晴れた。突如として目のくらむようなピーカン照り。土方焼け解消のため、ノースリーブで外を歩くと2時間で肩が真っ赤になった。
しかしあまりの暑さに昼ごろにはとても外を歩けなくなった。街は無人の白昼である。ひなたへ出ると後ろ頭を殴られたような衝撃を受けると言って、相棒はむぎわら帽子を購入。私は竹で編んだうちわを買った。
相棒、ジーンズはだめだ!と叫びつつ、絹のだぶだぶズボンを購入。べろべろしていてとても涼しそう。でも弱そう。パンストみたいにぴっと破れそうな気がするなあ。40元なりなり。
***このブログについて***
書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。
1996年7月31日水曜日
1996年7月30日火曜日
1996年7月29日月曜日
ワンピースは洗ったら早速縮んだ。
朝からハンバーガーなど食してみる。12元、高いだけあって美味い。今日も雨。市場でぶどうを買って帰ってくる。
ワンピースは洗ったら早速ちぢんだ。丈がすっかり短くなった。もとがくるぶしまである超ロングだったのが幸いだ。とても着心地が良いので旅の服装計画を考えなおしたくなる。東南アジアでジーンズはどうもなあ。
ワンピースは洗ったら早速ちぢんだ。丈がすっかり短くなった。もとがくるぶしまである超ロングだったのが幸いだ。とても着心地が良いので旅の服装計画を考えなおしたくなる。東南アジアでジーンズはどうもなあ。
1996年7月28日日曜日
鳳凰の模様の藍染めのワンピース
鳳凰の模様の藍染めの布で、ノースリーブ・くるぶしまでの長さのワンピースを受け取り。着ると肩の土方焼けが泣かせるぜ…。そのまま着て帰るとまた雨。藍染めの布はさっそく色落ちが始まったので帰って洗濯。洗面台が真っ青になった。
一日中、雨。
夜、レストランのキッチンを借りて、相棒が鶏まるごとを煮込んだスープと鯉の紅焼をつくった。美味い。私は食べるだけである。
一日中、雨。
夜、レストランのキッチンを借りて、相棒が鶏まるごとを煮込んだスープと鯉の紅焼をつくった。美味い。私は食べるだけである。
1996年7月27日土曜日
早朝のうちに陽朔到着。
とりあえず昼までぐっすり眠る。しかし暑い暑い。ズボンのすそをひざまで折り返し、Tシャツの袖を肩までめくりあげてどかちんのおっさん状態になる。土方焼けもしてるしなあ。
夕方、やっと涼しくなってきたので散歩に出かけるも、涼しくなってきたはず、突然見事な土砂降りとなり、たまたま入っていた服屋の店先に2時間くぎづけ。買わんでもいいワンピースを一着オーダーメイドしてしまう。60元なり。明日の昼受け取り。
夕方、やっと涼しくなってきたので散歩に出かけるも、涼しくなってきたはず、突然見事な土砂降りとなり、たまたま入っていた服屋の店先に2時間くぎづけ。買わんでもいいワンピースを一着オーダーメイドしてしまう。60元なり。明日の昼受け取り。
1996年7月26日金曜日
冬荷物を残し、夏荷物だけで出発。
冬荷物は香港に残し、夏荷物だけで中国へ出発。香港税関に「以下のものを香港へ持ちこむと5万ドルの罰金か1年の懲役」という立て札があり、ハクビシンなどの食用野生動物の隣に堂々と「シマリス」の絵があり、ご丁寧に大きく赤バッテンされていた。ちびぞう、キミ、輸入禁止やったんかあ・・・っても、一度密輸入してまた持って出るところやけど。
中国入国。深セン駅の階段で、駅員が駅弁を売るようにチケットを売っており、そこで広州行きのチケットを買う。手数料5元。窓口では絶対に買えない20分後出発のチケットを入手。
広州キライ。
夕方6時の寝台バスで陽朔へ向かう。3年前と同じ120元だが、以前のベッドが完全に平らだったのに対し、今回のは背もたれがやや傾斜していて、その下に後ろの乗客の脚の部分が重なっている。また、以前は縦に三列で通路が日本あったが、今度のは寝台が2つづつセットになっていて、通路は真ん中に一本だけ。その分乗車人数がずいぶん増えているわけで、これが値上げしていない理由か。
しかし、ベッドがふたつづつセットになっているということは、一人で移動する女性にとってはおおごとである。運悪くタチの悪いおっさんと隣あわせとかなってみい。(私は日本の夜行バスで後ろにこういうおっさんがきて閉口したことがある。)「軟臥の同室がみな男性」状態を上回るイヤさ加減である。
暑かった。広東省を走っているうちは高速道路をスカスカ走っていたが、広西むけての山越えは3年前と同じゴロゴロ山道。神経質な相棒はほとんど眠れなかったようだ。私はちびぞうを腹の上に乗せていたため、そこだけ余計に汗をかきつつ、ぐうぐう寝た。
中国入国。深セン駅の階段で、駅員が駅弁を売るようにチケットを売っており、そこで広州行きのチケットを買う。手数料5元。窓口では絶対に買えない20分後出発のチケットを入手。
広州キライ。
夕方6時の寝台バスで陽朔へ向かう。3年前と同じ120元だが、以前のベッドが完全に平らだったのに対し、今回のは背もたれがやや傾斜していて、その下に後ろの乗客の脚の部分が重なっている。また、以前は縦に三列で通路が日本あったが、今度のは寝台が2つづつセットになっていて、通路は真ん中に一本だけ。その分乗車人数がずいぶん増えているわけで、これが値上げしていない理由か。
しかし、ベッドがふたつづつセットになっているということは、一人で移動する女性にとってはおおごとである。運悪くタチの悪いおっさんと隣あわせとかなってみい。(私は日本の夜行バスで後ろにこういうおっさんがきて閉口したことがある。)「軟臥の同室がみな男性」状態を上回るイヤさ加減である。
暑かった。広東省を走っているうちは高速道路をスカスカ走っていたが、広西むけての山越えは3年前と同じゴロゴロ山道。神経質な相棒はほとんど眠れなかったようだ。私はちびぞうを腹の上に乗せていたため、そこだけ余計に汗をかきつつ、ぐうぐう寝た。
1996年7月25日木曜日
ビザ申請&サンダル調達
相棒、BNOが取れるまでは現行のCI(中国生まれの香港人が使うパスポートのようなもの)で旅行せざるを得ず、あちこちのビザ申請が必要。タイ大使館へ行く。相棒のはあっさり申請できたが、私がダブルエントリーと取るためにはエアチケットの提示が必要と言われた。但し、現在では日本のパスポートだとノービザで1ヶ月滞在できるそうなので、まあいいとしよう。
ワトソンズで15.9ドルのビーサンを購入。マジックテープでバックストラップとかもついてるやつ。女人街でも39ドルぐらいはしてたので、2週間で壊れても惜しくない。タイならこのタイプのサンダルはいくらでも安く売ってるだろうから。
ワトソンズで15.9ドルのビーサンを購入。マジックテープでバックストラップとかもついてるやつ。女人街でも39ドルぐらいはしてたので、2週間で壊れても惜しくない。タイならこのタイプのサンダルはいくらでも安く売ってるだろうから。
1996年7月24日水曜日
東南アジアにでも行って時間をつぶそう
もいちどお役所へ。BNO発行までにどのくらい時間がかかるのかはイミグレのお役人にも全然見当がつかないそうだ。なにしろ返還前という非常事態なので。但し発行許可通知から実際の申請までには3ヶ月の猶予期間があるのそうなので、相棒と相談の上、東南アジアにでも行って時間をつぶすことにする。パキスタン、いつになったらいけるのであろうか、とほほ。
1996年7月23日火曜日
エリザベス女王への宣誓式
朝から相棒とお役所へ行く。エリザベス女王への宣誓式などがあり、ちょっと笑う。行って判明したのだが(しかし私は予測してたが)、英国属土公民籍がとれたといったって、すぐにBNO(英国属土公民パスポート)をくれるわけではないのであった。少なくとも3ヶ月はかかる見込みだそうで、これは意外に長い。私は日本のパスポートと同じ位はかかると思っていたが、相棒は即日くれると思ってようだ。オロカモノめ。しかし3ヶ月。
夜、とりあえず善後策を寝る、ちがった、練る。
夜、とりあえず善後策を寝る、ちがった、練る。
1996年7月22日月曜日
ほぼ4ヶ月ぶりに香港へ
ほぼ4ヶ月ぶりに香港へ。クーラーが効いているものの、硬座はやはり硬座であった。しかし車内弁当だけでなく、各種粥だのニワトリの丸焼きだの脚の煮しめだのをせっせと売りに来るあたりが食の広東らしくてよろしい。しかもどれも美味い。
途中で一度、平湖というかなり深センに近いところで一回停車したのみで、列車は2時間ちょっとで深センに到着した。広州―深センは48元、手数料が2元、羅湖―九龍が37ドル、で、48+2+(37*1.15)=ほぼ93元。一方直通車は230元である。外人料金が残っていた頃は、(48+2)*2.3+ (37*1.15)=ほぼ158元と割高であったため、よく直通車に乗っていたが。
久しぶりの香港、なぜか尖沙咀や銅鑼湾が鬱陶しく、佐敦でゲストハウス(つーか旅社)を探す。バストイレ付き260元で妥協。重慶大廈より高いですね。相棒は叔母の家へメールチェックその他雑用にに出かけ、私は寝た。
途中で一度、平湖というかなり深センに近いところで一回停車したのみで、列車は2時間ちょっとで深センに到着した。広州―深センは48元、手数料が2元、羅湖―九龍が37ドル、で、48+2+(37*1.15)=ほぼ93元。一方直通車は230元である。外人料金が残っていた頃は、(48+2)*2.3+ (37*1.15)=ほぼ158元と割高であったため、よく直通車に乗っていたが。
久しぶりの香港、なぜか尖沙咀や銅鑼湾が鬱陶しく、佐敦でゲストハウス(つーか旅社)を探す。バストイレ付き260元で妥協。重慶大廈より高いですね。相棒は叔母の家へメールチェックその他雑用にに出かけ、私は寝た。
1996年7月21日日曜日
3時間遅れで広州到着。
3時間遅れで広州到着。駅前の流花賓館に荷物を預け、両替。美心で安上がりなお食事。深セン行きチケットは以前に比べてずいぶん買いやすくなっていて、途中で一度だけ停車する空調付き急行列車の硬座が48元プラス2元の手数料であっさり買えた。香港よりはまだ広州のほうが宿代が安いので、明日朝イチのチケットを購入。で、ホテル探し。
クーラー付き・バストイレ付き・駅の近所・なるべく安いところというバカバカしい条件で探すと、当たり前だがなかなか見つからない。値段で妥協することにして、站前賓館というわっかりやすーい名前のホテル、240元のツインを190元まで値切って妥協。
夜、適当なめし屋が見つからず、四川料理屋で食べたら高い上に不味くて泣いた。食の広州でなんでやねん。
クーラー付き・バストイレ付き・駅の近所・なるべく安いところというバカバカしい条件で探すと、当たり前だがなかなか見つからない。値段で妥協することにして、站前賓館というわっかりやすーい名前のホテル、240元のツインを190元まで値切って妥協。
夜、適当なめし屋が見つからず、四川料理屋で食べたら高い上に不味くて泣いた。食の広州でなんでやねん。
1996年7月20日土曜日
1996年7月19日金曜日
朝10時過ぎ、北京到着。
朝10時過ぎ、北京到着。早速荷物を預けると、ひとつ8元もしてびっくり。半日預けて16元か。実はこのとき我々のサイフには20元しか入っておらず、この20元でもよりの外国人接待ホテルへタクシーをとばし、両替しようと考えていたのである。(銀行はまだ両替業務を始めていないかもしれないので) 計画、もちろん挫折。
二人で4元というタバコ銭(しかも安タバコしか買えない)をポケットに、てくてく歩いて両替できるところを探す。幸い、泊り客以外にも両替をしてくれるホテルが見つかり、とりあえず200ドル替える。相棒の予想は北京から広州まで軟臥一人500元だが、私はフフホトから北京まで普快で200元以上したのに、広州までの特快が500元以下であるわけないと思う。
北京駅に戻り、チケット売り場に並んでいると、前の白人が「ここにはない、北京北駅に行け」と言われている。いやーな予感がおおあたり。広州行きのチケット、ここでは売ってない。列車もその北京北駅とやらから始発だ。
どうやって行くのか尋ねると、地下鉄で行けとあごをしゃくって言われた。言われるままに地下鉄に入るも、駅員やら周りの人やらに尋ねても「地下鉄で行ける」「いや行けない」と意見がわかれ、よくわからない。とりあえず言われるままに軍事博物館駅で下車、またまた道を聞きまくって「すぐそこ」「すぐそこ」と言われるも、早足で30分以上歩いても見えてこない。うう。
人間が歩くにはたいそう不親切な設計の道をかなり歩き、1時ごろ、やっと北京北駅に到着。たいそう大きく、新しい駅だが、駅前はご多分にもれず、座り込んで列車、あるいはチケットの発売を待つ人々で一杯である。こんなに無駄なスペースが一杯あるのにどうして候車室を余分に作っておかないのだろう。
外人用窓口に行き、広州行き特快を尋ねると、夜7時、10時ともに満席、0時過ぎの軟臥に空きがあり、買う。これは翌日朝、つまり21日朝8時に広州到着予定である。結構速いなあ。下舗が705元、上臥が675元と、なかなかのお値段であった。
軟臥用の候車室、よく冷房の効いた広々とした部屋に本皮のソファが並び、まさに別世界。中国は階級社会だ。そとでは老百姓(一般市民)がゴミの山の横で地面に横たわり、いつ手に入るかさだかではない列車のチケット発売を忍耐強く待つ一方で、特権階級は汗ひとつかかずにそれを入手し、香りの良いお茶を飲みながら乗車を待つ。
王府井(繁華街)へ行く。麦当労(マクドナルド)で一休み。資本主義のかほりを嗅ぐ。脂っこい匂いだ。長さ40センチぐらいの巨大パン・カップラーメン5つ、桃とトイレットペーパーを購入。軟臥候車室で顔を洗って歯を磨いて、0時、乗車。
さすが広州鉄道管理局の軟臥、清潔でクーラーがばりばりに効いている。同室は広州人のおばあちゃんとその孫、そして鄭州で降りる予定の紳士。
二人で4元というタバコ銭(しかも安タバコしか買えない)をポケットに、てくてく歩いて両替できるところを探す。幸い、泊り客以外にも両替をしてくれるホテルが見つかり、とりあえず200ドル替える。相棒の予想は北京から広州まで軟臥一人500元だが、私はフフホトから北京まで普快で200元以上したのに、広州までの特快が500元以下であるわけないと思う。
北京駅に戻り、チケット売り場に並んでいると、前の白人が「ここにはない、北京北駅に行け」と言われている。いやーな予感がおおあたり。広州行きのチケット、ここでは売ってない。列車もその北京北駅とやらから始発だ。
どうやって行くのか尋ねると、地下鉄で行けとあごをしゃくって言われた。言われるままに地下鉄に入るも、駅員やら周りの人やらに尋ねても「地下鉄で行ける」「いや行けない」と意見がわかれ、よくわからない。とりあえず言われるままに軍事博物館駅で下車、またまた道を聞きまくって「すぐそこ」「すぐそこ」と言われるも、早足で30分以上歩いても見えてこない。うう。
人間が歩くにはたいそう不親切な設計の道をかなり歩き、1時ごろ、やっと北京北駅に到着。たいそう大きく、新しい駅だが、駅前はご多分にもれず、座り込んで列車、あるいはチケットの発売を待つ人々で一杯である。こんなに無駄なスペースが一杯あるのにどうして候車室を余分に作っておかないのだろう。
外人用窓口に行き、広州行き特快を尋ねると、夜7時、10時ともに満席、0時過ぎの軟臥に空きがあり、買う。これは翌日朝、つまり21日朝8時に広州到着予定である。結構速いなあ。下舗が705元、上臥が675元と、なかなかのお値段であった。
軟臥用の候車室、よく冷房の効いた広々とした部屋に本皮のソファが並び、まさに別世界。中国は階級社会だ。そとでは老百姓(一般市民)がゴミの山の横で地面に横たわり、いつ手に入るかさだかではない列車のチケット発売を忍耐強く待つ一方で、特権階級は汗ひとつかかずにそれを入手し、香りの良いお茶を飲みながら乗車を待つ。
王府井(繁華街)へ行く。麦当労(マクドナルド)で一休み。資本主義のかほりを嗅ぐ。脂っこい匂いだ。長さ40センチぐらいの巨大パン・カップラーメン5つ、桃とトイレットペーパーを購入。軟臥候車室で顔を洗って歯を磨いて、0時、乗車。
さすが広州鉄道管理局の軟臥、清潔でクーラーがばりばりに効いている。同室は広州人のおばあちゃんとその孫、そして鄭州で降りる予定の紳士。
1996年7月18日木曜日
本日も草原を二時間の乗馬。
本日も草原を二時間の乗馬。2時間を甘く見るな。素人にはこれが限界だ。それにしてもモンゴル馬はちいさいくせに気が強い。言うこと聞かんし、たいへんな走りたがりで、走らせてもらえないと鼻息がふんふん荒くなって、目がだんだん白目がちになってくる。一頭が走り出すと周りの馬も皆つられて走り出す。モンゴル人は小学校に上がる前から馬に乗るそうだが、そういう育ちでないとこの馬はあつかえんよ。
一時間で行けるところまで行き、また一時間かけて帰ってきた。私のお尻は痛いだけで清んだが、肉の全く無い相棒のお尻はかわいそうである。馬を走らせるときには、腰をあげてひざで体重をささえるそうだが、もちろん我々にはそんな芸当はできない。モンゴル族の子供が見本を見せてくれた。彼が腰をあげてひとむちくれるや、白目を剥いた馬は弾丸となって一直線にすっ飛んで行った。ひょええ。
夕刻、フフホトに帰還。通達飯店にチェックイン。しばらく休んで香港へ電話をかけにいくと、相棒の英国海外属土籍の申請が通ったので、手続きの為にさっさとイミグレに来い、期限は7月6日から23日だ!という通達が叔母の家に届いており、23日ってあと5日しかないやん!
この時点で7月18日午後19時46分。
フフホトから直接広州へ向かう列車は無し。我々は当初西安へ戻り、西安から普快で桂林へ行き、陽朔でのんびり通達を待とうとのんきなことを話しておったのだが、とてもそんなことは言っていられない。フフホトからとりあえず北京へ出て、北京から特快で広州へ向かおうという相棒の意見と、そんなことをしていて間に合わなかったらどうするのか、飛行機に乗ろう、という私の意見が対立する。しかし、ここから広州への飛行機だって毎日あるわけではなし、じっとしてもいられないのでとりあえず相棒の意見を容れて北京へ移動することにする。
当日の夜8時に、9時37分の列車の寝台が取れただけで有り難いとしよう。264次普快 フフホト―北京 新空調軟臥は上臥が233元、下臥が243元であった。
列車に乗る前に、酒くさい公安(彼も乗客だ)に「どけ!」と突き飛ばされ、フル荷物だったのでよろよろした。列車に乗ると居丈高な女に「我々は二人連れだがコンパートメントが離れているのでくっついている君たちの席をよこしなさい」という笑うぐらい理不尽な申し出をされて、もちろん丁重にお断りをすると、列車員に向かって「我々は北京市政府の者だが・・・」と同様の要求を始めたので、我々も列車員の前でにわかに英語でしゃべってみたりして外賓であることを強調、事無きを得た。
しかし私の寝台に行くと全く知らん男がぐうぐう眠っており、これはいったいどういうことなのか誰か説明して欲しい。誰もしてくれないから自分でするが、こやつは根本的に寝台のチケットなぞ持ってはいないやつで、コネか袖の下で寝台車に入れてもらい、ずうずうしくもとりあえず空いてる寝台で寝てたと言うわけなのだ。その空いてる寝台というのが不運にもたまたま私の寝台だったというだけである。この列車は包頭発なので、多分包頭からここまで寝てたのだろう。我々が乗車してこなければどあつかましく北京まで寝てたはずである。
一時間で行けるところまで行き、また一時間かけて帰ってきた。私のお尻は痛いだけで清んだが、肉の全く無い相棒のお尻はかわいそうである。馬を走らせるときには、腰をあげてひざで体重をささえるそうだが、もちろん我々にはそんな芸当はできない。モンゴル族の子供が見本を見せてくれた。彼が腰をあげてひとむちくれるや、白目を剥いた馬は弾丸となって一直線にすっ飛んで行った。ひょええ。
夕刻、フフホトに帰還。通達飯店にチェックイン。しばらく休んで香港へ電話をかけにいくと、相棒の英国海外属土籍の申請が通ったので、手続きの為にさっさとイミグレに来い、期限は7月6日から23日だ!という通達が叔母の家に届いており、23日ってあと5日しかないやん!
この時点で7月18日午後19時46分。
フフホトから直接広州へ向かう列車は無し。我々は当初西安へ戻り、西安から普快で桂林へ行き、陽朔でのんびり通達を待とうとのんきなことを話しておったのだが、とてもそんなことは言っていられない。フフホトからとりあえず北京へ出て、北京から特快で広州へ向かおうという相棒の意見と、そんなことをしていて間に合わなかったらどうするのか、飛行機に乗ろう、という私の意見が対立する。しかし、ここから広州への飛行機だって毎日あるわけではなし、じっとしてもいられないのでとりあえず相棒の意見を容れて北京へ移動することにする。
当日の夜8時に、9時37分の列車の寝台が取れただけで有り難いとしよう。264次普快 フフホト―北京 新空調軟臥は上臥が233元、下臥が243元であった。
列車に乗る前に、酒くさい公安(彼も乗客だ)に「どけ!」と突き飛ばされ、フル荷物だったのでよろよろした。列車に乗ると居丈高な女に「我々は二人連れだがコンパートメントが離れているのでくっついている君たちの席をよこしなさい」という笑うぐらい理不尽な申し出をされて、もちろん丁重にお断りをすると、列車員に向かって「我々は北京市政府の者だが・・・」と同様の要求を始めたので、我々も列車員の前でにわかに英語でしゃべってみたりして外賓であることを強調、事無きを得た。
しかし私の寝台に行くと全く知らん男がぐうぐう眠っており、これはいったいどういうことなのか誰か説明して欲しい。誰もしてくれないから自分でするが、こやつは根本的に寝台のチケットなぞ持ってはいないやつで、コネか袖の下で寝台車に入れてもらい、ずうずうしくもとりあえず空いてる寝台で寝てたと言うわけなのだ。その空いてる寝台というのが不運にもたまたま私の寝台だったというだけである。この列車は包頭発なので、多分包頭からここまで寝てたのだろう。我々が乗車してこなければどあつかましく北京まで寝てたはずである。
1996年7月17日水曜日
召河、シラムレン草原
どうして朝6時からスピーカーいっぱいの音楽をかけずにいられないのかあああああああ。ラジオ体操とかならともかく、昨日はマンダリン台湾ヒットメドレー、今日はなんと一昔前風ディスコミュージックである。
でっかい蚊をつかまえてちびぞうにやったら、とびついてはぐはぐ食べた。
9時ごろチェックアウト。バスターミナルから召河行き11時半のバスに乗る。召河とはシラムレンの草原があるところ。81キロに3時間かかった。バスを降りて、民宿の客引きをかわしつつ政府招待所へ。草原を鉄条網で囲み、中にきちきちにしつらえられた蒙古包が180元というすんばらしい値段設定、食事は30元の定食のみ。
あきらめて民宿を探す。同じような蒙古包が30元。
馬に乗る。一時間20元。相棒の間抜け、身の程知らずにも馬を全速力で走らせ、さっそく落馬。すぐに立ち上がったのを見てほっとしたが、腰を強打して出血している。運動神経の鈍い方ではないのだが、なにしろ本当に草原を走っている馬、いままであちこちの観光地で乗ってきた馬とは勝手が違う。
草原を馬で行くと、馬の足元から大きなバッタがキチキチと鳴きながら跳び上がる。目を凝らすと、草原のあちこちで白と茶色の羽根のバッタが無数に跳んでいる。空はあくまで青く、草原はどこまでも緑で、せつないほどだった。
でっかい蚊をつかまえてちびぞうにやったら、とびついてはぐはぐ食べた。
9時ごろチェックアウト。バスターミナルから召河行き11時半のバスに乗る。召河とはシラムレンの草原があるところ。81キロに3時間かかった。バスを降りて、民宿の客引きをかわしつつ政府招待所へ。草原を鉄条網で囲み、中にきちきちにしつらえられた蒙古包が180元というすんばらしい値段設定、食事は30元の定食のみ。
あきらめて民宿を探す。同じような蒙古包が30元。
馬に乗る。一時間20元。相棒の間抜け、身の程知らずにも馬を全速力で走らせ、さっそく落馬。すぐに立ち上がったのを見てほっとしたが、腰を強打して出血している。運動神経の鈍い方ではないのだが、なにしろ本当に草原を走っている馬、いままであちこちの観光地で乗ってきた馬とは勝手が違う。
草原を馬で行くと、馬の足元から大きなバッタがキチキチと鳴きながら跳び上がる。目を凝らすと、草原のあちこちで白と茶色の羽根のバッタが無数に跳んでいる。空はあくまで青く、草原はどこまでも緑で、せつないほどだった。
1996年7月16日火曜日
映画「危険地帯」(OUTBREAK)を見る
8時起床。9時すぎに朝食を取りに外へ出るも、適当な店が無く、西瓜を購入して朝食とする。1斤5毛なり。
洗濯。重労働だ。早めの昼食後、博物館へ行くとしまっており、草原ツアーから帰ってきたら引越ししよう!と探したホテルはツインでバストイレ付52元とすぐ見つかっちゃうし、草原へ行くのにツアーバスじゃなくて公共バスはないかとバスターミナルへ行くといっぱいあるし、駅でチケットは買いやすいかと下見に行くと、香港・マカオ人には前日前々日の寝台を売る!と、窓口のおばちゃんが断言してくれ、これも問題無さそう。することがなくなってしまった。
で、道端でエボラ出血病の映画「危険地帯」(OUTBREAK)の看板を見つけ、入ることにする。一人6元。字幕全く無しの中国語版とハードルがやや高かったが、なんとか楽しめた。前に香港で借りたビデオ、字幕全く無しの広東語版、あれよりマシだ。
夕食を韓国料理屋にて。メニューをどう仔細に分析しても普通の中華だった。唯一韓国らしそうなメニュー「キムチ」を注文するも、絶対にキムチではない漬物に、唐辛子をどっさりかけたやつが出てきて激怒。(<食べたけど) その他のおかずもおいしくなかった。
洗濯。重労働だ。早めの昼食後、博物館へ行くとしまっており、草原ツアーから帰ってきたら引越ししよう!と探したホテルはツインでバストイレ付52元とすぐ見つかっちゃうし、草原へ行くのにツアーバスじゃなくて公共バスはないかとバスターミナルへ行くといっぱいあるし、駅でチケットは買いやすいかと下見に行くと、香港・マカオ人には前日前々日の寝台を売る!と、窓口のおばちゃんが断言してくれ、これも問題無さそう。することがなくなってしまった。
で、道端でエボラ出血病の映画「危険地帯」(OUTBREAK)の看板を見つけ、入ることにする。一人6元。字幕全く無しの中国語版とハードルがやや高かったが、なんとか楽しめた。前に香港で借りたビデオ、字幕全く無しの広東語版、あれよりマシだ。
夕食を韓国料理屋にて。メニューをどう仔細に分析しても普通の中華だった。唯一韓国らしそうなメニュー「キムチ」を注文するも、絶対にキムチではない漬物に、唐辛子をどっさりかけたやつが出てきて激怒。(<食べたけど) その他のおかずもおいしくなかった。
1996年7月15日月曜日
フフホトへ移動
朝11時のバスでフフホトへ向かう。2時過ぎ到着。バスターミナルの横が駅だった。ホテルを探そうと、通りがかりの白人に安い外人用ホテルはないかと尋ねると、なんだかひどく取り乱している様子で、「もちろんある。今帰るところだからつれていってあげよう・・・あ!」なんじゃらほい。「君たちは中国語は話せるか?」「ええ」「じゃあ、僕の切符を買ってくれないか? 外国人はCITSへ行けと言って売ってくれないんだ。」「いいけど、いつのどこ行きの何席がいいの?」「なるべく早いやつ、今日でもいい、北京行き、希望は硬臥・軟座・軟臥・硬座の順」
結局明日朝イチの硬座しか買えなかった。CITSの手数料は一枚40元だそうだ。硬臥なら北京まで200元ぐらいなので、40元の手数料は確かにばかばかしい。(2万円のチケットにプラス4000円が手数料という感じか。)
そのフランス人に新城飯店へつれていってもらう。ドミ40元とあまり安くはないが清潔。4人部屋で同室はスウェーデン人の女の子二人。北欧人らしく、東洋人のスタンダードからするとあられもない格好でくつろぐので、相棒がいたたまれないらしく、小さな声で「明日、ホテル移ろう…」
ホテル探しに出るも、駅行きのバスが30分待っても来ず、ようやくやってきたときにはドアがしまらないぐらいの超こみこみ状態だったのであきらめてホテルに帰る。ホテルのレストランで食事。おかず3品(うち一品は内蒙古らしく羊肉のごろごろスープ)、ごはん2杯、ポット一杯のおいしい茉莉花茶で25元。ごちそうであった。これを見てもCITSの手数料がぼったくりであることがわかる。ホテルの食事二人分より高いんですよ。
9時、風呂に入るも頭を洗い終えたところで湯が水になり、終わり良ければすべてよしというが、終わりが悪ければすべてダメなのだろうか?
結局明日朝イチの硬座しか買えなかった。CITSの手数料は一枚40元だそうだ。硬臥なら北京まで200元ぐらいなので、40元の手数料は確かにばかばかしい。(2万円のチケットにプラス4000円が手数料という感じか。)
そのフランス人に新城飯店へつれていってもらう。ドミ40元とあまり安くはないが清潔。4人部屋で同室はスウェーデン人の女の子二人。北欧人らしく、東洋人のスタンダードからするとあられもない格好でくつろぐので、相棒がいたたまれないらしく、小さな声で「明日、ホテル移ろう…」
ホテル探しに出るも、駅行きのバスが30分待っても来ず、ようやくやってきたときにはドアがしまらないぐらいの超こみこみ状態だったのであきらめてホテルに帰る。ホテルのレストランで食事。おかず3品(うち一品は内蒙古らしく羊肉のごろごろスープ)、ごはん2杯、ポット一杯のおいしい茉莉花茶で25元。ごちそうであった。これを見てもCITSの手数料がぼったくりであることがわかる。ホテルの食事二人分より高いんですよ。
9時、風呂に入るも頭を洗い終えたところで湯が水になり、終わり良ければすべてよしというが、終わりが悪ければすべてダメなのだろうか?
1996年7月14日日曜日
フフホトへの移動を順延
朝、相棒のおじいちゃん声そのまま。ただし抗生物質はよく効いたらしく、のどの腫れはひいたそうだ。食後、薬屋へ行き、相棒ごのみの漢方薬を2種類買う。そして寝る。私は日記の整理・手紙書き・ちびぞうと遊び・などなど。
午後から私だけ外出。本日はフフホトへの移動を予定していたが取りやめ。百貨大楼へゆき、新華書店で辞書類を購入。相棒のリクエストで日本語の文法問題集も購入。餃子とヨーグルトと桃を買って帰る。
このホテル、天井がやたら高いことや、窓がすべて二重窓であること、建物のデザインなどからして、旧ソ連の技術者による設計ではないかと思われる。(そしてそれほど古い。)部屋の床は板張りで気持ちいいが、服務員は3日泊まって一回も掃除にこず、ポットのお湯も客が交換しに行く方式である
夜8時、ホテル向かいで夕食。相棒はだいぶよくなったようだ。
ちびぞう、私に飼われる前まであまりエサを与えられていなかったのだろうか、最初の二日間ぐらいロクにうんこをしなかったというのに、このごろはもりもりする。今はちびだからいいけど、そのうちでかリスになったらうんこの量も比例して増えるんだろうな。
午後から私だけ外出。本日はフフホトへの移動を予定していたが取りやめ。百貨大楼へゆき、新華書店で辞書類を購入。相棒のリクエストで日本語の文法問題集も購入。餃子とヨーグルトと桃を買って帰る。
このホテル、天井がやたら高いことや、窓がすべて二重窓であること、建物のデザインなどからして、旧ソ連の技術者による設計ではないかと思われる。(そしてそれほど古い。)部屋の床は板張りで気持ちいいが、服務員は3日泊まって一回も掃除にこず、ポットのお湯も客が交換しに行く方式である
夜8時、ホテル向かいで夕食。相棒はだいぶよくなったようだ。
ちびぞう、私に飼われる前まであまりエサを与えられていなかったのだろうか、最初の二日間ぐらいロクにうんこをしなかったというのに、このごろはもりもりする。今はちびだからいいけど、そのうちでかリスになったらうんこの量も比例して増えるんだろうな。
1996年7月13日土曜日
固陽へ秦長城を見に行く。
朝は風呂と洗濯。バスルームが6畳ぐらいあってびっくり。昼から固陽へ秦長城を見に行く。たどりついた固陽はただの田舎で、そこからジープをチャーターして10キロ離れた秦長城へ行く。秦長城旅遊区というブサイクなコンクリート製の碑(秦始皇帝の似顔絵レリーフつき)、その他合わせて三つも碑が建っとるというのに、長城の保護そのものはなんにもなされておらず、悲鳴を上げてしまいそうであった。金と手間の使い方を完全に間違えとる。
ジープは往復30元。運転手はロンパリのモンゴル族。運転しながら、羊と山羊の混合牧について話をしてくれた。羊の群れはそれだけでは自分で動かないので、その場所の草を根こそぎ食べ尽くしてしまうんだそうだが、そこに山羊を混ぜておくと、山羊が群れを率いていい具合に移動するんだと。では羊と山羊は混血しないのかというと、確かにシーズンになると交尾はするが、子供が生まれることはめったにないそうな。生まれても虚弱で成長することはまれで、してもその個体には生殖能力がないのだと。ふむふむ、なんでも聞いてみるもんだなあ。
相棒、風邪がひどく、なんかだまりこんでると思ったら、夜突然すんごいしわがれ声でしゃべり出した。のどが腫れ上がっているらしい。のど用の抗生物質を飲ませて、早めに寝る。
ジープは往復30元。運転手はロンパリのモンゴル族。運転しながら、羊と山羊の混合牧について話をしてくれた。羊の群れはそれだけでは自分で動かないので、その場所の草を根こそぎ食べ尽くしてしまうんだそうだが、そこに山羊を混ぜておくと、山羊が群れを率いていい具合に移動するんだと。では羊と山羊は混血しないのかというと、確かにシーズンになると交尾はするが、子供が生まれることはめったにないそうな。生まれても虚弱で成長することはまれで、してもその個体には生殖能力がないのだと。ふむふむ、なんでも聞いてみるもんだなあ。
相棒、風邪がひどく、なんかだまりこんでると思ったら、夜突然すんごいしわがれ声でしゃべり出した。のどが腫れ上がっているらしい。のど用の抗生物質を飲ませて、早めに寝る。
1996年7月12日金曜日
夕方五時、包頭に到着。
4;45起床。駅で小豆粥(甘くはない)と油条の朝ご飯を一人一元で食べて乗車。乗車してみると、なんと寝台車はガラ空き状態。ところが発車してしばらく経つと、硬座車の方から人がどんどん入ってきた。もともと寝台車にいた青年が私たちに言うには、プラットフォームから寝台車に乗車するには寝台券がいるが、列車が発車してからはわずかな袖の下を乗務員に払えば入れてもらえるのだそうだ。こみこみきちきちで往々にして通路にすら座り場所も無い硬座車より、寝台車はもちろんずっと居心地がよいため、多くの人がこうやって寝台車に入ってくるのだ。
つまり、この袖の下を得るために、駅では寝台のチケットの売り惜しみをしているのである。あっても売らないのだ。
本来のキャパシティを越えて、どんどん人が入ってくるのと、こういう人がその辺で痰を吐き、タバコを吸い、もちろん吸殻を床に捨て、ゴミや西瓜の皮もどんどん床に捨てるので、列車が寝台とは思えないほど汚くなってきた。銀川でチケットを買うとき、3段あるうち下の寝台をリクエストしてそれは結局買えなかったのだが、かえってよかった。違法に乗車してくる人がどっさり勝手に腰掛けるため、下の寝台だと自分の寝台なのに横にもなれない。
この列車の服務員ときたら、間違えて隣の席の舗牌(乗車票・寝台の切符とひきかえにくれる)を与えられた乗客が、自分の予約席は13号で、これは14号だから替えてくれるように頼んだところ、「うるさいなあ、いちいちそんなことで面倒がらせないで!」と怒鳴りつけたので、横で聞いてた私はさすがにたまげた。しかし、ではこの服務員が極悪非道の人非人かというとそうでもなく、迷子になって泣いている子供をあやしながら親を探して車両を行ったり来たりもしていたので、要は私と常識が違うということなのでしょう。
夕方五時、包頭に到着。駅から輪タクで市中心へ。金鷹賓館、バストイレ付60元とリーズナブルであるので、さっそく登記しようとしたら相棒の回郷証をみて、「外賓は接待できませーん。」ここで香港人は中国人だとゴネても、私の登記時にバレたら時間が無駄なだけなので、あきらめて敗退。つーか、仕事したくなさそうな感じだったし。
香港人の立場はとっても不確実だ。時にこのように外人扱いをされ、時に昆明の茶花でのように向こうの勝手な都合によって中国人扱いをされたり外人扱いをされたりする。
向かいの包頭賓館、ツイン118元と強気の値段設定。ふっるーい建物なのに。北方では自費の観光旅行客などまだほとんどおらず、公費出張や発票(レシート)出したら出しただけ、単位(勤務先)が払ってくれるような旅行とかばっかりなので、ホテルなどはやたら高い。市場競争原理が働かないところでは仕方がありませんね。
副楼がやや安いと言うのでそちらへ行き、118元を100元にまでまけてもらって泊まる。相棒、体調を崩し気味で荷物を持っては動けない。
つまり、この袖の下を得るために、駅では寝台のチケットの売り惜しみをしているのである。あっても売らないのだ。
本来のキャパシティを越えて、どんどん人が入ってくるのと、こういう人がその辺で痰を吐き、タバコを吸い、もちろん吸殻を床に捨て、ゴミや西瓜の皮もどんどん床に捨てるので、列車が寝台とは思えないほど汚くなってきた。銀川でチケットを買うとき、3段あるうち下の寝台をリクエストしてそれは結局買えなかったのだが、かえってよかった。違法に乗車してくる人がどっさり勝手に腰掛けるため、下の寝台だと自分の寝台なのに横にもなれない。
この列車の服務員ときたら、間違えて隣の席の舗牌(乗車票・寝台の切符とひきかえにくれる)を与えられた乗客が、自分の予約席は13号で、これは14号だから替えてくれるように頼んだところ、「うるさいなあ、いちいちそんなことで面倒がらせないで!」と怒鳴りつけたので、横で聞いてた私はさすがにたまげた。しかし、ではこの服務員が極悪非道の人非人かというとそうでもなく、迷子になって泣いている子供をあやしながら親を探して車両を行ったり来たりもしていたので、要は私と常識が違うということなのでしょう。
夕方五時、包頭に到着。駅から輪タクで市中心へ。金鷹賓館、バストイレ付60元とリーズナブルであるので、さっそく登記しようとしたら相棒の回郷証をみて、「外賓は接待できませーん。」ここで香港人は中国人だとゴネても、私の登記時にバレたら時間が無駄なだけなので、あきらめて敗退。つーか、仕事したくなさそうな感じだったし。
香港人の立場はとっても不確実だ。時にこのように外人扱いをされ、時に昆明の茶花でのように向こうの勝手な都合によって中国人扱いをされたり外人扱いをされたりする。
向かいの包頭賓館、ツイン118元と強気の値段設定。ふっるーい建物なのに。北方では自費の観光旅行客などまだほとんどおらず、公費出張や発票(レシート)出したら出しただけ、単位(勤務先)が払ってくれるような旅行とかばっかりなので、ホテルなどはやたら高い。市場競争原理が働かないところでは仕方がありませんね。
副楼がやや安いと言うのでそちらへ行き、118元を100元にまでまけてもらって泊まる。相棒、体調を崩し気味で荷物を持っては動けない。
1996年7月11日木曜日
チケット手配が難儀な国だ
ちびぞうがモモンガになってゆっくりと飛んでいく夢や、子供がちびぞうを盗んだので私が「どろぼう!」と非難している夢などばかりみて、よく眠れない。ちびぞうが脱走することをよほど恐れているらしい。
おととい2日後のチケットは売らんといわれ、昨日の午前中に駅へチケットを買いに行ったが開くのは3時からであえなく敗退。本日市内のチケット売り場に行くも、30分も列に並んだ挙句に「寝台のチケットが欲しければ駅へゆけ」とあっさり言われ、4度目のチャレンジで駅へ行く。チケット手配が難儀な国であることよ。
並ばない中国人に混じって並ばずに突撃。首尾よく明日6時発の列車の寝台を手に入れる。一人77元。
相棒がクコの実を1.5キロも購入。いくら名産だとて何にするのか。私は王洛賓(新疆在住の漢族作曲家)のテープを購入。
おととい2日後のチケットは売らんといわれ、昨日の午前中に駅へチケットを買いに行ったが開くのは3時からであえなく敗退。本日市内のチケット売り場に行くも、30分も列に並んだ挙句に「寝台のチケットが欲しければ駅へゆけ」とあっさり言われ、4度目のチャレンジで駅へ行く。チケット手配が難儀な国であることよ。
並ばない中国人に混じって並ばずに突撃。首尾よく明日6時発の列車の寝台を手に入れる。一人77元。
相棒がクコの実を1.5キロも購入。いくら名産だとて何にするのか。私は王洛賓(新疆在住の漢族作曲家)のテープを購入。
1996年7月10日水曜日
西夏王陵の崇り
タクシーと交渉。西夏王陵の主用地点を2箇所めぐって3時間で60元と話をつける。市内からは40分で到着。一面の銀川平原の中に、唐突に土の塔がぽつぽつ立ち並んでいるのは異様な光景であった。思わず鳥肌がたつ。
王陵は高さ15~20mぐらいだろうか。小さい物は陪葬墓であろう。王陵の周りをゆっくりあるいていたら、カチカチと高い金属質の音がする。足元をよく見ると、石だと思っていたものはすべて瓦の破片であった。こんなに大量の瓦を誰かがここまで捨てに来たとは考えられないから、ああ、そうだ、これは西夏時代の瓦だ、日本で言うと平安中期ぐらい。日本人にとってはたいした昔であるが、中国人にとってはたいしたことないんだろうな。
で、瓦の破片だし―、野ざらしで羊のフンまみれだしー、と自分にいいわけしつつ、3かけらほど拾ってしまった。相棒がそれを見ていい顔をしない。倫理観に抵触するというより、墓のものを持って帰るなんて不吉だというのだ。
第一の王陵から第二・第三のものへと向かう途中、タクシーが未舗装の土路で運悪く穴にはまってしまった。車から降りて後ろから押したり、石をかませたりするも、なかなか動かない。そうこうしているうちに、折悪しく雨が降り始めた。痛いような雨だ。雨の中を押したり引いたりしているうちに、タイヤがパンク。尖った石のかけらを踏んだらしい。相棒が私にさっき拾ったものを捨てろという。強欲な私、捨てない。我ながら絶対に大きい方のつづらを取るタイプだな。
雨の中をタイヤ交換。やっと脱出。皆ずぶぬれになってしまった。さて、第二第三の王陵は第一のものよりもさらに階層の境目がはっきり残っており、総じて好看であった。しかしこの雨の激しさよ。
サルのように元気な相棒は、どかどかと遠くの方まで走ってゆき、私はゆっくりと二つの塔の周りをめぐった。羊と羊飼いたちが王陵の傍らで横なぐりの雨をやり過ごそうとしている。旅情をそそる光景だ。雨はさらに激しく、地面はさらに滑りやすいので足元に気をつけつつ歩いていると、美しい緑色の陶器の破片が目に入った。なんてこったい!
緑色のうわぐすりのもの、そして昨日博物館で見た壷の破片と同種の陶器と思われる茶色のうわぐすりの陶器の破片が散らばっている。さっきの瓦の破片より焼きの温度が低いらしく、金属質の響きはないものの、色合いがとても美しく、うわぐすりの光沢がよく残っている。もとはなんだったのだろう?これも瓦か?
緑色の破片を二つ、茶色のをひとつポケットに入れた。私は帽子をかぶっているが、戻ってきた相棒は水にはいったようにずぶぬれだ。私の戦利品を見て、「この雨は祟りだ、早く捨てろ。」と言う。大きなつづらの老婆、やはり捨てない。相棒が寒い寒いというので、急いでホテルに帰った。
部屋に帰るとちびぞうがひもつき首輪(私の銀のピアス)から脱走していた。ベッドの下、机の下、どこにもいない。ドアの下から逃げたかなあと茫然としていると、私のバックパックの中から「なんですかー?」という顔をのぞかせた。…かわいそうだが、首輪を少し小さくする。
ヒマワリをひとつひとつむいてやるのが面倒なので、今日のごはんはピーナッツ。しかし半分に割って砕いてやらねばならぬのは同じ。おやつは西瓜。私がちびぞうにかかわりっぱなしなので、相棒のご機嫌がよろしくない。嫉妬しとるのだ。うはは。「はよ放してしまえ!」というが、私は知っている。私が寝ているのを確認してから(私は寝たふりをしていた)、ちびぞうを見に行き、座り込んでずっと相手をしていたことを。かわいいやつめ。
王陵は高さ15~20mぐらいだろうか。小さい物は陪葬墓であろう。王陵の周りをゆっくりあるいていたら、カチカチと高い金属質の音がする。足元をよく見ると、石だと思っていたものはすべて瓦の破片であった。こんなに大量の瓦を誰かがここまで捨てに来たとは考えられないから、ああ、そうだ、これは西夏時代の瓦だ、日本で言うと平安中期ぐらい。日本人にとってはたいした昔であるが、中国人にとってはたいしたことないんだろうな。
で、瓦の破片だし―、野ざらしで羊のフンまみれだしー、と自分にいいわけしつつ、3かけらほど拾ってしまった。相棒がそれを見ていい顔をしない。倫理観に抵触するというより、墓のものを持って帰るなんて不吉だというのだ。
第一の王陵から第二・第三のものへと向かう途中、タクシーが未舗装の土路で運悪く穴にはまってしまった。車から降りて後ろから押したり、石をかませたりするも、なかなか動かない。そうこうしているうちに、折悪しく雨が降り始めた。痛いような雨だ。雨の中を押したり引いたりしているうちに、タイヤがパンク。尖った石のかけらを踏んだらしい。相棒が私にさっき拾ったものを捨てろという。強欲な私、捨てない。我ながら絶対に大きい方のつづらを取るタイプだな。
雨の中をタイヤ交換。やっと脱出。皆ずぶぬれになってしまった。さて、第二第三の王陵は第一のものよりもさらに階層の境目がはっきり残っており、総じて好看であった。しかしこの雨の激しさよ。
サルのように元気な相棒は、どかどかと遠くの方まで走ってゆき、私はゆっくりと二つの塔の周りをめぐった。羊と羊飼いたちが王陵の傍らで横なぐりの雨をやり過ごそうとしている。旅情をそそる光景だ。雨はさらに激しく、地面はさらに滑りやすいので足元に気をつけつつ歩いていると、美しい緑色の陶器の破片が目に入った。なんてこったい!
緑色のうわぐすりのもの、そして昨日博物館で見た壷の破片と同種の陶器と思われる茶色のうわぐすりの陶器の破片が散らばっている。さっきの瓦の破片より焼きの温度が低いらしく、金属質の響きはないものの、色合いがとても美しく、うわぐすりの光沢がよく残っている。もとはなんだったのだろう?これも瓦か?
緑色の破片を二つ、茶色のをひとつポケットに入れた。私は帽子をかぶっているが、戻ってきた相棒は水にはいったようにずぶぬれだ。私の戦利品を見て、「この雨は祟りだ、早く捨てろ。」と言う。大きなつづらの老婆、やはり捨てない。相棒が寒い寒いというので、急いでホテルに帰った。
部屋に帰るとちびぞうがひもつき首輪(私の銀のピアス)から脱走していた。ベッドの下、机の下、どこにもいない。ドアの下から逃げたかなあと茫然としていると、私のバックパックの中から「なんですかー?」という顔をのぞかせた。…かわいそうだが、首輪を少し小さくする。
ヒマワリをひとつひとつむいてやるのが面倒なので、今日のごはんはピーナッツ。しかし半分に割って砕いてやらねばならぬのは同じ。おやつは西瓜。私がちびぞうにかかわりっぱなしなので、相棒のご機嫌がよろしくない。嫉妬しとるのだ。うはは。「はよ放してしまえ!」というが、私は知っている。私が寝ているのを確認してから(私は寝たふりをしていた)、ちびぞうを見に行き、座り込んでずっと相手をしていたことを。かわいいやつめ。
1996年7月9日火曜日
博物館と文物展示見学
八時起床。10時間以上寝たことになる。風呂に入り、朝食にあずきと小米のおかゆとあずき包子を食べ、博物館へ。私自身はせっかく銀川に来たのだから西夏王陵を見たくて仕方が無いのだが、交通手段がなく、バカ高いツアーに参加するか、タクシーをチャーターしていくしかないのであった。ちなみにツアーは西夏王陵のほかに沙湖という観光地と紅高粱を撮影したと言う映画村の3箇所を回って一人120元。私は西夏王陵だけでいいのだあ~。
相棒はあんまり高いゼニを払ってまで西夏王陵とやらには行きたく無さそうだ。つーか、「西夏」って、知らんみたい。姜族系タングート族の、200年にも満たない周辺国家など、中国人にとっては些細な歴史事項なので知らんのも無理はないのか、それともやはりこやつが知識分子にはほど遠いからなのか…
でも私にとっては中学生の頃に「敦煌」を読んで以来、あこがれをかきたてられていた名詞である。歴史学はセオリーやけど、歴史はロマンですよやっぱり。
さて、博物館は承天寺の跡地を利用して作られていた。承天寺は1050年、つまりまさにこの地に西夏王国があった時代の創建だが、今は塔だけしか残っていない。
博物館5角、文物展示2元、塔へ上るのに2元、チケットはそれぞれ独立していた。博物館は正確には展示室という感じの、小さい小さい部屋だった。見るべきものはただ、ひとつササン朝ペルシャ伝来の銀の壷。外側の彫金がすばらしい。文物展示室では、折りよく西夏王陵からの出土品を展示しており、こちらは量的にもみごたえあった。西夏の歴史や領土の説明、数々の出土品、特に複雑怪奇な西夏文字の碑や書物は、相棒の気をけっこうそそったようであった。
うってかわって下世話なところで、銀川最大のヒットはこれ。「SHANGUO BUBBLE GUM」。三国とバブルガムという響きの似合わなさよ。劉備・曹操・孔明・周愈・呂布・張飛・姜維に司馬昭まであった。しかし、人気者の関羽は先に売りきれてしまったらしく、主君の立場ないぞ劉備。しかもおまけにドラゴンボールのシール付きというわけのわからなさ。ひとつ0.25元。
駅へチケット手配に行くも、当日と前日の分しか売らんといわれ、すごすご引き返す。私たちが乗る予定の列車は朝6時発なので、前日にしか買えないという事だ。なかったらどうしよう。
食事、高くて不味い。
相棒はあんまり高いゼニを払ってまで西夏王陵とやらには行きたく無さそうだ。つーか、「西夏」って、知らんみたい。姜族系タングート族の、200年にも満たない周辺国家など、中国人にとっては些細な歴史事項なので知らんのも無理はないのか、それともやはりこやつが知識分子にはほど遠いからなのか…
でも私にとっては中学生の頃に「敦煌」を読んで以来、あこがれをかきたてられていた名詞である。歴史学はセオリーやけど、歴史はロマンですよやっぱり。
さて、博物館は承天寺の跡地を利用して作られていた。承天寺は1050年、つまりまさにこの地に西夏王国があった時代の創建だが、今は塔だけしか残っていない。
博物館5角、文物展示2元、塔へ上るのに2元、チケットはそれぞれ独立していた。博物館は正確には展示室という感じの、小さい小さい部屋だった。見るべきものはただ、ひとつササン朝ペルシャ伝来の銀の壷。外側の彫金がすばらしい。文物展示室では、折りよく西夏王陵からの出土品を展示しており、こちらは量的にもみごたえあった。西夏の歴史や領土の説明、数々の出土品、特に複雑怪奇な西夏文字の碑や書物は、相棒の気をけっこうそそったようであった。
うってかわって下世話なところで、銀川最大のヒットはこれ。「SHANGUO BUBBLE GUM」。三国とバブルガムという響きの似合わなさよ。劉備・曹操・孔明・周愈・呂布・張飛・姜維に司馬昭まであった。しかし、人気者の関羽は先に売りきれてしまったらしく、主君の立場ないぞ劉備。しかもおまけにドラゴンボールのシール付きというわけのわからなさ。ひとつ0.25元。
駅へチケット手配に行くも、当日と前日の分しか売らんといわれ、すごすご引き返す。私たちが乗る予定の列車は朝6時発なので、前日にしか買えないという事だ。なかったらどうしよう。
食事、高くて不味い。
1996年7月8日月曜日
銀川到着。めしがマズイ。
銀川到着。込み込みのバスで旧市街へ。寧夏飯店北苑でツイン50元と言われ、さっそくチェックインの手続きをするも、一人50元だと言われてがっくり。私をロビーに残して相棒が安いホテルを探しに行く。
ほどなく、輪タクをつれて帰ってきた。銀川飯店ではバストイレ共同のツインが50元。部屋は広く、意外な清潔さで、ベッドもシーツも真っ白であり、椅子もTVもついている。心配していたシャワールームもこましであった。なかなかヨロシイ。さっそく寝る。すると、大きな道路に面しているせいで、車の騒音がかなりうるさいことが分かった。何事もそうそう完璧というわけにはゆかんもんである。しかしとにかく寝台列車がうるさくてよく眠れなかった分、ぐうぐう寝た。
昼過ぎ、起床。うるさくて結局よく眠れず、二人とも不機嫌。食事に出るも、さすが回族自治区、漢族用の、つまり炒菜と白飯を出すめし屋が行けども行けども見つからず、ますます不機嫌になる。あきらめて清真めし屋で麺と水餃を食べるが肉が硬い羊肉しか無く、おまけに両方ともとてつもなく辛い。不機嫌が極みに達する。
百貨店の多い街だ。この街のどこにそんな購買力があるのだろう。買ったばかりのシャンプーが蘭州より安かったのでさらに不機嫌になる。<もはややつあたり
夜8時ごろホテルに帰り、ちびぞうとちょっと遊んでぐったり眠る。
ほどなく、輪タクをつれて帰ってきた。銀川飯店ではバストイレ共同のツインが50元。部屋は広く、意外な清潔さで、ベッドもシーツも真っ白であり、椅子もTVもついている。心配していたシャワールームもこましであった。なかなかヨロシイ。さっそく寝る。すると、大きな道路に面しているせいで、車の騒音がかなりうるさいことが分かった。何事もそうそう完璧というわけにはゆかんもんである。しかしとにかく寝台列車がうるさくてよく眠れなかった分、ぐうぐう寝た。
昼過ぎ、起床。うるさくて結局よく眠れず、二人とも不機嫌。食事に出るも、さすが回族自治区、漢族用の、つまり炒菜と白飯を出すめし屋が行けども行けども見つからず、ますます不機嫌になる。あきらめて清真めし屋で麺と水餃を食べるが肉が硬い羊肉しか無く、おまけに両方ともとてつもなく辛い。不機嫌が極みに達する。
百貨店の多い街だ。この街のどこにそんな購買力があるのだろう。買ったばかりのシャンプーが蘭州より安かったのでさらに不機嫌になる。<もはややつあたり
夜8時ごろホテルに帰り、ちびぞうとちょっと遊んでぐったり眠る。
1996年7月7日日曜日
シマリス購入...
朝からチケット手配。銀川行きのチケットがすんなり手に入る。恐れていた甘粛省外人交通保険はこれで購入せずに済んだ。うはははは。夏河で会ったドイツ人は一日分40元やと言うてたもんなあ。
夜9時35分の列車なので、昼のチェックアウト後することがなく、駅に荷物預けて街をぶらぶらする。百貨大楼最上階の本屋で立ち読み。三毛の「随想」を購入。横書きの簡体字で読むとまたちがった感じ。本屋を出て道をぶらぶらしていると、シマリスの子供が道端で売られていた。実は臨夏でも夏河でも売られていた。阿呆な私は欲しくて欲しくてたまらなかったが、いかに阿呆な私でも、シマリスを連れて旅をするのは阿呆の極みの振る舞いであることはよく分かっている。しかしながら私の阿呆ぶりはある種の水準を上回っているらしく、またNOと言える妻とNOと言えない夫という組み合わせも不幸して(<幸いしてという言い方はあるがこっちはあまり聞かない)、ついに阿呆なことに5元でちびリスを購入。われながらアホや…
くるんと丸まると、彼は鶏の卵ぐらいの大きさとなり、私のシャツの胸ポケットですんなり眠りに落ちた。ううう、かわええ・・・。大理で買った藍染めの巾着袋が、今夜からは彼の棲家である。
シマリスを飼うのは小学生以来。命名・ちびぞう。ちびぞうはほんとうにちびなので、ひまわりの種も自分でむくことができず、私がむいて砕いてやらねばならない。なんてこったい、うれしいじゃないか。アホか、私。
夜9時35分の列車なので、昼のチェックアウト後することがなく、駅に荷物預けて街をぶらぶらする。百貨大楼最上階の本屋で立ち読み。三毛の「随想」を購入。横書きの簡体字で読むとまたちがった感じ。本屋を出て道をぶらぶらしていると、シマリスの子供が道端で売られていた。実は臨夏でも夏河でも売られていた。阿呆な私は欲しくて欲しくてたまらなかったが、いかに阿呆な私でも、シマリスを連れて旅をするのは阿呆の極みの振る舞いであることはよく分かっている。しかしながら私の阿呆ぶりはある種の水準を上回っているらしく、またNOと言える妻とNOと言えない夫という組み合わせも不幸して(<幸いしてという言い方はあるがこっちはあまり聞かない)、ついに阿呆なことに5元でちびリスを購入。われながらアホや…
くるんと丸まると、彼は鶏の卵ぐらいの大きさとなり、私のシャツの胸ポケットですんなり眠りに落ちた。ううう、かわええ・・・。大理で買った藍染めの巾着袋が、今夜からは彼の棲家である。
シマリスを飼うのは小学生以来。命名・ちびぞう。ちびぞうはほんとうにちびなので、ひまわりの種も自分でむくことができず、私がむいて砕いてやらねばならない。なんてこったい、うれしいじゃないか。アホか、私。
1996年7月6日土曜日
臨夏の屋台でシシカバブ3種
劉家峡ダムに行ってみたく、市内の旅行会社を何軒かあたるも、季節が悪く水位が低くて、どこも船は出していなかった。残念だがあきらめる。五泉山公園などを散策する。
ホテルから少し北に歩いたところにある東西に伸びる小路が、実は夜市であることを発見。シシカバブだけでも3種の異なったものが売られていた(漢族好み・回族好み・ウィグル族好み、らしい) 今回は新彊まで足を伸ばせないので、せめてウィグル人の屋台で食べていたら、5歳ぐらいのめちゃくちゃかわいい女の子が店を手伝っていた。色白の肌に真っ白のドレス、真紅のウィグル帽。お人形さんのようである。
ホテルから少し北に歩いたところにある東西に伸びる小路が、実は夜市であることを発見。シシカバブだけでも3種の異なったものが売られていた(漢族好み・回族好み・ウィグル族好み、らしい) 今回は新彊まで足を伸ばせないので、せめてウィグル人の屋台で食べていたら、5歳ぐらいのめちゃくちゃかわいい女の子が店を手伝っていた。色白の肌に真っ白のドレス、真紅のウィグル帽。お人形さんのようである。
1996年7月5日金曜日
10時20分のバスで臨夏へ。
10時20分のバスで臨夏へ。ボロバスなので時間がかかるかなあと心配していたが、道が下りなので速い速い。結局あちこちで客を拾った割には3時間で臨夏についた。行きのミニバスは9元、帰りのでかバスは7.7元であった。
銀行で両替。中国銀行の壁に手書きのお知らせが貼ってあった。10元は蒙・漢、5元は蔵・回、2元は維・イ、1元はトン・ヤオ、5角は苗・壮、2角は布依・朝鮮、1角は高山・満。そうなのか。知らなかったよありがとう。
あんまりおなかも減ってないので、そのまま蘭州へ行く事にする、バスターミナルの待合室で、夏河で着こんでいた冬服を脱いでしまいこんでいたら、頭のおかしい人がやってきて、私のミネラルウォーターをゆっくり奪いとって飲み始めた。むちゃくちゃクサイ人であった。私と相棒はべつに相手をしなかったのだが、バスターミナルの服務員が何かカンカンに怒っていて、ほうきで彼をばんばんにぶんなぐって追い出していた。人間がああいうふうにぶんなぐられるのを見るのはなかなかないことである。
蘭州到着。郵電局から香港のおば宅へ電話するも、相棒の新しいパスポートはまだできていなかった。(後日談:この電話のなんと翌日に申請成功という知らせが入ったそうだ。タイミング悪し。)
蘭州飯店へ向かうべく、市内バス停を探していると、老夫婦が我々の様子をじっとみて、どこへ行くのかとたずねてきた。市中心か蘭州飯店と答えると、じゃあ、ミニバスを止めてあげよう、バス代は1元だからそれ以上払っちゃいけないよと、わざわざ通りに出てミニバスを止め、バスが蘭州飯店を経由するかどうかわざわざ車掌に確かめてから乗せてくれた。どういうことだ、ここは本当に中国か!?
車掌さんは固い補助席にバックパックごと座ってる私に柔らかい席を勧めてくれ、蘭州飯店についたら絶対に教えてやるから待てと念を押し、首尾よく蘭州飯店の向かいで降りた後も「蘭州飯店はあっちだ」と、何度も窓から指示してくれた。いったいどういうことなのだ!?
「文革前はこれが当たり前やったんや」と相棒が言うが、文革前はキミまだ学齢期じゃないでしょーが、見てきたようなことを言うな。だがしかし!変わりつつある中国なのだろーか。むむう、ものたりない。<なんやそれ。
ところで蘭州飯店はドミトリーをすっかり廃止しており、一番安い部屋がなんとUS$40。こんなド田舎で何が米ドル建てじゃボケ~と、さっきまでのいい気分をぶっとばしつつ別のホテルを探す。火車站前の迎賓飯店、外国人用のドミは無く、ツインでバストイレ付き、24時間ホットシャワー保証で80元。お湯の魅力に負けてチェックイン。
銀行で両替。中国銀行の壁に手書きのお知らせが貼ってあった。10元は蒙・漢、5元は蔵・回、2元は維・イ、1元はトン・ヤオ、5角は苗・壮、2角は布依・朝鮮、1角は高山・満。そうなのか。知らなかったよありがとう。
あんまりおなかも減ってないので、そのまま蘭州へ行く事にする、バスターミナルの待合室で、夏河で着こんでいた冬服を脱いでしまいこんでいたら、頭のおかしい人がやってきて、私のミネラルウォーターをゆっくり奪いとって飲み始めた。むちゃくちゃクサイ人であった。私と相棒はべつに相手をしなかったのだが、バスターミナルの服務員が何かカンカンに怒っていて、ほうきで彼をばんばんにぶんなぐって追い出していた。人間がああいうふうにぶんなぐられるのを見るのはなかなかないことである。
蘭州到着。郵電局から香港のおば宅へ電話するも、相棒の新しいパスポートはまだできていなかった。(後日談:この電話のなんと翌日に申請成功という知らせが入ったそうだ。タイミング悪し。)
蘭州飯店へ向かうべく、市内バス停を探していると、老夫婦が我々の様子をじっとみて、どこへ行くのかとたずねてきた。市中心か蘭州飯店と答えると、じゃあ、ミニバスを止めてあげよう、バス代は1元だからそれ以上払っちゃいけないよと、わざわざ通りに出てミニバスを止め、バスが蘭州飯店を経由するかどうかわざわざ車掌に確かめてから乗せてくれた。どういうことだ、ここは本当に中国か!?
車掌さんは固い補助席にバックパックごと座ってる私に柔らかい席を勧めてくれ、蘭州飯店についたら絶対に教えてやるから待てと念を押し、首尾よく蘭州飯店の向かいで降りた後も「蘭州飯店はあっちだ」と、何度も窓から指示してくれた。いったいどういうことなのだ!?
「文革前はこれが当たり前やったんや」と相棒が言うが、文革前はキミまだ学齢期じゃないでしょーが、見てきたようなことを言うな。だがしかし!変わりつつある中国なのだろーか。むむう、ものたりない。<なんやそれ。
ところで蘭州飯店はドミトリーをすっかり廃止しており、一番安い部屋がなんとUS$40。こんなド田舎で何が米ドル建てじゃボケ~と、さっきまでのいい気分をぶっとばしつつ別のホテルを探す。火車站前の迎賓飯店、外国人用のドミは無く、ツインでバストイレ付き、24時間ホットシャワー保証で80元。お湯の魅力に負けてチェックイン。
1996年7月4日木曜日
自転車を借りて草原へ
8時起床。本日は自転車を借りて草原へ行ってみることにする。ホテルで聞くと、「30分」。朝食をとった飯屋で聞くと、「2時間は、いらんやろう」。いったいどうやねん~。とりあえず走ってみることにする。45分過ぎてまだたどりつけんようであれば一旦停止することにする。走り出してから35分、草原についた。
草原にも門票(チケット)あり、一人一元。別にチケットがあるわけでもなく、門が有るわけでもないが、テントを張ってる蔵族に支払わねばならない。ここで相棒が余計な一言、「草原は国家のものだろう?」などとぬかしてけつかったため、テントのチベタンが怒って「草原は俺たちのものだ」と繰り返して言い、私は冷や汗をかいた。阿呆、相棒、周りの状況をよう見ぃっちゅうねん。こんな無人の草原で、無用のトラブルをおこしてどうするか。おまえは漢族でむこうは蔵族やっちゅうのに、わかってなさすぎじゃい。
漢族には自分たちが少数民族を抑圧しているという意識のない人が多く、また中国人は人種差別をしないということを平気で言う人がよくいてビックリする。意識がないというか興味がないのだろう。中華意識というやつだ。人民元に表記されてる5種類の文字、何族の何文字か聞いて答えてくれた中国人、まだ一人もいない。広西壮族自治区に住んでた頃、鉄道駅名のローマ字表記がピンインじゃなく、あとにzとか付いた不思議な表記になってるがあれはなんなのか、大学教授に聞いても答えられなかった。広西は壮族自治区であるため、あれはピンインではなくて壮語表記なのである。
とにかく、この世に人種差別をしない民族なんて存在しません。みんなします。しかしながら中国人はこのへん意識のない人が多く、いつぞや「香港人は人種差別をしない」と公言した香港人がいて、香港に住む外国人の私としては、あまりの発言に相手にするのもアホらしかった。「香港人はコスモポリタンだから~」ってなニュアンスでの発言なので、ちゃんちゃらおかしかったっす。バスや地下鉄ででインド人の隣の席が最後まで埋まらないのはナゼかとか、気がついてみたこともないのだろうか。「香港人特有の不用意なレイシストジョーク」という言い方を、アメリカ人がするのを聞いたことがあるので、私だけの感想ではなかろう。
ま、それはそれとして、私が「チベット人にああいうことをいうのはやめろ。彼らは「中国人」じゃないんだから。」と相棒に言うと、相棒「ここに住んでる限りはチベット族だって中国人だ。」だと。あ~あ、基本的な認識が違う。
「誰が好きで中国人にされてるねん」と言うと、「あいつらは野蛮だ」と全然違うことを言い出すので、「そういう言い方だったら中国人だって十分野蛮やで」と思わず言ってしまった。相棒はチベタンが人の見てる前で平気でのぐそをれるたとことかを見てずいぶんショックを受けててそう言うんだろうが、それは文化習慣の違いであって、中国人でもなくチベタンでもない私にとっては、青天下ののぐそも、ドアも敷居もないニーハオトイレも実はあんまりかわりません。そりゃ私だって、あちこちのぐそが落ちてる村(めし屋への行きかえりに必ず通るのだ…)を歩くのはやだし、現在進行形でのぐそをおたれになってる人々の横を通るのはもっとイヤだけどさあ。しかもあの人たち、用便後に紙なり水なりで始末をしている気配が一向に見当たらない。って観察するなよアタシ。
それより自分とは考え方とか常識とか違う人々がいるということを認めないことの方がよっぽど野蛮でしょうが。特に我々のように文化習慣常識を共有してないカップルにとってはそれってほとんど死活問題だと思うが如何。しかしね、文革の時にひとの民族の寺を破壊しまくって、でも宝物だけはキッチリ持って帰ったほうの民族が言っても、説得力ないよ、それ。
などなど、という話をぐじぐじする。景色のいい、空気の澄んだ、早春の野花の咲き乱れる高原を散策しながら交す会話ではない。
ま、しかし同時に、こういう教科書的な、いかにも元教師的な建前にとらわれずに、自分の感覚にもとづいてダメなものはダメと言えることも重要だとは思うけど。のぐそはやっぱりやめたほうがいいよな、公衆衛生上。だから漢民族も痰を吐くのもやめましょうね(<だいぶ減ったよね)。そして日本の酔っ払いどもよ、街中での立小便をやめなさい。
ぐじぐじ。草原は綺麗だった。チャリでチャリチャリ帰る。帰りは下りなので25分。
隣の部屋にドイツ人が入ってきた。スキンヘッドのドイツ人、でき過ぎやん。漢語ばつぐんにうまく、6年も北京に住んでいるという。香港人と日本人のカップルがなんで北京語で会話してるねんと聞くので、共通語がそれしかないからと答えると、彼のお姉さんがロシア人と結婚してて会話が英語なんだそうだが、それといっしょやなと言われてしまった。そういうものか。
雲南省からラサへのルートが今ふさがっているということを話していると、88年にそのルートは通ったことがあるとの話であった。昔は公安のチェックも甘かったそうだ。今回は夏河から合作を経由して南下、四川省へ抜ける予定だという。いい人である可能性1割、悪い人である可能性9割、話をする分にはおもしろい人であった。普通の人の可能性は無し。
草原にも門票(チケット)あり、一人一元。別にチケットがあるわけでもなく、門が有るわけでもないが、テントを張ってる蔵族に支払わねばならない。ここで相棒が余計な一言、「草原は国家のものだろう?」などとぬかしてけつかったため、テントのチベタンが怒って「草原は俺たちのものだ」と繰り返して言い、私は冷や汗をかいた。阿呆、相棒、周りの状況をよう見ぃっちゅうねん。こんな無人の草原で、無用のトラブルをおこしてどうするか。おまえは漢族でむこうは蔵族やっちゅうのに、わかってなさすぎじゃい。
漢族には自分たちが少数民族を抑圧しているという意識のない人が多く、また中国人は人種差別をしないということを平気で言う人がよくいてビックリする。意識がないというか興味がないのだろう。中華意識というやつだ。人民元に表記されてる5種類の文字、何族の何文字か聞いて答えてくれた中国人、まだ一人もいない。広西壮族自治区に住んでた頃、鉄道駅名のローマ字表記がピンインじゃなく、あとにzとか付いた不思議な表記になってるがあれはなんなのか、大学教授に聞いても答えられなかった。広西は壮族自治区であるため、あれはピンインではなくて壮語表記なのである。
とにかく、この世に人種差別をしない民族なんて存在しません。みんなします。しかしながら中国人はこのへん意識のない人が多く、いつぞや「香港人は人種差別をしない」と公言した香港人がいて、香港に住む外国人の私としては、あまりの発言に相手にするのもアホらしかった。「香港人はコスモポリタンだから~」ってなニュアンスでの発言なので、ちゃんちゃらおかしかったっす。バスや地下鉄ででインド人の隣の席が最後まで埋まらないのはナゼかとか、気がついてみたこともないのだろうか。「香港人特有の不用意なレイシストジョーク」という言い方を、アメリカ人がするのを聞いたことがあるので、私だけの感想ではなかろう。
ま、それはそれとして、私が「チベット人にああいうことをいうのはやめろ。彼らは「中国人」じゃないんだから。」と相棒に言うと、相棒「ここに住んでる限りはチベット族だって中国人だ。」だと。あ~あ、基本的な認識が違う。
「誰が好きで中国人にされてるねん」と言うと、「あいつらは野蛮だ」と全然違うことを言い出すので、「そういう言い方だったら中国人だって十分野蛮やで」と思わず言ってしまった。相棒はチベタンが人の見てる前で平気でのぐそをれるたとことかを見てずいぶんショックを受けててそう言うんだろうが、それは文化習慣の違いであって、中国人でもなくチベタンでもない私にとっては、青天下ののぐそも、ドアも敷居もないニーハオトイレも実はあんまりかわりません。そりゃ私だって、あちこちのぐそが落ちてる村(めし屋への行きかえりに必ず通るのだ…)を歩くのはやだし、現在進行形でのぐそをおたれになってる人々の横を通るのはもっとイヤだけどさあ。しかもあの人たち、用便後に紙なり水なりで始末をしている気配が一向に見当たらない。って観察するなよアタシ。
それより自分とは考え方とか常識とか違う人々がいるということを認めないことの方がよっぽど野蛮でしょうが。特に我々のように文化習慣常識を共有してないカップルにとってはそれってほとんど死活問題だと思うが如何。しかしね、文革の時にひとの民族の寺を破壊しまくって、でも宝物だけはキッチリ持って帰ったほうの民族が言っても、説得力ないよ、それ。
などなど、という話をぐじぐじする。景色のいい、空気の澄んだ、早春の野花の咲き乱れる高原を散策しながら交す会話ではない。
ま、しかし同時に、こういう教科書的な、いかにも元教師的な建前にとらわれずに、自分の感覚にもとづいてダメなものはダメと言えることも重要だとは思うけど。のぐそはやっぱりやめたほうがいいよな、公衆衛生上。だから漢民族も痰を吐くのもやめましょうね(<だいぶ減ったよね)。そして日本の酔っ払いどもよ、街中での立小便をやめなさい。
ぐじぐじ。草原は綺麗だった。チャリでチャリチャリ帰る。帰りは下りなので25分。
隣の部屋にドイツ人が入ってきた。スキンヘッドのドイツ人、でき過ぎやん。漢語ばつぐんにうまく、6年も北京に住んでいるという。香港人と日本人のカップルがなんで北京語で会話してるねんと聞くので、共通語がそれしかないからと答えると、彼のお姉さんがロシア人と結婚してて会話が英語なんだそうだが、それといっしょやなと言われてしまった。そういうものか。
雲南省からラサへのルートが今ふさがっているということを話していると、88年にそのルートは通ったことがあるとの話であった。昔は公安のチェックも甘かったそうだ。今回は夏河から合作を経由して南下、四川省へ抜ける予定だという。いい人である可能性1割、悪い人である可能性9割、話をする分にはおもしろい人であった。普通の人の可能性は無し。
1996年7月3日水曜日
ラプラン寺の参観に行く
知り合った韓国人の女の子が泊まっている四合院(伝統的な建築の一種)の方が、部屋はともかく風情があるので、そっちへ移ることにする。完全にチベット風の内装で、外側へ向かった窓がひとつもなく、窓はすべて中庭に面して開いている。中庭には田の字に道がついているほかは花と草が綺麗に植わっていて、たんぽぽ・ボタン・アネモネ・ポピーなどなどの花が咲き乱れている。実に目にいい。
しかし同じ24元のツインでも、部屋によってベッドに大きな差があり、ふわふわベッドの部屋はすべて埋まっていて、私たちが泊まったのは昨日と同じ、鉄線ベッドのツインであった。寝てから分かったのだが私のベッド、昨日よりも敷布団が薄く、綿が片寄っていて、寝ると鉄線の一本一本が背中に感じられる…。そしてそれは冷たく、いつまで寝ていても冷え冷えしていてちっとも暖まらない。夏にはいいが、今はセーター着用での就寝が必要だ。
部屋替えのあと、ラプラン寺の参観に行く。チベット仏教の寺はどこも見慣れない仏様がいっぱい並んでいて壮観だ。一番の呼び物は高さ13mの大仏で、清代にか河南省で鋳造されてここまで運ばれたもの。その他、もう少し小型の大仏が3体ましましていた。
チベット仏教の弥勒菩薩は、すべて椅子に座っているという。それって日本も同じだよね。というか、弥勒菩薩を勝手に大腹べんべんの布袋さんにしている中国人のほうがおかしい。あと、観音菩薩は中国人で、地蔵菩薩は朝鮮人とか、勝手なひねりを加えすぎ。しかし、仏像は日本か韓国に限るなあ。(日本人の感想ですね。)
チケットは中国人8元、外国人21.5元。なんでこんなハンパな数字なのだろう。払ってないけど。
ラプラン寺の周りには、蔵族・回族が経営する商店が門前市をなしており、仏具専門の回族商店などがあって不思議である。一番おかしかったのは「清真佛学院餐庁」という学食的な店で、イスラム教徒がラマ僧を相手にしている商売だが、外国人向けメニューにPork Chopなどがあって、他人事ながらおいおいええんか!?というつっこみを入れずには済まされない。ええんか、ほんまに。
夜、冷たい冷たいベッドで寝る。
しかし同じ24元のツインでも、部屋によってベッドに大きな差があり、ふわふわベッドの部屋はすべて埋まっていて、私たちが泊まったのは昨日と同じ、鉄線ベッドのツインであった。寝てから分かったのだが私のベッド、昨日よりも敷布団が薄く、綿が片寄っていて、寝ると鉄線の一本一本が背中に感じられる…。そしてそれは冷たく、いつまで寝ていても冷え冷えしていてちっとも暖まらない。夏にはいいが、今はセーター着用での就寝が必要だ。
部屋替えのあと、ラプラン寺の参観に行く。チベット仏教の寺はどこも見慣れない仏様がいっぱい並んでいて壮観だ。一番の呼び物は高さ13mの大仏で、清代にか河南省で鋳造されてここまで運ばれたもの。その他、もう少し小型の大仏が3体ましましていた。
チベット仏教の弥勒菩薩は、すべて椅子に座っているという。それって日本も同じだよね。というか、弥勒菩薩を勝手に大腹べんべんの布袋さんにしている中国人のほうがおかしい。あと、観音菩薩は中国人で、地蔵菩薩は朝鮮人とか、勝手なひねりを加えすぎ。しかし、仏像は日本か韓国に限るなあ。(日本人の感想ですね。)
チケットは中国人8元、外国人21.5元。なんでこんなハンパな数字なのだろう。払ってないけど。
ラプラン寺の周りには、蔵族・回族が経営する商店が門前市をなしており、仏具専門の回族商店などがあって不思議である。一番おかしかったのは「清真佛学院餐庁」という学食的な店で、イスラム教徒がラマ僧を相手にしている商売だが、外国人向けメニューにPork Chopなどがあって、他人事ながらおいおいええんか!?というつっこみを入れずには済まされない。ええんか、ほんまに。
夜、冷たい冷たいベッドで寝る。
1996年7月2日火曜日
町外れの夏河飯店へ投宿
本日も湯が出なければくそったれなので、宿替えを考える。しかし、えらい雨である。相棒がバスターミナルから屋根付きバイクタクシーを呼んできたので、それで町外れの夏河飯店まで。10元。夏河飯店は青裸麦と菜の花畑の真ん中にあり、中国ではこれ以上望みようもないすばらしい眺めと空気のロケーションであったが、なにしろ町の中心まで徒歩で一時間という抜群の便利さである。ちなみに公共交通機関も無し。10元のドミがなければいったい誰が泊まるだろうか。(←泊まるねん結局)
8人部屋バストイレ付き。ベッドは清潔だが硬かった。相客はおらず、貸しきり状態。夕食をとりに一時間歩く。また一時間歩いて戻ってくる。シャワーを機嫌よく浴び、大量に溜まっている洗濯をして今日は終わり。
8人部屋バストイレ付き。ベッドは清潔だが硬かった。相客はおらず、貸しきり状態。夕食をとりに一時間歩く。また一時間歩いて戻ってくる。シャワーを機嫌よく浴び、大量に溜まっている洗濯をして今日は終わり。
1996年7月1日月曜日
2時のバスで夏河(海抜2700m)へ
昼食を臨夏で食し、2時のバスで夏河へ。9元。しかしながらこのバス、個体戸(個人経営)であるため、時刻表どおりにバスターミナルから一旦出るものの、その後満足できる数の客を集めるまで街なかで客を引いて廻り、結局臨夏を離れたのは3時過ぎとなった。
臨夏を出てしばらくは小麦畑が広がっているのだが、標高が上がるにつれて毛の長い青裸麦(ハダカムギ)畑が多くなってくる。青裸のほうが高地での栽培に向いているんだそうだ。また、遊牧チベット族の主食がこの青裸の粉末を、バター茶で練ったツァンパである。
夏河は海抜2700m、盆地を取り囲む周囲の丘は3000mを越える。バスは3時間ほどで夏河に到着、降りるなり輪タクに取り囲まれた。どのホテルが安くて評判がよいのかよくわからんので、とりあえずバスターミナル向かいの友誼飯店に行ってみた。さて、フロントの価格表はバス・トイレつきツインが外国人 120元・中国人60元、トイレつき共同シャワーのツインが外国人60元・中国人30元であった。相棒、昨日と同じく価格交渉にレッツトライ。
バス・トイレ付きを50元で。相棒、おそるおそる回郷証を取り出して登記。小姐、香港と中国の違いがよく分からなかったらしく、没問題。ラッキー。
しかしこの町、見事なぐらいめし屋がなく、口に合わない物は本当に食べられない相棒が途方にくれる。私は味と栄養は別と割り切れる方である。単に食い意地が張ってるとも言う。さて、回族料理屋には炒菜がないし、蔵族(チベタン)は料理の方面の才能には残念ながらあまり恵まれてない。(「解放」前のラサの金持ちは、みな漢族コックを雇っていた) とりあえず見つけた白飯のある、あまり衛生的で無さそうなめし屋で食事、やはりというか美味くなく、しかも高い。もっと歩いて探さねば。
そしてこのホテル、夜、湯が出なかった。なんのために風呂付きに泊まったのか。 がっくり。
臨夏を出てしばらくは小麦畑が広がっているのだが、標高が上がるにつれて毛の長い青裸麦(ハダカムギ)畑が多くなってくる。青裸のほうが高地での栽培に向いているんだそうだ。また、遊牧チベット族の主食がこの青裸の粉末を、バター茶で練ったツァンパである。
夏河は海抜2700m、盆地を取り囲む周囲の丘は3000mを越える。バスは3時間ほどで夏河に到着、降りるなり輪タクに取り囲まれた。どのホテルが安くて評判がよいのかよくわからんので、とりあえずバスターミナル向かいの友誼飯店に行ってみた。さて、フロントの価格表はバス・トイレつきツインが外国人 120元・中国人60元、トイレつき共同シャワーのツインが外国人60元・中国人30元であった。相棒、昨日と同じく価格交渉にレッツトライ。
バス・トイレ付きを50元で。相棒、おそるおそる回郷証を取り出して登記。小姐、香港と中国の違いがよく分からなかったらしく、没問題。ラッキー。
しかしこの町、見事なぐらいめし屋がなく、口に合わない物は本当に食べられない相棒が途方にくれる。私は味と栄養は別と割り切れる方である。単に食い意地が張ってるとも言う。さて、回族料理屋には炒菜がないし、蔵族(チベタン)は料理の方面の才能には残念ながらあまり恵まれてない。(「解放」前のラサの金持ちは、みな漢族コックを雇っていた) とりあえず見つけた白飯のある、あまり衛生的で無さそうなめし屋で食事、やはりというか美味くなく、しかも高い。もっと歩いて探さねば。
そしてこのホテル、夜、湯が出なかった。なんのために風呂付きに泊まったのか。 がっくり。
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