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書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1997年1月31日金曜日

食べても食べても吐く

ブランチをチベタンレストランで。しばらくの間ヴェジでいってみようと考えた私は、ヨーグルトにミントティーにポテトサラダという健康的なメニューにした。だが相棒は肉なしでは生きられません。焼き肉と餃子。両方ともBuff肉。

相棒、部屋に帰るなり吐く。全部吐く。どうしたこったい。「おやつに食べたビーナッツクッキーが悪かった…」違うと思うな。肉が悪かったんだと思う。本日は休憩日にする。

夜、私はきのこのスパゲティ、相棒は控えめにヨーグルトだけを食べる。スパゲティはおいしくて幸せだった。しかし驚くべきことに相棒、再び吐く。全部吐く。急いで薬局に行き、消化剤を買ってきて飲ませる。胃の薬なんかふたりともめったに必要としないので、持ち合わせがないのだ。

相棒、うんざりした顔で薬だけ飲んで眠る。

1997年1月30日木曜日

ポカラ到着

朝7時始発のバスは7時半にようやくやってきたと思ったら、そのままポカラへは向かわずにいったん郊外のカトマンドゥ・バスターミナルへ向かい、さらに再びカトマンドゥ市内へ戻って朝のラッシュにきっちり巻き込まれ、盆地を出たのが八時半、そして9時にはパンクした。なにやら修理を終えて9時45分、再出発。私は昨夜ホテルから借りパチしてきた「一握の砂・悲しき玩具」をじっくり腰を据えて味わう。

10時半、再び停車。タイヤ交換屋の前である。なおこのバスの予定所要時間は八時間、多分そんなもんでは全然済まないとおもうが、一応予定では八時間、そしてバス代は日本円にして160円である。

パンクしたタイヤの周囲に集まっている男たちの頭の隙間から、マンガの歯医者が抜歯に使うようなごっつい黒い工具を使って、でかいでかい釘を引き抜いていた。こんなもんが刺さっとったのか。

再出発。昨夜のBuff肉のせいでまだ胃が苦しくてたまらず、夜もよく眠れなかったのでバスに揺られてぐうすか眠る。このローカルバス、やはりツーリストバスとはちがって道端で人を拾ったり下ろしたりするのでとても時間を食う。結局ポカラ到着は五時半。十時間のバス旅となった。なお距離は190km。時速20キロ切ってるやん…。

バス停の客引きに、「我々は200ルピー以下の部屋を探している。条件はバストイレ付きのダブルで、ホットシャワーは24時間使えること。ホテルにはバルコニーがあって山が見え、そこには屋外と屋内に座ってくつろげる場所があること。部屋は広めで清潔であること」と、言いながら笑ってしまうような条件を並べてみた。250ルピーって400円ぐらいね。なんちゅう過大な要求だよ。

しかしここではそれでも大丈夫なのだ。客引きの一人が、150ルピー、タクシー代はタダと名乗りを上げた。見にゆくと、わりといい。お湯も出る。二階は200ルピーというのを、5日泊まったら150ルピー/日と値切って泊まることにした。残念ながら天気がよろしく無く、屋上からマチャプチャレの方角を見ても雲だらけだったが。

消化の良さそうなスープを飲んで、本日は終了。

1997年1月29日水曜日

Buff肉三食の日

余分の一日、することもなし。

朝食・昼食・夕食と三度の外食。(普段は朝食は部屋で前日に買ったものを何かしら食べる)三食ともBuff肉を食べた。朝は焼きモモ、昼はトゥクパ、夜はスープモモ。胃がもたれて仕方がない。やはり私、肉は大量には食べられない消化器になってきたのかもしれん。インドではヴェジですごしてみるか。

夜二時過ぎ、胃の苦しさに目覚めた。そのまま翌朝まで呻く。

1997年1月28日火曜日

「ストライキ」

五時半起床。しかしなんてこと、相棒、発熱。パラセタモールを飲ませて、仕方なく再び寝る。9時、フロントから電話がかかってきた。早朝チェックアウトすると通告して、昨夜のうちに支払いを済ませていたからだ。今思ったが、電話付きの部屋なんて何ヶ月ぶりだろうか。もう二・三泊すると伝える。

十時頃、頭痛が少しマシになったと相棒が体を起こしたので、パンとホットレモンを取らせて様子を見る。もっと食べたいというので、軽食を取りに外出する。

食後、諦めて旅行会社にツーリストバスの予約に行くも、明日・明後日ともに無し。どういうことかというと、ストライキだという。しかし、よくよく事情を聞いてみると、それってストライキっていうのかなあ。

カトマンドゥ→ポカラのエクスプレスパス(パブリックバス)は、カトマンドゥ・バスターミナルから出る。このバスターミナルは日本の援助で作られた新しい、よくできたターミナルであるそうなのだが、市内から遠く、そこへ行くまでの交通がとても不便なのだ。そこで、多くの旅行者のみならず、ローカルのネパール人も、カンティ・パト(市中心)から出るツーリストバスのほうを好んで利用する。そのため、パブリックバスは常にガラガラで、公共交通としての採算が立たない。

そこでパブリックトランスポートアソシエーションがこの状況を打破すべく、カトマンドゥからポカラへ向かったツーリストバスをポカラで没収してしまい、カトマンドゥへ帰さないのだという。そのため、ここ数日カトマンドゥからポカラへ向かうバスがなくなってしまっている、ということだそうだ。それはストライキとは全然ちがうんとちゃうかな。

バンコックでは、バスターミナル以外のバンコック市内で客を乗せるのは違法だと聞いたが、カトマンドゥではどうなのだろう。カンティ・パトから出発するツーリストバスは法に触れているのだろうか? だとしたら、それを取り締まるのは警察の仕事のような気がするhが。パブリックトランスポートアソシエーションとやらの仕事は、ツーリストバスの仕事を邪魔するのではなく、市内からカトマンドゥ・バスターミナルまでの足を便利にすることだろう。例えばカンティ・パト/ダルバール マルグ/タメルの三箇所から、三十分に一本でもターミナル行きのミニバスを運行させれば、ターミナルの利用率はだいぶ上がるんではないの。だってパブリックバスは80ルピーから、ツーリストバスは150-200ルピーと、バス自体には差がないらしいのに、チケットの値段にかなり差があるから。

まあいい。しかたなくビンセンタワーに行き、一日1-2本しかないポカラ行きのバスを予約しようとしたら、「ストライキ」のあおりを食って今晩、明日早朝ともに売り切れなのであった。背に腹は変えられず、明後日の早朝、それも後ろから二列目という条件の良くない席を渋々予約。

宿に戻り、相棒は昏々と眠った。大丈夫だろうか。


1997年1月27日月曜日

インドVISA取得

ナガルコットに行こうと思ったが…(昨日と同様の状況)

インド大使館へVISAの具合を聞きに行く。なんと相棒のVISA CLEARANCEはロンドンから速攻で帰ってきていたが、私のがない。私のがないよー、ないよーと主張して、私と相棒ではなにやら違う手続きでVISAの申請となった。午後には発給されるそうだが、そこへたどり着くまであっちへ行き申請用紙に記入、こっちへ行って長らく待っては話を聞き…、何やらとても能率の悪い手続き手順だった。しかしとりあえず申請手続きは終わり、本日四時半にパスポートを返してくれるという。よかった、よかった。ランチを食べて宿に戻る。ぽから行きのチケットを買いに行こうと思ったが、パスポートが帰ってこなかったときのことを考えてやめにする。

三時半、インド大使館へ。四時半まで待てと言われ、素直に待つ。なんと4時にパスポート返却、ビザも付いている。さっそくビンセンタワーへ向かい、バスチケットを購入しようとするも、「予約の時間は終わりました。明日当日券を買ってください」と言われ、びっくり。明日の当日券って、バスは朝6時の一便しかないのに、フル荷物でここまできてもし席がなかったら無駄足じゃん…。

旅行会社にも行って見画が、ツーリストバスも明日は満席、明後日のしか空いていない。私と相棒は相談して、明日の朝早起きをして、ビンセンタワーから出るローカルバスに挑戦してみることにした。

1997年1月26日日曜日

ボダナート訪問

ナガルコットに行こうと思ったが、ガスっているのか霧なのかスモッグなのか、ヒマーラヤどころかカトマンドゥ盆地を取り巻く山ですら見えないという天気の悪さ。快晴は快晴なのだが、空気が悪いのだ。というわけで、今日はBoudhanatへ行くことにした。

セントラルバススタンドへ行く途中に、大量の山羊に出くわす。それ自体はそれほど珍しくもない風景だが、群れから脱走した一匹を追う牧人が全力疾走のままためらいもなく見事な飛び蹴りで羊を止めたのが見ものだった。

ボダナートは牛だらけ。チベット人にとっての聖地であるらしく、チベタンでいっぱいだった。五体投地をしている人が大勢いた。西洋人はなぜチベット仏教があんなに好きなのだろう。ムスリムの一日五回のお祈りをファナティックだとかいうくせに、五体投地を見て敬虔さに感動したりするのは不公平だ。そのへんのところをよく了承した上で白人を味方につける作戦を取り続けている猊下はやはりうまい。

「私は観音菩薩の生まれ変わりです」という人が管理する国に住むのは私はツライが、まあわが祖国だって「私の祖先は神様で、何だったら私も神様です」という人を国の象徴として頂いているわけだしな。他人様のことは言えん。

ボダナートではラマの格好の外人をたくさん見たが、私の正直な感想は「お調子者」であった。

1997年1月25日土曜日

Monkey Temple(猿寺)

朝食の後、Loof Top Garden(ただの屋上とも言う)で日向ぼっこ。高地なので、日向はポカポカと暖かく、日陰はいきなり寒いという、月の表面のような気候である。

昼食の後、Monkey Temple(猿寺)というカトマンドゥ北郊の丘の上にある仏教寺まで遠出する。片道一時間ぐらい。たいそう急な階段を登りきると、カトマンドゥ盆地が一望される景色が開けた。見事な眺めだ。あいにく霧が深く、本日は晴天なれどもヒマラヤは見えずなり。残念残念。

寺は完全にチベット式で、チベット人でいっぱいだった。インド人観光客も多かった。不思議だったのは、シーク教徒の若い男性が首から数珠をかけてお参りに来ていたことで、彼は布で頭を覆い、額の上にお団子をのせている典型的な若シークだった。シーク教でもブッダは聖人なのだろうか?

山の麓で、8月にチェンマイで会った人とばったり出会った。タイから飛んできたばかりだそうで、しかしあの後一度は日本に帰っており、今回の旅ももっと長いものにする予定だったが、付き合っている彼女がじゃあ別れるというので、仕方なく三ヶ月ほどで帰るんだそうだ。いろいろ大変ですね。

相棒、風邪をひく。やはり亜熱帯育ち、寒さには極端に弱い。

1997年1月24日金曜日

おいしいものをぽつぽつ発見

今日はPatan(パタン)へ行く。セントラルバススタンドからバスで二十分、バクタプルよりきれいで、カトマンドゥより静かな街だった。王宮博物館は残念ながら修復中で内部は見られずじまい、マハーボダー(マハーブッダ)寺院を見に行くと、チベット人の先客がたくさんいた。なんと1000Rs札をお賽銭箱に入れていたので、信仰厚い人達だなあとしみじみ驚いた。

ネワールモモ(水餃子)はチベタンモモよりも私の好みに合っているかも。辛~いカレースープをかけて食べる。蒸したてモモはとってもおいしいと思うのだが、相棒は例によって全然ダメ。マサラ系が苦手なのだ。今日は道端で揚げモモも食べてみた。わりとイケる。油がよければもっとおいしいだろうと思う。10個で12RsのSweet&Saltクッキーがばつぐんにおいしかったので、朝食用に同じ店の4個12Rsのパンを買ってみた。ライム3つで5Rs、トマト1kgで20Rs。トマトが激安だ。別の店で尋ねたときには1kg50Rsだったのに。品種が違うのかな。(見た目同じ) 1kgは食べられないので、半kg買ってみた。せっせと食べてビタミンを補給しよう。

夕食はBuss Pulaw(水牛の肉入り炊き込みご飯)が相棒の気に入った。丁香(丁字、Clove)が入っていることを除けば、とてもおいしいそうだ。食べられるものがあってよかったね。トゥンパ(黍の実の発酵酒)を飲んで、本日はおしまい。

1997年1月23日木曜日

カナダ人最後の謎

朝からバスに乗ってBhaktapur(バクタプル)へお出かけ。エクスプレスではないバスに乗ってしまったので、一時間もかかった。途中でTimiという村を抜けていく。素焼きの獅子や象がたくさん売られていた。

今日はお天気がよく、ヒマラヤがクリアに見えてご機嫌である。バクタプルに到着すると、町の入口にチケット売り場があり、250Rs。ガイドブックの50Rsから大幅に値上がりしていた。カトマンドゥと違ってツーリストが殆どおらず、静かな街だった。王宮に入るのにチケットのチェックあり。

午後、またしてもエクスプレスパスに当たらず、遅いバスでちんたら楽しくカトマンドゥに帰ってきた。運転席の隣りに座ったので、景色もよく見えた。夕食後にカナダ人とばったり。仕事を見つけたと言うのでなんだと聞くと、日本の映画だという。主人公に話しかける外人の役で、ギャラはUSD100。やったじゃん!これまでのバッドラックを全部帳消しにできるじゃん!「明日は僕のフィルムデビューの日さ!」と明るく笑うので、オメデトウという気が九割、この人ほんまに大丈夫なんかな…という気が一割。

後記:1997年の邦画で主人公がカトマンドゥにくる映画というと、深夜特急のユーラシア編が97年7月に公開されている。ひょっとしてこれなのだろうか?真相は永遠に謎。

1997年1月22日水曜日

カトマンドゥの大気汚染

カトマンドゥ市内をうろうろと探索する。なんと大気汚染のひどいところだろう。周囲を高山に囲まれた盆地で、空気の流通が悪いという地理的な悪条件なのだ。また寒い上に天気が悪く、舗装されていない道がぐじぐじにぬかるんでいるのも嬉しくない要因だ。

あと、各店舗・各ご家庭に自分ちの前は掃除するという習慣が薄いらしく、道端の生ゴミがすごいのである。野良犬・野良牛が用を足しまくっているので、せっせとこまめに掃除する気にはなれんのかもしれんなー。野良牛がゴミの中からビニール袋を漁って食べていたのでぎょっとした。それは明らかによくない。

1997年1月21日火曜日

インドビザ申請

激寒。ネパールの宿には綿ふとんは標準装備ではないものなのでしょうか…。ベッドをくっつけて、二人分四枚を毛布を重ね、それぞれが寝袋を使用して寝たにもかかわらず、まだ寒い。私なんか服を六枚着て、マフラー巻いて寝てるのに。まあ、灼熱の国を何ヶ月も歩いてきていきなりだから、体が慣れてないのかも。

朝からインド大使館に行き、ビザを申請する。簡単なインタビューの後にTELEX用紙を欠かされ、申請料が300Rs。TELEXがインド本国から返ってくるのが七日後で、返ってきたら即ビザ発行とのことであった。ビザ代は1200Rs。計1500Rs、3000円ぐらいか。大使館員はめちゃめちゃ尊大で、久しぶりに世界三大最悪民族説を思い出したが(インド人・中国人・アラブ人)、本人たちに悪気はない。しかし、お釣りをごまかそうとしたのではないかという疑いは晴れないので、インド!気を引き締めてかからねば!!!(ちょっと楽しみ)

さて、このままでは頭から風邪をひくという相棒の主張により、羊毛の手編みの帽子を買う。相棒、帽子のてっぺんのぼんぼりが気に入らず、購入後に店の人に切ってもらう。私は頭からは風邪をひかない方なので、買わなかった。そのかわりにトパーズの指輪が欲しくてたまらない。小さすぎるのでサイズ直しが必要だが、直し込みで375Rs。800円である。楽しくうじうじ悩む。寒さに弱い相棒は、帽子に続いて毛糸のパッチを買う。骨だけの脚の人には必要な装備だろうと私も思う。200Rs。相棒の買い物を見て私も指輪を買う気になり、先程の店のトパーズを買う。とってもキレイ。似たようなデザインのガーネット、ムーンストーン、ペリドット、オパールもあり、どれも欲しくてたまらない。

1997年1月20日月曜日

カナダ人の不幸は続く

起床。このホテル、夜寝ているとしんしんとカビ臭さがつのってきて、鼻炎・気管支炎もちの我々にはなかなかつらい夜となった。11時頃に両替屋を探し、USD100T/Cを5700Rsで両替して、チェックアウト。宿の主人は大変なふくれっ面であったが仕方がない。昨日の一軒目に行き、今ホットシャワーが使えるならここに移ると宣言して、湯を確かめに行く。出た。チェックイン。風呂だ! ミャンマーのバゴー以来、なんと六日ぶりのシャワーである。たっぷりの熱い湯、幸せ。

昼食をチベタンレストランで。食後のそぞろ歩きを楽しんでいると、カナダ人にばったり。昨日は入国でもめたの?と尋ねると、彼はこう言うのであった。空港で米ドルの持ち合わせがなく、アライバルビザの費用が払えなかったので、パスポートを空港に預けてきたのだと。先程両替商で米ドルを入手、今から空港へパスポートを取りに行くのだそうだ。なんだか手際の悪い人だなあ…。そしてさらに続けてこんな事をいうのでびっくりした。「カナダドルを受け付けてくれない場合のために、バングラディシュ・タカをUSD30相当用意してたんだけど、それも受け付けてくれなかった」

世界のどこの国がカナダドルよりもバングラタカを欲しがるというのだろうか。この人の不運というのは、ある程度までは自分で引き寄せているのかも知れない。

1997年1月19日日曜日

ダッカからカトマンズへ

昨日のイブニングティーのことを書くのを忘れていた。

夕方4時ごろ、ボーイが部屋にきて「イブニングティーの準備ができたからレストランに来てください」と告げた。眠っている相棒を置いて、私一人で出かけると、サーブされたのは1杯の小さい小さいカップの紅茶と、直径30センチぐらいの大皿の上にぽつん3枚マリービスケット・・・が、きっちり縦にそろえて積んでありました。爆笑しそうになったがぐっとこらえ、そのとたんに頭に浮かんだ何の根拠もない確信は、「絶対しけってる。」食べてみた。しけってた。

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本日カトマンドゥへ飛ぶ日、朝食を急いで食べに行く。9時にホテル出発、11:40の飛行機搭乗の予定だからだ。食べ終わって「バス9時?」とフロントに確認に行くと、呼ぶまで部屋で待っててくださいとのこと。あの部屋に座ってんの、イヤー!夕べは湿気とひどい空気で二人ともよく眠れず、おまけに今朝から断水で、トイレの水も流せないのだ。

が、仕方がないので部屋に帰ってCNNを見たり、フロントから撮ってきたバングラディシュの英字新聞を解読したりする。ペルー大使人質事件は、まだフジモリ大統領の弟含む73人が解放されてへんのだと。昨日は2週間ぶりに、医療が必要なペルーの大臣が解放され、病院へ直行したそうな。日本円は117円と安い。へブロンがパレスチナ軍の管轄下に入った。等等。

9時、バスまだ?と聞きにいくと、飛行機が遅れて2時ごろの離陸になる見込みと言われ、くそうと思う。思えばビーマン、これで乗るの4度目だが、定刻どおり出発できたためしがない。やはり激安には理由あり。

昼食もここで食べることになってしまった。またあのメニューか・・・とつぶやきながらダイニングへ降りると、今日のメニューにはちょっと変化があった。チキンカレーとカレースープと生野菜と白ごはん。つまり、炒飯とポテトカレーがない。突然なので間に合わなかったのか、単にめんどくさいのか。

しかし、例のカナダ人は実はベジタリアンで、このままだと白ごはんと生野菜しか食べるものがない。ポテトカレーは?と控えめに催促してみたところ、20分後にポテトが煮崩れていないカレーが現れ、よかったね。しかし芋カレーごときで油断をしてはならず、このカナダ人の不運な話はまだまだ続く。

朝食の席でわかったことだが、彼は航空券の出発時刻が間違っていたために、私たちと出発時刻についての話をしなかったら(そしてビーマンが定刻に近い時間に出発していれば)、危うく午前いっぱい外出をして。飛行機に乗り遅れるところだったのだ。

ビーマンの航空券は自動発券ではなく、カーボン紙に手書きである。本来11:40の出発時刻が16:40となっており、当然だが本人はそのつもりでいた。旅行会社のレシートには正しい時刻が記されており、完全にビーマンのミスである。昼食時に「今日はテーブル変えてみる?」と聞かれたので、「変えようか、ツキを変えるために」と答えると、哀しく苦笑。しかし、彼の不運はコレだけではなかったのだ…

正午、例のボロボロのワゴンで空港へ。チェックインカウンターに並ぶと、散々待った挙げ句にやっと順番が来たカウンターで、「トランジット客はあっち」と無人のカウンターを指さされ、その前にセキュリティチェックを受けるように指示される。無人カウンターで待つこと十五分、白紙の搭乗券の用紙を持った男が現れ、私達の名前を非常におぼつかないキータッチで入力し始めた。ようやく入れ終えた頃、別の男がすでに搭乗客情報を印刷済みの搭乗券を持って現れ、「ボーディングパスはここだ」と言って搭乗券とパスポートを返してくれた。

ここでカナダ人レッツトラーイ 「トランジット客であることがわかっているのにツーリストビザを買うよう要求されて支払ったUSD50を返金してほしい」 → 「イミグレーションで支払い済みの費用はすべて返却不能!」と一言のもとに拒否され、さっさとその場を去りかかる。おいおい、このフル荷物はすべて機内持ち込みでいいのか?「何、まだチェックインしてないのか」 「今搭乗券とパスポートくれたとこやん…」 「では荷物をよこしなさい」といってクレイムタグを発行してくれたのはいいが、三人分の荷物が全てウチの夫の名前になっています。私のはともかく、なにかが起こったときにこのカナダ人が困るでしょう。(この人の運の悪さとビーマンの手際の悪さを考えれば、全く杞憂ではない)しかし係員は「名前は重要ではない!」ととんでもないことを言い捨ててさっさと帰ってしまった。カナダ人はキョーレツなショックを受けているようで、一言も声が出ない。

さて搭乗、BANGKOK→YANGON時と同じ機体だと相棒が言う。渡されたボーディングパスの座席は離れていたのだが、例によってガラガラなので一緒に座る。一時間ほどでカトマンドゥ到着。用意していた服をすべて着込んで降り立った私と相棒はちょっと拍子抜け。そんなに寒くないぞ。寒さに強い白人なんか半袖や。空港はバングラデシュのそれよりだいぶ出来が良く、降機客も少なかったのでスムーズに入国できた。TAXIは200Rs、例のカナダ人を待ってみたのだが、なかなか出てこない。なんかあったのだろうか。日が暮れてからの宿探しは難儀なので、気の毒だが、諦めて行くことにした。(伏線)

タクシーでThamel Street到着。一軒目はめちゃキレイだが250Rsとちと高めで部屋が狭い。二軒目、200Rsで一軒目の倍ほどの広さ。天井も高い。こちらにすることにして、とりあえず一泊。

夜、相棒が前回ここでばかり食べていたというAlice's Restaurantへ行く。高かった。でもばつぐんにおいしかった。風呂も入らずにばたりと寝る。

1997年1月18日土曜日

ダッカ自由行動の日

起床後、ダイニングで朝食。トースト&エッグと言えば聞こえが良いが、卵はともかく食パンは悲しい味だった。ジャムの替わりに強烈な蛍光色のゼリー状のものが添えてあり、もちろん口にはしていないが、なんだったのであろうアレは。

銀行で両替。USD1=Taka42というレート。さあ、どれほど使い出があるのだろう。徒歩圏内にマーケットがあるというので出かける。行ってみたが、どうしたわけか食材部門も含め、ほとんどの店がまだ開いていない。ダッカの朝は遅いのか。先に郵便局に言ってみた。小さい郵便局が人でごった返していたので、すごすごと引き返す。絵葉書なんかも売ってなかったし。

マーケットはぼちぼち開き始めていたが、ひなびた味わいのあったビルマの市場とちがって、ちゃちな工業製品を扱う店が多く、あまりおもしろくない。土産屋、骨董屋も何軒かあった。絵葉書を買う。1枚3Taka。5枚買った。13枚でUSD1という計算になるので、タイバーツだと一枚2B、ビルマチャットだと12~13Kyatで、両国に比べてずいぶん安い。が、絵葉書自体の質もかなりちがう。国内印刷だろうか。

のどの炎症をなんとかするために、みかんを探した。果物セクションに足を踏み入れるなり、「マダーム!!!」の集中攻撃を浴びた。「マダーム、Carry?」と叫びながら、頭にかごを載せた子供たちが寄ってくる。とても落ち着いて見ていられない。そのうち、私たちの中国語を聞きつけて、すいか売りが中国語をしゃべりだしたのには驚いた。どこで覚えたのだろう。

みかん、つやつやの大粒のをキロ5Takaで買う。ビルマではいつも8~10Kyatぐらいのを買っていた。それと比べるとちょっと高めだが、こちらのほうが大きくて味が良い。もっとも、マダーム攻撃から鑑みるに、ひょっとするとこの市場は上客相手にいいものをおいている市場なのかもしれない。

ホテルに帰り、廊下の突き当たりの大きなベランダに椅子を持ち出し、日に当たりながら絵葉書を書いていると、下の道に路上生活者とおぼしき子供たちが集まってきて、今度は「マダーム!ハングリー!」攻撃が始まった。小心者の私はなかなかゆっくりは座っておられず、尻尾を巻いて部屋に戻る。部屋は寒く、湿っており、異臭がする。昼も近いので、レストランへ逃げることにした。

昼食はチキンカレー、ポテトカレー、カレースープ、カレー炒飯、白飯、生野菜、以上。ブッフェ形式であった。味はまずまずで幸せである。

同席したカナダ人の気の毒な話を聞く。彼は私たちと同じ便でダッカに来たのだが、ダッカ空港の混乱のせいで、何の誘導も無いままにイミグレに並んでしまい。イミグレの役人に「君はビザを取得する必要がある。30日ビザがUSD50 。」と言われてしまったのだそうだ。そして彼もそもそもトランジットということをよくわかっていなかったせいもあり、そういうものかと考えてUSD50を1100THBで支払ってしまったのだそうだ。払ってからトランジットデスクに案内され、ホテルへの送迎を申し出ると、ではパスポートをよこしなさいといわれ、軽いショック。何で?との問いに対し、「あなたはトランジットパッセンジャーなので、ビザ無しで入国することになるので、ビーマンがパスポートを預かります。」とのこと。そこでほかのトランジット客にビザ代の件を尋ねると、もちろん誰も払っていない。つまり、やられたのだ。

私がレシートもらった?と訊くと、うん、と言って見せてくれたのは手書きの銀行のレシート。なんでイミ切れでビザ代払って銀行のレシートなのだろう。ようわかりません。明日空港で返してもらうように交渉すると彼は言うが、それは難しいとおもうなー。

絵葉書を出しに、郵便局へ行く。アジア地区へは10Taka、30円ぐらい?切手は単色刷りで、まるで日本の印紙のように味気なく、記念に買う気があまりおこらず、6Takaと2Takaを買うにとどめた。私はもひとつ心配だったので、ぜひとも目の前で消印を押して欲しかったのだが(発展途上国ではしばしば必要な確認である。でないとはがして転売する職員がいる。)、今日はもう消印を押す時間は終わり!と言われて、やむなく郵便局内のポストに投函した。この絵葉書はちゃんと届くのだろうか。(後日、日本の実家到着を確認。)

町をうろつき、ミネラルウォーターを買い、宿に戻って再びベランダで日に当たりながら午後を過ごす。ダッカは男性がめったやたらと多く、町で見かけた男女比率は100:1ぐらいの感覚であった。ムスリムの国なのだなあ。しかも本日一日で十指に余る野グソ(現在進行形)を目撃、インド亜大陸に到着したという実感がひしひしとわく。

夕食は昼と全く同じメニュー。ちょっと笑った。カレーとカレーとカレーとカレー。カレーの苦手な相棒はうなだれている。私はライムを大量に搾って、ものすごくすっぱいカレーにしておいしく食べた。

1997年1月17日金曜日

ビルマ最後の日

古道具屋でTIMEの神戸復興特集(96年1月号)を買う。K10。昨日はNewsweekのバックナンバーを、こことはちがう道端古本屋で眺めていたら、特集が台湾で、なんだか見覚えのあるような無いようなオッサンが表紙だった。誰だろうとしばらく立ち止まって考えていて、ふと思いついてひっくり返して日付を見ると、1982年3月号! うっひょー、15年前のNewsweek、あっ!このオヤジ蒋経国(蒋介石の長男)だ!

昼食は以前に食べたことのある薄餅(ぽーぴゃあ)屋で。薄餅(ぽーぴゃあ)とは福建南部の食べ物で、揚げてない春巻きのでかいやつである。甘辛いたれと、青海苔をつけて食べる。揚げてないやつを4本、揚げてあるやつ(つまり春巻)を2本食す。肉は入っていない。これが中華の喰いおさめになるかもな…。

300Kのタクシーを捕まえて、市街地からYMCAへ移動し、荷物をピックアップ。それから空港へ向かう。BIMANは、やはりといえばやはり、遅れた。お詫びのしるしに空港のレストランでお茶とサンドイッチが提供されたが、5mmのパンに1mmのチーズが挟まっていて、寂しかった。

やっと到着したBIMANは、ミャンマーに乗ってきたときのよりやや新しい、しかし同じ大きさの機体だった。1時間で予定通りチッタゴン到着。私たちは乗ったままでダッカへ行くのかと思いきや、全員荷物を持って降りろとの指示。人の流れに沿って歩いてゆくと、イミグレがあった。トランジット客も本当にここに並ぶのだろうか?係員に尋ねると、トランジットラウンジに行って、新しいボーディングパスを取ってこいとのことである。

トランジットラウンジで、首尾よく新しいボーディングパスを取得。ヤンゴンからは自由席であったが、ここから座席指定であった。係員に、「飛行機に荷物を置いてきたか?」とフシギなことをたずねられる。大荷物のほうはチェックイン時に預けたが…。そう告げたら、「では今すぐ飛行機からその荷物を取ってきて、税関へ急げ」との指示が出た。訳がわかりません。

そもそもダッカでトランジットしてネパールへ向かうのに、なんでチッタゴンで通関なの。ぜんぜんわからん。しかしここはバングラデシュ、非合理的で非効率的なこともいろいろあるのだろう…とあっさり納得というかあきらめ、飛行機の方へ戻ると、飛行機の腹の下に私たちの荷物だけがぽつんと二つ、地面に置いてあった。ひー。誰でも持っていけるやん。

税関へ行くと、荷物と役人と客で戦場のようであった。税関職員・イミグレ職員たち、誰一人制服を着ていないので一般人となんの見分けも付かず、この人たち誰!?信用できるのっ?って感じである。客一人につき係員一人がカバンを開けると、何人もが寄ってたかってカバンの中をごそごそ調べだす。うかうかしていると、小さなものをやられてしまいそうだ。実際、一人が私のタンポンに目をつけ、ごそごそやりだした。箱を勝手にべりっと破り、中身を取り出してはいろいろと調べだしたのである。そうこうしているうちにほかの係員たちもコレはなんだと騒ぎ出し、なにやら蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

それは「サニタリーナプキン」の一種だ!と主張しても、誰も耳を傾けない。サニタリーナプキンという単語を知らんのかもしれん。今思ったが、アンダーパンツが普及してない国での月経血の処理というのはどうやってるんだろう。しまいには個別包装をやぶって中身を分解し始めた。

「それはレーヨンと綿ならなる衛生用品である」
「確かに綿だ」

と、タンポンをほぐしながら難しい顔の係員。この先インド亜大陸でそれを補給できる見込みは無いので、頼むから無駄にせんといてほしい…。私たちはとうとう別室に連れて行かれた。別室で女性係員を呼ぶように強硬に主張。女性係員に粘り強く説明をすると、彼女は突然電球がともったような表情になり、「あなたは結婚しているのか?」

なんの関係がー。

「そこにいるのが夫だが。」
「しかし国籍がちがうし、姓もちがう!」

タンポンと私のマリッジステータスに何の関係があるのか問い詰めたかったがぐっと我慢し、ここでもまた英文が併記された香港の結婚証明が役に立ったのであった。ようやく私の荷物は解放され、チョークで大きくなにやらベンガル語で書かれたが、そのときには貴重な私のタンポンは好奇心あふれる係員たちにきっちりパチられ、ごっそり減ってしまっていたのであった。

再び荷物を預け、飛行機に戻った。再離陸。出張先のチッタゴンから駐在先のダッカに戻るという、日本の商社の男性たちが乗っていた。つまりここから国内線扱いか。しかし私たちはまだ入国していない(パスポートコントロールを受けていない)のだが・・・。えらい国に駐在してはるなあ…。

ほどなくダッカ到着。ぞろぞろと空港の建物に入り、予約済みのホテルの指示に従い、トランジット/トランスファーデスクに並ぶ。パスポートを取り上げられ、待つ。ものすごく効率の悪い仕事ぶりにもかかわらず、7人のトランジット客をホテルへ送り届ける手続きはたった一時間で完了した。

ぼろぼろのワゴンに乗せられて、連れて行かれたのはMID TOWN HOTEL。私は、その国のフラッグキャリアがトランジット客に斡旋する宿なのだから、てっきりエアポートホテルかそれに準じたようなホテルだろうとなんとなく思っていたら…

これだけ汚いカーペットは中国でもみたことがない。入るなり強烈な悪臭がした部屋は、余りのひどさにすぐに換えてもらったが、変えてもらった先のカーペットも大して変わりは無かった。窓の外30センチに隣の建物があり、窓を開けても換気にはならない。シャワーは当然お湯などでない。

しかもバングラデシュ、暑い国かと思ったら結構寒く、あわててセーターを着込むもときすでに遅し、二人とものどが腫れてきた。私は鼻水もズルズルだ。どうやら持病のカビ&ハウスダストアレルギーも出たらしく、たいそうツライ一夜になりそうだ。

私たちの部屋はレセプションがあるビルの隣の工事中の建物の中にあり、このたいそう治安のよさそうな国で、門も玄関もへったくれもなく、いわゆるひとつの「どっからでもかかってこんかい」状態。戸締りもへちまもない、開けっ放し、外部の人間入り放題である。私たちは部屋の窓、風呂の窓等々をしつこく確認したうえに、チェーンロックのないドアを片方のベッドで塞いで眠った。

1997年1月16日木曜日

ヤンゴンの寝釈迦

朝からヤンゴンの寝釈迦を見に行く。36番バスで20分、下車してすぐの小さい入り口から丘を登ると、丘の上にはどどーんという感じの大仏が横たわってい た。でかいぞ。全長65.83メートル、顔だけで7.31メートル、鼻は2.74メートルで、まつ毛は30センチもあるバチバチのすごいやつを植えてあ る。耳は5.39メートルのがだらりんこ。そしてめっちゃくつろいだ姿勢で寝ていらっしゃった。

かえってまた排骨を食べる。おいしいおいしい。しかしどうやら私、肉類をたくさん摂取すると軟便になる体質らしく、下痢ではないがおなかがクルクルだ。しばらく肉を控えてみよう。

夕方、実家に電話しに郵電局へ行く。すると160Kという値段のまま値上げされていないことがわかった。恐るべき安さだ。国際電話なのに3分で100円。 もちろん掛けた。しかし、3分100円の電話を掛けるためには、そのあたりに立ったまま45分も待たねばならなかったのだが・・・。夜、中華を食べに行 き、白菜一皿とオクラとなすびの一皿を食べる。やはり中華はうんまい。一人120Kx二人分。

1997年1月15日水曜日

本日はヤンゴンへの移動日

相棒は朝からヤンゴンのシュエダゴンパヤより14メートル高いと言うバゴの仏塔を見に行き、私は荷物の整理。

ヤンゴン行きの交通は、またしてもトラック。しかもスーレーパヤまで行かず、市中心から遠く離れた場所で降ろされた。折よく来たエアコンバスが市中心まで行くというのに乗せてもらうと、一人15K。やはり普通バスよりずいぶん高い。しかし乗り心地はたいへんよろしい。YMCAに入る。USD14の部屋が空いていてラッキー。早速排骨湯の屋台へ行き、ふたりとも二杯ずつおなかいっぱい食す。やっぱり中華はいいなあ。

1997年1月14日火曜日

休養日

昨日6時間もトラックに乗ったせいで、ふたりとも腰とけつが目覚ましく痛い。座ってんのがしんどいぐらいだ。部屋で休む。バゴーはかつてモン族の首都だったというが、現在は普通の街道沿いの町で、大仏以外は見るべきものもなく、市場もそれほど大きくない。

昼、おなかがゆるくなる。なぜだ。ひさしぶりに征露丸を飲み、茶を大目に飲む。熱や吐き気は無し。様子見。

1997年1月13日月曜日

チャイティヨの落ちそうな岩見物

8時起床。朝食に市場で買って来た濡米飯(もち米のごはん)を食べ、8時半、道端でバスを待つ。折よく!トラックではなく、バス(どうも緑の南海バスくさいが、中途半端に外装を塗り替えているのでイマイチ確信がもてない)が来た。バスは地平線まで続く田畑を走り抜けて行く。背中に大きなコブのある白いコブ牛をつけた牛車が土けむりをもうもうとあげながら、ゆっくりと進んで行く。ミャンマーで見た牛は必ず痩せていた。それも猛烈に。水牛はどんなところでもパンパンに太っているに、あれはなぜなのだろう。道は形だけ舗装されているが、実のところガタガタで、しかも土まみれだ。

45分の昼ゴハン休憩をはさんで、バスは11時半にチャイティヨ到着。少し離れた場所にピックアップトラックが集まっている場所があり、キンプンまでそれで移動。約30分。キンプンからは全くのトラック、屋根も座席もない荷台に乗り換えて、山頂を目指そうとすると、来た来た外人料金取り。私は諦めて普通の服で来てたので潔くオフィスに向かい、例の中国人だから米ドルがない作戦を鋭意展開していると、阿中が監視人に連れられてやってきたのでびっくり。初めてバレた!ロンジーはいてるのに。

結局二人合わせてUSD12を徴収され、ぷんすか怒りまくりながらトラックに戻る。トラックえらい山道を30分以上かけてえっちらおっちら登って行き、荷台の客はアクセルとブレーキの度にころころ転がった。阿中は昨日インド人の雑貨屋ではちみつの瓶を右足の親指の上に落とされ、爪にひびが入っている。にもかかわらず本日の(失敗した)ビルマ人変装作戦のために、靴をはけずにサンダルだ。荷台でころころ転がっているうちに客の一人に足をふまれ(私かも)、爪が割れてはがれて血が出ている。破傷風が心配だ。

トラックを降ろされると、そこから歩いて一時間ほどで山頂である。がけっぷちから転がり落ちそうな岩を遠目に見ながら、山道をじりじりと登って行く。暑くて埃っぽくてとてもしんどい。これをがんばっちゃうと、明日まる一日くたばって過ごすことになるなーと思いつつ登っていると、折よくトラックが登って来た。インド人の家族が包車(貸し切り)したらしい。ご家族にお願いし、50チャットで乗せてもらった。そのトラックも岩の真下まで行くわけではなく、だいぶ手前で降ろされた。(しかし歩けば一時間はかかったと思う)

さらに15分ほど登って岩へ。男だけが岩に触ることをゆるされている。愉快ではないが、大峰山とかもそうだよな。相棒が岩の下を覗きこんでいるところを写真に取り、岩をひとめぐりし、拝み、眺めると、もうここでできることは終了。ぜひとも夕陽を見たかったのだが、バゴー行きの最終便(バスとは限らない)が6時ごろだというのであきらめ、急いで山を降りる。

キンプンでピックアップに乗ると、行きしなに道を教えてくれたお爺さんが乗って来た。目の青い、顔の長い老人だ。ネパーリーかとも思ったが、だとすると少しぐらいは英語が出来そうな気がするので、違うだろうな。もしかして植民地時代の遺児。。。それはさておきバゴー行きの便を待つ。チャイトーの路傍茶屋で待っていると、やってきたのはやはりというべきかバスではなくピックアップトラック。料金はバスと同じ150チャット。この後にバスが来る見込みは限りなく低いと思われるので、仕方なく乗る。けつが痛い。しかも、混みこみのきちきちだ。

行きに食事休憩が有った場所で休憩。再出発しようとするもなかなか出発しない。乗客の一人であるお婆ちゃんを、全員で引きずり降ろそうとしているが、お婆ちゃんは降りない。(ここで一つビルマ語を覚えた。「セッセッセッ!」は「降りろ!」だ、たぶん。) みんなすごーく困った顔をしていて、お婆ちゃんは一人でだだをこねまくっている。ドライバーは怒っているし、客も怒ったり苦笑したりだ。どうやらこのお婆ちゃん、「わしはマンダレーにいくのじゃあ!」と主張しているらしい。しかしこのトラックはバゴー経由ヤンゴン行きで、全然反対方向である。お婆ちゃん、どうやら痴呆症らしい。しかし口はとっても達者で、乗客、集まって来た見物客の説得にもがんがん口答えしまくってて、一向に降りない。「わしはマンダレーへ・・・」

そのうち一人の若者が、「お婆ちゃん、あっちにマンダレー行きのバスがきたよ!」と暗闇を差してお婆ちゃんの気を引いた。「わしはこのトラックでいくのじゃあ。」「でもこのトラックはいかないよ。マンダレーに行くのはあっちのバスだよ。」「絶対か?絶対か?」とおぼしき会話ののち、お婆ちゃんの動揺を見て取った例の青い目の老人が突然、「あのバスがマンダレー行きだ!みんなであっちに乗り換えよう!(推定)」と、大声で呼びかけた。即座に老人の意図をくみ取った乗客が全員腰を浮かせ、マンダレー行きはあっちのバスだ!と口々にわざとらしく叫びながら下車、つられてお婆ちゃんも不安そうに下車し、見物客のひとりに手を引かれてあちらへとふらふら歩き始めたところで乗客、速攻でトラックに飛び乗った。三人いた僧侶など、入り口から乗るのももどかしく、窓から乗り込んだぐらいだ。乗客が座るのもまたずに、トラックはきゅーんと出発。ここまでたっぷり20分。お婆ちゃんはあのあとどうしたのだろう。ちゃんと皆に騙されて、家行きのトラックに乗せてもらえたのかなあ。

明かり一つないたんぼの中の道を、トラックは頑張ってぶんぶん走り、バゴー到着は九時半。急いで軽く食事をとると10時過ぎ、風呂に入って十一時。ぐーーーーーすか寝た。時間と体力を使った一日であった。

1997年1月12日日曜日

宿替え、荷物の整理ほか

この宿、どうも売春宿くさいので、別のところに移ることにする。移り際にUSD6でどうかと言われて気分が悪い。最初からそう言え!

今日の宿はUSD7、バストイレ付き。トイレは洋式ではないのだが、とっても清潔だ。しかし朝メシはついていない。昨日の宿にもなかった。もっとも、インド人のTea Shopに行けば、ひとり30Kyatで済んでしまう。

昼ごはんをビルマめし屋で。カレー、ごはん食べ放題、冬瓜スープ、サラダ、もやしの漬物でわりかし満足。70Kyat。この街の中華は200Kyatぐらいするので、そしてあのMSG味ではなかなか食べに行く気がしない。ヤンゴンに帰るのを楽しみにしとこうっと。

部屋で荷物の整理、お金の計算、はちみつライムを性懲りもなく作って飲む。果たしてまたもや気分が悪くなる。大丈夫と思ったのに。晩メシをパスして寝る。

1997年1月11日土曜日

Bagoの涅槃仏(全長55m)

Bagoに到着。というか、Bagoにはまだ着かぬのか?と運転手に尋ねると、何!おまえらはBagoで降りるのか!そうかしまった!と、とんでもないことを言い出すので慌てた。運転手は華人で、会話ができたのだ。結局、輪タクが客待ちをしているところで下ろしてもらい、Bagoへ引き返した。2キロもなかった。助かった。

San Francisco G/Hというアレな名前のもひとつな宿、USD8ツインで、ミャンマーでは初のバストイレ付き。しかし、あまり清潔な宿でもなかった。とりあえずシャワーを浴びて旅塵を落とす。

朝の托鉢に行くお坊さんの列がすごい。ここには国内でも最大の僧院があるそうで、先頭のお坊さんも、最後尾のお坊さんも、どこにいるのか全く見えない。一列にきっちり並んで、ぞろぞろ歩いていらっしゃるが、全くの切れ目なしにいつまでたっても列の終わりがない。何キロあるの、という感じ。

さて腹減りの我々は、インド人の店で茶と油条を食べて朝食とした。ガンジーとネルーの絵が貼ってあった。お茶が10Kyat、油条が6Kyat。町をぶらついてみる。小さな町、というよりは、街道沿いに建物が散在するだけの場所、完全に涅槃仏のお寺の門前町という感じ。

昼、中華屋で米粉と炒飯を食べ(ひどいMSG味だった。最近素朴な味の料理ばかり食べていたので、よけいに舌にキタ)、目的のBagoの涅槃仏を見物に出かける。今日はふたりともビルマ人変装大作戦で頑張ってサロンやロンジーなどを穿いているのだが、相棒は実に様になっているが、私はどうも…、なにがちがうのだろう?(けつのデカさです)

相棒がおりこうにも裏口を見つけ、そこから入った。涅槃仏はちょっと信じられないデカさだった。全長55メートルだそう。そうですね、コンバトラーVより2メートル背が低いです。小指だけでも3.05mですってよ。私と相棒がそれぞれ気になるポイントを好きなように眺めまくっていると、門番のおじさまが私のところにやってきて、問うた。「Tourist?」 はいそうです。そのとおりです。なんでバレるのだ(バレいでか)。中国人なの。米ドルは全然持ってないの、と言ってみると、ほんじゃ200Kyatでいいよと言われ、素直に払う。外人料金はUSD2なので、ややトクをしたと思うことにする。しかし納得いかんのは、わたしとおじさまの目の前をのそのそ動き回っている相棒は全くマークなしのフリーであるということである。なんでバレへんの。

宿に帰り、五時頃ちょっと横になったら、ふたりともそのまま深い眠りに落ちてしまった。

1997年1月10日金曜日

名鉄バスでバゴー(Bago)へ

本日はBagoへの移動日なり。Bagoは巨大な涅槃仏で有名な町である。ここからは、十数時間はかかるはず。

出発前に市場で米線を食べる。30Kyatぐらいで私には激ウマなのであるが(小皿に盛ってくれる高菜と、ライムを絞ったのを足すと、スープの程よい酸味がたいへんよろしい)、相棒は全く受け付けないのである。残念ね。これと同じような米線は、雲南でも何度も食べた気がする。

さてトラックで長距離バスを拾えるジャンクションまで25Kyat、そこで首尾よくバスを止めることができた。本日のバスは名鉄バス。名古屋のバスらしい。初詣前売り割引きっぷの広告が貼ったままなっていて、信長「初詣は速く行くに限る」、秀吉「皆で楽しく参るが一番」、家康「ゆったり行きたいのう」 いざ、初詣!、などというめでたい広告を、暑い、乾いた1月のビルマで見るのはしみじみ感慨深い。

席は前も横もきっちきちに改造してあり、足の置き場もないぐらいであった。しかし、市バスを長距離バスに使っているので、馬力はそれなりにあるが、音が出るだけで速度は全然出ないのよ。ぶんぶん走る。エンジンが頑張っている音を聞きながら、相棒と寄りかかり合いながら眠る。

1997年1月9日木曜日

蜂の巣が効きすぎて倒れる

今日の市場はとっても賑やかだ。昨日は市が休みだったからなのだろう。いつもより売っているものも売り手も買い手も、バラエティに富んでいる。少数民族がたくさん買い物に来ていた。市の日には高地から降りてくるのだろうか。

いちごを発見!豆のように小さいが、いい匂いだ。両手に山盛りほどで50Kyat。ヘチマ大の、はちみつを取った後のはちの巣を並べて売っている少女がいた。相棒、早速二つ買い込んだ。のどに良いのだそうだ。二つで50Kyat。

宿に帰り、湯を沸かし、はちの巣を刻んで湯に溶かす。と、浮いてきたのは黄色い蝋と蜂の子、白い、幼虫。はっきり言うと蛆虫的なやつ。うっひょー。私は全身総毛立ったが、相棒は「わー」とか言いながらふうふう吹いて避け吹いて避けしながら、そう、まさにふだん中国茶を茶っ葉を避けながら飲むように、上手に飲んでいるではないか。恐ろしいやつ。

私はと言うと、布で濾したらええやん!そうそう!などと言いつつ、ハンカチでウジ虫、ちがった蜂の子と蝋のかたまりを濾過し、ライムをきゅっとしぼってうまいうまいと飲んだのであった。我ながら信じられん神経の太さだ。

ところが、しばらくして急に気分が悪くなってきた。といっても、「気持ちの悪いものを我慢して食べたから気持ち悪くなった」というタイプの気持ち悪さではない(はちみつライムは十分おいしく飲みました)。相棒がああしまったという顔で言うには、はちみつよりもはちの巣そのもののほうが漢方の上では重要で、それなりに強い薬なのだそうだ。解熱・消炎効果があり、妊娠中・生理中の女性が摂取すると、体温が下がるという。ほんまか。

横になって休むも、気分が悪いのはおさまらない。相棒が市場へ生姜を買いに行き、熱い生姜茶を作って飲ませてくれたところ、午後には気分は収まった。はちみつ自体にはこの効能はないそうなので、はちみつをぺろぺろ舐めることにする。

1997年1月8日水曜日

川向うの集落へ散歩に

朝食はJoy Innと同じタイプだった。マンダレーが懐かしい…、食に困らぬ街だったのう…。相棒の気管支炎、よろしくない。炎症と言うより、痰が出まくっているようなのだ。本人もしんどそうだ。旅を切り上げて帰るか?ともふと思うが、私のカラコルムハイウェイのことを考えると、たぎる思いが爆発しそうになる。七年間行きたいと思っている場所に、一度は自身の決定で、二度は自信ならぬ身の都合によって決行を延期され、ついに四度目の断念になるかと思うと、ちょっと精神の平衡を失いそうだ。

散歩に出る。川向うの集落で、葉巻の家内制手工業の現場を見る。農閑期の副収入なのだろう、一日500本は巻くそうだ。その先では、ポン菓子を臼で挽いて粉にしたものを、握って団子にしていた。見ていたら「食べる?」とひとつくれた。こちらは売り物ではないらしい。うす甘くておいしいかった。

LPで不味いと紹介していためし屋に行く。別にまずくはなかった。というより、他と同等にうまくない味だった。しかし、他よりだいぶ安かった。

1997年1月7日火曜日

Taunggyiへのサイドトリップ

朝食が貧しく、食べ物がアレだとすぐに機嫌が悪くなる相棒のご機嫌が悪くなってきた。備蓄燃料(脂肪)のない人はたいへんである。朝食は薄いパンとお茶とくだもの。卵なし。しかもお湯が出ず、朝はトイレの水も流れず(流さずに出るのはとても精神的にくる)、これでマンダレーと同じUSD8というのは納得いかんなあ。マンダレーではお湯は24時間じゃあじゃあ出て、清潔なタオルが提供され、パンはおいしいのが焼きたてて食べ放題で、卵は二つ、注文に応じて調理してくれた。ぐぬう。

宿の印象が悪かったせいではないが、インレー湖自体の風光も、湖のそばにいる限りは正直言って大理より優れているという感じはしなかった。めぼしい観光地を小舟でまわってしまうと、あとは正直いってすることがない。散歩かサイクリングかトレッキングかというところだが、実は湖畔は湿地帯で徒歩でも自転車でも入って行けないし、トレッキングはガイドと車を雇う必要がある。それでインレー湖で長居をすることは諦めて、西に移動してTaunggyiという、外国人に許可された最西の街に行ってみることにした。

交通はトラックしか無し。トラックで一時間、途中から道はぐんぐん登り始め、インレー湖を見下ろす景色のいいことといったらない。遠目のほうが美女なのか。

さて、Taunggyi自体は特に魅力的な街ではなかった。ただ、でかい街なので市場の規模が大きく、それはおもしろい。私としてはぜひ一泊してみたかったのだが、宿を探すとUSD10以下の宿がなく、それも何やらちょっと荒れた感じの宿ばかり。外国人がここから西の国境付近の地域に入れないのは、この先が主要民族による中央政権のコントロールの届かない地域、パキスタンで言うトライバルエリアに当たるから。この先をずーっと行くと、中国・ラオス・タイとの国境地帯です。つまりアヘンの栽培地。

東部のThaziかMelktila行きの交通を探すも、バスはなく、ヒッチは相場の倍をふっかけてきて譲らず、これも断念。インレー湖に戻ることにした。Joy Innはどうも好みに合わなかったので、運河に面したGolden Duck G/Hに行く。ここは最も安いダブルがUSD4なのだが、それは床の上にマット直敷きなので避けて、USD6のツインに入る。建物は木造だが部屋はJoy Innより広く、窓からの眺めもよろしい。湯も水も出た。

1997年1月6日月曜日

フローティングマーケット

本日は5日に一度の市が立つ日ということで、ボートをシェアしていくつかの観光ポイントにお出かけすることにする。同行者は台湾人の奥さんとハワイ人(チャイニーズと白人のミックス)の旦那さんのカップル。ご主人の方は新潟県で四年間日本語を教えていたとかで、日本語がかなり話せた。

フローティングマーケットは半分以上がお土産舟で、何も買う気がない私達にはもひとつ退屈であった。きゅうきゅうに混み混みの市場をぬけて、大きなお寺へ行く。とっても観光地なお寺で、揚げ豆腐を一つ買おうとしたら50Kyatと言われてびっくり。昨日まで毎日食べてたサモサは5Kyatだったんだもん。100Kyat出して10皿以上あるセットメニューを食べていたのよ。

もうひとつ、本当の名よりもJumping Cat Monasteryという名で知られるお寺へ行く。ここのお坊さんは(余程ヒマらしく)、何匹もいる猫を、輪っかをくぐって跳ぶように訓練しては、観光客に見せているのである。猫は大小取り混ぜていろいろおり、可愛かった。そして大きいのも小さいのも、確かにぴょんぴょん跳ぶ。ここでは客にお茶と炒り大豆を馳走してくれるので、ついついみんな長っ尻になる。しかし猫の有無にかかわらず、ここが最も良かった。みごとな木造の本堂に、十を超える様々な様式の釈迦像があった。

二時過ぎに町に戻り、軽く食事をして町の市場に行ってみるも、賑わうのは午前中だということで、ずいぶん閑散としている。みかんと木瓜を買って、本日はおしまいである。お湯が出ないので、風呂にも入れない。

1997年1月5日日曜日

Inle湖畔の集落に到着

朝4時半発のバス、のはずだったが、結局バスがBaganを離れたのは六時すぎである。午前中には乾いた平原をひたすら走っていたが、昼食のあとしばらくして、道は上りの山道に変わった。くねくねしたつづら折りの、舗装があちこち剥がれた道で、雨が降ればすぐ流れていきそうだ。午後四時頃から道はややなだらかになり、広い盆地を二つ抜けて、Shwenyaung到着。ここからバスをトラックに乗り換えて、Inle Lakeへ南下するのだ。30分ほど。

六時前にInle湖畔の集落に到着するも、G/HがBaganよりなお高い。基本的にひとりUSD5で、ダブルでUSD10。タイやインドネシアだと、ダブルベッドの部屋にひとりで泊まっても二人で泊まっても同じ値段なので(タイではひとりで泊まって女性を連れ込むとその費用を取る宿はある)、安くついていいのだが、ミャンマーではそうはいかんようだ。

ダブルUSD6の宿が一軒、しかしあまりキレイではない。バス・トイレが共同なら、事実上外国人専用の宿でないとちと困る。トイレの使い方がね。使ったら流してほしいの。ここはどうやら外国人を泊めるライセンスを取ったばかりのようで、滞在客はいまのところ現地人のほうが多かった。他の旅行者から勧められていたので探しあてたInle InnのダブルUSD8の部屋は、改修とともになくなっており、Joy InnのUSD8にチェックイン。Baganの宿よりはやや広い。運河に面したベランダに、椅子がいくつかと机が置いてあるのがまずまずありがたい。

夜九時、こてんと眠る。

1997年1月4日土曜日

休養日

今日、Inle Lake(インレー湖)へむけて発つ予定だったが、チケットが昨日時点で売り切れであったため、一日余計に滞在することになった。市場などをぶらぶらし、お茶を飲む。休養日。

1997年1月3日金曜日

抗生物質を探しに市場へ

朝から市場に行って抗生物質を探し直す。(抗生物質を探しに市場へって、書いててもなんかおかしい)。中国製だがアンピシリンが見つかった。一粒3Kyat、もう少し探すとタイ製が4Kyatであった。値段の安さにも驚くが、なにより抗生物質の粒売りというのも初めてだ。これまではだいたい10カプセル1シートのセット売りを買っていた。もっと無いのかいろいろ見ているうちに、bronchitisに効くと明記してある、そして香港でも見覚えのある薬が出てきた。これは高く(笑)、一粒7Kyatもする。とりあえず30粒買った。

昼からまたしてもチャリを借り、例のAnanda寺前のめし屋で昼ごはん。相棒は薬がとても強いらしく、寺院の木陰でうとうとと昼寝。いい気持ち。夕刻、白いベル型の大きな塔のある寺院から夕陽を見て、本日の活動はおしまい。宿付近にはろくなメシ屋がないため、朝、市場で買いおいたパパイヤふたつとトマト5つを食べて、眠る。

1997年1月2日木曜日

仏塔で大理石の床石を奉納

相棒、気管支炎だろうか。呼吸のたびに痰がごろごろ鳴っていいて、咳もあり、しんどそう。夜によく眠れない。今日は朝起きられずに、朝ごはんを食べはぐった。Teashopでサモサを食べる。揚げたてはおいしいのだが、昨日揚げて一晩たったのはちょっとね。

私達を宿まで連れてきてくれた三輪タクシーのおじさんと市場で会う。村に医者がいるというので場所を教えてもらったが、医者(白衣も着ていない)に診療費を聞くとUSD25と言うので相棒が速攻で引き下がった。香港でもわたしらが行くような医者はもうちょっと安いがな。USD25というと4000Kyat強ぐらいか。結局市場で薬局を発見し、中国製の、漢字表記しかなくてイマイチようわからん抗生物質を買った。それも怖いけどねえ。タイで買いだめしてきた咳止めがまだたくさんあるので、それで乗り切ることにする。

チャリを借りて再びBaganへ向かう。ぐるぐる回る。赤茶けた、乾いた地に朽ちかけの塔がぽつぽつと並ぶ。不思議な光景である。一昨日の店で昼ごはん。前回は13皿だったが、今日は11皿だ。そしてその消えた2皿が美味かったのである。くやちい。

今日はガイドブックを忘れてきてしまったので何が何やらさっぱりわからないまま、仏塔をいくつも巡る。ある仏塔で大理石の床石を一枚50Kyatで買い、名前を書いて奉納した。マレーシアのペナンや、タイのチェンマイでも同じように瓦に名前を書いて奉納したことがある。瓦も床石も、私達が死ぬ日まで、そして死んでもなお、私達の名とともにそこにあるだろう。新婚旅行にはふさわしい記念だ。(そうか?)

レリーフの美しい、眺めの良い仏塔で一休み。それから、最も大きな仏塔へ、何度も道に迷いながら行く。たどり着き、塔から夕焼けを見る。

1997年1月1日水曜日

相棒の体調よろしからず

宿の朝ごはんを食べ足りず、なじみのTea Shopでサモサを食べる。揚げたてはおいしいね。

相棒が喉が腫れ始めたというので、市場へ薬を買いに出かける。探し回るも、大した薬が見つからない。タイ製ののど飴と、インドネシア製の咳止めシロップを買う。このシロップは小分けパックになっていて、見た目がシャンプーの小袋そっくりだ。チューナーが壊れていた相棒の短波ラジオを修理。100Kyat。

新年ということでちょっといいものを食べようという話になり、LPご紹介のレストランへゆく。豚肉と黒豆の料理が200K、魚の天ぷらが350K、お茶が20K等々。中華屋ではなかったので、味はどうもなんか食べ慣れない味であった。合計680Kyat。

夜、他の日本人旅行者と屋台の麺を食べに行く。脂っこかったがまあまあの味、しかしにんにくたっぷりで、歯を磨いていても口が臭くてイヤ。でも50Kyatでスープ付きは安いよな。