起床。本日は中国の子供の日、子どもがみんな一張羅を来ていてかわいらしい。チベット族の少女たちはおでこにビンディーみたいなのを付けていて、側頭部でみつ編みをしている。ほっぺたも赤く化粧していて、みなお稚児さんのようである。
この子供たち、ほんとは前から写したかったのだが、チベット風の晴れ着を着てる子だけ撮るわけにも行かず、人見知りする子供たちのようで、みんな並ばせて撮るのも撮れそうになかったので、やむなく後ろから。スッゴイかわいかったのでとても残念。
松賛林寺まで歩く。5キロちょっとの道のりであるが、標高と登り路のせいもあり、ややつらい。途中の景色はばつぐんであった。広がる高原になだらかな丘。丘の向こうにそびえる雪山・高原にはチベット族の集落が点在し、人々が日本の鎌のような短い柄の鍬で、腰をかがめて畑を耕している。どうして柄をもっと長くしないのかなあ。
さてチベット寺。ラマだらけ。ラマというのはたいてい日焼けしていて(高地は太陽光線がきつい)体格が良く(肉食をするから)、とくに若い衆は何することもなくブラブラしている人が多いので、信者ではない私からするとめっちゃ俗っぽい感じがする。声もでかいし、ゲハゲハ笑ってるしなあ・・・などと思いながらあるラマの右腕を見ると、「O.K.!」と刺青がしてあった。
OK!ってあんた・・・。そこで私は納得した。この人たちは「和尚さん」ではなく、「比叡山の僧兵」なのだ。だからこんなにいっぱいいるのだな。きくと、この寺のラマは600人ほどだという。その僧兵たちがまた手に手にボートのオールのような木製の棒を持って階段を上がってゆく。武器かなあ?と思いながら私たちも登ってゆくと、上では本殿の修理をしていた。
本殿は木で骨組みを組んだ後れんが(恐らくは日干し煉瓦)を積み、その上に泥を塗り、最後に漆喰を塗った上に絵や模様を描くという工程でできているかと思われるのだが、ラマ僧たちは何かの事情で窪んだ部分に岩をくだいて撒き、水をかけてさっきの棒で突き固めているのだった。えいえいおうーという感じでがんがんやっているのを見て、おいおい、底はぬけへんのかと心配になる。
そうこう見物していると、片目の悪い若いラマがやってきて、「ハタ」を知っているかと声をかけてきた。ハタとはマフラーのような長い(多くは)白い布のことで、これをを客人の肩にかけることによって歓迎を現すチベット系民族の風習がある。私はピンときて相棒の顔を見たが、相棒が嬉しそうなので仕方なく付いてゆくことにする。
案内されて部屋に入るとラマたちが何人もいて、私たちに白いハタを一本ずつかけてくれた。この部屋は68歳の活仏の部屋なのだという。活仏はただいま本堂で礼拝中。かわいいチベタンの女の子も何人かいて、チベット仏教は確かダライラマの属する教派以外は妻帯が許されていたはず、この女の子達も大黒なのかな?
さて、このラマたち、ほとんどは見事なぐらい漢語が話せないのであった。何歳?とかいつ?という程度の極めて単純な質問でも、いろんな言い方で聞いてみないと分からない。小坊主のころからここで蔵文教育受けてりゃそうだろーなー。ここは行政的には雲南だが、実際には明明白白にチベット文化圏である。こんなとこも中国って言うのは、ちっと無理があるよねえ。
相棒が35歳だというと全員にびっくりされた。このへんの35歳よりはかなり若かろう。私が26歳だというと「身体不錯!」直訳すると「ええ体やな」だが、いったいどういうイミで言ったのであろうか・・・
そのうち相棒のカメラをとりあげていじりはじめたので、あわてて私のを貸してあげた。相棒のはニコンの一眼レフ、安物だが彼にとっては宝物だ。別のラマは相棒のサングラスを気に入って離さない。そして記念撮影。ピースを出すラマ。完全にヤンキー状態のラマ。笑いそうであった。 ↓どーだヤンキー4連発↓
「このサングラスは中甸で買ったのか?」冗談ではないぞ、それはレイバン。「いくらだ?」この辺の平均月収の三倍ほどするのである。返ってきたときにはサングラスの鼻あてが大きくゆがめられていた。相棒が「いくらやったかなあ、忘れたなあ。」と答えながら必死で鼻あてをもとに戻す。カメラを貸さなくてよかった、よかった。
そうこうしているうちに、ついに、というかやはり、請求のときが来た。「そのハタは一枚10元だ。」さらにおかしいのは、「中甸で買ったら一枚11元なんだよ。」と何度も付け加えること。そらきたなあと相棒の顔を見て笑うと、蔵族姑娘たちもクスクスわらっていた。
我々は20元献納して部屋を出た。相棒はまだサングラスの鼻あてと格闘をしている。
昼兼夕食を、町に一軒しかない羊肉館で食べた。この辺のチベット族は羊肉を食べないそうだ。(家畜はヤクのみ。チベット族農家では、気を付けて観察した限り鶏も見なかった。)だから、この店で食事をするのは外地人ばかり。
経営者は楚雄から来たというイ族の一家で、またもや黒イとか白イとか言う話になったところ、自分は「紅イ」だと言い出した。言葉が涼州イ族とは全くちがうんだそうだ。服装も、女性はあの黒いイカ帽子をかぶらないのだと言って、イトコの女の子の写真を見せてくれた。あっさりした苗族のような衣装である。石林のサニ族もイ族の一支系だというから、それに近いのかもしれない。
食事後、少数民族の言語に関する本と、牛に付ける鈴を買って帰った。