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書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1996年8月31日土曜日

メーサリアンへの移動日

メーサリアンへの移動日。けっこう時間がかかった。まずは朝8時のエアコンバスでチェンマイへ。到着が14時半だったから。6時間半もかかったことになる。チェンマイ15時発のバスにのってメーサリアン到着が19時半。4時間半かかっている。計11時間。うんざりだ。

軽く夕食を食べて寝る。

1996年8月30日金曜日

体調崩して死に寝。

日記をつける気力も無かったらしい。

1996年8月29日木曜日

メーソットへの移動日

本日はメーソットへの移動日。しかしスコタイからに直行バスはなく、まずがタックへ向かい、そこで乗り換えだ。朝10時のバスでタックへ。ガイドブックにはタックには見るべきものは何も無いと無情なことが書かれてあったので、私たちも着くなりバスを乗り換えた。

タックからメーソットへの交通はワゴン車であった。15人乗りぐらいか。たいへんな山道をぐるぐるまわり、途中で見事な見晴らしの峠を越えてメーソット到着。ところが不運なことに、私は猛烈にトイレに行きたくなってしまっていたのだ。で、めったにないことだがサムローに乗り、宿まで連れていってもらった。エアコンつきが200B、なし100Bと高くはないが、100Bの部屋は木と竹でずさんに作った小屋状の建物。もひとつ清潔ではなく、しかもベッドが相棒が嫌いなマットを床置きタイプであった。で、やめにしてそこから歩いて街中のホテルにゆく。普通の安ホテルに投宿。100B。

1996年8月28日水曜日

スコタイ歴史公園にゆく

スコタイ歴史公園にゆく。トラック改造型乗合バスで5B、ガタガタ揺られて30分、そこから一日20Bのチャリを借りて公園へ。

公園はかつてスコタイ王国の首都であった遺跡を、ユネスコが整備・修復かつ保護しているもので、修復といっても余計な修復はせず、朽ちたものは朽ちたまま、これ以上荒廃しないように手入れをほどこしたうえで、見学しやすいように回りを整備してある。この「修復しすぎていない」ところがいい感じであった。

柱だけが立ち並ぶ回廊にはかつては屋根があったのだろうが、そこは復元されていない。朽ちて高さがふぞろいになった柱はローマやギリシャの遺跡のようだが、純白の大理石とちがって赤茶けた素材のこちらのほうが、アジア味があって私は好きだ。

公園の中にはいくつも寺院があり、スコタイ王朝が仏教を保護していた様子がうかがえるが、最も見ごたえのある遺跡は公園の外にあった。スコタイ期の大仏(実際には釈迦ではなく聖人らしいが)で、私が今までに見た大仏の中では最も優雅なものだ。

大仏は、柳の葉のような不思議な形の入り口を正面に座っていた。入り口の幅は人がひとり入れるほど、高さは建物の2/3ほどに達している。建物正面から見ると、入り口の隙間から座っている大仏が窺える。はっきりいうと、私はこの入り口の形状から、すぐ女陰を想像した。バチあたりですね。なにより優美だったのは大仏の右手。2メートルぐらいあるけど。

タイは両替がすごく便利だ。街のほとんどの銀行で両替が可能。すばやさでは香港に劣るかもしれないが、どこでも応対が丁寧でよい。遅いといっても中国のように非効率なまでに遅いわけではないし。

1996年8月27日火曜日

スコタイへ移動

孫文の遺墨について宿のおねえさんに訊ねると、じいちゃんが海南島出身で、孫中山・蒋中正両名と親交があったそうである。しかしおばあちゃんはタイ人なのでこのむすめさんももはや中国語はなにも話せない。

博物館へゆく。けっこうおもしろい。それからバスに乗ってスコタイへ。16Bなり。スコタイは宿の安い街だと聞いていた。バスルームつきで120B、なしで80B。なしのほうに泊まってみた。まあまあだ。ピサヌロークを出る前に飲んだ鼻炎の薬のせいで、死ぬほど眠い。街で15Bの炒麺を食したあと、宿に帰って夕方まで爆睡。相棒曰く、熱あったぞとのことである。

6時すぎにのろのろ起きだして、夜の街をうろうろする。タイではどこもそうだが、日中の暑さを避けて、街は夜のほうがにぎやかだ。二人とも香港で買ったHK$15.9のサンダルがあちこち壊れてきたので、タイ製のすっごく履きやすいサンダルを購入。185Bなりなり。

しかしどうしたことだ、うまいめし屋がみつからない。屋台で麺。おいしいことはおいしいのだが、カロリーだけたっぷりで、その他の栄養の足しにはならんことは確かだ。くだものやジュースをなるべくとるよう心がけよう。私はサプリをとっているが、相棒は飲んでいない。

1996年8月26日月曜日

孫中山遺墨に遭遇

ドミに180Bも払うのはおまぬけなので、もちっと安いG/H探し。鉄道駅そばのASIA HOTEL、清潔な部屋に広めのシャワールームがついて150B。部屋が広いのでデスクと椅子2脚、洗濯物干し、クロゼット、全身鏡と顔鏡、すべてシンプルなデザインの古い木製の家具付きである。シャワールームにはタオルとせっけんつき。角部屋なんで窓は2面。ひゃっほう!

中国名を「亞州大酒店」という。つっても3階建てのちいさなホテルだけど。華人というのはどこにでもいるなあとロビーに飾ってある横長の額の漢字を読んでいたら、なんぞの決意表明のような文章がつづってあり、最後に「孫文[印]」。

げ、孫中山!?左横に若い軍服姿の男性の写真があり、横に小さく「蒋中正敬贈」と書いてある。げー、蒋介石ー!そういえばこの顔…。

相棒と二人で顔を見合わせてしまった。相棒曰く「ここの先代か先々代はどうやら革命家やったみたいやなあ。この手の南洋華僑は美しい理想を持って帰ってきて、文革のときにエライ目におうたんや…廈門にもいっぱいおった。しかし、こんなもん中国で玄関に飾ってみい、翌朝にはあらへんで。タイは治安ええなあ。」

外で書店に入るとなんとびっくり読売新聞があり、65Bもするのに買ってしまう。中文紙は10B、英文紙は15Bであった。

ランブータン、13Bで大きなビニール袋いっぱいどん!と手渡された。食いきれん。ドリアン中サイズひとつ95B。なつかしのメンソール天花粉HULA HULA!を17.5Bにて購入。実は勝手にBORA BORA!だと思いこんでおり、見つけたときは照れた。

お寺へお参りに行ったらなぜか体重計があったので計ってみた。66kg。5ヶ月で-13kgか。

1996年8月25日日曜日

相棒、タイ料理が全くダメなことが判明。

朝から魚の干物を4枚(3Bx4=12B)も買ってきて、ベランダで猫と一緒に食べる。この白猫はハラボテで、しんどそうに一日中横たわっているのだ。

貸し本屋は古本屋もかねており、Lonely Planetのタイ篇を購入。今日はウドンターニーへ向かうのだ。バス代15B、あっという間に到着。ところがウドンターニーのバスターミナルは街から結構離れており、なんだかめんどうになった私は10分で気が変って、そこへきたチェンマイ行きのバスに飛び乗ってしまった。といっても、チェンマイまで行く気はなく、スコタイで途中下車するつもり。バスのおっちゃんは、「6時にほにゃらららんに着く。そしたら7時にはスコタイだ。」と推測されるようななにかを言いつつ、腕時計を指した。ウドンターニーに着いたのは12:20、このバスは12:30発。よろしい。

バスは中国や、ましてやラオスとは比べ物にならない性能と手入れの良さでスカスカ走り、夕刻6時、なにやらバス停にとまった。そしてそこで私たちは無理やりおろされてしまったのである。!!??!!

ここはどこ?

バス停で地図を手に茫然と立ち尽くす我々。まわり中にききまくってやっとここがピサヌロークという街だとわかった。そこでLPの登場だ。あってうれしいガイドブック。

LPべたぼめのユースホステルへ。ドミ50Bなのだがノンメンバーフィーが40B加算され、90Bx二人で180B。ちっとも安くない。しかも「素敵な庭」だった場所にレストランが開業していて、なかなかけっこう繁盛している=やかましい。むむう、時はすべてを変えてしまうのか。とりあえずゴハンを食べて寝よう。そのレストランで。

相棒、タイ料理が全くダメなことが判明。

1996年8月24日土曜日

読書、市場めぐり、買い物。

「C.W.ニコルの旅行記」「剣客商売」「今夜、すべてのバーで」と快調。が、本を読んでいても向こう岸のりすぞうのことばかりが思われる。ベッドの足のところなどに、いるはずのないりすぞうを思い浮かべてじーっと見てしまうのだ。すごくさびしい。「子供に先立たれた母親」そのまんまである。相棒が不愉快そうに私を見ている。

街に3つある市場のうち、ふたつを朝からめぐってみた。ひとつはメコンに面した観光用のマーケット。ラオスのものがたくさん売られているのもこっちであった。私がルアン・プラ・バンで買った布が、きっちり倍額で売られていた。

まちはずれにあるほうは、もっと地元民むけだった。小花を散らしたえんじ色のノースリーブブラウス、綿100%でやわらかくて着やすい前開きのを50Bにて購入。(ちなみにこのブラウスはこの後5年間着たおされた挙句、任期の最後の1年を息子の布おむつとして活躍、ついに惜しまれつつ引退することになる。)

1996年8月23日金曜日

国境越え。タイ東北部へ。

りすぞうが見つからないままに、この地を去ることとなった。後悔で胸をかきむしりそうである。どうしてドアのすきまを確認せずにりすぞうを放したのか。いや、そもそもなぜこんな暑いところに連れてきてしまったのか。どうしてつれて旅行などというかわいそうなことをしてしまったのか。

もう殺されたか、食べられたかしたかなあ。あのかわいらしいくしゃみや、背中をかく時に床を打つたんたん言う音が聞こえないかあちこち耳をすませたが、聞こえない。ドーナツぐらいの大きさになって、丸くなってどこかで眠っているのだろうか。

今日数えたらゲストハウスには猫が4匹、犬が二匹。遅かれ早かれ彼らの餌食だ。私がりすぞうを捕まえるのに、いつも3分とかからないもの。あんな警戒心のないどんくさいリス、あっというまにつかまってしまう。あるいはシマリスをしらないラオス人に、ねずみとまちがわれて殺されてしまうか。

ああ、どこで何してるのかなあ。もうこの世にいないのかなあ。ごはんにありつけてるかなあ。きもちのいい隠れ家はみつかったのかなあ。涙でそう。

ゲストハウス→バスターミナル 500Kip
ビエンチャン→タドゥア    200Kip
タドゥア→タイ側イミグレ   300kip
イミグレ→ノーンカーイ    US$1

Mut Mee G/H、バストイレ共同で130B。いい感じの木造の二階建ての上の部屋。メコンに面していて、庭にはオープンレストランがある。レセプションではアメリカ人がバイトをしていた。オーナーはタイ妻を持つイギリス人だそう。

大通りからG/Hへ入る小道の途中に、アメリカ人経営の貸本屋があり(つか、こんなとこで経営は成り立ってるのか)、日本語の本も結構あった。早速借りる。「どこにもない短編小説集」「政治的に正しいおとぎばなし」「復讐のような愛がしてみたい」

1日15Bであったが、3冊借りたら45Bではなくて、一日何冊借りても15Bなのだと。ええんか?わし読むで?どっさり読むで?

1996年8月22日木曜日

ヴィエンチャンの街をうろうろ

本日は市場で国境行きのバス乗り場を確認。パリの凱旋門を模したというでっかいアーチに登って、ビエンチャン市街を見下ろした。それから金色の大塔のある寺まで2キロを歩き、あやうく日射病に。ビエンチャンくそ暑い。タイはもっと熱いんだろうなあ。つらいなあ。

また別の市場へ行き、ThaiFoodという看板の店でタイによくあるぶっかけごはんを食す。あまりうまくない。

私の感じでは、ラオスでいちばんおいしいのはフランスパンだ。バゲットにいろいろはさんだサンドイッチ、これが最高。そして濃いコーヒー。冷たいやつもいい。この二つがあれば朝ご飯はパーフェクト。

1996年8月21日水曜日

ViengTiane到着

朝通りすがりのトラックにバッテリを貸してもらって発進。6時半ごろ、バスは再出発した。

9時、ViengTianeに到着。バスに同乗していた4人のスウェーデン人と、あわせて6人でTukTukをシェア。安いゲストハウスまで連れて行ってもらった。TukTukの運転手は英語が皆目わからず、料金交渉はフランス語。私と相棒だけじゃお手上げであった。バス・トイレ付き8ドル。なし6ドル。6ドルの部屋は窓無しの1階しかあいておらず、2階の8ドルの部屋に入る。

朝市へ。目も眩むような手織り布の洪水であった。シルク、きらびやかな光沢、細かい編み込み模様、田舎で見た布とは格がちがう。値段も格がちがったが。首都到着を祝ってBeerLaoで乾杯。

銀細工のアクセサリーをを1200Kipで購入。アメジストのネックレスと銀のブレスレットを合わせて32ドルで。やはり酒の上の買物はあかんなあ。アメジストのピアス、6ドルをを3ドルにねぎって購入。

悲しい出来事がひとつ。りすぞうが脱走した。ドアの下の隙間から、どっかへいっちゃったのだ。ここでは犬も猫もいっぱい放し飼いになっているというのに。

りすぞうの大きな黒い瞳や、目と鼻と口のピンク色の小さな亀裂のところや、小さい頭蓋骨や、長くてきれいなしっぽや、背中のはげや、私を見上げて「なんですか?」という顔をするところや、かわいらしい前歯や、おまけみたいな耳や、食べ物をあげると顔を横にしてかぶりつくところや、ほっぺたに食べ物を入れすぎてすごいぶたりすになっているところや、おしっこをするときにしっぽをぴっと上に持ち上げるところや、背中のくっきりした5本のシマシマや、寝る前と起きた後、小さいくしゃみをなんべんもするところや、歩くときの小さなかさこそいう音や、丸くなって寝ているところや、大の字になって安心し切って寝ているところや、そんなときにおいしいものをあげると目を閉じたまま、横になったままさくさく食べるなまけものぶりや、私の枕の下でいい場所を探してごそごそするところや、毎朝早朝から物音をたてて私達をおこしてくれる目覚まし時計かわりのところや、いったんカゴに入れると顔をだしても「出たらあかんよ」と言うとおとなしくひっこんでゆく聞きわけのよさや、私があんまりやつを手荒に扱うと「くう」と鳴いてわたしの指にぱくっとかみつくところや、でも決して痛いほど噛んだりしないところや、つまようじをあげるといつまでもくるくる回しながらかじっているところや、ごはんの後には手をきれいに舐めて口を拭いてまた手を舐めて、顔をこすってまた手を舐めて、耳の後ろをくるんとこすってまた手を舐めて、足で背中をたんたん掻いて、足を舐めて、おなかを舐めて、最後に両手で尻尾を根元から先っぽまでしごくようにして点検して(一度、食べ残しのキャンディが尻尾にくっついていたときはおかしかった。はっ!?という顔で一瞬止まり、きれいになるまであせってせかせかしっぽなめつづけていた。)、それからやっと安心するところなどを考えると、悲しくてなかなか眠れない。相棒は「ねずみがどっか行ったー」と能天気にうれしそうだ。

1996年8月20日火曜日

本日はVangViengへ行く…はず。

本日はVangViengへ行く日である。朝起きてTukTukでバス停まで行った。するとなんとびっくり!「バス」があるじゃないの。それも世界を駆ける日野バスだ。チケットはVanViengまで9000Kip、運転手は力強く「VanViengまで6時間、VienChangまで10時間」と言い切った。

さて私達は、バスは朝9時半出発ということを確認した上で、全然知らん都市に日が暮れてから着くのはまずかろうと、VamViengで途中下車することに決定。明るいうちに着けるだろうという観測である。

ところが。力強く言い切ったこの運転手、ものすごーく運転がへたくそで、何てことない道なのに30Kmぐらいのスピードでしか運転しないのであった。しかも発車のたびにギアをバックに入れ間違うというどんくさぶりで、私達の肝を冷やしてくれる。大丈夫なんかい。

道は霧がすごかった。高山を細々と走る道では、3m先も見えないほどの霧。不幸中の幸いは、車両が極端に普及していない国なので、対向車がほとんどない事だ。だからといってもちろん油断は禁物なのだが、とりあえず何事もなく通過、ひと安心。

道が大きく地崩れをおこしている個所を通過。写真参考→。そしてわたしはすっかりのしょうべんの達人だ。 さて、ところがバスは道の悪さと運転手の腕のせいで遅れに遅れ、VangViengに到着したのは夜7時ごろ。すでにまっくら。しかもバスは市内に入らず、川を隔てた対岸の、真っ暗な田んぼ道で客を下ろし始めたではないか。私達はこんな所で降りるのはまっぴらである。

で、やはり首都ViengTianeまで乗ることにした。これはまちがいだったのか正しかったのか。というのは、 VangViengを出て2時間ほどの場所でバスは夕食の為に30分ほど休憩し、そしてまた走りだし、10時前、客を下ろすために停車した後、どうにもこうにも動かなくなっちゃったのである。

相棒が言った。「バッテリーがあがっとる。」

なるほど。しかし民家の灯りが遠くにひとつ二つ見えているだけのこの野っぱらで、いったいどうするねん。電気が通っているのが御の字で、どう考えても電話はなさそう。

相棒が言った。「ギアをセカンドに入れて、後ろから押せば発信できる。ここは坂道だから都合がよろしい。」

うむ。そういえばそのようなことを自動車学校で習ったような気がする。大昔に。

そして運転手が言った。「SLEEPING!」

「え!?」と声を出したのは私だけで、人々は皆妙に嬉しそうに歌を歌い出したり、懐中電灯を取り出したりして、それぞれに寝場所を確保し始めた。あるものは床で、あるものはバスの屋根の上で。私と相棒はラッキーにも椅子の上で眠る事が出来たのであった。って、ラッキーなのか?

今日、宿とゴハンにありつけると思っていたので、りすぞうにやるものはなにもない。かわいそうだ・・・

1996年8月19日月曜日

ビザの延長に失敗

月曜になったので、イミグレにビザの延長願いに行った。朝8時のオープンと同時に入り、延長してー、してー、と粘る。対応してくれたお姉さんはとても感じのいい人だったが、この人には権限がないらしく、私たちの事情を聞いてくれた上で、午後2時にもう一度いらっしゃいということであった。何日かあげられるかもしれない、ということだ。しかしイミグレの壁には「1995年8月23日をもってルアン・プラ・バン・イミグレーションオフィスは旅行者ビザの延長に関するすべての業務を停止しています。首都ビエンチャンのツーリスト・オーソリティー・オブ・ラオだけがビザに関する相談を受け付けています」と大書してあり、望み薄そう。

おかしかったのは、その横に「どうかジェントルにしゃべってください、そして私たちに対して尊大な態度をとらないでください」というお願いも貼られていたことで、これが役人から外国人旅行者に対してのお願いなのである。実際、ラオスで銀行でも店でもなんでも、腹の立つ対応というのを今のところされたことがない。ラオス人というのは非常に人当たりの軟らかい応対の人々である。これが常識のところに、大声を出す何人とか態度がでかい何人とか、やたら偉そうな何人とか(何人だろう?)がどっさり来て、本当にびっくりしてるんだろうな。

さて朝食を例の春聯サンドイッチ屋で済ませ、旧王宮博物館でも行ってみるべいと出かけるも、朝8時に前を通ったときには開いていたのにもうしまっている。門の前で中をのぞいていると、ジョージとクリスがやってきて「博物館に入るには許可証を取ってガイドを雇う必要があるのよ。あっちのツーリストオフィスで相談してごらん」と教えてくれた。めんどくさい国やのう。急いでツーリストオフィスとやらへ行き、許可証発行を求めると、ここではなく泊まってるホテルの主人が保証書を書く必要があるとのこと。ガイドを雇う必要はないとのことであった。

ゲストハウスに引き返し、保証書というのか許可証というのかを書いてもらって博物館へ。しかしこの博物館、開館時間がなんと8時半~10時限定というもったいのつけぶりで、いったいそれは見せたいのか見せたくないのかどっちなんだ。結局タイムアウトで入館できず。

相棒が昨日丘の上から見えたという、郊外の金色のストゥーパまで散歩に出る。3kmぐらいか。

雨でぬかるむ道を、へとへとになりながら登る。

ストゥーパの中は4階だてになっていて、1階には地獄の絵が稚拙な克明さで描かれていた。うちひとつ、やや大きな絵があり、男性が木の枝にぶらさがって、蜂の巣からしたたる蜜を舐めている。しかしその枝は根元を2匹のねずみにかじられており、いまにも折れてしまいそうなのだ。しかも男性の下の地面には大きな穴があいていて、毒蛇がそのなかで男性が落ちるのを待ちうけている。穴の外では白い象がひざまずいて男性をみつめており、その後ろに寺院が見える。判りやすい比喩である。

ストゥーパの上からの眺めはすばらしかった。一面の緑・緑・緑!人口圧力の高い中国からやってきた身には、目に沁みるような光景であった。

へとへとになって丘を降り、ゲストハウスに帰って風呂!藍染めのサマードレスに着替えて、イミグレに行く。小姐は「やっぱりここでは延長できません」と、残念そうに言ってくれた。但し、ViengTianeでの延長は1日 USD3で可能、Over stayもUSD5で1週間や10日は問題ないとのこと。

私達のビザは21日までだが、21日午後までにViengTianeに着くのはちょっと不可能。うーん、アイスコーヒーでも飲んで考えよう。バゲットがいっぽん1200Kip、コーヒーが100Kip、そしてアイスコーヒーは400Kipであった。アイスコーヒー、えらい高いなあ。中に入ってるキューブアイスの値段だろうか。

市内のお寺をいくつか散策し、メコンのほとりのテラスレストランでBeerLaoを1杯。BeerLaoが1200Kip、フレンチフライズが500Kip。明日は移動日だ。

1996年8月18日日曜日

朝から霧雨。中国語でマオマオユイ(毛毛雨)。

ルアン・プラ・バンはルアン・ナム・タやモン・サイに比べるとケタはずれに大きい街であった。にもかかわらず、都市では、やはり、ない。静かで美しい田舎町だ。街の中央部に小高い丘があり、旧王宮(現博物館)はその丘を背に、メコン河に面して建てられている。風水的には抜群の位置なのだろう。

朝から霧雨。中国語でマオマオユイ(毛毛雨)というやつだ。レインコートを着て街歩きに出かける。緑の多い美しい街並みで、住み心地のよさそうな家が立ち並んでいる。ラオス式の高床式のデザインと、フランス植民地時代の様式らしきデザインがほどよくまざりあっていてとても優雅である。

しかし昨日は昼食にも夕食にもありつけず、中華を食べたい一心の相棒が春聯(中国で縁起の良い対句を赤い紙に書いて門の両側に貼るもの)をめざとく見つけた。しかし残念なことに広東人のおとうちゃんは昨年亡くなっていて、いまはラオ人のおかあちゃんの娘さんがフランスパンのサンドイッチとコーヒーを売ってる店であった。相棒、かわいそう。

しかし、そのサンドイッチは意外な美味さであった。豚ひき肉に薄甘く味をつけたもの・ピクルス・きゅうり・とうがらし・豚の耳などをはさみこみ、なんと醤油をたらして食べるのである。和洋折衷ならぬ老法折衷(中国語でラオス・フランスはそれぞれ老過・法国)の味。その後何度も食べて確認したので、これは当方の空腹による過大評価ではない。

さらにおいしかったのがコーヒー。ラオス国産のコーヒー豆を煎って煮出した、エスプレッソよりもまだ濃いどろどろのコーヒーに、コンデンスミルクを3センチぐらい入れてくれるのである。めちゃ苦めちゃ甘の、コーヒーも甘い物のダメな人が間違えて飲んだら泣いてしまいそうな味であった。私にはとてもおいしかった。

バゲット半分(一人だとこれで満腹)が600Kip、コーヒーは100Kip。

マンダリンを話せる娘さんが、街に1軒しかないという中華料理屋を教えてくれたので昼から行ってみた。うーん、安くなかった。2000Kipもする魚のフライを注文したら、ひとくちサイズの切り身が4つだけ出てきたので相棒と顔を見合わせた。河べりの街なのに…。濡米飯(もち米ご飯)が一碗500Kip、中華というよりラオス味のチキンスープ(トムヤムみたいにすっぱいヤツ)が2500Kip、合わせて5000Kipなりなり。

相棒は腹ごなしに丘へ登りにいき、私は洗濯(←もちろん自分のだけ)。泥の中を歩いた靴下、すすいでもすすいでも水が黄色く濁る…

夕食は屋台を探そう!とでかけてみたが、おいしそうな物は並んでいるものの、すべてビニール袋に入れてお持ち帰り仕様。その場では食べられない。マグカップとスプーンで食べることにして、ごはん・きのこのカレー・すっぱい野菜が入った薄味スープ・豚肉のブロック煮込み二切れ、以上を購入。13元、あるいは 1300Kip。

部屋で食べた。どれもおいしかった。これとビア・ラオでパーフェクトな夕食。

マーケットで布を買う。5000Kip。店の人はコットンのシルクだというが、私はコットンの麻の混紡だと思うなあ。サーモンピンクの絣で、染めは天然染料ではなさそう(安いし。)。これはバスタオルにするつもりである。

今日は結局一日中雨だった。

1996年8月17日土曜日

ルアン・プラ・バン到着

朝食をまた別の店で取る。麺を注文。やはり5元。しかし今朝は肉が入っていた。どんどんさもしく、セコくなってゆく私たち。

店で例のノン・キウかナンボックかという件を尋ねると、この二つの地点は10キロほどしか離れておらず、同じトラックで行けると言うことだ。但し現在は河の水位が高く、ルアン・プラ・バン行きのボートはナンボックに着岸できないのだそうだ。だからナンボックを通過して、ノン・キウまで行きなさいということであった。ちなみにノン・キウまでは3500Kipとのこと。こういう事前の料金調査は大切である。

8時乗車。昨日のカップルもいる。ご主人がジョージ(ほんとはゲオルグ)、奥さんがクリス。私がトラックの車種を確認して「トヨタだ。」と満足げに言うと、ジョージの方に「やっぱり日本人は日本製品を信用してるんだね」と冷やかされ、「そんなことないですよ。ドイツ車だってエクセレントだし、私のカメラなんかほらカール・ツァイスレンズ搭載。」と、社交辞令を返す。

ところでこの二人も新婚旅行なのだそうだ。濃ゆい新婚旅行やなあと、自分らのことを棚に上げて感心する。

発車は例によって客が一杯になった9時ごろ。雨がひどく、幌はきっちりおろしっぱなし。つづらおりで穴だらけの山道なので酔ってしまい、かなり苦しい。それに寒い。昨日相棒が買ってくれたレインコートがなければ風邪をひいていただろう。

2時間半ほど走ったところで、道が見事に流れていた。ぬかるみの深さは大人のひざ(白人標準)から太もも(ラオス人標準)といったところ。車が入れる深さではない…。見ると、ぬかるみの向こう側でもトラックが立ち往生している。運転手同士の会話で、どうやら客をまるごと交換することに話が決まったらしい。

というわけで、靴を脱ぎ、ひざ上まで泥に浸かってぬかるみを渡った。皆いさぎよく入って行くが、私は破傷風とかを考えてぐずぐずし、結局靴下をはいたまま渡ろう!と自分を納得させ、渡った。気持ち良いような悪いような、非常に変な気分でござる。ここまでのトラックに2000Kip支払った。

さて、さっきより小さいトラックにさっきと同じ人数が乗ったため、きっちきちのきっちきち、えらい無理な状態で一時間。山道を抜けて盆地へ出たが、今度はぬかるみではなく泥水が人のふとももぐらいまで溜まっている。それがどこまで続いているのか、終わりが見えない。どうするんだろうと思ったが、トラックはそろりそろりと水溜りを渡り始め、子供がうれしがって泳いでいる横を抜け、本来水田であったのではないかと推測されるところを大人が船に乗って渡っている横を通って、やっと路面が見えることろまで出た。もう大丈夫だ!

と、思いきや、同じようなところをさらに二箇所、そろりそろりと通り抜けねばならなかった。しかしOK!

一時半ごろ、トラックはノン・キウに到着。このトラックに1500Kip払い、見事に小さい村(っていうか家が5軒ぐらい…)で下車。念の為トラックに確認したが、やはりルアン・プラ・バンにはこのトラック(というか陸路)ではたどり着けないとのコト。

川べりに小さなあずまやがあり、外国人3人が船待ちをしている。しかし、船が着岸できるような施設がきっぱりさっぱり何もない。ただの草の生えた斜面。雨でぬるぬるどろどろの。どんな船がくるんや?

船待ちをしていた彼らによると、船はこの二日間大雨で水位が非常に高く、流れが急で危険なため、なかったそうだ。なんてこと!

3時までそこで待ち、あずまやに座っていたラオス人(キップ売りのお役人らしい)が「今日も船はなし!」と宣言したため、あきらめて村の宿屋に泊まることにする。宿屋といっても山小屋のようなもので、蚊帳を吊った狭い部屋に全員ごろ寝。それだけならまだしも、船待ちをしていた3人のアメリカ人+宿にいたオランダ人が明々白々にクスリをやっており、特にこのオランダ人、男性だがすべての爪をまっかっかにマニキュアしていて、変な服で、しかもめちゃめちゃ臭かった。ジョージとクリスはごくごく普通の人なので、すごーくイヤそうな顔をして、荷物を置くと、出ていった。

私は生理痛と車酔いで吐きそうだったので、薬を飲んで横になり、30分ほど眠った。アメリカ人3人(女性1男性2)、こんなとこでおっぱじめるのはやめてください。オランダ人、それを私たちにも勧めるのはもっとやめてください。

やっとれんので外に出ると、宿のおやじが売人らしく、ヤク中らしき現地人が宿の周りにいっぱい。

川べりの橋まで行くと、ジョージとクリスがいた。私が「あのゲストハウス、泊まりたくないよねえ」と言うと、クリスも「もちろん私たちもよ。だから船がこないかどうか、ずっとここで見てるの」と言う。私たちも橋の上から上流に目をこらす。と、6人ぐらいが乗れるサイズの細いボートが3艘、あずまやの前の岸に停泊した。あれは!

「あれ、スピードボートじゃないの? 水位が高いって言っても、運賃に色をつけたら出してくれるんじゃない?」「交渉してみましょう!」この時点で午後4時。案の定、スピードボートは私たちをルアン・プラ・バンまで乗せて行くことに同意した。しかしここで降りる客はほとんどいなかったから、席は限られている。急げ!その席取った!とジョージが叫び、私とクリスはチケットを買いに走り、男性二人は宿まで荷物をとりに走った。料金は一人12000Kip。

どろどろの斜面を滑り落ちるようにして乗船。ひとつの船には客が6人、船頭が一人の7人しか乗れない。乗客はペラペラでぐっしょり塗れたライフジャケットを着用させられ、ヘルメットをかぶらされた。そして気の毒なことに、あの3人のアメリカ人の席はついになかったのである。クリスが「I'm sorry!」と叫ぶ中、スピードボートは出発。ほんまに速いっ!目を開けていられないぐらいだ。

水位は普段より3mも高いそうで、あちらこちらに浮いている流木をあっちに避け、こっちに避けしてボートはかっとばす。コーヒー牛乳色にむんむんと濁った水は沸きかえるように流れ、渦を巻き、あるいは濁流となって轟々を音をたて、ボートはその上をすべるように突っ走る。めっちゃスリリング!つーか、単にとても危険。

私はずっと般若心経を唱えていた。

途中1箇所、広い水面一杯に流木がうずを巻いているところがあり、船頭が3人、あまりにも危険だと判断したらしく、乗客は全員ボートを降りて流木の無いところまで30分ほど歩かざるをえなかった。しかしそことて船をつけられる施設など何もない泥の斜面で、降りるのも大変、乗るのも大変、私たちはすでにドロドロである。

日が暮れた。

7時過ぎ、ルアン・プラ・バンの灯りが見えた。しかし船頭はそこまで行かず、手前の民家付近で停船。そこから乗客全員でトラックをシェアし、街の中心に入った。1000Kip/人であった。

ジョージとクリスはもともとルアン・プラ・バンに荷物を置いて、モン・サイまで飛行機でサイドトリップを楽しみに行っていたのだそうだ。帰りがこんなことになるとは思いもよらなかったと笑っていた。彼らが泊まっているのは一泊USD35の素敵なホテルだそうなので(新婚旅行じゃフツーそうだよな)、ゲストハウスをいくつか教えてもらって別れた。

街の真ん中のPongsub G/H、バス・トイレ共同の部屋が7000Kip。すっごく清潔だ。主人と奥さんは英語とフランス語ができるインテリであった。

今日はさすがにへとへと、夕食を取りに街へ出るも、田舎町のことで食べられそうな店が全く見当たらない。しかたなくゲストハウスのホームメイドヨーグルトを2瓶づつ食べて、本日はおしまい。

泥だらけの靴。

1996年8月16日金曜日

ルアン・ナム・タからモン・サイへ

朝7時にバス停(正確にはトラック停か)へ行き、モン・サイ行きのトラックに乗りこむも客が集まらず、結局8時半ごろ出発。道は恐るべきボッコボコ道で、しかも雨が降り出した。我々は荷台の一番前に乗っていたので、幌を上げればずぶぬれ、下げれば車酔いという、前門のなんたら後門のうんたらみたいな状況で、幌を上げたり下げたりちょっとめくってみたりと、ツライツライ5時間を過ごした。しかも、狭い荷台に10人以上も乗っており、それぞれがでかい荷物を持っているので身動きも取れない。きっちきちである。

私は本日は暑いだろうとナンの根拠も無く予想、朝からけっこうたくさんの水分を取っていた。そしたらトラックは山をぐんぐん登りだし、高地で涼しい上に小雨まで降り出して、トラックががんがん走ると冷たい風がびゅうびゅう吹き込み、結局トリハダが立つほど寒い一日となってしまた。私、半袖一枚。そうこうしているうちに、さあ大変、トイレだ!どこにあるねんそんなもん。

人口密度が高く、無人の地というのがめったにない中国では、質の高下さえ問わなければ公共交通機関が走っているような道で公衆トイレに困ることはない。今まで中国でのぐそやのしょうべんをたれたことというのは一回もない。しかし今はラオスの山の中である。

結局ドライバーに頼んでトラックを停めてもらい、衆人監視のなか見えないところまで走って行って、道の端で済ませた。車などめったに走っていない道路でよかったなあ。しかし立小便のできる体に生まれたかったことよ。

つづらおりの山道をもうええわというぐらい堪能した後、トラックはモン族の集落で一旦停車。緑の水田がどこまでも広がる、美しい盆地だった。水田に点在する民家の屋根は一方が垂直で一方にのみ傾斜がついており、ヨットの帆そっくりであった。黒い服を着たモン族の女性たちが、何名か下車していった。

一時半ごろモン・サイに到着。運賃はここまで3500Kipであった。ここの住民はラオ族。しかし中国からの移民が多いらしく、中国人や漢字の看板をちらほら見かける。さて急いでルアン・プラバン行きのトラックを探すも、なんと誰もが「ルアン・プラバンには陸路では行けない」というのだ。地図で見たらほんのちょっとの距離なんですよ。

さらに突っ込んで聞きまわると、モン・サイからトラックでひとまずノン・キウ(ノン・キャウ?)まで行き、そこからボートで河を下れ、との指示であった。モン・サイからノン・キウまではトラックで5時間、ノン・キウからルアン・プラ・バンまではスロウボートで4時間、スピードボートで2時間とのことであった。では本日中にノン・キウまで行くトラックはあるのかと聞きまわるも、これも無し。

イミグレのおじさんが「飛行機にしなさい」と強力に勧めていた理由がだんだん実感されてくる。

というわけで本日は不本意ながらもモン・サイで一泊。目に付いたキレイなホテルで値段を聞くと13000Kip、うひょう。すごすごと引き返し、メインストリート沿いの旅社(華人経営)で6000Kipもしくは60元あるいはUSD8.00。バス・トイレ付き、ホットシャワーだというのでチェックイン。2年前に思茅(西双版納の北にある漢族の街)から移民してきたという家族の経営だけあって、きわめて中国くさい宿であった。

ここでも麺は昨夜とおなじく一杯500Kipであった。しかも具は肉なしの卵だけ。中国より食の物価がかなり高い気がする。銀行へ両替に行くとまだ3時なのに現金が無いので明日明日と言われ、マーケットの闇両替屋を探すと1軒目1USD=900Kip、2軒目940Kip、田舎ではレートが悪いのが一般的だろうから、とりあえず50ドル替えてみた。

さて、することもないので村外れまでのたのた歩く。ドイツ人男性とアメリカ人女性の夫婦に出会った。彼らも今日、ルアン・ナム・タからトラックで来たという。明日ルアン・プラ・バンへ向かうと言うので、どうやって?と尋ねると、LP(Lonley Planet)によればここからナンボックという村へ行き、そこからボートに乗ると書いてあるとのこと。ナンボック?そんなの初耳だ。

私たちが今日聞いたノン・キウの話をすると、彼等はそれは初耳だと言う。とりあえず明日朝8時ごろにバス停(トラック停やって)で、と言って分かれた。

ノン・キウ、ナンボック、どっちだ?

夜、ラオス人のレストランで炒米粉5元、卵焼き2つ分5元というさみしい夕食を取る。やっぱ意外と物価高いような気がするこの国。結構寒く、風呂にも入らずに寝る。

1996年8月15日木曜日

敗戦記念日、本日は国境越え。

朝9時のバスでモンラーを出発、昨日と同じく素敵な風景が広がっている。バスは11時前に国境の村ボーハンに到着、ここで中国側イミグレ手続き。相棒の香港CIが珍しがられて、けっこうてまどる。香港人がここを越えるのは初めてだそうだ。

さてそれからトラックの背に乗せられて約10分、 ラオス側イミグレのあるボーテンまで山道を揺られる。このトラックの運転手は何人だ? このトラックの籍はどちらに? 税金はどっちに払ってるのだ?(払ってるのか?)

ボーテンもボーハンとどっこいの小村で、ちびぞうが見つかったらどうしよう・・・などという私の杞憂は笑かした。イミグレ職員よりも牛のほうが多いぞー!荷物はノーチェック。

ここでラッキーなことに、もともと5日間のトランジットビザですが7日間あげましょうという申し出を、向こうからされる。そこで相棒と二人で、7日間で首都ビエンチャンまで行ってみようとゴー!と話し合う。そうすると私がまだ行ったことのないタイ東北部イサーンへ直接入れるし、都合がよろしい。しかしその件をイミグレのお役人に言うと、「わが国の公共交通はあまり発達していないので、それは飛行機を使わない限り難しい。トラックの荷台に乗っての移動はしんどいし、今は雨季だから道はあちこちで不通になってるよ。飛行機にしなさい飛行機に。」と、現地人からのアドバイスをされてしまった。むう、トラックの荷台?

ここで私たちは中国のド田舎(チベットとか新彊とか)でヒッチするときのように、でかいボロトラックの後ろで、振動に耐え兼ねて立ったり座ったりしながら移動する、そういうやつを思い浮かべ、ああ、辛苦なな旅になりそう・・・とため息をついたのであったが、そうではないことはすぐわかった。

ボーテンからルアン・ナム・タまで3時間乗った乗合タクシーが、つまりこれだったのだ。トヨタとかニッサンとかいすゞとかのピックアップトラックの荷台に屋根と座席をつけたもの、アジアでよくあるやつである。中国国産トラックと違って、割と新しい日本車なので、まあまあの乗り心地であった。

ルアン・ナム・タ到着。なんにもない小村である。美しい庭のあるホテルに泊まった。80元。人民元がまだ通じた。ラオス入国を祝して、とりあえずビア・ラオで一杯。

1996年8月14日水曜日

国境の町・モンラー

昼一時のバスでモンラーへ向かう。ミニバスは緑の田園地帯や熱帯的に牧歌的な村々やゴムの木林やバナナの群生など、目に美しいものたちのあいだをすりぬけて5時間で到着。

四川省からやってきた家族の経営するめし屋にて、最後の中華料理を食す。かっらーい!

1996年8月13日火曜日

シーサンパンナ到着

このボロバス、遅れまくりである。一般的に寝台バスは24時間で到着するはずなのだがドライバーは「うーん、26時間ぐらいかなあ。」 しかし地図と照らし合わせた進みぐあいチェックにより、それは明らかに嘘。途中、すれちがったトラックが跳ね上げた小石がフロントガラスを蜘蛛の巣にするなどの不運も重なり、ようやく到着したのは日も暮れてから。

版納賓館、80元。以前に長居したバストイレ付き24時間ホットシャワーしかもお湯をためて浸かる気になれる程度に清潔なバスタブ付きおまけに花の咲く中庭に面したベランダ付きツイン…ではなく、かつてドミトリーだった手入れの悪いバンブーハウスがこのお値段なりなり。ちなみに以前はそのツインが40元、ドミが10~15元ぐらいであった。どうりで貧乏そうな旅行者が減っている・・・。

ちびぞうを部屋に放す。うれしがってかけめぐっているが、網戸をがさごそとブサイクに駆け上っては、結局降りられなくなって私の助けを待っているのはとてもリスとは思えない情けなさ。

安い宿がないか探すも、収穫無し。貧乏旅行者が泊まっているのは町外れにあるタイ族経営ゲストハウスのようだ。竹で編んだバンガロー、もちろんバストイレ共同が40元。しかし、せまい敷地にバンガローがきちきちに建っているのはもひとつチャーミングではない。

1996年8月12日月曜日

ラオス領事館でビザ受け取り

朝10時、ラオス領事館でビザ受け取り。私のは普通にパスポートに押してあったが、相棒のは屏風折りになった厚紙であった。パスポートのページが減らなくていいなあ。そのままバスターミナルへ行き、2時発の西双版納行きの寝台バスを買う。RMB161.00也。3年ぶり。しかしやってきたバスは平舗ではなく、神経質な相棒はややしんどそう。

1996年8月11日日曜日

相棒の日記を覗いてみよう。

特筆すべきこと無し。つーか、当時の日記帳にこの日の記述がない。相棒の日記を覗いてみよう。

「(太陽の下に雲の絵) AM在街辺的小餐庁吃飯。今天在市里流連、現街上有些鼠輩之類?過路人騙銭、為数足外来客。小販也開始霧売了。此赴三箇月?????、?児只有天?不想。住宿??看来???複雑。蛇鼠之類随処可見会辺人有不大安全感。大衆之素質同以前一様人性極差。」

悪筆のせいで読めないところだらけ。しかしこの内容、この日なんかあったのか?なんか痛い目みたっけわしら?

1996年8月10日土曜日

テレカ電話で詐欺られる

洗濯後、ちびぞうと遊ぶ。首輪をはずして温室のようなガラス張りのベランダに放してやったので、少しは気が楽だ。また少し成長した。

金龍飯店のスーパーマーケットに行く。欲しい物がどっさりあって困ってしまう。外国製のクッキー、アールグレイのティーバッグが25包で23元、マクスウェルのフレンチバニラ味が16元、おつけものとかつくだにとか豆板醤とかの小瓶がいろいろ、まだ飲んだことのないプレミアム青島ビールの小瓶。結局買ったのはクッキーとちりめんじゃこの豆鼓味の瓶だけ。

ロビーのテレカ電話で日本へ国際電話をかけるも、全然かからんうえに何時の間にかテレカが40元以上も減っておる。怒髪天。ホテルに抗議するも、電話は郵電局の管轄なのでウチではわからんといわれ(それもそうだが)、ではここ中国で郵電局まで行って抗議してなにがどうなるものかというと、どう考えても時間の無駄としか考えられんので、あきらめる。

ちなみにこの当時は中国でテレカが普及し始めてあまり間のないころ。当時は各省ごとにちがった規格のテレカと公衆電話を開発しており、テレカは全国共通ではなかった。また、通話中に2枚続けて使うということができず、少し長時間の国際電話などでは非常に不便だったものだ。公衆電話の故障も多く、テレカを吸いこんで吐き出さない電話や(杭州で電話をかけようとしたところ、電話の脇で新聞を売っていた老婆が注意してくれたことがあった)、私が広州駅前で愛用していたように、いくら話してもテレカ度数が減らない電話などもあった。

1996年8月9日金曜日

5日間のトランジットビザ申請

ラオス領事館、本日は開いててほっとする。申請費は私がUSD49、相棒はUSD40であった。この差はなんなのだ。いずれも5日間のトランジットビザである。

帰りにサクラ百貨大楼でお買い物。生活必需品や水牛の角の櫛、羊の角のバレッタなどなど。スターチスと小さい百合をを買ってかえり、スターチスでちびぞうをなぶって遊ぶ。ちびぞう、とびついて花をむしる。中の蜜がおいしいらしい。

1996年8月8日木曜日

見込み違いで昆明滞在

朝からラオス領事館(あのにっくき茶花賓館敷地内にある)へ出かけるも、なぜかは分からないがしまっている。本日申請して明日受け取るつもりが、予定が狂ってしまった。土日をはさんでの受け取りとなってしまう~。昆明でそんなに過ごしてもしょうがないのに。

1996年8月7日水曜日

5時間遅れで昆明到着

6時半ごろ起床。7時ごろちびぞうが脱出を図る。列車は遅れ気味で、2時間遅れで貴州についた後、ゆっくり徐行で安順を経て六枝でなぜか1時間ほど停車。この時点で4時間の遅れ。水道水、飲料水ともになくなってしまい、非常に不便。昆明到着は本来夕方7時だが、列車員の予想では11時ずぎになりそうだ。

その後、対向車を交すために(単線なので)あちこちで停車。列車は12時を大きく回っての到着となった。昆湖飯店ドミのチェックインして眠る。

1996年8月6日火曜日

桂林から昆明へ移動

7時起床。陽朔から桂林へ。駅で水・おせんべい・ビスケット・干したさつまいもなどなどを購入。相棒はパンとタバコも購入していた。乗車時点ですでに30分ほど遅れており、柳州到着時点でそれは45分となっていた。昆明到着時には何時間の遅れになっているだろうか。

私は下舗、相棒は中舗、上舗はフランス人女性。向かいの上中下舗はなんと新彊から旅行できているという3人家族。いかにも典型的な新彊に住む知識人漢族らしく、気持ちのよい人々であった。見事に躾の行き届いた頭のよさそうな16歳の娘さんに、人のよさそうなお父さん、中国北方系女性には珍しくものやわらかなお母さんは英語ができるひとであった。フランス人女性も交え、話をする。

1996年8月5日月曜日

共同シャワールームでなくした指輪

共同シャワールームでなくした指輪、どこにあるかわかった。朝、フロントで今日の部屋代を払ったときに、老板娘(おかみさん)の手を見たらあった。がっくり。

風呂場は客か従業員しか使わんわけで、そこでこういうものが見つかったら客のもんに決まっとろうが。着服しちゃうことについてはとくにオドロキはないが、拾った翌日からはめているというのは考えなさすぎ・・・。落とし主にみつかるということに考えが及ばんのだろうか。

指輪はシルバーの安物で、デザインのポイントである、ムーンストーンのチャームが取れてしまってからは愛着があまりなかったものなので、薬指から小指に移していたのだった。だからシャワー時にはずれてしまったのだな。私としてはこの件の感想は「ま、いいか」であったが、相棒は怒った。私の感想を説明すると、「常識がちがうからどうジャッジしていいかようわからん。もしかしたらこの国、この場所においてはフツーのことかもしれんし。」というものであり、相棒だって相手が全くの異民族(インド人とかカンボジア人とかアラビア人とか)ならそう思うかもしれないが、しかし今回は彼にとっては同族の恥である。

間の悪いことに例の「島人日記」中に、拾得した貴金属を正直に届け出た為に余計な嫌疑をかけられ、文革中に無辜の迫害を受けた人々のエピソードがいくつも載っており、その話を昨夜相棒にしたところ、「中国人の道徳観が崩壊したのは文革以後だ」という持論をもつ相棒から、またその主張を長々と聞かされたところだったのだ。間、悪~ぅ。

相棒がこの宿をひいきにしてもう8年になるが、おそらく次回は別の宿に泊まることになりそう。指輪の返却は私の希望もあり、求めなかった。

1996年8月4日日曜日

「要求が多いわね、何様のつもり」

朝6時半起床。6時45分にバスターミナルへ行き、7時15分にバス発車。8時半に桂林駅到着、買えた、買えましたよ6日の硬臥中下舗。しかしもともと上中舗をリクエストしたところ、窓口の係員に「要求が多いわね、何様のつもり」と信じられないようなことを言われてしまい、一瞬自分の中国語ヒアリング能力に疑問を持ったが、後で確認するとネイティブの相棒もやはりそう聞きとっており、聞き間違いではなかった。買えたからまだマシだが、キップ売りが客に向かって「何様のつもり」なのか、こっちがお尋ねしたい。

早起きのせいか、相棒、鼻カゼ。

陽朔に帰ってきて臥せっている。もう年か。私は1週間分ためていた日記の整理、ちびぞうの世話、そして昨日買ってきた散文集「島人日記」を読む。「島人」というのは、文革期の中国人を、また当時の著者自身の心象を、外界から隔絶された孤島に住む人々に例えた表現。身の毛もよだつ故事でいっぱい。その中で少ししんみりとした話があるので、勉強をかねて訳出してみようか。

1996年8月3日土曜日

そろそろ陽朔をでるころだ。

桂林へ列車のチケットをとりにおでかけ。1時間ちょっとで桂林につき、外人窓口(兼軍人窓口)の午後の部が空くのを待つこと30分。なんてこと、あさってのチケットまでもう売りきれ。(中国の駅では一般的にあさってのチケットまでしか売らない) 近来まれにみる混みようであることよのう。軟臥はあったが差額が150元以上する。相棒と相談のうえ、明日朝イチでもう一度並ぼうと合意し、帰る。

百貨店でフロリダ・ウォーター(花露水)スプレーを購入。いい匂いのする薄い白花油という感じ。これを吹き付けるとかき破った蚊のさされあとが激痛にみまわれて、気分ソーカイである。

1996年8月2日金曜日

貸しチャリで遠乗り。

貸しチャリで遠乗り。釣り竿を持って出かける。ついてよく見たら糸が切れて針が行方不明。…ばかばか。予備に買った針は昨日釣りをしたところにキッチリ忘れてきたから、もはやどうしようもない。ばかばか。

水着はないが川で泳ぐことにする。半日泳いで楽しく涼しく過ごしたが、相棒が何時間もねっころがってて何とも無かった川原に、私が2分あがっただけで20数カ所も蚊に刺されるのはどういうわけだろう。

苦悶しつつ、清涼油・萬金油・風油精・皮炎平・白花油と、あるものなんでも塗りたくる。

1996年8月1日木曜日

川べりで釣り糸を垂れる

相棒、つり道具を購入。といっても、糸と針と重りを購入しただけで、竿はそのへんの竹を折ってきただけ。なにやらごちゃごちゃいじっていたが、うまいことくっつけてできあがり。浮きはミネラルウォーターの空き瓶を利用していた。こんなので釣れるのか?

「釣り、したことあるの?」と聞いてしまったが愚問。海っぱた生まれの海っぱた育ちであった。

川べりで釣り糸を垂れると、20分ほどで2匹釣り上げた。ちっちゃいやつだけど。しかし子供が上流から泳ぎ流れてきて、危ないので釣りは中止。明日、誰もいないところでまたやることにしよう。

貸し本屋に日本語の本を発見。早速借りたおす。

・オイディプス燕返し!
・源内先生舟出祝
・聖なる夜、聖なる穴
・カザノヴァ
・文ちゃん伝
・サヴォイ・オペラ

以上6冊。