額。払ってびっくり1558Rps。もとの二頭寝台が392Rpsなので、1950Rps/二人。実に5倍の差。すごいなあ。

食事も二等とちがって売りに来るものを適当に買うわけではなく、夕食の注文取りが来た。しかしその夕食を食べられるのが10時過ぎだとは。列車で調理するのではなく、駅でピックアップするという仕組みらしいのだ。運行が遅延していると、当然夕食も遅れるというわけ。

空腹をなだめながら待っていたのだが、披露に負けて9時頃眠ってしまい、一時間後にたたき起こされた時には揺れる列車の上で寝ぼけまなこに冷たいご飯と冷えきったチキンカレーを手渡され、夢うつつで食事をはじめるなりきっちり服の前を汚す。そういう時に限ってベージュのシャツを着ていたりするのだよ!

舌打ちしつつ、寝る。

1997年4月5日土曜日

アジャンタ石窟

朝9時半のバスでAjantaへ。泊まるつもりだったAjanta石窟前のホテルが満室で、5キロ離れたFaldapurまで行かざるを得ず、時間のロスにちょっと不機嫌に。Faldapurで州経営のゲストハウス、大きなゆったりとした部屋に泊まる。インドで初めて見る、バスとトイレが別れている形式。200Rps。

さっそくAjantaへ。壁画はたいそう美しく、これもElora同様、感想を書き連ねても何もならん。

面白かった出来事がひとつ。

あまりの暑さに耐え切れず、珍しく清涼飲料水を買う。石窟前で冷やした飲料を売っている男に値段を訊ねると、12Rps。店売りは普通8~10Rps、レストランでは10~12Rpsぐらいなので、観光地であるし別に異議はなく一本買買った。すると、私達のそばに座っていた年配の男性が何やら怒りだした。この人は富裕層のインド人には見えなかったが、アイロンの当たった清潔なシャツを着ていて、ジェラルミンの小箱にビンロウに必要なものをきっちり用意していた。よく洗ってたたんである葉っぱ、中に入れるビンロウ、香料らしい粉類。小奇麗に整理して入れてあるのが珍しい。一般に、ビンロウを愛用しているのは低所得者階級、肉体労働者か農民で、ビンロウの用意も適当にポケットや頭陀袋に突っ込んであるだけのことが多い。ビンロウ氏は飲料品売りを何やら叱りつけている。まさかと思ったけど、周囲に小声で確かめると、やはり「外国人相手に不当な小売をするな!」と怒っているのだった。

私達も市価よりはちょびっと高いことは知りつつ、しかしこんなとこまで箱に商品と氷を入れて登ってきて売っているのだから、ささやかな上乗せは当然ではないか。インドにはいろんなひとがいる、と思った日であった。

1997年4月4日金曜日

エローラとダウタラバード

早々にチェックアウト。バスターミナルへゆくとなんてこと、バゲージルームがない。(インドではクロークルームと呼んでいたことが多かった。ストアルームとも言う。) あらま珍しい。急遽予定を変更し、アウランガバードにもう一泊することにする。昨日食事をしたホテルにチェックイン。円形の建物なので、部屋が角を切り落としたショートケーキ型、あるいは底辺が弓形になった台形。でも広い部屋だ。そしてとても清潔。50Rpsの差で昨夜の部屋とは大違いだが、その50Rpsがインドにおいてはとても大きいというのもまた事実。

早速荷物をおいてEloraへ出発。エローラの感想は…。感想なんか書いてもしょうがないなあ。もうすでに何度も思ったことだが、インド人何考えてるねん!というのが第一印象で、かつ最終印象だ。巨大な岩石をくり抜いて作った寺院、それ自体がひとつの巨大な彫刻。石自体は気泡を多く含む礫質で、彫りやすいだろうが風化もしやすい。細かい表現にはちと向いていない石質なので、かつては全体に厚い漆喰をほどこし、壁画を描いていたらしい。ところどころにかすかに彩色が残っている。どれほど壮麗な眺めだっただろうか。

多言はやめよう。

エローラから12キロ、アウランガバードとの中間にあるダウタラバード山城へ行く。山はまるでカステラかチーズケーキのように絶壁が垂直にそそり立っていて、周囲には堀も掘ってあるのでまさに鉄壁の守り。エローラで体力を使い果たした我々は登るのを断念、ふもとのミナレットと砲台に登ってお茶を濁すことにした。ちなみにこの日は金曜だったので、エローラ、ダウタラバードともに入場無料。ラッキー。

酷暑期のデカン高原、乾ききった日中を歩きまわったため、一人一リットルずつの水を用意してきたにも関わらず、のどカラカラ。アウランガバードへ帰るのを待ちきれず、通りすがりに見つけた酒の飲める店の駆け込んだ。インドでは飲酒というのは自宅か高級ホテルか、もしくはライセンスのある酒屋の中のPermit Roomという部屋に限られる。そしてそのPermit Roomというのがたいてい地下か、窓とカーテンを締め切った薄暗い小部屋であることが多く、なんだかとても悪いことをしているような気にさせられるのだ。

でもビールは飲む。出されたグラスがとても臭かったので、夫婦で瓶を奪い合うようにしてらっぱ飲みしていると、隣のテーブルでビールを飲んでいた親父が話しかけてきた。どっから来た、インドではどこを見た、などの話のうちは良かったが、そのうち「なぜその水をのむのか」とミネラルウォーターのボトルを指して言い出した。意図がもうひとつよくわからなかったので聞き返すと、「なぜ普通の水を飲まんのだ?インド人が飲んでいる井戸の水を。その水には味がない。井戸の水はもっとうまいぞ。それに井戸の水を飲めば力が沸く。」と、もっともらしいことを言い出すのだ。しかし私達には飲めません。中国人には生水を飲む習慣はないからと説明するも、オッサン酔っとるし話にならん。しまいには「飲んでみろ」と店員に水を持ってこさせたりする始末。酔眼で目の赤くなったオッサンにうんざりしつつ、もう一本飲む心づもりを変更して早々に切り上げて店を出た。営業妨害やで。

鉄道のアウランガバード駅で一時間並び、Jalgaon発Satna行き、明後日の二等寝台のウェイティングリスト4番と5番を買う。乗車までに果たして席は空くだろうか。

1997年4月3日木曜日

アウランガバード到着


朝7時頃、何やら大きなバス停に到着。車掌が「Puneは次」と言うのでそのまま座って次のバス停へ向かう。そこがこのバスの終点だった我々がアウランガバード行きのバスを探していると、職員らしき男性が「ここからは出ない。ここへ行きなさい。」と、現地語で何やら書き付けた紙をくれた。ここから3キロ、リクシャで8~10Rpsだそうである。オートリクシャでそこへ行くと、案の定というかなんというか、最初に止まったバス停であった。うーん、無駄足。

だが首尾よく7時45分発のバスを捕まえ、乾いたデカン高原を突っ走ること5時間、バスは無事アウランガバードに到着した。Goaでも思ったことだが、南インドと違って看板やバスチケットの表記に英語が少なくなり、ヒンディーのみの表示が多くなった。バスやバス停の行き先表示、座席番号、道路標識など。我々にとっては不便この上ないし、多分南インド人にとっても同じだろう。また、英語も南寄りはずっと通じにくいので、少し込み入ったことを尋ねるときなどにはけっこう困ることがある。南インドでは、道端でヤシの実を売ってる農民でも英語は話せた。また、北インドの英語は南のよりも訛りが強いうえ、すごい早口でドドドドとしゃべるので、とてもわかりづらい。南インド人のように愛想が良いわけではないのも北インドだ。別に怒っているわけではないと思う。中国の北方人も、南方人に比べるとこんな感じだ。

バス停の向かい、ガイドブックおすすめのGreen Palaceとやらはダブルが150Rps、しかし満室。近所で何軒か当たるも、いづこもダブルで125Rpsと安いものの、あまりきれいではなく、もひとつ乗り気がしない。しかし妥協し、うち一軒に一泊することにする。シャワーは浴びたくないバスルームだ。狭くて汚くて臭い。

昼食をとりに出るが、めし屋の少ない街で、どこもホテル付属のめし屋ばかり。その内の一軒に入り、食事のついでん部屋代を聞く。ダブルで175Rps、悪くない値段だ。今の部屋よりマシだろうか。しかし、明日はバスターミナルにに荷物を預けてEloraを見物、夕方のバスでAjantaへ向かうつもりなので、泊まる用はないだろう。ちなみに食事は今ひとつだった。

食後にビビ・カー・マクラムというタージマハルに似た建物をを見に行く。ドーム部分と棺の周りだけが白大理石で覆われていた。中央の棺の部屋への明かり取りになっている透かし彫りの大理石板は見事。夕日の落ちゆくのを見て本日は終了。


1997年4月2日水曜日

オールドゴアの残光


朝バスターミナルに行くと、Pune行きの夕方六時発のチケットが買えた。しかしリクライニングシートではなく、安いやつ。安いバスは大抵の場合、遅いバスである。だが背に腹は代えられん。郵便局から荷物をおくる。4キロで900Rps。船便。銀行でT/Cを替える。USD1=35.3Rps。郵便局も銀行も、非効率を絵に描いたような場所だった。

Old Goaを見物に行き、Bon Jeses教会でフランシスコ・ザビエルの遺体を見る。この教会の簡略ザビエル伝によれば、悪魔の地日本における布教の疲れにより、インドへの帰りにマカオで死んだことになっていて、日本人の私としてはそこまで褒められると面映い。褒めてません。Old Goaに残る教会はどれもばかでかく、ポルトガル人、熱心にこんなもんばっかり建ててるからイギリス人にインドを取られてしまうのだ。教会の正堂には長椅子がたくさん並んでいたが、Old Goa自体は疫病の流行等ですでに遺棄された街であり、この椅子がいっぱいになることがそうそうあるとはおもえない。静かな、いい場所である。(私達にはゴアビーチには興味が無いので)

夕方六時にバス乗車。若い衆グループがが夜中すぎまで歌い、手拍子をうち、遠足のチャーターバスか学生のコンパ会場に紛れ込んでしまったようであった。

1997年4月1日火曜日

ゴアのバスストライキ


目覚めるも部屋の居心地が良いのでゴロゴロする。そして昨夜一周年記念でタンドリーチキンを食べ、ビールを飲んだせいでインドルピーがすっかりなくなっているので両替に行く。しかし本日はBank Holidayなのだそうで銀行も両替屋も一軒も開いておらず、土産物屋等にあたるもレート悪し。ホテルで聞いてみると、ホテル自体では両替はしていないとのことで、従業員に闇両替をしてもらう。USD1=36Rps。

バスターミナルで列車のチケットを手配できるときき、赴く。アウランガバード行き列車のチケットは旅行会社がパッケージツアー用に大量に押さえているので16日までいっぱいだと言われ、すごすごと引き返す。うーん、最近列車関係では連戦連敗だ。この時バス停での職員に「アッサムから来たのか?」と聞かれる。我々もついにインド人の仲間入りか。

巨大な荷物を減らすべく、遅れるものは送ってしまおうと荷造りをする。スリランカの茶入り象2頭、バティック数枚、日記数冊、写真、フィルム、インドネシアのシャコ貝、タイの灰皿、などなど。

ツーリストインフォメーションにルートの相談に行く。アウランガバードへ列車以外で行くために、ボンベイ経由以外の何かいい方法はないかと相談すると、Pune(Poona)経由を提案された。ボンベイまでバスで16時間のところ、Puneまでなら14時間、ボンベイからアウランガバードまで10時間弱のところ、Puneからなら五時間と、かなりの時間の節約になる。そこでバスチケットの手配に出かけるも、明後日の分まですべて売り切れ。どういうことかというと、私営バス保険費の値上げ徴収に反対してボンベイでは二日前から、ゴアでは本日から無期限のストライキに突入、そのため公営バスの席が極端に埋まってしまってるのだそうだ。明日朝から臨時バスのチケットを販売するということなので、それを試すことにする。

さて観光!といってもPanajiでは白いPanaji教会を見るとあとは特に何もなく、博物館へ行くとどこかへ移転したらしくて閉まっており、市場へ行くと魚はすでに売り切ってしまっていて、そこまで歩くと何しろカンカン照りで暑いのなんのって、もうへとへと。スイカとざくろを買い、おつりがないとのことでおつり分のみかんをもらって、とぼとぼ帰る。食って寝る。