朝7時サトナ到着。オートでバスターミナルへ移動し、カジュラホ直行はなかったものの、10キロ手前のPANNAまで行く政府経営バスを捕まえるのに成功。7時45分。昼前にPanna到着、すぐに接続するバスに飛び乗り、昼過ぎにはカジュラホにたどり着いた。なんだか最近移動することに喜びを見出している私達である。
宿を三軒ほどあたる。場所と値段が良かったHotel Lake Sideに泊まる。100Rps、部屋は狭いが大変きれいで清潔で、部屋もバスルームも床はすべて大理石張りだ。ホットシャワー付きでこの値段はありがたい。
荷物をおいて昼食に出る。イタリア語の名前(失念)のレストランでスパゲティを注文、一口食べて後悔する。腹の虫を黙らせるやいなや、カジュラホ西群遺跡を見物に行く。ここはご存知、男女交合像(ミトゥナ)で有名な寺院である。「見学」とか「鑑賞」というより、「見物」という表現になってしまうものではないか。遺跡は、わっはっは、やってはるわー、としか言えない。英語の説明板に"Erotic Couple"と書いてあるのだが、なんかあんまりエロくない。そして別にカップルではない。3P、4Pの方が多いです・・・。いつも思うが、インド人は何を考えているのだろう。
というのはこう。性的な事項というのは、たいていの社会では隠すことになっている。しかしそれが「性的」であると意識されていない場合、’もしくは(建前上)「性的ではない」「もっと崇高なものだ」ということになっている場合には、露出することもあり得る。たとえば女性が胸を見せることを恥じない社会はいくらでもある。昔のタイとか日本とかでもそうだ。私が子供のころには、公園での授乳はごく当たり前に見られた。
密教などに見られる男女交合図や歓喜仏は、たいてい人間ではなく神や超人間的な存在が宗教的な必然性のもとに交合を行なっているという設定であって、画風もあまりリアリスティックではなく、多くは形式に沿った形での表現である。神々しさや荘厳さ、あるいは異様な印象は受けるが、それを人間の日常の営みとちょくに結びつけて考えるにはちょっと遠い。性を主題にしつつ、それを昇華しているのだ。(すくなくともそういうことになっている)
ところがカジュラホのミトゥナは精を十分に意識しつつ、それを宗教的なものと関連させて表現し、崇拝の対象としつつ、かつ生々しい人間の性を忘れていないという二面性を持つところがおもしろい。
交合する男女の横で、両手で顔を覆って逃げ出そうとする女。顔や陰部を手のひらで隠して、恥ずかしさに身をよじる全裸の女。つまり、それが性的であると十分に意識し羞恥心を覚えつつ、その像を自らの崇拝する神像の横に並べて飾る。時にはその神像そのものより大きく。寺院の壁画の最も目立つ場所を、それらの像で埋める。埋め尽くす。
やはり感想は、インド人何を考えているのだ、である。
私はもう一泊して東群のジャイナ教寺院(ミトゥナはない。よって観光客はほとんど行かない)を見に行きたかったのだが、相棒が何やら旅を急いでいる。よほど里心がついたらしい。
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書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。