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書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1996年10月31日木曜日

プランナンバンのヒンドゥ遺跡

この部屋、大きな欠点があることがわかった。目と鼻の先にモスクがあり、そこの屋外スピーカーから流れるアザーンの直撃を食らうのだ。朝5時前に飛び上がって目を覚ました。世の中うまくいかんものである。

昨日の残りの食パンとホットマルキッサで優雅でしみったれた朝食を楽しみ、ツーリストインフォメーションへ。ボロブドゥールとプランバンナンへの生き方を 確認。すると!プランナンバンの野外劇場のラーマーヤナは、本日が今年最後の公演であることがわかった。今日を逃すと来年の5月まで無いのだという。なん たる幸運。見に行かねば!

昼食をその名もRama Restoran(←インドネシア語の綴り)で取った。名に反していきなり中華。

プランナンバンのヒンドゥ遺跡は素敵であった・・・。無残に崩れ落ちた遺跡の石塊には美しいレリーフが無数に残っており、つはものどもが・・・そのままの 光景である。夕暮れの淡い空に尖塔が幾つも立ち並んでいる様子は鳥肌が立つほど荘厳であった。野外劇ラーマヤナも、予想より見ごたえがあった。悪者の「俺 たちは~、悪いやつ~♪」的な踊りはコミカルで、ヒーロー&ヒロインのダンスは優雅であった。日が落ちた後の暗闇で、炎を使った見せ場もよかった。うむ、 今日はいい日だ。

1996年10月30日水曜日

ジャカルタを離れる

早朝5時起床。5時半に宿を出て駅へ向かう。しかし間に合うのかちと不安にになり、折りよく通りかかったBajak?(タイのTuk Tukみたいなオート三輪)をつかまえる。駅まで2000ルピアぐらいだが、早朝なので3000ルピア。無事到着、乗車。列車のビジネスクラスは快適で あった。阪急の特急みたいな座席だ。テーブル付き。しかしエアコンはないので暑い暑い。一時間遅れで3時すぎに到着。

駅前の安宿街を見て回り、二階建ての建物の部屋がダブルベッドで抜群に空気がよかったので、そこにする。なにしろ広い広い屋上をすべて独り占めできる好位置で、周囲はすべてここより低い建物ばかりだ。屋上には椅子とテーブルがあり、くつろげる。8000ルピアなり。

西瓜とマルキッサと夏みかんとジャックフルーツを買って帰る。私たちが買った西瓜は4500ルピアほどの小ぶりのものだったが、10000ルピアほどでため息の出るほどの大玉があり、買ってみたくて仕方が無かった。きっとうまいにちがいない。

1996年10月29日火曜日

ジョグジャへの移動確保

起床。洗濯。普通の洗濯はすぐ済んだが、油を吸った布二枚、タオル一枚、デイパック、ポーチは洗っても洗っても油臭く、どうにもならない。大量の洗剤を溶かした水に、しばらく付けておくことにする。

列車のチケットを買いに、Gimbor駅へテクテク歩いていく。徒歩15分ぐらいか。明日朝のチケットが10分ほどですんなり買えた。ビジネスクラスが二人分で49000Rp、約8時間の旅である。ジョグジャまで何キロあるのかな。列車はどんな感じなのだろう。

それにしてもジャカルタは暑く、バンコクのように逃げ込めるスーパーやデパートがなく、バンコクより市内バスが不便で、しかも賑やかな場所の面積がバンコクよりどうやらべったり広く、そしてバンコクよりもずっとメシ屋が少ないのであった。とくに最後のやつは痛い。

安くてそこそこ清潔そうなメシ屋というのが安宿街であるJalan Jaksaにしか存在せず、それ以外となると突然マックとかKFCとかの外資ファストフードになってしまう。それ以外で探すと、相棒の苦手な作りおき&激辛パダン料理となる。さらにそれ以下の価格帯となると、中国の路傍で鍛えられている我々もたじろぐほどの衛生水準の屋台となってしまう。そしてフォークとかスプーンは提供されないので手で食べることになる。(私は場合によりOKだが、相棒は絶対に駄目)

高  高級レストラン
い  レストラン
   KFCとか
普  マクドナルドとか
通  ★Jalan Jaksaの貧乏な外人向けめし屋★
   ★このへんが充実してない★
安  パダン料理
い  屋台

タイだと★印のあたりが充実していて、氷も大抵はキューブアイスなので、冷たいものがそれなりに飲める。ジャカルタではキューブアイスを見かけず、ということはそれは水道水であるという可能性が高く、いまのところ歯ですらミネラルウォーターで磨いているのにそんな冒険はできない。この日二人でミネラルウォーター1.5Lを三本カラにし、コーラ2杯とオレンジジュース1杯、ビールを大瓶一本飲んだにもかかわらずトイレの回数は通常と変わらず朝昼晩の三回だけであった。気をつけて水分をとっていないと、あっというまに脱水症状になりそうだ。

さて余った時間にJakarta→Singaporeのエアチケットの値段を調べに行く。最も安いパキスタン航空がUSD65と格安であった。しかしそれは夜11時半頃にシンガポール到着という時間の悪さなのです。その他にはカンタス、インド、ガルフなどなどがあり、USD100ほど。ガルーダはいろいろ時間があったけど、USD160ほどもする。

1996年10月28日月曜日

ようやくJalan Jaksa(安宿街)到着

時間はとてもゆっくりと過ぎる。私達がいますぐTAKSI(Taxi)に乗る気がないとわかったTAKSIの運転手たちが去ると、派出所前のベンチのあたりは静かになった。

農民の親父が話しかけてきた。彼は母、妻、娘の四人連れで、三人の女性に世話を焼かれっぱなしのなんだか可愛いオヤジであった。しかも当初私達が外国人だと気づいておらず、インドネシア語でどんどん話しかけてきていたのである。とてもおかしい。田舎の人なんだろうな。最後にまわりの人に注意されてようやく気づき、「おお~~~~!」と。

彼らがBundong行きのバスに乗るのを手を振って見送ると、私は荷物に手足を通して少し仮眠をとった。目を覚ますと、隣にとてもかっこいいムスリムが座っていた。いやいや、インドネシアなのだから皆さんムスリム(が多数派)だと思うのだが、どうも様子の違う感じの人達だったの。インドネシア人よりアラブ人に近いような彫りの深い顔立ちで、でも小柄であった。ウール地のような深緑色の布で、パキスタンの男性がよく着ているシャルワール・カミーズのような形に長めに仕立てたものを、しかしズボンなしで着ている。足は素足で革靴。長袖の袖口はきっちりしたシャツ仕立てで、立て襟の首から下は、胸元が途中まで開くようになっている。胸にはなにかのバッジをたくさん付けていた。帽子が硬い布の三角錐で、頂点に収束するようなしましま柄である。そして帽子の縁にはターバンを巻いていて、すそを背中側に長く垂らしていた。なんともいえずかっこいい。

連れの女性は三人とも、頭を覆うスカーフだけではなく、目からしたすべてを覆う布を別布で付けていた。服もマント型。

夜が明け始めた。一応POLISIに、もうTAKSIに乗っても大丈夫だと思うか?と尋ねに行くと、夜にはいた英語を話す警官はいなくて、別の警官がTAKSIは15000-17000Rpだけど治安に保証はできないから、バスにしなさい、バスは300Rpと、バス乗り場を教えてくれた。しかしバスはやはり怖いな~~~。私の荷物はどうってことないが、相棒のカメラバックは「カメラが入ってます!」と一目瞭然である。フル荷物移動の日は安全策を取りたい。ジャカルタのバスは5-6人グループでカバンを切る強盗だらけだと聞いたので、やはりタクシーに乗ることにする。

客引きをしているタクシーのたちがわるいのは全世界共通だと思われるので、ターミナルの外の通りで流しのタクシーを捕まえた。なんでインドネシアの運転手さんは坂田明(色黒)はかりなのであろうか。この坂田さんは制服を着ていたので個人タクシーではないと思われる。昨夜周囲の人にリサーチした結果だと、目的地までは10000Rpぐらいだという話であり、昨夜の客引きの運転手の言い値は20000Rpであったが、坂田さんはメータ通りの7800RpでJalan Jaksaまで行ってくれた。全く遠回りなしだ。その他にも荷物をトランクに出し入れする手伝いをしてくれたり、運転中の態度も友好的だったりでとても助かったので、10000Rp出しておつりを1000Rpだけ受け取った。そしたらとってもうれしそうに「てりまかしー(ありがとう)」、私達も「さまさまー(どういたしまして)」、そしてどちらともなく握手をして、「ばいばーい!」

さてJalan Jaksa到着が朝の6時半ごろ、宿はバンコクよりかなり割高で、めちゃめちゃ狭いダブルの部屋、シャワーとトイレ付きで20000Rp。チェックインして軽く朝食を取り、シャワーを浴びて眠ることにする。10時ごろ横になり、こんこんと眠り続け、起きたら夕方の5時であった。少しごちそうを食べようぜという話になり、鍋料理を食べに行く。海鮮セットと鶏セットで24000Rp。宿に戻り、相棒は洗濯、私は睡眠。




1996年10月27日日曜日

34時間かかってJakarta到着

早朝5時、バスはモスクの前に停まり、女性ばかりが全員降りていった。トイレ休憩か?私もモスクに入っていいの?しかし同時に、ボリューム全開で音楽をかけるのはやめて欲しい。

6時、バスは再び停まって朝食。食欲が湧かず、バスで眠り続ける私たち。再び走り出すバス。夜はあんなにエアコンをかけまくるのに、昼間はなぜ落とすのだろうか。やや暑い。12時、バスは昼食のために停車し、我々は始めてパダン料理を食べた。チキンカレー、大ヒット。ブロイラーではなく、放し飼いの鶏の味だった。バスの長旅、これぐらいしか楽しみが無いですな。

一時間の昼食休憩の後、バスは再び走り出した。運転手(色黒の坂田明)に、いつジャカルタに到着するのか尋ねると、かたくなに「夕方6時」と言う。そんなはずは無いではないか・・・。30時間で付いたとしても、夜8時や。

さて、その夕方6時に我々がどこにいたかというと、ようやくスマトラの南端である。ここからフェリーに乗る。バスから降りてフェリーに乗り、バスがフェリーに積み込まれるのを確認した。フェリー出発は7時半。

フェリーの上で、華人が話しかけてきた。ジャカルタの治安について尋ねると、「華人はあまりバスには乗らないからね」とのお答え。狙われやすいんだそうだ。夜中にジャカルタ到着にあたり、腕時計ははずしておいたほうがいいだろうとの忠告を受けた。そういえば、その二人の華人も時計はしていない。バスターミナルには警察があるが、夜中の市内は治安が非常に悪いので、どうせ出国の際にジャカルタに立ち寄るなら、バスターミナルから次の目的地に直接出発したらどうかとも勧められた。ふむ、それも一手か。バナナチップスを一袋もらった。

フェリー上でバスに乗り、隣の席の客に質問。ジャカルタにはバスターミナルが三つあるが、どれも市内から10キロ以上は慣れている。市内へ移動するとして、タクシー代の相場はいくらか。隣席の客は、10000ルピアぐらいだが、夜中は危ないから乗るなと、ナイフで首を切るジェスチュアをしてくれた。朝を待って乗れ、とのことだ。特に、私たちが目指すJalan JakusaのあるMONAS(記念塔)付近は強盗が非常に多いとのことだ。難儀だなあ。

フェリーは10時ごろジャワ島に到着。ここからジャカルタまでは約二時間。私はぐーすか眠ったが、相棒は緊張で眠れなかったそうだ。危ないのはバスを降りてからなのだがら、今は寝ればいいのに。

真夜中の12時、バスはようやくターミナルに到着。ここで夜明かしをする人でいっぱいだ。警察署に行き、「タクシーでJalan Jakusaまで行きたいんだけど…」と言ってみると、二人の警官は黙って私たちの顔をじーっと見ている。慌てて「夜明けを待って、朝になってからね?」と付け加えると、「それはグッドアイデアだ」とうなづいた。やっぱそうか。

そこで、POLISI(インドネシア語で「警察」)の前のベンチで夜明かし。タクシーの運転手がうるさくよってくるのを「明日!明日!」と追い払いつつ、ここまで書いた。

バスは結局34時間かかったことになる。いままでの記録は昆明からシーサンパンナまでの26時間。時間は今より短かったが、リクライニングでもなんでもないバスの、直角の硬い背もたれにもたれてのタブだったので、今回よりずっとつらかった記憶がある。

荷物を枕にしてベンチに横たわった。眠いから、朝まで仮眠を取ろう。

1996年10月26日土曜日

大きな間違い…

私たちはなにか大きな間違いを犯したのではないだろうか。

飛行機が二時間弱で一万五千円相当。一番いいバス(カラオケ付き)が30時間で5000円相当。エアコンバスが同じく30時間で3500円相当。ノンエアコンが35時間で2300円相当。

そこで飛行機にのるつもりはまったくなく、かつカラオケの騒音を恐れた私たちはエアコンバスにのることにしたのである。朝10時発で、翌日の夕方4時に到着するという触れ込みだ。そしたらなんてことだろう。もうすぐ昼の12時半だというのに、私達はまだパダンでバスを待っている。なんでや?なんでこうなるんや???

一番いいカラオケバスはもう2代も出発してしていってしまった。カラオケを恐れ、かつ1500円ケチったためにあれに乗れず、こんなに暑くて臭くてハエがいっぱいのところで、じーっとテレビのインド映画を見ながら、いつ来るかわからんバスを待つなんて…。文房具店で見つけて跳びついて買った星の王子さまノートを旅日記にしたので、いいことをまっさきに書きたかったのになあ。

しかし1500円の差と書くと大したことはないように思えるが、二人で3000円→60000Rpsと考えると、数日分の宿代である。ケチりたくなるのも無理はないではないですか。そしたらこのざまなんだけど。

最大のミスは、我々はこのバスがPADAN始発だと考えていたことであった。席を予約できるバスだったから。オンラインシステムなんかあるわけないので、そう考えたくなるじゃないですか。しかしバスの様子を見ていると、おそらく我々の乗るバスはMEDANを起点とし、MEDAN→PARAPAT→BUKITTINGIと、Trans-Smatra-Highwayをフルに走ってPadanを通過し、Jakartaへ至るらしい。Padan-Jakarta間には大都市は無いから、ほぼノンストップで突っ走るのであろうという希望…。しかしPadanの前ではいくつもの街で止まり、食事をし、トイレ休憩を挟んで走ってくるのだ。

Medan→Paparatが4-5時間ぐらい、Paparat→Bukittingiが8時間ぐらい、Bukittingi→Padanが2時間だから、合計約15時間。プラス食事や何やらで16-17時間ぐらいというところだろうか。それが20時間になることもあるよ~ん、ということなんだろうな。あ~ああ、いやになっちゃうな~~~~、あ~ああ、おっどろいた~~~~~。

しかし冗談ではないのは到着時間のほうで、当初の目論見では夕方4時にJakarta到着、つまり明るいうちに、噂に聞く混乱した、巨大な、治安の悪い首都にたどり着く心づもりでいたのだが、バスを待っている現在すでに1時近い今、いますぐバスが来たとしても30時間語には夜の7時、すでに陽は落ちている。だけではなく、Jakartaでは夕方5時~9時ごろまでは世界最悪のBangkok並みのラッシュが始まるはずで、間違いなくそれに巻き込まれるだろうから、予定している安宿街への到着は運が良くて深夜の10時や11時頃になってしまう。下手すると真夜中を超えるやも知れず、しかもバスターミナルは市中心から12キロ離れているから移動はタクシーで、宿代より高くつくであろうタクシー代はまだいいとして、問題は安全である。

バスが来た。チケットをキャンセルして明日出直すべく、窓口で交渉している最中であった。すでに一時半だ。バスは思ったとおり私達をPadanまで運んできたやつと同じタイプのバスで、嗚呼!!!(天を仰ぐ)という気分であった。座席は湿っていなかったが、エアコンが入ると上から水が降ってきた。

2時、出発。実に4時間の遅れである。

以下の行程は悪夢そのものの体験であったので、非常にマゾヒスティックな気持ちで記録しておく。

バスは予想よりボロく、汚かった。窓は予想通り開けられないタイプ、いわゆるはめごろしというやつだ。エアコンをかけると同時に、上から水がボタボタボタっという感じで落ちてきた。結構な量だ。冷たいので、用意していたサロン(腰巻き用の布)を二枚、膝にかけて寝ようと、上の棚に載せてあったデイパックを下ろすと、なんてこと!!! 灯油か軽油のような匂いがして、油が中まで染み通っている。デイパックに入れていたサロンは二枚とも油でしっとり湿っていた。星の王子様ノートも表紙がしわしわに!このひどい油の匂いとともに30時間を過ごすのか…。うんざりと同時に、前後の客がたばこを吸い始めた。油を持ち込んでいる客がいる以上、危険であるのも当然だが、窓の開けられないバスでは換気も出来ないため、真剣に気分が悪くなった。おまけにリクライニングシートが壊れていて背を立てられず、これから30時間ずっと寝っぱなしなのである。

日が暮れた。夜、エアコンが次第に強くなり、油と水を吸ったサロンはどんどん私の体温を奪いだした。なにしろ冷たい強風が膝にもろに吹き付けてくるのだ。夜中に寒さで目覚めた私は、荷物からレインコートを引っ張り出して着込んだ。なんでバスの中で雨合羽…。

そうこうしているうちにいちばんいい「スーパーデラックス フルエアコン TV カラオケ リクライニング2-1シート エグゼクティブバス」がどんどん私達のバスを追い越してゆく。私達のバスが本当に30時間で到着するとしたら、あれは25時間ほどで済むのではないだろうか。ということは、あれの所要時間が30時間である場合、私達のこのバスは???

1996年10月25日金曜日

海岸沿いの都市パダン

毛布引っかぶって寝てるのに寒い!我慢できん!暑い熱いあついとこへ行く!れっつごーパダン! パダンは海沿いの低地だ。暑いはずだ。

赤いコルトでバス停へ。でかバスでパダンまでは2時間半、2000ルピアであった。ふたつの3000メートル級の火山の間を抜け、道は下る一歩だ。松林が姿を消すとともに、椰子とバナナの木が増えてきた。パパイヤの群生の見送り、たわわにみのるジャックフルーツの横をすりぬけ、そうこうしているうちにうっすらと汗がわいてきた。風が、湿り気を帯び始めた。熱帯だ。熱帯だ。

パダンは海岸沿いの都市である。人口約70万。大都市だけあってホテルが安くなく、バス・トイレ共同のツインが12,000ルピア。しかしとても暗い部屋で、手入れも行き届いていないし嫌な感じだ。隣のホテルは窓も大きく、もうちょっとマシであったが16,500ルピア。タイだと160バーツ出したらバス・トイレはついてるぜくそう。

しかしまあ、一泊のことなんでとりあえず後者にチェックイン。風呂だ。4日ぶりの風呂だ。

風呂はいわゆるMandiスタイルで、銭湯のタイル張りの浴槽に似たものに水が張ってあり、プラスチックの手桶で体を洗うというもの。張ってあるのが湯ではなく水だということ、水につかってはいけないことを除けは日本の風呂とかわらんので、私にとってはどってことないのだが、シャワーじゃなきゃイヤの相棒が不満たらたらだ。

風呂から上がって街に出る。ミスった。暑いんでついノースリーブを着てしまったのである。肩の部分の広い、ゆったりしたデザインだったがノースリーブはノースリーブ。インドネシアでは目立ってしまった。街に出たら人が見ること見ること、100人のうち98人までが肩のあたりを見つめている。とくに殿方の視線ときたら、もしかして私、服着るの忘れて外出してるのか?というぐらいであった。

おかしいのが相棒で、怒ること怒ること。エサの皿を守るブルドッグのようにガンを飛ばしまくりながら、私の手を引くのである。無理すんなって。

ジャカルタ行きのバス、エアコンなしが45,000ルピア、エアコンバスが70,000ルピア、「スーパーデラックス フルエアコン TV カラオケ リクライニング2-1シート エグゼクティブバス」が100,000ルピアであった。このバスの名は真実だ。横っ腹にそう書いてあるのだ。ちなみに飛行機は245,000ルピア。

夜行バスでカラオケが始まってはかなわんので、普通のエアコンバスにしたのだが、30時間のタフな長旅の予定なのに、明日のバスはトイレの前の席しか空いておらず、なかなか暗雲たれこめる出だしである。

現地の食べ物で相棒が食べられるものが何も無く、私も安めし屋のパダン料理にはもひとつ食指が動かんので、なんとびっくりKFCへ行く。相棒が自分からファストフードを提案するなんて、信じられないことである。ところがKFCの看板目指して歩いていると、200メートル手前にCFCという現地資本らしき店があり、店もまあまあキレイなのでそっちに入ってみることにした。

チキン1ピース1500ルピア、紅茶1200ルピア、アップルパイ1600ルピアと、日本人の感覚からすると鶏安すぎて不気味ではあるが、味はKFCとどっこいであった。

1996年10月24日木曜日

起きたら2人とも大風邪

起きたら2人とも大風邪。特に相棒。鼻水とくしゃみの連発だ。朝9時までベッドでうだうだしていたが、薬を飲むためには胃に何かを入れねばならず、昨日の豆腐を食べに行く。食後に市場へ向かい、ビスケットなどをささやかに購入。昼食を奮発してガイドブックお勧めの中華屋へ行くも、とても中華とは思えない料理が出てきて相棒と2人で声が出ない。「o古老肉」を頼んだら、揚げた豚肉にケチャップがてんこもりで、その横にきゅうりの薄切りとバナナチップス がついている皿がでてくるとは、中国人なら誰が予測できるでしょうか。味?…オーストラリア人の料理評なぞ、クソの役にもたたんわい。結局この店でいちばんおいしかったのはお茶。ポット一杯1000ルピア。

これで三日連続風呂に入っていない。水シャワーを使える気温ではないのだが、ホットシャワーの使える部屋は35000ルピアもするので泊まれない。寒いからくさくない。と自分に言い聞かせつつ、眠る。

1996年10月23日水曜日

果物、シルバーバック、揚げ豆腐

朝からG/H、LOSMEN、WISMA(どれもインドネシア語で安旅館)をめぐり、 Murni'sが8000ルピアで窓が大きかったので移ることにする。2階で空気もいいし。しかし空気は乾燥していて、相棒はカゼ、私は顔がばりばりに乾燥し、鼻の下はがさがさ、くちびるはぱりぱりでほっぺたはかさかさというムザンな様相を呈した。見た目もさることながら、痛い。痛くて仕方がない。

本日は週に2度の定期市の日、市場がにぎやかだ。健康のためと称して果物をどっさり買い込んだ。みかん大3000ルピア、小1500ルピアをそれぞれ半キロづつ、パパイヤ3キロで1500ルピア、バナナがひとふさ1200ルピア、ドリアンまるごと 3500ルピア、アボガドふたつで1000ルピア、マンゴー1キロが3000ルピア。どうすんねん!2人で食うんかい!?何キロあるねん???

パパイヤが激安であった。スイカのようにでかいのに、ひとつ75円。市場へ運んでくるだけでも苦労だろうになあ。

夕方から、オランダ植民地時代の砲台まで散策に出る。砲台を見学し、木橋を渡って動物園。管理がよくなく、狭くて臭いオリに入れられた動物を見て心が痛む。特に、巨大なオランウータンが一頭いて、それが狭い狭いオリの中でじーっとしているのを見るのは辛かった。顔の横に野球のグローブのように大きなこぶが盛り上がっていて、体は非常にでっかい。その体全体に30センチから50センチぐらいの体毛がどっさり生えてたれさがっているのをはじめてみた。これ、普通の状態だったらすり切れてしまうはずの毛が、運動不足によって伸びっぱなしになってるんじゃないのかなあ。両手をあげるとエルビス・オンステージ状態。のっそり立ち上がるとマントをつけているようだ。それがゆっくり、ゆっくり動くようすを見ていると鳥肌がたった。一種荘厳な眺めである。

ゴリラのシルバーバックとか、クジラとか、象とか、ある種の老人とか、文句無しに大きなもの、美しく老いたものに対する畏敬の念をいだかせるに充分な風格のオランウータンなのだが、それが観光客食べ残しのおべんとうをもらっている姿には涙が出る。そしてオリの狭さ。シンガポールのオランウータンはオリに入っていない。香港公園のオランウータンはオリ住まいだが、オリが充分に広く、高さがあるのであまり惨めな感じはしない。

…気分を変えよう。揚げ豆腐に唐辛子ソースを塗って食べさせる店を発見。 10個で1000ルピアと非常にリーズナブルなのでどんどん食う。ハラいっぱいまで豆腐を食うって、どんなだ。帰ってきてちょっと横になるなり、2人でこてんと寝てしまった。夜中の12時ごろにごそごそ起き出して葉を磨き、顔を洗って再び寝る。

1996年10月22日火曜日

赤道通過、ブキティンギに到着

27000ルピアも取りくさってなんという破車(ボロ車)なのだ。時速40キロぐらいしか出てないではないか。ふたりでぶつくさ言う。途中、温泉で休憩タイムがあったが、あまりの汚さにちょっと入る気にはなれない。(湯が汚いんではなくて施設が。)

朝6時ごろ出発して、夕方6時ごろ赤道を通過。赤道というぐらいやから地面に赤い線でも引いてあるんだろうと、漢字文化圏の我々夫婦は勝手に思い込んでおった。別にそんな線は引いてなかった。しかも高地なのでたいそう涼しく、なんだかもの足りん赤道であった。

夜8時、ブキティンギに到着。客引きを振り切ってSingglang Hotelにチェックイン。ダブル8000ルピアで共同マンディ(風呂)。しかし運の悪いことに、ドアのすぐ前がテーブルとイスをしつらえた休憩スペースになっており。夜中までラフなオージーたちが騒いどる。明日はホテルを移ろう。

1996年10月21日月曜日

トバ湖を去る。

トバ湖を去る。相棒、食べられるものが食べたいんだそうだ…。昼のフェリーで対岸のパラパットへ渡り、翌朝6時のバスを予約する。これしかなかったのだ。

魚の切り身のフライを発見!ひとつ1500ルピアもするのに、5つも買った。これは海の魚だそうだ。トバ湖には小魚しかおらんのやと。街道沿いの小さな街をぐだぐだ歩いて時間をつぶす。

1996年10月20日日曜日

散歩で一日

徒歩でアンバリタという隣村まで散歩に出ようと思ったが、5キロも離れているので途中でへたれて引き返した。帰ってきてやはりトゥクトゥクで昼食。トゥクトゥクはいいところだが、食事が貧しくて困る。炒飯・炒麺・炒菜すべてのレストランのシェフが私並みの腕前である。つまり、救いようがない。炒麺に至ってはインスタントラーメンの麺をふやかして炒めてあり、味付けはもちろんその調味料だ。ううう。しかも注文してから出てくるまでに、コーヒーですら少なくとも半時間はかかるので、いらちの相棒はカンカンだ。このあたりに泊まってるのはほとんどオージーズ、舌が大雑把なんでしょうね。相棒には耐えがたい。

夕方、トゥクトゥク半島を一周してみた。美しいところだ。今度はお金持ちになって、一番いい宿のCalolinaとやらに泊まってみたい。

1996年10月19日土曜日

トバ湖も寒い

ベラスタジの寒波(←大げさ)を避けてやってきたトバ湖だが、同じくらい寒い。暑かったら泳げるのに。透明な湖水がもったいない。相棒、熱があるようで、食事以外はずっと眠っている。私も少し鼻カゼ。3日ほど前から下唇にできていた炎症はかなりよくなった。やはり野菜不足か。

階段で足をくじき、ちょっと痛い。相棒がずっと眠っているので、私は湖水を見下ろすテラスで繕い物。小物入れの巾着袋、ボロボロのデイパック、ジーンズのおけつ(両名とも)などなど。デイパックは18歳の時から使っている骨董品だ。これであちこち行ったなあ。

1996年10月18日金曜日

世界最大のカルデラ湖、トバ湖へ

これではまるで風邪を引くためにベラスタジまで来たようなものである。相棒の体調よろしくなく、登山どころではない。といっても、ずっと臥せっているほどひどいわけではなく、ハンパな体調なんだけれど。タイからこっち、2人とも体が熱帯仕様になってしまったようだ。もともと相棒は亜熱帯育ちだしなあ。

で、昼1時のバスでここを離れることにする。世界最大のカルデラ湖、トバ湖までのバスチケットは一人15000ルピアもした。途中、シプソ・シポ滝とかつての王族(豪族?)の宮殿などを見学。

トバ湖ほとりの街、パラパットに到着したのが5時。6時のフェリーで対岸のトゥクトゥク半島へ渡った。今夜の宿はABADI'S G/H、すべての部屋が湖に面しており、すべてバルコニー付き。一番安いダブルはなんと4000ルピア、しかし私たちは両名ともに風邪を引いているのでちょっとゼイタクをし、ホットシャワーが使える大きな部屋に泊まることにした。ゼイタクったってたかが10000ルピア、 500円以下である。

チェックインが7時過ぎ、すぐシャワーを浴びて8時にはばたりと就寝。

1996年10月17日木曜日

相棒、きっちり風邪。

相棒、きっちり風邪。寒さに弱いやつだ。私は長袖を着ていたし、先手を打って薬も飲んでいたので何とも無し。

本日は天気が悪く、火山に登るはやめ。というか、外国人ツーリストがもう10何人遭難しているというのでびびったのである。天候の悪い日に温泉へ下るルートをとると、危険なのだそうだ。最も危険なのは火口から温泉へ向かうくだり道で、死亡事故はすべてこのルート上だそう。しかし雨さえ降らなければなんてことはない山道であって、そこで人びとはやっぱり「登山の後の温泉」に惹かれてこのルートをとる。ところが山の天気は極めて変わりやすく、一天にわかに掻き曇り…で、10何人である。さて、どうしよう?

どっちにしろ相棒の体調が思わしくないので今日はムリ。本日はミニバス(コルト?オプレット?)でリンガという近所の村を訪問。古い民家がたくさん残る、飛騨の合掌村のようなところだ。一番大きな家を見せてもらったら、いろりがなんと5つもあった。ひとつの囲炉裏は2組の夫婦で共有するそうなので、ここには10組の夫婦およびその子供たちが住むことになる。出産のときにつかまる木の取っ手なんかも見せてもらった。

帰ってきて相棒、倒れる。午後中眠りつづける。大丈夫か?夕食後、9時にもならないうちにまたしても眠る。毛布を一枚余分にもらい、さらにバティックを2枚かけてやる。それでも寒そうなので、私の長袖シャツを2枚を着せて、粗織りシルクのマフラーを巻いてやった。大丈夫なのか?

1996年10月16日水曜日

メダン経由でべラスタジへ

Jungle Innはカネの無い長期旅行者向けによく作られており、特に天然木の面白さを生かした建て方や、イスや机は私にはとっても楽しかったのだが…。なにせ泊まっているのが腐ったガイジンーズ、相棒が最も毛嫌いする人々なので、全くお気に召さないようである。

隣室を見せてもらった。部屋自体は今の部屋と同じくらいだが、川に突き出たテラスに丸太を切った机とイスが置かれてあり、ハンモックがあり、ベンチもありと、同じ値段なのにお買い得である。しかも部屋と同じくらいの広さの愉快なシャワールームがついていてびっくりした。部屋から階段を下りると白と黒のタイルを市松模様に並べた目の覚めるような床の、丸いシャワールームにつながっている。円の中心にヤシの木が植わっていて、シャワーノズルがその木に取り付けられているのだ。トイレは隅っこにある。そしてなんとなんと屋根が半分しかなく、対岸の丘、森の木々とサルとオランウータンを眺めながらシャワー、あるいは用便が足せるのであった。私はこの部屋に一目ぼれしたが、相棒がトイレがどうしてもイヤというので断念。

午前中はもう一度オランウータンを見に行った。それから速攻で荷物をまとめ、 11時のバスでメダンへ。1時半ごろ到着。すぐに乗り換えてベラスタジへ出発。トラック改造型のバスに横5人がきちきちに座っての旅であった。尻が四角くなりそうだった。

ベラスタジ到着。高原の町である。涼しい。とういか、寒い。 Chinese Restaurantと書いてあるので入ってみたら、濃ゆいインドネシア顔の従業員ばっかり。身振り手振りで炒麺とコーヒーを頼んだというのに、食べ終わって店を出るころになって「従o那里来的?」先言えよー!

夜、涼しいとはいえなくなってきた。長袖を着込み、食堂で今夜の上映「アポロ 13」を見る。アメリカ映画はやっぱりよくできてるなあ。

1996年10月15日火曜日

オランウータン堪能

朝起きたら8時近かった。ウータンがエサ場に来るのは朝8時-9時、午後3時-4時。今から許可証をとって公園に行くには、ちょっと寝坊である。

あきらめてゆっくり朝ゴハン。それからしばらくぶりの洗濯。ジーンズにシャツ3枚、下着3セットでへとへとになった。シャワーを浴びて昼食。やはり一時間かかった…、でもすんごくおいしいマッシュポテトだ。いらちの相棒は…(以下略)。

タイよりもさらに腐った外人の多いところである。というか、悪いけど、どうしてオージーガールズってあんなに頭の悪そうなインドネシア男が好みなのだろう。まさに頭が悪そう「だから」か?しかし、どう見ても悪いのは頭だけじゃなさそう…。根性とか健康状況とか。病気か虫かどっちか持ってそうである。反対に、こちらの女性はタイとちがって身持ちが固いので、男性旅行者にとってはタイほどおいしい国ではないようだ。

とまで書いて、対岸を見やると、あ!オランウータンだ!!!若いオランウータンがゆっくりと木を伝って降りてきた。急いで双眼鏡を出してみたが、2-3分でまた丘の向こうへ帰っていった。でもラッキー。のそのそ~とスローモーな動きがとてもご愛嬌。とシアワセにひたっていたら、また降りてきて、結局20分ぐらい私たちを楽しませてくれた。

3時前に自然公園に出かける。木のカヌーで対岸へわたり、恐ろしくぬかるんだジャングルを30分ほど歩いて、オランウータンのエサ場へ。公園の従業員がリュックからバナナを出すと、子連れの若いオランウータンがやってきた。いやあ、かわいいなあ。それにしても私たちがどろどろの地面の上をそろりそろりと歩き、何人かはきっちりすべってころんで泥まみれになっているというのに、オランウータンの自由自在なことよ。赤ちゃんウータンでさえも、ひょいひょい枝を飛び移り、体を支えるのに足一本さえあれば充分なのだ。

満足。しかし動物には食材としての興味しかない相棒がぽつりと私に尋ねた。「…満足?」付きあわせて悪いなあ、私は、とっても、満足。ぐはは。

1996年10月14日月曜日

ブキ・ルアワンでオランウータン見物

結局ミニバスが見つからず、歩いてバンクオブセントラルエイジアへ。1US$がRps2,310、T/Cが2,290なり。この国もT/Cのほうが安いのか。ふむう。とりあえず現金をUS$500替えた。ペナンではRps2,250、ペラワンではRps2,200、昨日聞いた両替商でもRps2,200であった。差がRps110で500替えたからRps55,000の差。おお、でかいぞ。

Oplet64に乗ってピナン・バリスへ。すんなり行けた。ただし正規料金Rps500のほかに荷物代Rps250とられたがこれが外人料金か現地人でもそうなのかどっちだ。どっちにしろ10円ぐらいの差だが。

バスターミナルへ入るのに、100Rpsの入場料。なんなんだこれは。ブキ・ルアワン行きのバスは久しぶりに中国なみの超ボロバスでなんだか楽しい。80キロに3時間かかったぜ。

ブキ・ルアワンは玉川峡(めちゃローカル)ぐらいの川沿いにあり、水は濁っておらず、美しい。泳げるところもある。上流へ20分ほど歩いたところにある Jangle Innにチェックイン。シャワー・トイレつきダブルが10000Rps、ちと高いが川に面しており、外に座れるところもある。OK!

対岸の丘を見ていると、尾の長いサル、ニホンザルよりもずっと体の小さいサルがたくさん降りてきた。時折、オランウータンも散歩にやってくるそうだ。

ここはだいぶ奥まったところなので宿附きのレストラン以外にろくなメシ屋がない。そして、ここはおいしいことはおいしいのだが、スパゲティを料理するのに1時間ぐらいかかる…のだ。イラチの相棒はカンカンである。

1996年10月13日日曜日

アザーンにたたき起こされる

宿代に含まれている朝食(パン+コーヒー)を食べてると、向かいに座ったスペイン人女性が「朝4時からスピーカー最大にして歌っているあのキチXイは誰?!」と怒りを隠さない。まあ、知ってていっているのだとは思うが、あれはアザーンだ。私も夜明け前にベッドから飛び起きたよ。たそがれ時に遠くから聞こえてくるヤツは旅情をそそるが、夜明け前に真横のスピーカーから聞こえてくるのはなあ。とほほ。

ところでガラムというのはインドネシア特有のタバコで、煙草の葉にクローブ(丁子/丁香)を混ぜてある、甘い、独特の香りを持つタバコだ。吸いこむとクローブがパチパチはじけ、のどの奥にちょうどよいタバコの辛さがにじむ。と同時に、甘い、甘い、ちょっとほかに類を見ないような煙の味が口の中に広がって、なぜだか知らんがこれが南国のけだるい雰囲気によくあうのだ。そして煙を吐いた後に、舌の先や唇に、クローブのかすかな甘さが残る。それを舌の先で愛撫して、次の一本を取り出すまで余韻を味わう。不思議なタバコ。今まで愛飲してきたMOREのメンソールはちょっと辛すぎた。こっちに乗り換えだ。

朝から博物館。あまりたいしたことは無かったが、チケット売り場がどう探しても見つからず、結果としてタダ見となってしまったので、あまり無理はいわないことにしよう。

生理痛がひどく、帰って鎮痛剤を飲んでこてんと眠る。なにしろ朝4時に一度、アザーンでたたき起こされているため、寝不足なのだ。

午後から別のホテル探し。いくつかまわったが、今のところ以上のものはなさそうだ。値段と設備の折り合いを考えると。

ブキ・ルアワンへの行き方もだんだんわかってきた。しかし、皆言うことが微妙に違うので、どこかで「あ、アカン」「あ、話が違う」という苦労をするかも。しかし行ってみよう。私はオランウータンがめちゃくちゃ好きなのだ。

明日、ミニバスでBANK OF CENTRAL ASIAへ。そこからバスでピナン・バリスバスターミナルまで。そこからブキ・ルアワン行きのバスが出ているはずだ。これで行けるか?

1996年10月12日土曜日

海路で国境越え

朝10時の船は10時半に出港、上出来。しかし4時間のはずだったが6時間かかった。途中からシュワルツネッガーの映画を放映し、退屈しのぎで助かった。スマトラのペラワン港へ入港。60日ビザをもらってひと安心。しかし、人口が多いとどこも中国並みの人品骨柄になってしまうのかのう。イミグレでぶつくさこぼしてしまったら、隣にいたインドネシア華人に「その通りだ、ここは貧しい国なんだよ」と北京語で言い返されてしまい、びびった。

しかしひとあたりよい人々もたくさんいる。メダンでバスを降り、モーレツにトイレに行きたくなってしまった私が通りすがりの華人女性に、トイレに行けるようなショッピングアーケードかホテルかはないかと訊ねると、それは御困りでしょうと、自分ちのトイレを貸してくださったのだ。うひー、ありがとうございます。本当に助かりました。そしてほんとにすみませんでした。

オート輪タクに乗った。途中で加油。先の細いじょうろにまず透明な油を大カップ一杯、それから黄色い油を小カップ一杯、ぐるぐるかきまぜてガソリンタンクに注ぎ込む。なんなんだ、あれ?ガソリンは赤、ディーゼルは無色透明だと思うのだが。

シャワー・トイレ付きダブルが1,5000Rps、US$1=2,250Rpsで替えたので、US$6.66666…か。しかし部屋は狭く、もひとつである。2階の広いほうの部屋は25,000Rpsだったが、安いほうに泊まることにする。

華人は多いが、ごはんにはもひとつの街である。夜市へ行ってみるもたいした収穫無し。部屋へ帰るとすることもなし、相棒はピーナッツをもそもそ食っており、私はガラムを吸っている…

1996年10月11日金曜日

極楽寺観光

フェリーピアで直接買えば安いのでは?と行ってみたが、却って高かった。ぷんすか。いい観光になったけど。

観音廟に御参り。それから極楽寺へ行く。山の中腹にあって、ふもとの店屋のおばさんに道を聞いていたら、「あんたら、マレーシア人じゃないね?」と聞かれた。広東語のアクセントがマレーシア華僑とは違うんだそうだ。ふうふう言いながら登ると、「極楽寺」というベタな名前に名前負けしてないよ~んという感じの、タイガーバームガーデンのでかいやつがどどーんと現れ、なんだか脱力して笑ってしまった。笑たらあかんがな。佛罰があたるぞ、また。

豪華絢爛というようりは豪華キテレツな本堂とか、下が中華風で真中がタイ風、下がビルマ風の白塔とか、亀が1,000匹ぐらいいそうな池とか、山の中腹でにっこり微笑む大観音とか(←ささってるように見える)。

インド人がいっぱい参観に来てたが、おかしくない、おかしくない、御釈迦さまだってインド人。しかしインド人としては「ここはヒンドゥー寺」と見なして来ているのか、それとも「仏教寺だけど観光に」来ているのか、どっちだろう。やっぱ観光かな。

フェリーチケットは、結局オーストラリア人女性の店で買った。MR90で港税込み、送迎バス付きである。それにしてもぺなんはごはんがおいしい。ついつい食べ過ぎてしまうぜ。サテー。けーてぃうー。そのたいろいろー。

1996年10月10日木曜日

陸路で国境越え

朝9:30のワゴンでペナンに向かうはずが、ワゴンがハジャイを出たのが11時。むう。客を引いて回っていたのだ。やめてくれよなあ。

1時間で国境サダオに到着。国境を抜けてしばらくはゴム林を抜けてのドライブである。このゴム林はどっち領に属するのだろう?マレーシア側国境へ。私は三ヶ月、相棒は2ヵ月のビザが出た。2-3日で抜ける国のビザはこんなに簡単なのになあ。

バタワース(北海)到着。カーフェリーで15分。ペナンのジョージタウンの、ルブ・チュリア(チュリアストリート)スイスホテル前で下車。そのままスイスホテル2階正面の気持ちのいい部屋にチェックイン。MR21。(MR=マレーシアリンギット)

近くにヤオハンがあった。ヤオハンはシャングリラと繋がっているので、なんだか笑ってしまう。ヤオハンとラグジュエリアスファイブスターホテルなあ。太古ジャスコとグランドプラザホテルぐらいなら釣り合い取れてるが。

覚悟していたが、インドネシアへ渡るフェリーはMR90(=4,000円)もするのだ。高いなあ。

1996年10月9日水曜日

ハジャイへ向かう

朝7:40の普通バスでハジャイへ向かう。9時間かかって4時半ごろ到着。駅前まで歩いて、Cathey G/H(国泰旅社)へ投宿。

街歩き。街ごとチャイナタウンという感じで、辛い辛いタイ料理にうんざりだった相棒、生き生きしている。中国語もよく通じるし。

1996年10月8日火曜日

相棒、上出来のさし歯を受け取る

私のじんましんは引かず、鼻水まで出てきたので、アレルギーの薬を飲み、相棒に頼んでAnti-Arellgicの塗り薬を買ってきてもらう。魚ではないとしたら、もうひとつの可能性は洗濯に使っている洗剤だ。というわけで、今日の洗濯はせっけんでしてみた。

昼食はえび。20-30センチぐらいのやつを、相棒の宝物、電熱コンロで焼いて食べた。うまいうまい、肉がたっぷりだ。1人3匹づつ。

それから歯医者へ。相棒は「使い心地は、よい。」とうれしくなさそうに言う。めし屋に直行し、ご飯を食べてみたが、はずれたりずれたりは全くしないそうだ。痛くもなく、噛み合わせもOK。相棒よ、香港より安かってんから、それで納得しなさい。

1996年10月7日月曜日

プーケットへ戻る

朝食を取ってロングビーチへ。パンを撒きながら泳ぐと、魚がくることくること。

12時に宿に戻り、1時にチェックアウト。昼食をとって船の時間までHair Braidingをさらに追加。乗船。2時半に島を離れた。

4時半、プーケットに到着。Thavong Hotelのもとの部屋へチェックイン。すぐに歯医者に行くも、今日は予約がいっぱいでだめと言われ、相場の倍も取りくさって見れんというかと、相棒がぶつくさ言うこと。もちろん歯医者を出てから。

ひさしぶりに実家に連絡(前回は9/12)。もっとも苦手とする作業である。

潮州料理屋で3品+ごはん+水で105B。店のおばちゃんに、見事に黒と白やなあと言われた、なんのことかというと、短いタンクトップの下から見えている腹の色と、それ以外の肌の色のことだ。ワンピース型の水着を着るとこうなるのね。

しかし、コサムイで始まったかとおぼしきじんましん、散発的に発生している。おしりと内ももにじんましんのような、アトピーのようなぽつぽつがさがさが出ている。本日はまたそれが特別痒い。宿で見たら真っ白なけつに見事なバラ色のてんてんがぶわあと広がっていて、見るだけで痒くなった。しばらくは魚もひかえてみよう。

1996年10月6日日曜日

Hair Braidingをやってみた

朝からロングビーチへ行きたかったのだが、相棒が「しんどい」「めんどくさい」とぐずぐずしている。朝食を取った後、早速昼寝(朝寝?)を始める始末だ。カゼでもひいてんのかと思い、私はそっとしておいてやった。で、マニキュアとペディキュアのぬりなおし。

昼から出なおそうと思ったが、昼食後もぐずぐず言って腰をあげやがらない。なんじゃいこいつは!私は朝食前にすでに水着を着こんで待っているのに。魚用のパンも用意したのに。

業を煮やした私は、相棒の最もキライなこと(私がやるのを嫌がること)、つまり肌を焼くためにビーチへ出た。1時から3時まで裏表ともじっくり焼いたが、もはやちっとも痛くならない。この色が私の限界か。

結局今日はロングビーチへは行かずじまい。3時過ぎから大雨が降り出したのだ。ざざぶりのだだぶり。小降りになったのをみはからって夕食に出る。本日は最後の夜なので奮発してごちそうだ。清蒸・紅焼+黒豆醤・かじきまぐろのBBQ、以上。

帰りにHair Braiding(細いみつ編をして先にビーズをつける)を両方に少しやってみた。これも相棒が嫌がるのでいままでやってなかったのだ。

1996年10月5日土曜日

一日ツアーにおでかけ

木船でまず対岸のピーピーレーへ。燕の巣がいっぱいの洞窟を見学。ジャンクの壁画があった。燕の巣を買い付けに来た中国人が描いたという伝説あり。

ピーピーレーの入り江でシュノーケリング。このとき借りたフィンは昨日のプラスチック製とちがってゴム製で柔らかく、足にぴったりで、泳ぐと耳の横を水が流れて行くのがはっきりわかった。きもちいいいー!

さてそれから、ピーピー・レーからピーピー・ドンをぐるっと回ってバンブーアイランドへ。沖合いに停泊し、シュノーケルをつけて海に入ると、なんと見事な珊瑚礁。ロングビーチよりももっとすごい。そして透明度もおそろしいほど。ツアーガイドが船の上からパイナップルの芯をなげると、魚がどどどどどどどどーーーという感じで押し寄せてくる。ピラニア状態。こっちが教われそうな勢いである。

バンブーアイランドで昼食。ランチボックスのフライドライスとパイナップル、ボトルウォーター一本が、ツアー料金に含まれている。それとマスクとシュノーケルとフィンでB250。同行はオーストラリア人の女性5人と、日本人男性一人、そして我々2名。

昼過ぎからはバンブーアイランドのビーチで泳ぐ。波が全くなく水はキレイで、調子に乗って泳いでいて、ふと下を見て悲鳴を上げそうになった。なまこ。巨大な、ぶっとい黒いやつが数百本、白砂の上に横たわっている。死屍累々。死んでないけど。しかもあまり水深がなく、ひょっとすると足が届くかも。届いてたまるか!!!全速力でなまこのいない水域へ。

再び船に乗り、ピーピー・ドンへ帰る。今度はロングビーチ沖で停泊。やはり岸に近いところよりもずっと魚が多く、楽しい。でも岸からここまで泳いでくるのはちょっとこわいなあ。

ロンギビーチから帰ってきて、ツアーはおしまい。なかなか楽しい一日であった。ばんごはんはトムヤム。45B。魚と遊ぶために袋一杯の古いパンを買った。明日遊ぼう。

1996年10月4日金曜日

スノーケリングの日

朝食をとってのんびりし、はやめの昼食をとってロングビーチへ。本日はゆっくり一日を過ごすつもりで、本を2冊と水を持ってきた。そしてフィン(中国語では鴨子脚)を借りた。

しかしあしびれ、思ったより固くて使いにくい。しかも私と相棒ではもちろん脚のサイズがちがうので、私にはぶかぶかで相棒にはきつくて痛いようだ。ひたすら泳いで本日は終わり、へっとへと。なのに、またしてもけちって山道を2キロ歩いて帰ってきた。へっとへと。

1996年10月3日木曜日

勝手にに台所をセットアップ

朝食をとってから村へ。昨日見かけた岩波の唐詩選(中)を40Bで買った。読むのに時間がかかりそうなので、安上がりでヨロシイ。

相棒は村に2軒ある魚屋で、ジャックフィッシュがレストランの三分の一ぐらいで売られていることを発見。こぶりのを2匹買った。48B。しかしね、レストランのは調理代に場所代込みなのだから、比べるわけにはいかんだろう。相棒聞く耳持たず、さっそく調理開始である。バンガローにはコンセントがないので、外にあるブレーカーをいったん落として、照明用の電線から勝手に電気を引くというゴーインさだ。ホアヒンの工具屋で何をあさってたかと思ったら、こういう道具かい。良い子は真似をしてはいけません。

鼻歌交じりで勝手にコンセントをつくってしまい、油と塩と調味料にご飯を買いこんできて、昼ご飯の支度である。私はビーチでねっころがって、さっそく唐詩選を読む。もうすっかり焼けてしまい、私ってこんなに黒くなれるのねというぐらい色がかわっている。もはやいくら日に焼いても、全然痛くならないのだ。今日はタイ人に「マレーシア人?」と聞かれてしまった。(マレーシア華僑かという意味であろう)

昼からボートに乗ってロングビーチへ足を伸ばした。行ってびっくり、なんちゅうきれいな海だ。10m先までくっきり。それに、3m入ると足がつかなくなる深さがあって、泳ぐのにもぴったり。しかもここには大規模な珊瑚礁があり、わくわくしながら泳いでいってみると、うっひゃー!!!

コサムイなんかとは、魚の大きさも量もケタがちがう。こわいぐらいにたくさんの魚がいた。そして、鬱蒼と茂るサンゴの森。しゃこ・巻貝・うに・ひとで・なまこ、海の生き物たち。色とりどりの魚は、私がじーっとみつめつつ浮いていると、なんじゃい?という顔をして集まってくるのだ。私のほうが怖くなってくるぐらい。

1組しかないスノーケルを相棒にバトンタッチ。見といで!と送り出すと、珊瑚礁の上の海面で、くるくるまわって喜んでいる。水きれいやし、波は静かやし、ばつぐんやなあ。

4時間ほどたっぷり泳いで、さあ帰ろうと波打ち際で砂を流していたら、でっかいしゃこ貝を見つけた。私のでかい顔よりさらに大きな白い貝。写真をとって、波打ち際に流した。相棒があまりびっくりせんので、なんでや?と聞いたら、さっき珊瑚礁で同じ位の大きさの生きたやつが口をあけたり閉じたりしてるのをじっと見てた、だって。貝を海に戻すときに、なにかが光っていたので拾い上げると、キレイな5角形の水晶だった。今日は素敵な日だなあ。

丘を越えて、機嫌良く歩いて帰ってきた。ボートなら5分だが、歩くと山道を2キロだ。

1996年10月2日水曜日

泳ぐ。釣る。食べる。

目の前のビーチが大変な遠浅であることが判明。300m沖まで行っても腰までの水。子供をあそばせるには絶好だが、大人にはもちろんちと物足りない。

村で昼食を取り、島の反対側を散策。マングローブの林があり、また違った雰囲気だった。片方のはさみだけが大きなカニがうじゃうじゃいた。帰ってまたひと泳ぎ。それからフェリーピアに釣りに行く。竿なしで、糸と針と錘だけで釣ったが、入れ食いというやつで、うじゃうじゃ釣れた。大き目のおいしそうなやつだけを残し、あと一匹釣れたら帰ろうというところで見事に真っ黒の男の人がやってきて、「ここは釣り禁止です。」

ごめんなさい。知らなかったの。確かにフェリーピアの柱にそう書いてある。どおりでこんなにたくさんの魚なのに、どうして誰も釣ってないんだと思った。釣果をすべて放し、すごすご、しおしおと帰ってきた。

ゆうべの店でばんごはん。ジャックフィッシュとかいう魚、大120B、小70Bをふたつで160Bにしてもらって食べた。この値段は調理費込みなのでとってもおトクだ。大は醤油焼、小はBBQでお願いする。昨日の魚より肉がやわらかくておいしい。

1996年10月1日火曜日

本日で出発よりちょうど半年。

ピーピー島へ向かう日だ。船は8時半に出港し、10時過ぎにピーピー・レーにツアー客を下ろした後、ピーピー・ドンに到着したのが10時半。船酔いをしてしまった私は、タイガーバームの小瓶をずっと鼻にかぶせていた。

フェリーピアから歩いて10-15分、Phi Phi Don Resortというバンガローに150Bのこましな部屋があり、チェックイン。後であちこち回って知ったことだが、値段と設備とロケーションの折り合いを考えると、私たちには理想的なところだった。これより安いと、木と竹で編んだ掘建て小屋になってしまい、同じ価格帯のほかのところは、よそのホテルの発電機の音が一日中うるさかったり、丘の上でビーチからほど遠かったりする。ここは目の前がビーチである。

500Bまでなら出そう!と決心して値段を聞いた素敵なバンガローは、なんと1300Bであった。

しかし、5年ほど前に相棒が始めてきたときには静かな漁村だったというピーピー島も、すっかりにぎやかになっていて、レストラン・土産物屋・ダイブショップなどなどがいっぱい。それでも海は驚くほどきれいで、普通、水がキレイではありえないはずのフェリーピア付近の透明度がすごい。橋げたが砂に突き刺さっているのが、くっきりと見える。

夜、ビーチのレストランで魚を食べた。30センチぐらいのホワイトスナイパーが100B。清蒸にしてもらった。うまいがやや肉が固い魚だ。テーブルを出しているビーチに、でっかいカニがいっぱいいてそろりそろり歩いており、そしてなにかびっくるすることがあるとびゅーっと大変な速度で穴に隠れに行くのがおもしろかった。