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書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1996年6月30日日曜日

朝6時のバスで臨夏へ向かう。

朝6時のバスで臨夏へ向かう。しかし、バスターミナルでいくら待ってもバスは来ない。私たちと同じバスを待っているのは白い帽子をかぶった回族のおっちゃんばっかりで、この人々がまた、見事なぐらい漢族とは違う顔立ちなのであった。彫りが深く、目が明るい茶色で、南方(広西とか福建泉州とか)で見かけたベタな顔(漢族とかわらん)回族とは全く違う。髪もひげも、なんだかくるくる渦巻いてるしなあ。

バスは7時を過ぎてやっと来た。しかし、ここがバスターミナルで始発のはずなのに、なぜか客も荷物もどっさり乗せているのであった。謎。とにかく乗りこみ、外国人の振りをして(<外国人やって)、運転席後ろの眺めのいい席に陣取り、荷物も席の周りに上手く固定してさあ出発!と思ったら、さっきの回族のおっちゃん&おにいちゃんズがサンタクロースのように巨大な袋をひとり二つ三つぐらい抱えて乗ってきた。袋はでかい割に何やら軽そうだ。席はもうひとつも残っていない。回族集団は袋をドアのあたりに積み上げ、ホウ!ホウ!と掛け声をかけながら、袋の上に勢いよく寝転がった。袋はクッションのように柔らかく、彼らはポンポン跳ね上がりながらホウ!ホウ!と高い声をあげている。分かった。袋の中は刈ったばかりの羊毛だ。

7時半、ようやく出発。朝5時版起床の私はすぐにぐーすか眠りに落ちた。

8時半ごろ、回族のおにいちゃんの歌う、歌詞は全く聞き取れないが何やら哀調をおびた民歌で目を覚ます。というか、真後ろで歌われたのでたたき起こされる。高い高い裏声を使った歌い方で、一節一節の最期は消え入るように低くなって終わる、実に旅情をそそる歌で、それをひとりひとりが入れ替わり立ち替わり輪唱のようにつなぎ、また時にはグレゴリオ聖歌のように何人かで声を合わせて歌ったりして、それだけで鳥肌が立つぐらいの贅沢な瞬間だというのに、気がつくと窓外にはさらに黄土高原の大峡谷が360度にわたって広がっていて、もはやどんな言葉も無力でしかない。世界にはまだ私が見たことのない風景がたくさんあって、それらはみな私に見られるのを待っているのだ。

歌詞は即興で、あんたたちのことも歌ってるよと、漢族の男が教えてくれた。見知らぬ若い旅人が、自分たちの土地を旅しているという内容だそうだ。方言なので私たちには全く聞き取れない。が、しかし、なんという贅沢。

9時半、第一の通過点、甘谷を通過、絶壁に巨大な塑像仏があり、その手のひらは8人が乗れるサイズなのだという。

バスは所々で忘れず故障を繰り返しながら、夜7時半、臨夏西バスターミナルに到着。臨夏飯店にチェックイン。バス・トイレなしのツイン、なんと共同シャワーも無しというツインが60元もしてびっくり。相棒が広東人のふりをして値段交渉にあたる。半額まで下がったが、登記時に香港の回郷証を出すと、香港人は40元と、何の根拠もなく気分で決められてしまった。

しらんぷりんこして部屋へ行こうと思ったが、私の身分証も要求してきた。日本のパスポートを出したらまた高くなるなあ。とりあえず香港のIDカードを出してみる。小姐はなんの疑いもなくID番号を登記して返してくれた。おお、これは使えるぞ。

というわけで臨夏に1泊。ここは完全に回族の町で、道行く人々のほとんどが頭にふち無しの白い丸い帽子(男性)・黒いレースのベール(女性)をかぶっている。回族以外には、回教徒のサラ―ル族とパオアン族が住む。

1996年6月29日土曜日

天水麦積山

天水到着は5時半ごろの予定だが、5時前には服務員にたたき起こされ、枕・枕カバー・シーツ・毛布・タオルケットの有無を確認させられる。相棒なんか「そこの若いの、タオルケットを探しなさい」と、「若いの」扱いされる始末である。北方語ではこれがフツーなんかい。

さて、駅から15キロ離れた市中心までミニバスが出ており、昼間は一元、夜間は2元であった。我々は荷物代を5毛/個とられた。バスターミナル付近でおろしてもらい、建新飯店にチェックイン。まだ6時にもなっていないのでフロントが無人であり、宿直室で寝ていた服務員を起こしてチェックイン。(ごめんね。)相棒の回郷省だけを登記したので誰も私を日本人とは知らない。なんだか変な気分だ。

とりあえず寝直す。9時過ぎ起床。麦積山へ行ってみる。

まずは宿からミニバスで北道站へ。そこでバスを乗り換えて麦積山まで5元。北道からしばらくの道のりは、景色は黄色く乾いていたのに、麦積山に近づくにつれて山に緑が濃くなってくる。そして麦積山の周辺は、緑滴る見事な風景となった。麦積山というのは、山の形がこのあたりで麦を収穫後に積んだ「麦積(まいちー)」の形そっくりなところからきたそうで、その「まいちー」が小麦の取り入れシーズンらしく、あちこちに積んであった。

さて麦積山でかかった費用は二人合わせて64元。意外とかからなかったなあ。

ミニバスで麦積山に向かうと、途中に「麦積山風景名勝区」というゲートがあり、そこでチケット6元なりなりを購入せねばならない。内訳は入場料5元と保険料1元。甘粛省では保険ビジネスが発達しており、外国人がホテルや交通期間を利用する際には7日なり15日間なりの保険を購入することを義務付けている。なんでも、けっこうな額らしい。(私はまだ外国人とバレていないので購入していない。)どこの外国人が事故の後にこんなところで保険がおりるまでじっと待つかって―のだ。

チケットが6元と聞いて意外な安さにびっくりしたが、そんなはずはないのであった。このチケットは麦積山見学用チケットではなく、地元の公安が観光客からとくに理由も無く勝手に徴収しているもの。石窟を見学するチケットは石窟の保護・修復・参観などを管理している団体からさらに買わなければならない。甲票25元・乙票10元。甲票はガイドつきだが10人まで集まらないと出発しない。外国人料金が無いのはオドロキだが、甘粛省には見所が他にもいっぱいあるから、外国人観光客はここまでこないんだろうな。来ても日本人ぐらいだと思う。

それにしてもここで払う10元なり25元なりは、少なくとも石窟の保護に役立つわけだし、石窟の価値から行っても安いほうだと思うが、さっきの6元は公安どものポッポにナイナイというわけで全くの捨て銭、納得いかんよなあ。

麦積山には手ぶらで行くことをおすすめする。入り口にてすべて預けさせられる。その際、かばんをあけて中を見せるよう命ぜられるが、素直に見せるとカメラひとつにつき2元を徴収されるので要注意。相棒がカメラとビデオ、私がカメラで計6元である。誰も預かってくれなんて頼んでないし、だいたいもしそっちで紛失しても弁償してくれるはずなんて無いのだ。相棒のはニコンの一眼レフにソニーのビデオ、私のバカチョンだって実はカールツァイス搭載である。先進国では普及品だが、ここでは管理人の年収よりまだ高いと思います。

すったもんだの挙句、結局金だけ払って持って入る。が、中になぜかもう一度手荷物強制預かり所があり、相棒のカメラバッグはついに預けさせられることとなった。すでに学習済みなので中を見せろといわれる前に「カバンひとつね、ハイ2元」と素直に預け、私のカメラはポケットに押し込んで持って入った。

麦積山石窟はなかなかよかった。こっそり写真も撮ってきた。しかし記念撮影屋がどっさり中にいて、この人たちの生活を保護するために手荷物預かり所は厳密に運営されているんではないかとも思った。

夜。天水の思いがけない一面を発見。中央広場の夜市がすごいのだ。商店と食べ物の屋台が分かれており、屋台のほうがよりどりみどりだった。蒸籠に入った排骨と回鍋肉、韮と骨付き肉の炒菜、干豆腐と肉の炒菜、ごはんとスープがしめて12元と安い安い。それから麻辣湯串、うー!

1996年6月28日金曜日

相棒、私に激怒。クチきいてくんない。

6時半、起床。かすかな吐き気とかすかな腹痛。またしてもおなかがゆるくなっている。何食った、ゆうべ。とりあえず正露丸を5粒のんでみた。吐き気は治まる。腹痛もなんとか気にならない程度に回復。

ゆうべは例の国営の店でO氏と食事。さすが国営、だいぶたってから「今日は米がない」とぬかしてけつかったため、しかたなく昼に焼いたというモーモー(ナンのようなもの)をもってこさせ、主食にして食べた。

たけのこと豚肉の炒めもに、きのこのいためもの、麻椒豆腐、たまごのスープ、以上4品を注文したが、スープが最後まで出てこない(中華ではスープは最初というのが基本)。忘れとるのだ。さすが国営。

国営への悪態をサカナに、和平門夜市へ行ってシシカバブを30本、ビール1本、羊の腎臓20本をたいらげたのだが、さてどれにあたったのか。

11時半。大解(小用は小解という)に行くと正露丸の匂いのするかたいやつが出た。どうなっておるのだ、私の腹。しかし全快。

全快したので性懲りもなく国営の食堂へ行く。なんで行くのか自分でもわからん。マゾか。なんか期するトコロでもあるのか。30分待ってやっと料理が出てきたが、催促しても催促しても白ゴハンが出てこない。本日は「白飯はあるのか」と確認した上での食事である。これが期するところか我々。そしてさすが国営。期待を裏切らない。それはちがうぞ。

オカズをきれいにさらえてしまい、席を立ってゴハン代を返却せよと申し立てると、レジのクソ女ときたら金を返してほしかったら厨房へ行って食券を取返してこいとぬかしやがった。

もともと、麺を注文するつもりだったのだがこのクソ女が白飯があると断言したから炒菜(オカズ)+白ゴハンの食事にしたのである。その方が麺よりかなり高くつく。しかし南方人の相棒は麺や餃子などの粉食はめったに食べない。だからメシにしたのだ~!バカモノ。その態度、口のきき方、すべてがにくそいことこの上なし。しかし我々はひょっとするとこれを期していたのだろうか。いやちがう。と思う。しかし。

「自分は食券売りだから、どんな料理の準備があるかなんかわかるわけない」(白飯が料理かっ!)「とにかく金を返してほしくば厨房へ行って食券を取返してこい」なんで客の我々がそんなことをせんなならんのだ。だいたい厨房へ入ったってそんなもの返してもらえるとは思えんぞ。

温厚な相棒、ぎゃあぎゃあわめくクソ女(と、わめきかえす私<私って公平)を相手にしていても仕方がないと感じたらしく、では今、白飯があるなら袋に入れよ、持ってかえると指示した。これで食堂は2元(2元だ・・・)分の米を得することがなくなるわけで、穏健派の相棒らしい決着の付け方である。しかし、彼の相棒ときたら全く穏健派ではないのであった。つーか、こういうのを期してたのかなあ、私。いつか刺されそう。

ビニール袋入りのほかほかごはん、受け取るなり、食券の上にぶちまけて、念入りに食券とこねくりまわしてやった。クソ女の顔の上じゃないだけ、私にとっては温厚な解決法だ。

相棒、私に激怒。クチきいてくんない。

夕方6時にチェックアウト、O氏の宿泊証を借りてシャワーを済ませ、タクシーで駅へ。荷物を預けて食事に行く。辛い辛い麻婆豆腐を食べて、軟臥へ。さすがに快適でヨロシイ。待合室も冷房代2元も取るだけあって立派だったしなあ。

1996年6月27日木曜日

天水まで軟臥票を買う

エアコンうれしがって付けたまま寝たため、ふたりともおなかがゆるゆる。貧乏性な体である。本日は天水行きのチケットを手配にゆくも、外人窓口では軟臥しか扱っておらず、5~7時間ぐらいの乗車時間なのでそれはもったいない。しかし、硬座でも座れそうな西安始発は夜10時すぎに天水着なので、出来れば避けたい。遅れたら真夜中である。

その他は西安を経由する列車で、席はまずなさそう。無座で6時間。やだなあ。とりあえず乗ってみて硬臥車へアップグレード。出来るかなあ。失敗したら目も当てられん。それくらいならバスのほうがマシと、バスターミナルへ行ってみるも、天水行き/経由のバスがなぜか無い。あそこならあるかも、と教えられた西安西駅バスターミナルを探すと、西安西駅にはバスターミナルなんてそもそもなかった。(中国人は「知らない」と言わな いの項参照。)

ホテルに帰って(エアコン(はぁと))不貞寝をしつつ、どうすべいと考える。時刻表をじっくり見ると、夜9時40分発の143次直快は朝5時すぎに天水に到着することが判明。1晩寝るのなら軟臥でももったいなくはないと自分に言い聞かせ、軟臥を購入することに決定。下の一般窓口はあいかわらず大変な人込みであったが、外国人窓口はスカスカ。天水まで1人100元なり。

軟臥票を買い、気が大きくなったのか、本日は買い物をどっさりしてしまう。歯磨き粉、帽子、ノート、メモ帳などなど。(なにがどっさりやねん。)

西安で気が付いたこと。1)普通どの街でも街角立ち新聞売りは定年後のじいちゃんばあちゃんのお仕事である。しかし西安ではカバンを斜めに下げた若い衆をけっこう見た。1部4毛だ。10部売れて4元、100部売れて40元か。利ざやはいくらぐらいなのだろう。元手を考えると、一日働いてたばこ銭にすらならん ような気がする。

2)ジョルダーノがあった。品揃えはどう見ても去年香港で売ってたジョルダーノ。しかし、看板をあげていない。小さい看板も「 IORDANO」になっ ている。ジョルダーノの肥黎老板、李鵬のワルクチ叩いてから、中国での商売は大変らしいなあ。

2)西安のタクシー、上のタクシーランプが覆面パトカーのと同じで磁石でくっつけてある。平日は自家用車に早変わりか。

日焼の進むデコをなんとか保護するための野球帽(中国語では鴨子帽。鴨のくちばし・・・)、数日前から探していたが、本日発見。ししゅう入りのやつは48元で、「GAP」とまったく同じロゴ字体で「CAP」とか、へんな犬のもようとか、タダでもいらん奴ばかりであった。黒無地のが17元。しかも服務員が間違えて16元のレシート切り(古い百貨店では服務員がレシートを手書きし、レジでお金を払ってそのレシートにはんこを押してもらい、それと引き換えに商品をうけとるしくみである。)、ラッキー。本日のおかいどくそのいち。

本日のおかいどくそのに。コルゲートの旅行用歯磨き粉、5.6元が半額の2.8元。購入後、向かいの百貨店でまったく同じ物を6元で売っているのを発見。おいおいそれではコルゲート社がわざわざ化粧箱を特別にしてキャンペーンを張っている意味がないではないか向かいの百貨店。仕入れ価格だって普段より安いはずだろう。コルゲート社もちゃんと市場を監視しましょう。

1996年6月26日水曜日

言ってはならない10のコトバ

毎朝8時前に部屋の掃除に来るのはやめてくれ。おおかた、中国人(相棒のことだ)が外賓の女を連れて泊まっているので、イヤガラセに来とる のだろう。夫婦だっつーのだ。中国語のわからん外人のふりをして追い返す。9時過ぎにチェックアウト。

服務員室に、言ってはならない10のコトバという標語が張ってあり、いくらなんでも、笑った。「時間だ、早く出ろ!」「釣り銭はない。自分でくずしてこい!」「あんたは私に尋ねるが、私は誰に聞けばいいと思ってるんだ?」「知らん、下で聞け!」「知らん、別のヤツに聞け!」「上に言うなら言えばいい。私は別にかまわないから!」「うるさい!」などなど。写真を撮りたかったが、モメるのがわかっているので断念。

列車は黄土高原をぬけて、夜8時過ぎに西安到着。タクシーで勝利飯店へ。56元と66元のツインが空いており、どうちがうのか尋ねると、エアコンの有無だと。半信半疑ながらエアコン付きのツインをとる。なんとびっくり、冷え冷えであった。すごいやん。

長いことコメツブを食していないので、食堂探しに出る。1階で昆明で同室だったO氏に再会。例の、59歳には見えない人だ。成都から重慶、三峡 下って武漢から来たところだという。明日、ゴハンを食べに行く約束をする。

久しぶりのコメツブには、最近めずらしくなった国営の食堂でありつけた。キノコの炒めものが好吃である。風呂(共同シャワー)入って寝る。

1996年6月25日火曜日

清涼山石窟

黄土の急斜面をよじ登って、道教寺へ向かう。味のあるじいさん(道士だ)がたいそういっぱいいた。 寺へのアプローチの階段、奥行きが20センチほどなのに高さがその倍もあり、 登るのも骨が折れたが降りるのがコワイコワイ。

次に、清涼山石窟へ。岩肌に多くの文人たちの落書き(揮毫と言ってやれよ)が彫られており、おもしろい。万仏洞はその名の通り壁が一面に高さ 20センチぐらいの仏のレリーフで埋め尽くされており、敦煌の塑像仏とちがって、岩盤への彫刻である。レリーフというには立体的すぎ、その規模 と迫力には圧倒される。どれほどの歳月と人手を掛けたのだろう。しかもよく見ると一体一体ポーズがちがう。

しかしながら、手が届く範囲の仏像は、顔を削り取られているものが多かった。線香売りのおばちゃんに確認すると、やはりというかなんという か、文革。大きめの仏像も、首を欠いているものが多かった。

ここの仏様は宋代のものだけあって、敦煌のようなエキゾチシズムには欠けるが、そのかわりしっとりと落ち着いた印象があって、日本人にはなじ みやすい顔立ちである。

さて次。宝塔山を見に行くも、門票が10元なので入るのやめ。明日のチケットを買いに駅までいったが、明日の券は明日買えと言われ、ムダ足 に。

明日は昼間の移動になるが、田舎の列車で不衛生なのが目に見えてるし、 10時間以上かかるので臥鋪を買うことにする。硬座なら29元、硬臥 は78元。

1996年6月24日月曜日

"革命聖地" 延安見物

早朝6時着。睡眠もひとつ不足のまま延安見物。革命聖地である。しかしながら相棒が私に見せたがったのは毛沢東旧居ではなく、元代創建の道教寺と宋代の仏教石窟であった。

延安駅前はさびれためし屋以外はなーんにもなく、バスがぽつねんと客を待っていた。 バスに乗り、市内へ向かう。今夜の宿は延河飯店ツイン62元。 夜8時~9時まで湯が使える狭い狭いユニットバスがこの価格帯では捨て難い。 部屋は狭いが清潔。ベッドで寝るのは二日ぶりなので、取り合えず、寝る。

日が暮れてから屋台へシシカバブを食べに出る。 羊の腎臓を薄切りにして塩焼きにした串がコリコリして激ウマ。もちろんビールを飲む。

しかし、低い椅子にへたり込んで食べていると、物乞いが入れ替わり立ち代わりやってくる。 子供と年寄りが多く、屋台のオヤジが追い払うのだがきりがない。 陜西省は中国でも最も貧しい省のひとつ、 家族でズボンを1本のズボンを共有している農家のドキュメンタリーを、TVで見たことがある。

1996年6月23日日曜日

なぜかいきなり延安に行きたくなってきた

朝8時、西安到着。ゆうべ相棒が「なぜかいきなり延安に行きたくなってきた」と唐突なことを言い出したので、唐突、いいじゃないですか、さっそく西安駅で延安行きチケットを手配。朝8時の便は入れ違いに出ちゃってるので、夜10時20分の夜行を買って、夜まで西安でヒマをつぶすことにする。

どっちにしろ延安から西安にはまた戻ってくるので、ホテルを先にみつくろっておくことにする。

承徳飯店、ツイン140元。五一飯店、改装中。あまり行きたくなかった勝利飯店、ツイン66元。18元のドミは改装中。こんなもんかのう。勝利飯店は90 年に泊まったときよりはややマシになっていた。昔はベッドの上に畳表のようなものが敷いてあるだけで、シーツなしだったもんなあ。トイレは全く流れず、テリブルなホテルであった。

勝利飯店のフロントで彼女に国際電話のSくんとばったり。本日夜9時40分の列車で酒泉に発つという。あまりかわらない乗車時間なので、夕食を一緒にとる約束をする。6時に待ち合わせ。

歴史博物館へ。5年前に建ったばかりの博物館は、展示品が時代ごとにわかりやすく区分されており、特に夏~唐の収蔵品は見事だった。(反面、宋以降のものに見るべきものはあまり無い。これは西安という都市の歴史的な性格上、当然のこと。)

特別展覧は1)唐代婦女衣服展 2)首都博物館展示(明清) 3)しゃん西地方の銅金展 4)秦~明の兵馬よう展であった。1)の唐代婦女衣服展の、ヘアスタイルの部がおもしろかった。元禄時代かマリーアントワネットかってなてんこもりの髪型である。2)では「酔菊図」という絵が素敵だった。じいさんと子供が菊に戯れている図。頭に菊を飾ったりして、柔らかな和める筆使いなのだ。作者名を忘れてしまったのが悔やまれる。有名な画家なんであろう。他にどんな作品があるのかな。

さて6時。ゴハンの時間だ。駅前に小吃の屋台でいっぱいの路地があり、相棒がさっそく羊の足を購入。足って、もも肉じゃなくてひづめのついたままの先っぽだ。豚足みたいであるが、匂いが羊! 羊足売りのおじさんはもちろん回族で、白いレースの中途ハンパな大きさの帽子をかぶっていた。

西安風の細いシシカバブを食べたくて、屋台に座る。1本2毛ぐらいで安いのだが、50本からでないと売らんと言われ、そんなに食べられるだろうかと躊躇して別の店をさがす。ところがどっこい、一本1.5毛の屋台に腰を据え、おいしい青島ビールの生ジョッキを片手に食べ出すと、入るは入るは3人で102本!この他にモーモーという西域風羊ハンバーガーもキッチリ1人一個づつ食べ、最後にすいかを食べて飽食の宴は終了。

満足な夕飯だったが西瓜がやや高め。聞くと、西安の西瓜はまだ熟しておらず、これは沿岸部産だという。で、1.8元/斤。西安産なら0.5元/斤以下だそうだ。香港では3~6ドル/斤ぐらいかな。

Sくんを見送って、我々も乗車。眠る。

1996年6月22日土曜日

武候祠すら見にゆかずに成都を去る

朝から愉快な張り紙発見。麗江で私たちから寸借詐欺を試みたオランダ人だ。

WANTED
Frank de R**y (一応伏字にしました)
Passp;670064L
Nat; Dutch
Age ; 26
Skinny Blond +-180cm
Blue backpack, small glasses
PROFESSIONAL CHEATER
Rips off Hotels, Restaurants,
AND Travellers
with stories about stolen money...
Be carefull, Now heading to
Song Pan + Lanzhou

交通飯店の朝ゴハンは1)トースト2枚 2)バター 3)目玉焼き 4)フレンチフライズ 5)バナナ 6)コーヒー以上がAセット。その他B/C/Dセットがあり、B/Cは甘い甘いオートミール付き。Dはおかゆにザーツァイの中華朝食であった。私はAセットがお気に入り。

成都では、小吃はおいしかったが普通の炒菜は味が濃すぎてややつらかった。塩か唐辛子か、どっちかが必ず多すぎるのだ。油も大めだし。しかしスパイシー好みの人にはおいしいだろう。我々はちょっと広東料理を食べ過ぎたな。

というわけで、武候祠すら見にゆかずに成都を去る我々であった。

さて乗車。我々の車両は、客が多すぎるために特別に連結された車両で、どこに連結されているのか駅員にもわからず、探すのにかなり時間がかかった。なにしろ中国の列車は全長1キロ以上あるので大変だ。プラットフォームでうろうろオタオタしている相棒の尻ポケットからサイフを抜こうとした不届き者がおり、相棒が気づいて蹴りを入れたところ、こやつ、ナイフに手をかけやがった。相棒、追求をあきらめ、そして乗車時間もせまっているので気を取り直して車両を探す。

だから尻ポケットはやめろというのに。<西安ですられた実績アリ。

やっとこさ乗車。特別車両はどっからひっぱりだしてきたんやというぐらい古ぼけた車両であったが、しかしまあ走ればヨロシイ。ところがアクシデントというのは起こるもんで、機嫌良くスカスカ走っていた列車が、いきなりつんのめるようにして停車した。網棚の荷物は落ちてくるわ、そのへんの小物はすっ飛ぶは、赤ん坊は母親の膝から転がり落ちるわ、茶はこぼれるは、てんやわんやである。

乗客が何事何事!?と騒いでいるなかを、トランシーバーやらなにやらでっかいペンチやら持った男が走り抜ける。脱線かと思いきや、やっぱり走ってきた服務員小姐に事情を聞くと、列車が線路上に寝ていた「牛」を引いたんだと。牛って・・・

牛と牛の持ち主には悪いが、めったにない経験だ。列車は小刻みに前進と後退を繰り返し、車輪の間から牛の死体を引きずり出した。降りて作業を見ていたが、でかいでかい黒牛であった。

一度食べてみたかった康師博ブランドのカップラーメンを食べる。をを!ウマイやん!カップラーメンの大嫌いな相棒が、私を嫌そうに見ている。ほっといてんか。相棒はピーナッツパンを夕食にしていた。今回は両方とも下鋪というチケットの売り方をされ、壁をはさんで背中合わせだったらいやだなあと心配していたが、幸い向かい合わせ。ぐうぐう寝た。

1996年6月21日金曜日

パンダを見るのはこれが初めて

朝食時に同室の旅行者から、成都の観光ポイントの入場チケット軒並み30元という話を聞き、あっさり成都を離れる気になる。この決定には私が劉備玄徳には「ま・つ・た・く」(全く)キョーミがないという事実が大きく影響しているだろう。乙女の心の琴線には触れないキャラクターである。相棒は「ええのか?ええのか?」と何度も私に聞くが、どう考えても私が成都で見たいのは、せいぜい本場のパンダぐらいであった。

宝鶏経由西安行きチケットを手配し、動物園へ。実はパンダを見るのはこれが初めて。相棒を退屈させるぐらい長時間、憑り付かれたように見物してしまった。こんな愛らしくユーモラスな動物が、どうかすると人を襲っちゃうとはなあ。(飼育係がお亡くなりになっています。)

銀行で両替。イラン人に順番を抜かされ、口論。しかしこっちは中国語をしゃべるモンゴロイド顔、向こうは中国語を解さないコーカソイド顔なんで、窓口嬢は向こうを優先。くっそー。住友VISAのT/Cを替えてやがったので、どうせ日本からの出稼ぎ帰りだろう。って、そこまでチェックするなよあたし。

担担麺美味し。

夕食をホテルで食べ、きっちり騙される。炒空心菜が5元だというから頼んだら、伝票には8元と付いていた。抗議するも「時価」だと。怒りつつ、ここまでチェックが厳しい外人観光客はやはりあまりいないだろうと、我が身を冷静に省みてみたりもする。ほとんど趣味の域か。

さて夕食後、中@で会った男の子たちにロビーでばったり。あれ?中@からラサに向かったんじゃなかったっけ?と問うと、昌都を越えてラサまであと二日の地点で公安に見つかり、罰金400元を払って成都まで強制送還されたということであった。まあ、でも、そこまで行ければたいしたもんなんじゃない?たいていはYanJingで捕まってるって言うでしょ、そう言えば中@チベット族の民族衣装ばっちり着込んだ女の子はどうしたの?彼女もラサへ行きたいって言ってたけど・・・

「彼女と一緒にはちょっと・・・」途中でまいちゃったんだそうだ。確かにややイタイ女の子ではあった。2000元の罰金を400元にまで値切り倒した話を聞く。今は密告料ほしさに公安にタレ込む運転手が多くて、ヒッチの際にはチベット族運転手でもなかなか安心はしていられないそうだ。

本日はビール2本・ミネラルウォーター3本飲んで、トイレ3回のみ。暑い日だった。

1996年6月20日木曜日

交通飯店の3人部屋ドミは40元

本日も朝食に間に合わず。つーか滞在中、間に合った日が一回もございませんでした。成都行きのミニバスは18元、気持ちのよい田園地帯をスカスカ走り、途中いくつかの集落をぬけて成都長距離バスターミナルへ。交通飯店の3人部屋ドミは40元/1人とやや高いものの、朝食付き、部屋は清潔、毎日清掃とベッドメイキングあり、バスタオルも毎日お取り替えと、まさに一分銭、一分貨(払ったら払っただけのことはある)であった。

しかし成都暑い!本年度初めて「夏」を感じる日である・・・。街を歩くと古い古い通りにぶつかった。落ち着いた路地に植木屋や金魚や、茶室(中国風カジュアル喫茶店・客層は老年層の男性)などが並び、実にいい感じであった。ゆっくり歩く。

1996年6月19日水曜日

本日は山頂(金頂)へ

宿舎の裏の森に猫頭鷹(フクロウ)が住んでいて、夜になると電灯にたかる虫を食べに来る。裸電球の下でわびしく洗濯をしていると、何やらでっかいすばやい生き物が電球にぶちあたって来るので、肝をつぶしたわい。動悸を押さえつつ、離れたところから落ち着いて観察すると、フクロウ。野生のフクロウなんか見るの、初めてである。

本日も寝坊、朝ゴハンを食べはぐる。もっとも朝食は5時から7時までで、特別に我々が朝寝坊という訳ではない、と言い訳しておこう。本日は山頂(金頂)を目指すことにする。

お寺に荷物を預け、軽トラで蛾眉市内へ。数ある金頂ゆきミニバスのうち、客が大目に乗っているやつを選ぶ。片道15元。乗客のうち四人はもう2時間も乗ったまま待たされているそうで、行き先を聞くと報国寺。そんなん、軽トラの荷台にのって5分の目と鼻の先やないかあ。やはり観光地、気をつけねば。結局この4人は、客がある程度集まったところで軽トラに乗せかえられて行った。

さて蛾眉山入山料なんと30元。本来は徒歩で登るべきで、一般に2日半かかる。相棒は94年に登攀済み。バスは2時間半で金頂ちかくまで到着。ここからは歩きかロープウェイかである。我々?もちろん楽チンぷーすかな方。

歩けば2時間はかかる道を、ロープウェイは5分で結んでいる。金頂は寒かった。大衣(人民解放軍コート)の貸し出しをしていた。周りにひろがる雲海を堪能し、4時半のバスで下山する。

報国寺最後の一夜。宿としてはばつぐんだったが、なにせ山の中、虫が多く、昆虫キライ(なぜか蜘蛛は平気)の私には涙の出そうなこともあった。蚊取り線香を焚きまくって、眠る。

1996年6月18日火曜日

両替と電話に苦労の日

共同風呂もなかなかよかった。紹興の宿を思い出す。本日はきっちり寝坊。朝食を食べはぐった。境内で精進料理の昼食をとってから、軽トラックで街へ。蛾眉山へ登ろうにも、人民元が全く無いことに気が付いたのだ。銀行を探し回るもあっちやこっちやと不正確な指示を与えられ、炎天下をさまよう。

(道の教え方には民族性が出る。中国人は「知らない」とはあまり言わない。不正確な記憶でもひねり出して指示を与える事が多い。一方日本人は一応知っていても確信が無い場合にはあっさり「知らない」と答える事が多いだろう。どちらがより親切/不親切か、という問題ではない。しかし「知らない」となかなか言わない民族は世界にけっこう多いようで、多くの旅行者から幾度も辛酸をなめた話を聞く。)

やっと発見した外貨を両替できる銀行は午後3時まで昼休み。ここはスペインかい!

両替後、寺に戻り散歩。またもや街に出て電話をかけにゆく。郵電局はもうしまっており、仕方なくバスターミナルから掛けたのが間違いの元。オペレーターに電話番号を告げて個室で待つ方式、相棒は掛けてからどこにも価格表示の無い手数料を5元請求され、私は実家の番号を告げたというのに「にーはお」と女性が出たのでそっこーで謝って切ったその7秒の通話料に13元請求された。「通話記録を調べーい!日本になんかつながっとらーん!」と、バスターミナルの人々の好奇の視線に見守られつつ怒髪天でやりあってもみるも、効果なし。ワタシ的には食い逃げ、つーか掛け逃げのセンでもよかったのだが、温厚な相棒が金だけは払おうと主張するのであった。教訓:国際電話は郵電局でかけよう。

夜8時過ぎに帰ってきたら、門がキッチリ閉まっていて、かなり困りました。結局裏門からコッソリ入ったが、お坊さんに見つけられて怒られた。門限があるなんて知らなかったよう。

1996年6月17日月曜日

楽山の摩崖仏

一時間遅れで蛾眉山に到着。プラットフォームに降り立つなり、客引きが寄ってきてうるさいうるさい。追い払っても追い払っても寄ってくる。しかも「蛾眉山には泊まるところが無い、蛾眉市内に泊まれ」と大嘘をこくのであった。我々はお寺の宿泊所に泊まることに決めていたにで相手にしなかったら、我々をいつまでもいつまでもすごい目つきでにらみ付けているので(視線で人が殺せそーな目つき)、ぞっとした。

蛾眉バスターミナルで荷物を預け、10時発楽山行きのバスに飛び乗った。楽山は中国最大の摩崖仏で有名な観光地。蛾眉山を離れること31キロ。到着後、ぐうぐうのお腹で食堂にとびこみ、沙鍋豆腐と青椒肉片、おもいっき赤ムラサキ色の野菜を炒めたやつを食べた。白ごはんがショッキングピンクに染まって、ちょっとおもしろかった。

12時前、対岸の大仏サイドへ渡る船に乗るも、すぐ出るすぐ出るといいつつ1時過ぎまで客待ち。すぐ目と鼻の先なのにー。

大仏は変な顔だった。相棒が「清代の作だ。」と自信を持って言い切るので、「そっかー、やっぱり変な顔やもんなー。やっぱ仏像は唐代から宋代に限るよなー。」と大声でほざいておったら、入場チケットに「713年-803年の作」とまさしく唐朝期の年代が書かれており、照れた。相棒のボケ。気ィつけてもの言わんかい。でも唐代の作としてはやっぱ変な顔だと思う。後世のへたくそな補修が入ってるんではないのかなー。<シツコイ

対岸の船着き場まで8元。そこで烏憂寺のチケット買ってお寺見物。花がたくさん植わっていて、静かで空気が良く、高台にあるため対岸の眺めもばつぐんで、いいところだった。ここにも宿泊所があるらしいが、一般人が泊まれるかどうかは不明。

寺から丘をえっちらおっしら登って、大仏へ向かう。暑い日で、汗まみれになる。くねくね曲がる山道を登ったり降りたりしていると、突然!という感じで大仏の頭のところへ出た。ここから大仏の足のところまで降りる階段が付いているのだが・・・だめ。私はもうダウン。頭の後ろの道を通って、反対側へ抜ける。

ところでこの大仏見物チケット、15元+傷害保険が1元。チケットのシリアルナンバーは1、375,820である。番号が通しであるとすれば、すでに 140万元近くの積立てがあることになるが、一方、死亡者に対する最高補償額は1万元。オイシイ商売だと思いません?こんなのチェックする外人ってワタシだけ? <キミだけや、キミだけ。

大仏はやはりでかかった。それなりの満足を得て楽山を離れ、またしても群がる客引きの腕の下をかいくぐって蛾眉山麓の報国寺へ。一ベッド25元の清潔なツインにチェックイン。TVとベープマット付き。あくまでも静かで空気の澄んだ聖山。縁側のような廊下で中国椅子に腰掛けてお茶を飲むのは、最高に贅沢な気分である。

1996年6月16日日曜日

特快「宏達号」にて蛾眉山へ

12時55分成都行きの特快「宏達号」にて蛾眉山へ。駅までにも道すがら、コンパクトカメラ用ミニ三脚を購入。あとはコイルヒーターが欲しいが、どこでもポットにお湯がもらえる中国では、見つからんだろうなあ。

列車の服務員小姉はめっちゃかわいくて、服務態度もばつぐんであった。顔で選んでるのかなあ。列車は4回しか停車せず、我々は駅弁を買いはぐった。空腹をなだめ、眠る。

1996年6月15日土曜日

昆明最後の夜

昆明最後の夜。外文書店で普通語の俗語についての英語のパンフレットを発見。珍しかったので買おうと思い、値段を見ると270元!ペラペラの、パンフレットみたいな黒白印刷の本であるが・・・。

同室T氏、同窓であった。大学のマークの入ったノートに日記をつけてたのだ。物持ちのエエ人である。

1996年6月14日金曜日

みごとなスイカ

こないだ買った短波ラジオの入りがいいのでうれしい。夜、同室4人で食事。帰りに市場ですいかを発見。皆たらふく満腹にもかかわらず、吸い寄せられるように選んでしまったのが7.5Kg玉。重いので交代で持ち帰り、机の上に置くとそのデカサにしみじみほれぼれしてしまい、意味もなく愉快になる。私の愛刀 VictrinoxのPicnicerでまっぷたつにすると、見事に赤く熟れており、真ん中がきれいに中落ちしていた。味の方もちょっとなかなかお目にかかれない、一流のすいかであった。

1996年6月13日木曜日

再会

変なカナダ人が去り、空きベッドに彼女に国際電話1200元のSくんが入ってきた。

1996年6月12日水曜日

老街を歩く

韓国人二人が去った。K嬢がイギリス人におびえることはなはだしく(そりゃそーだ)、なんとか部屋を替わりたいという。服務員のおばちゃんにイギリス人の言動を吹きまくると、気の毒がって空きベッドを調べてくれた。3人同室の空きはなく、1人+2人となる。K嬢の部屋は同室が全員日本人となり、K嬢、安心。

我々の部屋は4人部屋。日本人男性+カナダ人男性が同室である。カナダ人と少し話をする。少し常軌を逸した所があるよーなのでケーカイ。なんでこんな変なガイジンばっかりあたるねん。帰ってきた日本人男性T氏と話をすると、ゆうべこのカナダ人は昨夜一晩中、本日の相棒のベッドに寝ていたアメリカ人女性に繰り返し誘いをかけており、そのたびに「気違い!近寄んないでよ!」と怒鳴られては自分のベッドに戻り、またしばらくたつと「ワーオ!」と叫んでは女性のベッドに行き・・・ということを繰り返していたという。アメリカ人女性はT氏からめざましを借りて、今朝早くチェックアウトしたそうだ。かさねがさね、なんでこんな変なガイジンばっかりあたるねん。やっぱクスリが安いからか。

昆明には行くところもあまりない上、雨ばっかりで嫌になる。晴れ間を待って、老街へゆく。道の両側に二階だての古い建物が並び、1階部分にはすべて何がしかの店舗が入っている。昔は食べ物屋が多かったが、今回行くとめっきり減っていた。あちこちに「析」と大書された紙が貼られている。とりこわし予定なのだ。もうすぐこの往時の雰囲気を残す通りはきれいに取り壊されて、あとにはタイル張りに青いガラスの中国の最近風のビルに街に生まれ変わるらしい。高さと色とデザインをあわせて建築されたこの美しい木造建築たちも、細かい意匠をほどこされてずらりと並ぶ2階部分の窓の手すりも、全部なくなってしまうのだ。惜しいなあ。北京の瑠璃廠の用に観光用にでも保存するほうがお利口に思えるが。しかし外人の我々には惜しみつつ眺め歩くしかなく、端から端までゆっくり流した。途中、牛舌餅という甘い黒砂糖入りの薄い焼餅がおいしかった。米線(米の粉で作った細いうどん)にはついうっかりスプーン一杯分の山椒を入れてしまい、唇の周りまで痺れて感覚がなくなった。でもやはりうまかった。

1996年6月11日火曜日

雨が続く昆明

雨が続く。昨夜同室のO氏、非常に若く見えるが結構なおトシのはずとヒソカに踏んでいたら、やはりそうだった。O氏自身からどう思うかと話を振られて、「60年代以前にに青春をお過ごしでしょう」と控えめに答えたら、ばっちり。なんと御歳59才ということであった。1939年生。それって父より年上ではないか!わっかーい!!!ご職業は「水商売」とのこと。私の感じでは美術教師かジャズ喫茶のマスターのような印象である。知識も教養もありげな人であった。

本日同室は韓国人二人。内1人が漢語ばつぐんにうまい。しかも留学経験なしだという。どーやって勉強したんだ。韓国では短波ラジオは違法だという話(北韓のスパイとみなされるため)と聞き、驚く。

さて本日の同室はほかにイギリス人男が1人とスペイン人女性が二人。このイギリス人がタチが悪く、瑞麗でK嬢に言い寄って断られたあげく(当たり前)、一晩中彼女の部屋のドアを蹴り続けたといういわくつきの男であった。お行儀も悪く、熱い熱いポットのお湯をいきなり窓から下へ(通行人は・・・)ブチまけて同室の我々を驚愕させたり、人の洗濯物を次々と床に落として自分のを掛けたりと、要は体力のある電波系。本日は韓国人二人および我が相棒と非力ながらも男手が3人居るので、あきらめて就寝。

1996年6月10日月曜日

大理から昆明へ。

11時間。途中で6件の交通事故を目撃。一台のバスなどは、腹を見せて池の中に突っ込んでいた。えれえこった。雨がひどく、道を迂回した個所が1個所、二車線のうち1.5車線ぐらいががけくずれで埋まっているところが1ヶ所あった。

茶花賓館へ行くと、ドミは空いているが香港人は中国人だから外人用の部屋には泊まれない、とぬかす。じゃあツインを取るいうと、外国人料金でなら泊まっていいという。

おもわず広東語でフォーレターワードが出てしまう私であった。R嬢が我々に残してくれたメモをメッセージボードからひきちぎって、茶花を去る。R嬢は所要時間30hの夜行バスで南寧へ向かったそうだ。タフなお人よのう。

古巣昆湖のドミに投宿。

1996年6月9日日曜日

おおたか静流の「花」

日曜だが銀行が午前中だけ開いているというので両替。昆明行きのチケット手配してプールサイドで貸本を読む。相棒がまたしても放し飼いの鶏を入手してきたので、スープにして食す。6時半にK嬢と夕食の約束だと言ってあったろうが。案の定K嬢との会食では我々はなにも食べられず、日本酒を飲みながらK嬢の食事を見物という失礼な事態となってしまう。しかし、放飼いの鶏は美味いなあ。

店ではおおたか静流の「花」がかかっていた。無理を言ってCDを借り、近所のテープ屋でダビングしてもらう。以後この曲は我々の旅のBGMとなった。向かいに座っていた男の子が飲みさしの酒をそのままに、突然走っていって一時間ほど帰ってこない。飲み逃げかと思いきや、郵電局まで走っていって、ガールフレンドに国際電話してきたのだと。「1200元かかった。」と、実に嬉しそうに語る彼。若いなあ。しかし、こういうタイプの若者も中国に来るようになったのだなあ。

白人カップル、ドミでやるのはやめてくれ。

1996年6月8日土曜日

大理へ帰還

大理へ出発。MCAへ行くも。ドミがぎっちぎち。なんでも、台湾人が1人で8人部屋を包房してるのと、白人が3人で7人部屋を包房してるのが原因とか。このホテルはドミ代で儲けてる訳ではなく、客がレストランに落とす金がメインであろうから、そういう客ばかり続くと商売あがったりであろう。とりあえず空いてるベッドをドミのすみっこにくっつけて入れてもらって、眠る。

昆明で会ったK嬢と再会。瑞麗からミャンマ行きルートは、ミャンマサイドの問題で閉鎖されており、仕方なく引き返してきたんだと。ゴハン食べて、寝る。

1996年6月7日金曜日

麗江へ帰還

朝から市場でヤクミルクを1.5リットルも購入。二人でまずは500mlずつ一気のみ。相棒は問題無かったが、私のお腹かキッチリ熱鬧った(お腹を壊した。)。昼のバスで麗江へ。途中の景色は見事というか、悲惨というか・・・見事な自然と、それが見事に破壊されつつある様子と・・・

中甸は漢民族と蔵民族(チベット族)が混住する地帯。チベット文字の春聯があって、なんだかほのぼのさせられた。福建省泉州では、回族民家の門にアラビア文字の春聯をみたこともある。みんながこんなに仲良く出来たらいいなあ。

中甸で出会ったR嬢と再会、相棒を寝かしつけて一晩語り明かす。中甸でこっちから声をかけてよかったなあ。

1996年6月6日木曜日

中甸へ帰還

7時出発のボロバスで中甸へ帰還。途中のチベット寺から、マレーシア華僑の男の子が乗ってきた。英語がばりばりうまかった。うらやましい話だ。

チベットホテルには、ホアヒン出身のタイ華僑の大学院生がメイド連れでフィールドワークに来ていた。
これから陸路でホアヒンに行くというと、嬉しそうにコロコロ笑われた。やわらかい印象のかわいらしい女性で、マレーシア華僑とは達者な英語で話していた。華僑もこのくらいの代になると、共通語は英語である。

一方私とマレーシア華僑の男の子は中国語で話をしており、彼はまたR嬢という中国語が達者な日本人旅行者とも中国語で話をしていたので、彼の目の前で私とR嬢が日本語で話をし始めたときは、ものすごく驚いた顔をしていた。双方とも、日本人だとは明かしていなかったからだ。

1996年6月5日水曜日

トルコ石と冬虫夏草

天気非常に悪し。全天暗雲垂れ込め、今にも降りそうである。朝から昨日の公安にいちゃんに、今日はやめとく、と言いに行く。天気が良くなったらいつでもおいでと言われる。

相棒は公衆トイレで用(大きい方)を足す気になれず、山に中へ場所を探しにゆく。しかし、いい場所にはどこもすでに先客の落とし物があり、笑ってしまう。なお本日の相棒は全ての用を外で足していた。

トルコ石がとてもたくさん売られている!大小あわせて10個購入。陶器のビーズもあり、その店で糸をもらっておそろいのネックレスをつくり、二人でかけた。また、ここの名産は「冬虫夏草」、略して「虫草」。渋澤龍彦の本で読んだことがあるやつだ。これは漢方薬としてとっても貴重らしく、二つ一組で4元ぐらいする。相棒は15対も購入、言うとくが私は食べへんで。

結局、天気の余りの悪さに行ってもムダだと判断した我々は、昨日の公安の人にお礼を言ってすぐ寝た。本日はこれで終わり。

(相棒はこのとき買ったトルコ石を2009年時点で、まだ首にかけっぱなしにしている。紐は一度だけ変え、陶器のビーズははずした。)

1996年6月4日火曜日

馬幇の里、徳欽

外国人には開放されていない徳欽に行くことにする。正確には、公安の許可を得てツアーに参加すれば行けるらしい。現在、ここから雲蔵(川蔵?)公路を通ってヒッチでラサに入る外国人が多いため、取り締まりがちょっと厳しいらしい。見つかった場合の罰金が一日あたり70元だか90元だかというウワサがとびかっている。

7時20分、中甸出発。3時20分到着。途中の景色が見事であった! 道は舗装なしの土路だが、バスが新しいせいで比較的乗り心地よし。あと一時間ぐらいで徳欽に着くという地点で、この道はもっとも海抜の高い峠を通過する。海抜4000m強。そこから標高5640mの白茫雪山が見事に見渡せるのだ。バスの運転手が車をとめて「休息芭ー、休息!」と我々に下車を促した。おかげで雪山を心行くまで眺めることができた、なんて粋なはからいだろうか。運転手さんは自分もジュースを一本あけて、雪山の良く見える斜面にどっこらしょと腰をおろした。

15分後、バスは再出発。ほどなく徳欽到着。徳欽は山の斜面沿いに開けた小さな小さな町であった。平らな土地が全く無い。

さて、宿探し。普段なら田舎では通常最も大きな宿、政府招待所を目指すのだが、なにしろ我々はこっそり来ている外国人なので今回はそういうわけにはいかない。個人経営の民宿をあたる。チベット人家族経営の宿、居間には素敵なチベット家具があり、ビンボたれのくせに家具好きの私は目がハート型になった。で、今夜の部屋はは4人部屋25元と安いがトイレがなく、道端にある公衆トイレ(キョーレツな汚さ)まで用を足しにゆかねばならない。しかしゼイタクはいっとれん。



目的の梅里雪山を目指すも、出租汽車(タクシーや白タクや運転手付きレンタカーなど)が全く見当たらない。政府招待所に聞けばあるんだろうけどなあ・・・しかし公安に通報されて一巻の終わりである。仕方なくその辺の車やオートバイなどに声をかけまくり、最後に緑色のサイドカー付きバイクに声をかけたところ、「行ってもいいけど・・・」やたっ!

で、値段交渉。乗合バスだとそんな短距離では乗せてもらいにくく、よくて1人10元ぐらいと聞いていた私は、往復30元でどう?と言ってみた。するとそのハンサムなチベタン兄ちゃんは、「うーん、それじゃあ、今とりあえず行ってみて、天気が悪くて良く見えなかったら明日の朝もう一度行ってみるというので 30元でどうだい?」と、夢のような提案をしてくれた。我々に異存のあろうほどもなく、さっそく横と後ろに乗せてもらう。

雲が多くて雪山の全貌が見えづらく、時間的に逆光で写真を撮るにはツラかったが、しかしやはり期待通りの美しさであった。

この山は地元のチベット族にとっては信仰の対象で、シーズンになるとふもとをめぐる巡礼が途切れないほどだという。これらの話をするとき、チベタン兄ちゃんの漢語はかなり訛っていて私たちには聞き取りづらく、何度も聞き返しているうちに彼は万年筆を取り出して手のひらに聞き取れない単語を書いてくれた。その字が(彼の普通語の発音と比較すると)見事な達筆だったので、「達筆だね~、中甸でもこんなうまい字を書けるチベット族はなかなかいないよ~」と思わず誉めると、「仕事が仕事だからなあ」と彼は照れたように言うのであった。

「仕事?」と聞き返すと、彼は黙って手のひらに書いた。「公安」  う・・・こんなに注意深く公安を避けまくっているというのに、ナゼだ・・・なんで寄りによって公安をヒッチしちゃうのだ、我々は・・・。動揺を必死で押し隠す私と相棒であった。

「ではこの緑色のサイドカーは・・・?」「うん、公用車。」(がーん・・・)「ほら、こんなのも持ってるよ。」と、上着のすそをあげて見せてくれたのはなんと拳銃。(がーんがーんがーん・・・<まるでさぶいシャレのようだが)

にわかに言葉少なになりかけた私と相棒であったが、それもマズイと思い直し、このへんの住民がラサへ巡礼に出るときの準備などの世間話を続けてやがて帰途についたのであった。

1996年6月3日月曜日

碧塔湖

碧塔湖へ日帰りで行くことにする。ジープを包車して200元。アメリカ人の男の子、フランス人のじいさんの4人でシェア。

碧塔湖一帯は自然公園になっており、その入り口まで中@から25キロ。ただし舗装されていない岩だらけの道なので、ジープ以外の車は行きたがらない。ジープで舌をかみそうな振動に絶えつつ1時間半。馬の方が早いかも。

さてチケット8元、外人20元、アメリカ人の男の子がカンカンに怒っている。そりゃそうだよなあ・・・、お気の毒。入場すると納西族とチベット族混成の馬幇(馬子)が寄ってきて、馬に乗るなら湖まで往復40元、外人50元だという。外人二人が外人料金にぷんすか怒っており、乗らないという。私も40元は結構高いなあと思い、とりあえず歩いてみることにした。元謀で落馬しかけた経験があるので、ちょっと恐かったせいもある。

しばらく歩いてブッシュにさしかかり、歩きづらくなってきたところへ馬幇が35元と言い、私は乗ることにした。標高3300m、やはり運動はツライ。

乗ってよかった。山あり谷ありせせらぎありぬかるみあり薮あり。道が悪くて馬は駆け足にならないので、落馬の心配はなさそうだ。しかも私の乗ってる馬は特別おとなしく、決して小走りにならない。馬幇がいうには馬にももちろん性格があり、先頭を勤める馬はおとなしく他の馬の後ろを歩くことができず、反対に私の乗ってる馬のような性格では、先頭に立つことができずにすぐの後続に道を譲ってしまうそうだ。

外人二人も、悪路にあきらめて乗馬。

私の馬がどうにも遅いので、私が重いから遅いのかと尋ねると、「そんなことはない。この馬は300キロまでは乗せられるんだ。オレが見るところ、アンタは重くても100キロぐらいだろ?」だと!そんなにないぞ!!!

楽しく馬に乗っていると、草原に出た。相棒は早速馬にムチをくれてとっとと走り出した。あわてて私も追う。草原には馬やヤクが放牧されていて、やはり羊はいない。草原の終わりに小屋があり、馬幇が休憩!と叫んだので馬を下りた。小屋の中ではチベタンのじいさんがヤクミルクを煮立てていた。一杯2元。安くはないが、浮いてる油をみてもしぼりたてで、中@の町なかで売っている水で薄めたやつとはみるからに味がちがいそう。飲欲(そんな言葉あるのか)をそそる。

実は同宿のシンガポール人が、ゼッタイ飲むな、下痢するぞと忠告してくれていたのだが(彼の兄さんは下痢で寝込んでいた)、「ちゃんと沸騰してるし~」「飲みなれない人は普通の牛乳でもお腹こわすんやし~」と自分に言い訳をしつつ、結局二杯ずつ飲んだ。たいそう濃い味で、実においしかった。そして我々のお腹にはなんの異変も起こらなかった。

さて、ヤクミルクもおいしかったし、さあ進もう!と立ち上がると、「馬はここまで。湖まで行きたかったらあと5元」と言い出した。くっそぉ、やられた~。馬を下りた我々の負けである。ヤクミルク爺が湖まではあと1キロというので、歩くことにする。

ところがこれが大間違い。1キロどころではない上に、山を一つ越えるハメとなり、たいそう辛苦な道のりであった。フランスじいさんが「いや、普段なら、こんな山、たいしたことは、ないのだが、さすがに、これだけ標高がたかいと、酸素が、薄くて、キミ、分かるだろう、いやあ、ふだんなら、こんな道、私は山歩きが好きだからねえ・・・しかし、これだけ酸素が薄いと・・・」と、いつまでもくどくどと言い訳がましくしゃべり続けてくるので、「黙って歩いた方がラクなんちゃう?」と喉元まででかかった。

このじいさんはさっき馬から降りたときも「いやあ、私はヨーロッパではジョッキースタイルの乗馬にしか慣れていないものだから、こういうマウンテンホースにはちょっと戸惑ったよ・・・」などと笑かすことをほざいてくれたのである。乗馬する階級の人種には全く見えんぞ。こっちが東洋人やと思って無茶なはったりをかますんではない。

峠を徒歩で越えているときでも、ずいぶん遅れて後ろの方から私を呼び止めて、「キミの靴と私の靴はいっしょじゃないかね?」「・・・違うと思いますけど(全然違うやんけ)」「どこで買ったのかね?」「香港です」「メーカーは?」「Hi-tecですが。」「聞いたこと無いなあ、スペイン製かね?」「・・・」待ってほしいなら待ってほしいと素直に言え、フレンチじじい。

峠を越えると、再び草原に出た。草原の向こうに美しい湖が広がっている。湖畔にはバンガローがいくつか建っていて、またこのこうるさいフレンチじじい、「こんな美しいところにこんな醜い建築物を建てるなんて! こんな不格好なものを!実に残念だ!」と大仰に騒ぎ立てるのでうんざりした。完全に西洋風に建ててある木造のバンガローである。キミの国にこういうバンガローが無い訳ではなかろう。西洋人に中国人の感性をバカにされる筋合いはない。

こやつは要するに東洋人をバカにしたいだけなのだ。この手の白人は実に多い。いい年してるんだから、それを表に出さないだけの洗練を早く身につけるがよい。このフレンチじじいは、昔香港のドミに長居をしていたころの同室だったジャーマンじじいを思い出させる。タイで働いているそうだが、アメリカ文化のことを「ミッキーマウス的な」「極めてミッキーマウス的な」とけなしまくり、返す刀でアジアをちらりちらりと皮肉るのだが、言葉の端々に自分の回りの世界に対する鬱屈と、有色人種への救いようのない蔑視がうかがえて、慄然とさせられたものだ。(ドイツ人だしネ。)

別の同室のイギリス人の男の子が「不愉快にならんのか」と聞いてきたことがあった。「友人という訳でなし、一時的なルームメイトなのだから、態度と行動が紳士的であれば私はかまわない。あの歳で、こんなとこに泊まってあんなこと言うタイプを相手にしたってしょうがないでしょ」と答えると、彼は「それが東洋的なやり過ごしかたなのかなあ」と肩をすくめた。

湖の淡水魚をスープにしてもらい、昼食とする。湖の回りの潅木に花が咲き、湖に落ちる時期には、この魚は食べられないそうだ。花に毒があり、毒に免疫を持つ魚がそれを食べるからだという。

1996年6月2日日曜日

ニュースチャネル受信障害

本日は休息日。昨日、丘の上の寺まで往復したピクニックのせいで顔が焼けて痛い。気温が低いので日焼け止めを塗り忘れたのである。

この宿はスターTV(衛星放送)が見られることがウリのひとつなのだが、1)中文台 2)MTV 3)スポーツ台 4)BBCのうち中文とBBCのニュースチャネルが本日から見られなくなった。あさってはアレですしな。MTVも香港で見てたやつとはちがって、インド系。英語とヒンディーで踊りくるってます。

1996年6月1日土曜日

松賛林寺

起床。本日は中国の子供の日、子どもがみんな一張羅を来ていてかわいらしい。チベット族の少女たちはおでこにビンディーみたいなのを付けていて、側頭部でみつ編みをしている。ほっぺたも赤く化粧していて、みなお稚児さんのようである。

この子供たち、ほんとは前から写したかったのだが、チベット風の晴れ着を着てる子だけ撮るわけにも行かず、人見知りする子供たちのようで、みんな並ばせて撮るのも撮れそうになかったので、やむなく後ろから。スッゴイかわいかったのでとても残念。

松賛林寺まで歩く。5キロちょっとの道のりであるが、標高と登り路のせいもあり、ややつらい。途中の景色はばつぐんであった。広がる高原になだらかな丘。丘の向こうにそびえる雪山・高原にはチベット族の集落が点在し、人々が日本の鎌のような短い柄の鍬で、腰をかがめて畑を耕している。どうして柄をもっと長くしないのかなあ。

さてチベット寺。ラマだらけ。ラマというのはたいてい日焼けしていて(高地は太陽光線がきつい)体格が良く(肉食をするから)、とくに若い衆は何することもなくブラブラしている人が多いので、信者ではない私からするとめっちゃ俗っぽい感じがする。声もでかいし、ゲハゲハ笑ってるしなあ・・・などと思いながらあるラマの右腕を見ると、「O.K.!」と刺青がしてあった。

OK!ってあんた・・・。そこで私は納得した。この人たちは「和尚さん」ではなく、「比叡山の僧兵」なのだ。だからこんなにいっぱいいるのだな。きくと、この寺のラマは600人ほどだという。その僧兵たちがまた手に手にボートのオールのような木製の棒を持って階段を上がってゆく。武器かなあ?と思いながら私たちも登ってゆくと、上では本殿の修理をしていた。

本殿は木で骨組みを組んだ後れんが(恐らくは日干し煉瓦)を積み、その上に泥を塗り、最後に漆喰を塗った上に絵や模様を描くという工程でできているかと思われるのだが、ラマ僧たちは何かの事情で窪んだ部分に岩をくだいて撒き、水をかけてさっきの棒で突き固めているのだった。えいえいおうーという感じでがんがんやっているのを見て、おいおい、底はぬけへんのかと心配になる。

そうこう見物していると、片目の悪い若いラマがやってきて、「ハタ」を知っているかと声をかけてきた。ハタとはマフラーのような長い(多くは)白い布のことで、これをを客人の肩にかけることによって歓迎を現すチベット系民族の風習がある。私はピンときて相棒の顔を見たが、相棒が嬉しそうなので仕方なく付いてゆくことにする。

案内されて部屋に入るとラマたちが何人もいて、私たちに白いハタを一本ずつかけてくれた。この部屋は68歳の活仏の部屋なのだという。活仏はただいま本堂で礼拝中。かわいいチベタンの女の子も何人かいて、チベット仏教は確かダライラマの属する教派以外は妻帯が許されていたはず、この女の子達も大黒なのかな?

さて、このラマたち、ほとんどは見事なぐらい漢語が話せないのであった。何歳?とかいつ?という程度の極めて単純な質問でも、いろんな言い方で聞いてみないと分からない。小坊主のころからここで蔵文教育受けてりゃそうだろーなー。ここは行政的には雲南だが、実際には明明白白にチベット文化圏である。こんなとこも中国って言うのは、ちっと無理があるよねえ。

相棒が35歳だというと全員にびっくりされた。このへんの35歳よりはかなり若かろう。私が26歳だというと「身体不錯!」直訳すると「ええ体やな」だが、いったいどういうイミで言ったのであろうか・・・

そのうち相棒のカメラをとりあげていじりはじめたので、あわてて私のを貸してあげた。相棒のはニコンの一眼レフ、安物だが彼にとっては宝物だ。別のラマは相棒のサングラスを気に入って離さない。そして記念撮影。ピースを出すラマ。完全にヤンキー状態のラマ。笑いそうであった。 ↓どーだヤンキー4連発↓

「このサングラスは中甸で買ったのか?」冗談ではないぞ、それはレイバン。「いくらだ?」この辺の平均月収の三倍ほどするのである。返ってきたときにはサングラスの鼻あてが大きくゆがめられていた。相棒が「いくらやったかなあ、忘れたなあ。」と答えながら必死で鼻あてをもとに戻す。カメラを貸さなくてよかった、よかった。

そうこうしているうちに、ついに、というかやはり、請求のときが来た。「そのハタは一枚10元だ。」さらにおかしいのは、「中甸で買ったら一枚11元なんだよ。」と何度も付け加えること。そらきたなあと相棒の顔を見て笑うと、蔵族姑娘たちもクスクスわらっていた。

我々は20元献納して部屋を出た。相棒はまだサングラスの鼻あてと格闘をしている。

昼兼夕食を、町に一軒しかない羊肉館で食べた。この辺のチベット族は羊肉を食べないそうだ。(家畜はヤクのみ。チベット族農家では、気を付けて観察した限り鶏も見なかった。)だから、この店で食事をするのは外地人ばかり。

経営者は楚雄から来たというイ族の一家で、またもや黒イとか白イとか言う話になったところ、自分は「紅イ」だと言い出した。言葉が涼州イ族とは全くちがうんだそうだ。服装も、女性はあの黒いイカ帽子をかぶらないのだと言って、イトコの女の子の写真を見せてくれた。あっさりした苗族のような衣装である。石林のサニ族もイ族の一支系だというから、それに近いのかもしれない。

食事後、少数民族の言語に関する本と、牛に付ける鈴を買って帰った。