***このブログについて***

書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1996年11月30日土曜日

ヤモリ大王との邂逅ふたたび

ここにもヤモリ大王がいて、夜中に目が覚めた。王様の声は本当にでっかいのだ。

朝、小さいビーチへ行く。このごろは大干潮らしく、沖のサンゴ礁まで干上がっていて、泳ぐどころではない。汗だけかいて帰ってきた。宿に二箇所だけある、真水の蛇口から水をくんできて水浴び。おばあちゃんとおばちゃんが布を担いで売りに来た。寝るときに便利そうなイカットと、水浴び用のバティック、20000Rpまで下がったのでついつい買ってしまった。荷物が増えるとしんどいのは自分であるよ。よく考えようよ。

1996年11月29日金曜日

バリ島まで帰ってきた

六時半に目が覚めた。食事の前に目の前の砂浜に散歩に出る。今日は大干潮の陽らしく、沖の方まできれいに干上がっていた。露出した岩場では、地元の人がサザエをひろっていた。私のこぶしよりも大きな、巨大なサザエだ。

相棒は早速自分の探しに行った。サザエは見つからなかったのだが、8センチぐらいのつるつるした子安貝を見つけて、嬉しそうに帰ってきた。宿に帰り、これは食べられるのかと尋ねると、もちろん、とてもおいしいよとのことである。そして茹でてくれた。雲南省の細工物である私の銀のかんざしを使って、肉をほじくり出して食べた。子安貝の外側はワックスを掛けたようにぴかぴかで、茶色の地にこげ茶色の斑点がポンポン浮かんだ模様である。記念に持って帰ることにする。

さて移動。ボートでロンボック本島に戻り、すでに知っているルートを逆にたどって馬車、ミニバス、Bemoを乗り継いでSwetaへ。SwetaでLember行きのバスを捕まえ、四時のフェリーに乗り、八時半にPadanbai到着。夕食をとってシャワーを浴びようとしたら、ここの水も塩の味がした。石鹸が泡立たない。

1996年11月28日木曜日

無残なサンゴ礁

宿替え。宿の前の海へ相棒が泳ぎに行ってみると、100m沖に出ても太ももまでの水深しかない。サンゴ礁もなし。しかし、波打ち際にはさんごの破片が累々と積み重なっていて、さて、どうしたことだろう。

LPによれば、最近になって火薬を使った漁と漁船の錨が、サンゴ礁をどんどん破壊しているのだという。以前には島の周囲全体を取り巻いていたサンゴ礁が、胃またもういくつかの場所でしか見られなくなってしまった。サンゴ礁が波を殺さなくなったため、砂浜にはより大きな波が打ち寄せられるようになり。波はもちろん砂をさらっていくので、砂浜はあっという間に痩せてしまった。私たちがピーピー島には劣るなあと思ってしまったのも、無理はないのであった。

サンゴの墓場で貝を拾う。幅二十センチぐらいの二枚貝の片方である。ふちが波々になっていて、シャコガイだと思われる。今夜の宿の庭には洗面器より大きいに海外が無造作においてあった。私が今まで見た中で一番大きな回は、プーケットのTavong Hotelのロビーに置いてあったシャコガイで、小型のトランクぐらいの大きさがあった。相棒は故郷のコロンス島で、南洋帰りの人の庭に、それより大きな貝に花を植えていたのを覚えているという。

さて今夜のお宿、シャワー浴びたら昨日とは比べ物にならないぐらい水がしょっぱかった。石鹸がまるで泡立たない。部屋代が安いのも無理はない。あとで聞くと、島で真水に近い水が出る井戸は、島の中央部から北部にかけてしかないのだそうで、このお宿は南から数えて二軒目である。明日、朝ごはんのお茶はどんな味だろうか。

1996年11月27日水曜日

Gili islandsに行ってみる

昨日昼寝をしているときに、せっかくぐーすか寝てたのに、ポーチでガサゴソ音がして目が覚めた。カーテンに映る影。誰かが私達の部屋の前の椅子に座っている。そうっと起き上がり、こっそりカーテンをめくると、日焼けした上半身裸の男が私達の部屋のポーチの椅子に座っているのだ。なんてこと!ここは私達の場所なのに!!!

追い出してもらおうと振り返ってベッドを見ると、あれ?相棒がいない?もう一度カーテンをめくると、不審な男は私の夫その人であった。ははは。

Sengigiを去る。もっとキレイな海だと思っていたのだが、砂は灰色だし水は濁ってるし、宿は安くない。

BemoでAmpenanまで一旦戻り、そこからBemo、Minibus、馬車、ボートと乗り継いで、Gili三島のうち、一番大きな島へ。船着場の近くの宿でとりあえず荷物を下ろす。15000Rp、ベッドまあまあキレイで、部屋が広かった。ビーチへ行くと白い砂とサンゴ礁がひろがっていて、よしよしヨッシャヨッシャという気分であるが、でもまあピーピー島ほど見事なわけではない。魚は、タイでは見なかった種類のものもいた。

今夜の宿は長居には理想的とはすこし言い難く(ちと高い)、別の宿を探す。集落ハズレにバンガローがあり、中を見せてもらって7000Rpだというので予約した。木と竹のバンガローで、トイレとシャワー付き。

ごはんを食べて、シャワー浴びる。話に聞いていたとおり、水は塩の味がする。

1996年11月26日火曜日

Lombokへ渡る

バスは朝六時のバスに乗ってロンボックへ渡った。Swetaには10時ごろ到着。そこで降り、BemoでAmpenan Bemo Terminalまで移動。500Rp。そこからぼろぼろのトラックに乗ってSengigiまで500Rp、Pondor Sintaという宿にとりあえず投宿。狭い部屋が12000Rp。

海岸に出てみると、ホワイトサンドビーチとは程遠い灰色の海岸で、水も濁っていた。ちょっとがっかり。ご飯を食べてとりあえず眠る。四時ごろ海岸に出て、見事な夕焼けを見る。対岸バリのAgung火山がきれいな円錐形で、太陽はその横を水平線に向かってひゅうっと降りていった。

1996年11月25日月曜日

Sumbawa島へ向かう

朝八時のフェリーでSumbawa島へ向かう。対岸の小村のSapeからどうするかはまだ決めていない。バスがあればそれを捕まえてロンボックへ向かうつもりだ。船は来たときと違って日本製で、静かだった。最上階は3000Rpのエクストラチャージがかかるので私達含めて六人しか座っておらず、快適であった。私はかなり船酔いするほうなので、横になれる場所を求めて贅沢をしてみた。

船は五時ごろSapeに入港した。なんにもないところのようなので、バスでBimaへ向かうことにする。七時到着。食事をして七時半、Damri(インドネシア国営バス)のバスでロンボックのMataram(バリの対岸)まで直接行くバスがあるそうなので、それに乗ることにする。Bima→Mataramが25000Rp。再び13時間の夜行バスだ。

1996年11月24日日曜日

Labuhanjayoへ戻る

朝六時半のバスでLabuhanjayoへ戻る。昨日のバナナをぱくぱく食べていたら、9時半ごろに早くも食事休憩が入った。羊スープがおいしかった。ヤギかも。おいしいはインドネシア語でバグース!といいます。

なぜかは知らねどあと二時間で到着だというのに二時過ぎ、またしても食事休憩があり、そんなに何度も飯は食えない。

五時、到着。Hotel Wista、とても清潔な部屋にシーリングファン付き、12500Rp、狭いがよしとしよう。食事を併設のレストランで食べたら2500Rp多めに請求され、聞いたら今日の魚はでかかかったから、だと。時価なら時価と書いとこうよ。結局それは払わなかった。よしとしないぞ、と。

1996年11月23日土曜日

Bajawaへ降りる

朝十時のバスでBajawaへ降りる。食事休憩があるものとばかり思っていたのだが、なかったので、四時過ぎに到着した頃には目がくらむほどお腹が空いていた。Koriwa Homestayにチェックインして、よろよろと食べ物を探しに行く。空腹時に市場を通りかかってしまったため、ついつい巨大なバナナの房をふたつと、でかいオレンジを六個も買ってしまった。食事後には確実に食いきれんぞこれ。どうすんの。

夕食の後、頭痛が始まったのでパラセタモールを飲んで夕方六時、こてんと眠る。

1996年11月22日金曜日

イカット(インドネシア絣)

Kelimutu火山を見にゆくための、朝四時のバスを予約したと思ったら、迎えに来たのは外国人を満載したボロボロのトラックだった。意思の疎通がいまいちうまくいってません。でも大丈夫。容赦なくうちかかってくる道端の木の枝を腕で避けながら二時間、展望台の下でトラックは停まった。この頃には周囲はすっかり明るくなってはきていたが、日の出はまだ先である。

展望台の階段を駆け上る。半キロぐらいかな。そうすると、朝日が「じゃーーーーーーん♪」という感じで登ってきた。同時に霧がひゅうっと飛んで、眼下に、明るいトルコ色の湖がぱっと現れた。その向こう黒っぽい色の湖も見える。が、すぐにかかってきた薄い霧のむこうでよく見えない。そうこうしているうちに、たちまちのうちに霧がすべてを隠してしまった。

ケリムトゥの三色湖は、ガイドブックによると、現在一番大きい湖が明るいターコイズブルー、次がオリーブグリーン、小さな湖が黒、だそうだ。不思議なのは湖それぞれが色が違うことだけではなく、それらがしばしば色を変えることで、数年前まではそれぞれ青・えんじ・黒、そして六十年代には深い青・茶褐色、カフェオレのような白っぽい茶色・だったそうな。なぜ色が変わるのかは、あまりよくわかっていない。

色の変化は現在も進行中であるように見えた。というのは、再びだんだん晴れてきた霧のおかげでじっくり観察できたのだが、オリーブグリーンの湖は今や緑色が濃くなりすぎてブラックコーヒーのような色、そして小さい黒の湖はふちのほうからだんだん明るい黄土色に変化しているようだったからである。

それにしても変わった色なのは、ペンキみたいに透明感ゼロのトルコ石色の湖で、なんでこんな色なのだろうか。ご丁寧に、水面に硫黄らしき筋が何本も走っていて、余計にトルコ石っぽいのだ。

さてさて意外なことに、Mt. Kelimutuの絵葉書はMoniには全く売っておらず、どこかで見たら絶対買おう。

クレーターの周りをぐるぐるめぐり、じっくり湖を見てから下山。徒歩で二時間半ほどの下り道で楽ちんなのだが、久しぶりに靴を穿いてようやく気付いたのが、足の爪が伸びすぎていて下りのときに痛くて痛くてしょうがない。非常に不自然な歩き方で降りてきたたために、えらい疲れました。

宿で朝ごはんの後に昼寝、それから温泉に行って体を洗ってきました。

帰りに「イカット(インドネシア絣)を買う!」と宣言、小ぶりのものを買うつもりが、ビンロウでまっかっかになった唇と歯のおばあちゃんのお店で、暖色系のでっかいベッドカバー大の布にひとめぼれ。マンゴーとかで値段を聞くと75000Rp。値切ってみると55000Rp。けっきょくこれに7500Rpの布を二枚付けて、65000Rpで買いました。

1996年11月21日木曜日

Moniの滝と温泉

目が覚めたら8時、12時間も寝たのか。

朝食を食べて、10時ごろに東バスターミナルへ行く。バスは11時ごろに出発して、渓谷沿いの小さな道をぐるぐると巻く。二時間ほどで到着。Moniは村と呼ぶのもためらうほどの、街道沿いに家がいくつか立ち並んでいるだけの場所だった。食道楽の相棒が、ここの豚はうまいにきまってると言う。子豚なら50000Rpぐらいだと宿の人が言うので。

その子豚を宿の裏手に見に行った。とっても可愛い可憐な黒子豚(体長30-40センチぐらい)が、木につながれていた。この子を食べる気にはとてもなれない…。裏庭には子豚のほかに、鶏、七面鳥、サルなどが買われていて、サル好きの相棒が早速マンゴーを買ってきて、与えていた。子豚と違ってどうなのその扱いの差。

インドネシア語では、ブタはBabiという。小さいはanakである。そして子豚はBabi anak-anakというのだ。

滝を見に行く。10メートルほどの立派な滝があり、その下の淵になっているところでは楽しく泳げそう。滝の上流には温泉(Air Panas=熱い水)があるということなので行ってみた。小さな水たまり的なものが二つあり、透明な水が溜まっていた。水は熱くなく、ぬい。でも水浴びには十分だ。ちょっと残念だったのは、地元の人が個々で頭を洗うたびに、シャンプーの小袋をそここに捨てていることで、周囲はゴミだらけ。それさえなければ風情のある場所なのだが…。捨てても自然に分解しないものが生活に入ってきたのが、最近なのだろうから、まだしょうがないのだけれど。

そして私達は現地のおっちゃんと子供がじーっと見ているので、温泉に入るのを諦めて帰ってきた。タオルも用意してたんだけど。

1996年11月20日水曜日

Ende泊

朝六時出発のはずのバスは、七時半にようやく出発してくれた。昨日と同じで混み混みのローカルバス、にわとり、あひる、ヤギなどと同乗である。途中で大きな広場で市がたっており、半時間ほど停車。バナナと見たこともない果物を買う。いちじくとマンゴスチンを合わせたような味と中身の、丸い果物であった。6つで500Rp、とてもおいしい。もっと買えばよかった。

バスは黒い砂の海岸を右手に見ながら突っ走った。途中で三メートルほどのクジラを陸揚げ解体しているのを見た。正午ごろ、Ende西バスターミナル到着。時間的にもここからすぐにMoniに行こうと思えばいけるが、Moniは山の中なのでおそらく寒いはず、一方我々は二日間風呂に入っておらず、できれば今日入っときたい。そこでEndeに一泊することにした。

広ーーーーーーーーーーいダブル、Mandi(バスルーム)付き、朝食込みで12500Rp。よし!すぐに風呂に入った。シャワーではなく、水溜めからミルクパンみたいな柄杓みたいな道具で水をくんで体を洗うスタイル、日本人の私は慣れていて平気だが、相棒は文句たらたらである。洗面器より使いやすくて私は好きだよ。

さてキレイな体になったところで食事に行く。Ayam Goreng(鶏の唐揚げ)が4500Rpと、やはり便利な都市部に比べて安くはない。おなかいっぱいになったところで薬を飲み、ちょっと横になったつもりが、そのまま深い眠りに引き込まれてフェイドアウト。

1996年11月19日火曜日

Bajawaまで移動

朝六時のバスでBajawaへ移動。フローレスの住民は、海岸部のムスリムを除くと95%がキリスト教徒であるそうな。彼らはマレー系ではなくメラネシア系の民族で、漆黒の縮れた髪、より黒い肌をもつ。顔立ちも大きな黒い目と広い鼻で、マレー系とはだいぶ違っている。太平洋の小島に来ているような感じだ。

Bajawaに着いたのは夕方四時頃で、市場でバナナとマンゴーとパパイヤを買って夕食とすることにする。今日の宿は狭い部屋だが、廊下を子猫が四匹も走り回っていて、とても楽しい。

1996年11月18日月曜日

フローレス島へ

宿の主人が朝三時半に起こしてくれた。もう目は覚めていたが。超混み混みのミニバスに乗ってSapeへ。みんな同じ船に乗るんだな。バスは五時半ごろにSapeに到着し、朝食を食べてから船に乗ることが出来た。船賃は11500Rp也。

船はKomodo島に寄港して(Komodo島には港がないので、小さい舟に乗り換えて降りる)、フローレス島に付いたのは夕方六時半ごろ。

丘の中腹に立てられたゲストハウスにチェックイン。暑い。死ぬほど暑い。しかも島なのに、海のそばなのに空気が乾燥していてカラッカラである。そこで夕陽を眺めやりつつ最高にごきげんなビールを飲んでいると、太陽が落ちると同時に気温もさーっと、音を立てる用に落ちた。めちゃくちゃ極端な気候である。昼は目がくらむほど暑かったのに、夜は寒くて服を着かさねて寝た。

1996年11月17日日曜日

Bimaで一泊

早朝五時、無事Bimaへ到着。まだ夜が明けていない。暗いうちは動くなの鉄則通り、バスターミナルで夜明けを待つ。夜明けと同時に、馬車!でRosmen Komodoという宿を目指す。Lonely Planetでずいぶん褒めている宿なのだが、ベッドがあまりキレイではなくてう~ん。しかし7500Rpで文句を言うてはバチが当たるであろう。それにふたりともヘトヘトで、別のところを探しに行く気力もないのであった。チェックイン。ばたりと眠る。

起きたら11時。フェリーピアのあるSapeへ行く手段を講じるべく、相棒がでかけてゆく。あちこち走り回って聞きまわった挙げ句に、LPに書いてあるのと同じ情報を得て帰ってきた。先に読んどこうよ。

明日の朝Sape行きのバスに乗る。今日は硬いうんこが出てよかったなあ。

1996年11月16日土曜日

Bimaへの移動開始

汗をたくさんかき、眠り続け、服を着替え、と安静にしていたことと、やはり医者の薬はよく効くため、熱は下がり、悪寒も筋肉の痛みも吐き気も全てなくなった。しかし軟便は軟便で、おなかもくるくる鳴りっぱなしだ。大事をとって抗生物質とパラセタモール、胃保護薬を飲む。

しかしトイレに何度も駆け込むと言う状況でもないので、Bimaへは出発することにする。二時乗車、三時発車。体調よろしくないので乗り物酔いが始まり、窓の外の流れ行く景色を見ても、気分がすぐれない。

五時半に島の反対側に到着、バスごと船に乗る。7時ごろに対岸のSunbawa島に到着。日が暮れている。9時ごろに夕食の時間となり、辛い辛いぶっかけご飯を食べて眠る。夜中の1時に目を覚ますと、バスが停まっていた。何かの修理中だ。新しそうに見えた日野バスなんだがなあ。二時ごろようやく再出発。エンジンの音を聞いてまた眠る。

1996年11月15日金曜日

ロンボックの華人医師

早朝四時ごろ、吐き気で目が覚めた。めんどくさいので吐き気をこらえつつ眠っていると、おなかがくるくる鳴り出した。体全体に力が入らず、なんだかとてもいや~~~~~~な感じだ。しかも寒い。南緯8度で寒いはずないのに。

トイレに行くときっちり下痢。昨夜食べた何が悪かったのか、さっぱり見当がつかん。下痢止めを飲んでもう一度寝る。

六時ごろ、悪寒に目が覚めてうーうー唸っていると、相棒が正露丸を出してくれた。五粒飲む。八時、医者に行こうと起こされて、やだ、と言ってみるも、起き上がって咳き込んだはずみにものすごい吐き気に襲われ、こらえるのに苦労、同時に汗が滝のように湧いて流れたので「こらあかん」

幸いウブドゥとは違って大きな病院があり、なんと外国人用診断室まであったのである。医者は40歳ぐらいに見えたが54歳だという華人で、五世代目だというのに国語が上手で助かった。血圧120-180、体温38℃、脈拍85/分、呼吸20回/分といずれも高く、西洋医風に言うと細菌性腸炎、中医学風に言うと水土不合とのこと。病歴や薬物に対するアレルギーを聞いた上で、五種類の薬を処方してくれた。

1. 下痢で失われた水分補給用の電解質塩
2. 抗生物質
3. 解熱剤
4. 抗ヒスタミン剤(皮膚も診てもらったため)
5. 胃腸保護薬

医者は日本語の歌まで歌ってくれた。祖父が日本に留学していたのだそうだ。奥さんもお医者さんで、奥さんはチャイニーズ、ニアスニーズ、マレー、オランダの血を引くそうだ。

診察費は12000Rp、薬代が35000Rp。USD20ドルぐらいか。帰ってすぐ薬を飲んだが昼までには熱は下がらず、今日の移動は諦め、一日眠り続けた。

1996年11月14日木曜日

ロンボック上陸

ロンボック行きフェリー、朝イチ8時半のに乗船。4時間半で到着。客引きを振り切ってBemo(移動用ミニバン)をキャッチするのに成功。Swetaまで700Rp、さらに乗り換えてCakraまで250Rpという前情報だったが、このBemoはCakraまで1000Rpでと交渉がまとまった。ラッキー。大荷物なので乗り換えの手間は減らしたい。

BemoがCakraで下ろしてくれたのは、できたてのきれいなロスメン(安宿)の前。完全なバリ建築で、バリ人がオーナーなのは一目瞭然である。綺麗すぎて高いだろうなあと思ったら、やっぱり安くはなかった。ダブル、Mandi(バスルーム)、朝食付きで17500Rp。一泊だけなので泊まることにする。しかし荷物をおろしてから気付いてちょっと嫌な気分になったのは、こんなに新しくてキレイなロスメンなのに、ベッド横の壁に血をなすりつけたと思しき後が残っていたこと。虫がいる可能性…。血は古そうなので昨夜の人が、というわけではなさそうだが、ああやだなあ。

さてさて、バスターミナルへチケットを買いに行く。27500Rpを25000Rpに、という話にうまうまと乗ってしまい、BIMA行きの夜行バスのチケットを買ってしまった。昼の2時半出発、朝5-6時ごろ到着という15時間の旅だ。さて、どうでるか。

1996年11月13日水曜日

パダンバイへ移動

下腹部にも帯状に湿疹が出てきた。果たしてこれは虫刺されなのか、それともじんましんかなにかなのか。痒くてツライ。

朝11時のバスで、ロンボック行きのフェリーが出る村、パダンバイへ移動する。二時間もかからず到着。パダンバイは小さな円形の湾を持つ村だった。バスを降りてすぐの客引き(言い値:バス・トイレなし10000Rp、あり15000Rp)を振り切って浜辺までゆくと、小さいながらもトイレ付きダブルに朝ごはんまでついていて、しかも海に面している部屋が8000Rp、トイレなしhが7000Rpだった。トイレ付きの部屋に泊まった。

部屋の前で座っていても、小学生のコドモが鉛筆やら舟の模型やらを売りに来る。ここの漁舟はたしかにとても特徴のある舳先だ。カヌーのように細い帆舟の舳先が、カジキマグロのようにくちばしの長い魚の形になっているのだ。魚なのにまつ毛付きの目がついていて、長い口が開いていて、開けた内側を赤く塗っている。かわいい。

男の子がその魚の顔の舟の模型を、女の子が魚とか三日月とかペンギンとかが付いた鉛筆などの小物を売りに来る。鉛筆は一本500Rpだったので子供相手だし値切らずに六人から一本ずつ買って退散願ったら、五分とたたんうちに別の一団に取り囲まれた。私は自分の部屋の前の椅子に座って書きものをしている最中だったので、逃げようがない。でもいらない荷物は増やせない。手持ちのビスケットをみんなに配るととても嬉しそうな様子だったので、全く仕方なく袋ごと全部進呈すると、全員の目が輝いた。可愛い。そして早速どこかに行ってくれた。

しかし彼女たちは一団や二団どころではなく、また一度や二度の来訪で諦めてくれたりは全くしなかったのだが…。

海岸なので魚が安い。バラクーダって日本語で何ていう魚なのであろう。一匹3200Rp~3500Rpぐらい。相棒が、これは香港ではわりに高い魚だという。

久しぶりに乾いた気候なので(ウブドゥは湿度が高かった)、ビールを二本も飲んで寝てしまった。大変な贅沢だ。

1996年11月12日火曜日

ヤモリの王様

相棒本復、私は生理痛でダウン。明日はバリの東部、Padanbai(Lombok行きのフェリーが出る漁村)へ移動することにする。

相棒、九日間の風呂断ちを本日めでたく破ってシャワーを浴びる。よかったね、と言ってほしいのはわたしである。毎晩おんなじベッドで寝てた身になれい。

私はヤモリは全く平気だし、蛇も毒蛇でないとわかっている場合にはまあまあOKだが、相棒は爬虫類が嫌いである。怖くはないが好きではないの。そこへ昨日のヤモリの王様がまた現れたのでとっても不機嫌。一方私は虫が苦手で、特に夜飛ぶ虫は自分でも不思議なぐらい怖い。なぜだろう。そしてこれは自分でも納得いかんのだが、クモは平気。なぜだ?やはり虫を食べてくれるからだろうか。

そこでヤモリの王様の話に戻るが、王様がバスルームの電灯に集まる大きな飛ぶ虫をかたっぱしからパクパク食べてくれているのを見て、私は言った。「壁虎大王是我的朋友(王様は私の友達だ)」相棒が言った。「你不是我的老婆(おまえは俺の嫁ではない)」

しかし王様、鳴き声がとっても大きいので、私達は長いこと「郭公(カッコウ)」だと思っていた鳴き声が、実は王様のヤモリにしては桁外れにでかい鳴き声だとようやく気がついた。げっこー。

今日は暑い。とても暑い。

バリはフォトジェニックな島なので、絵葉書を16枚も買ってしまいました。

1996年11月11日月曜日

夫婦で体調わるし

相棒、風邪やや好転か。まあ、油断はできぬ。

相棒はさておき、私は食べた何が悪かったのか、プロボリンゴの悪夢再び、である。太もも裏、またしても大変なことになった。昨夜夜から始まって、今朝見た相棒が「うっ」と行った。私は痒く痒くて、昨夜ほとんど眠れなかったのだ。

相棒が試してみようと買ってきたのが塩だった。熱いお湯で患部をよく洗い、塩を力任せに塗り込む。すでにあちこちの皮膚を掻き破っているので激痛が走る。私はうーうーうーとうなりつつ体をひねり、相棒は掻くからじゃばかたれと、無情である。熱い湯で洗い流し(これも激痛)、再び塩で洗い…ということを繰り返し、最後に熱い湯でよく絞ったタオルで水気を拭き取って、抗ヒスタミン剤をベタベタ塗って、飲む抗ヒスタミン剤も飲んでおしまい。私はへっとへとに疲れたのと、昨夜よく眠れてなかったのでこてちんと寝てしまった。

目覚めると昼。しかし食欲は全くわかないので、昨日買ったスイカを食べる。西瓜、上出来である。中落ちした甘い味だった。

さてこんどは相棒が昼寝。医者でもらった薬がとても強いらしく、飲むとてきめんに眠くなるのだそうだ。私は昨日買ってきた「結婚のオキテ」を読む。私は自分が25歳で結婚するとは、夢にも思わんかったなあ。しかしながら姓も変えておらず、子も生んでおらず、夫婦で職にもついておらず定住もしておらずの現状では、結婚してるとかしてないとかにあまり意味はないのであった。

夕刻、激烈な生理痛が始まったため、行く予定だったKecakを見に行くのをやめにする。2キロも離れた劇場までよう歩かんわ。

飲む抗ヒスタミン剤のかわりにバファリンを飲んで寝たので、深夜に再び痒みがぶり返してきてツラカッタ。しかし、見た目はかなり回復してきた。相棒も風邪の具合がだいぶマシになったようで、今夜は熱が出ていない。

夜、30センチちかいヤモリ科の大親分みたいなやつがバスルームに出てびっくり。薄緑色の地に、ピンクの水玉模様がもりもり盛り上がっているという賑やかなやつである。しかもまるまる太ってる感じ。

1996年11月10日日曜日

診察と宿替え

相棒の風邪、芳しからず(しつこい)。朝夕に微熱が出る。もちろん水シャワーを浴びるどころではないので、風呂断ち七日目だ。頭だけは昨日洗わせたのだが。

とうとう諦めて医者に行く。地元の人は西洋医にはあまりかからないのか、医者は明々白々に外国人向けだった。10分ほどの簡単な診療のあと、薬を二種類、3日分。USD10。薬はインドネシア製なので、包装はたいせつに保管しておいて、続きは薬局で買うことにしよう。

さて宿替え。何の気なしに別のゲストハウスをのぞいていると、素敵な部屋を見かけたのだ。渓谷に面してテラスがついていて、谷のそこにはせせらぎが流れている。向かいの丘はややなだらかで、棚田になっている。

渓谷自体はちょっとした森になっていて、なんとも嬉しいことに森にはリスがいっぱいだ。屋根の上をたかたか走ってゆく音も聞こえるのだ。向かいの棚田には牛もにわとりもいて、夜にはホタルがたくさん飛び交っていた。いいところだなあ。うっとり。

1996年11月9日土曜日

レゴン・クラトン

相棒の風邪芳しからず。こやつが最後に風呂に入ったのは確か11月3日のことであるから、今日で6日目か。臭いやつになってきた。現地の薬を飲んではいるのだが。

郵便局ではがきを出そうとすると、このサイズのは600Rpではなく1000Rpであると言われ、以前に出していたのはちゃんと届いているのだろうかと、ちと心配になる。

猿森、Monkey Forestへ散歩にでかけ、しっぽの長い猿たちを見物。基本的によく慣れている猿たちではあったが、ココナッツのみをサッカーボールのようにして遊んでいる猿をいつまでも見ていると、ココナッツを取られるとでも思ったらしく、歯をむき出しにして襲いかかってきた。もちろん本気の衝突ではなく威嚇なのだが、私は慌てて本などで思いリュックを足元に落とし、リュックに猿の注意を向けて逃げた。リュックはさるより重そうで、持って行かれる心配はなしと考えたため。相棒が木の枝を拾い上げると、猿は逃げた。

広場に猿の水飲み場になっている小さな池があり、そのほとりに植わっている木が、枝を池の中央に向かって伸ばしていた。ある子ザルがその枝から池に向かって勢いよくジャンプ、ばちゃーんとあがる飛沫の音を聞きつけてか、森から小猿たちがたくさんあらわれて寄ってきた。子ザルの飛び込み大会だ。池の水が減るぐらい、いきおいよく飛び込んでいる。猿ってこんなに水を恐れないものだったのか。

読み終えた原寮を売りに行くと、滝口康彦「謀殺」が出ていた。買い取って帰り、相棒が寝ている間にまたたく間に読み終えてしまった。

七時半から王宮劇場で、バリ舞踏の代表作「レゴン・クラトン」を見る。このダンスはバリの伝説にその材をとっていて、ダンス自体は非常に象徴的なので、ストーリーを知らなければ何が何やらまるでわからない。

ある王が隣国の姫をされって連れ帰り、王妃となるようせまる。姫はそれを拒み、このことが原因であなたは死ぬだろうと予言する。隣国との戦争が始まり、姫の兄から決闘が申し込まれる。王はこれを受け、戦いに赴く途中、森のなかで不吉なあかしを持った鳥に出逢う。王は鳥を無視し、決闘の場、死の運命へと進んでゆく。舞踏はこの物語のうち、王が姫に触れようとして拒否されるところから、森のなかでの鳥の出逢いまでを、八歳から十四歳までの三人の少女の舞によって表現する。

説明によれば、レゴンとは少女の三人舞を、クラトンとは宮廷を意味するという。レゴンは何種もあるというが、この宮廷のレゴンが、その最も完成された形であるという。

まず一人目の少女が登場する。彼女は王宮の侍女であり、後に王が森のなかで出逢う、死を告げる鳥となる。侍女はその舞により、物語前半のあらすじを語る。次に王と姫が登場する。といっても少女たちは双子のように全く同じ色違いの衣装を身に着けていて、服装によって男女の演じ分けをするわけではない。侍女はここで退場する。王と姫はときに接し、ときに離れ、ときに合わせ鏡のように舞う。やがて王は姫の後ろについて舞い始め、隙をついて姫の腰帯に手を触れる。打ち鳴らされるガムランの太鼓とシンバル。姫はきっと振り返り、心外なという表情で王をにらみつける。以上はもちろん即物的な動作ではなく、高度に昇華された優雅な動きで表現されるわけだが、想像してみてください。金糸銀糸のあでやかな布に身を包んだ初潮前の少女たちによリ演じられる、王と姫の性的な攻防。なんといという倒錯。この場面は何度も繰り返され、そのたびに姫の険しい拒否の表情に、観客はどぎまぎする。

やがて姫は征服されぬままに退場し、入れ替わりに侍女の少女が、両手に翼を付けて現れる。彼女は鳥なのだ。王は死の鳥を無視しようとしてできず、ともに舞い、やがて王の死を暗示して舞いは終わる。

なんというお耽美な見世物であろうか。特に侍女役の少女が絶世の美少女で、私はうっとりと見惚れたよ。

もうひとつみごたえがあったのはトペン・クラス、仮面舞である。森のなかの魔物だ。こやつが舞台正面の開け放しの門からそろりと姿を表した瞬間、観客席の観光客の子供がいっせいに、火のついたように泣き出した。赤い顔、大きく見開いた目、長生き場、顔から直接足が生えているかのように見える衣装。

異形のものが異様な身振りで動き出したときには、さらに何人かの子供が泣き始めた。地上に降り立った魔物はひとしきり舞うと、満足げに去っていった。

もしかすると同じ踊り手だと思うのだが、舞台の最後にも仮面舞があった。今度は白い面に長い長い爪を付けた白い手袋をしている。解説によればこの踊りは森でひとりで遊ぶ魔物の即興舞であって、舞いがガムランをリードするのだという。確かに、ガムランの奏者たちは舞い手を注目しながら演奏していた。とくに若い太鼓の叩き手と舞い手はお互いを挑発しあっているようで、太鼓が舞いをうながすように何度も誘いのリズムを打つと、ま物は俺の遊びに口を出すなとばかりに太鼓をけとばす真似をしたりして、それまでの舞いとは趣きがたしかに違っていた。でも緊張感の高さはやはり同じなのだが。

この力強い足と大きくて長い指を持つ舞い手が舞台から降りて仮面を取ったところを見てびっくり。還暦はゆうに超えているとおぼしき老人だったのである。名人なのだ。子供が泣き叫ぶわけだ。

あとはBarong DanceとKecakをぜひともみたいなあ。


1996年11月8日金曜日

バリの美術館

相棒の風邪のぐあい芳しくなく、積極的にどこへ足を伸ばそうという気もおこらない。

朝食においしいバナナパンケーキとパパイヤ・バナナ・パイナップルのフルーツサラダを食べて、から、すぐ近くの美術館までぶらぶら歩く。峡谷に掛けられた小さな橋を渡って対岸へ渡ると、美しく設えられた庭と池が美術館の建物を取り囲んでいた。すべての展示物が絵画で、ドキドキするような刺激的な絵が並んでいた。すべてバリニーズアートの傑作ばかり。監視員は監視するともなく入り口に座り込んで、ガムランの木琴をぽこぽこと練習していて、落ち着いた緑の庭にピッタリのBGMになっていた。こんなところに住めたらなあ。

昼食を取り、古本屋で原寮の「私が殺した少女」を購入。というか、日本語の本はそれしかなかった。5000Rp。読了後は店に持っていけば半額で引き取ってくれるという、安宿の多い地区にはよくあるシステムだ。

相棒は薬を飲んでベッドへ、私は買ってきた本を読み始めた。本日の活動はこれにて終了。

1996年11月7日木曜日

Ubudへ移動

バリは建物の装飾が美しく、ジャワ島よりも味わい深い感じの町並みである。昼前にチェックアウトして、Ubudへ向かう。広いポーチ付きのダブル、久しぶりにシャワーとトイレ付きの部屋が朝食込みで10000Rps、多分10%のTaxがつくんだろうが、それにしても一人275円である。安い安い。

相棒の風邪がよろしくない。Bromo山が寒すぎたのだろう。やはり私と違って肉襦袢を着込んでいないので寒さに弱い。インドネシア製の薬をせっせと飲んでいるのだが、効き目はもう一つである。かわいそうだなあ。というわけで、本日はご飯を食べては眠り、またご飯を食べては寝て過ごす。明日はバリ舞踊を見に行きたいもんである。

1996年11月6日水曜日

ジャワを離れ、バリへ移動

ブロモ山群を見下ろせる山まで往復6時間のトレッキングに参加する予定で早朝4時に起床したが、天候が大変よろしくない。そこで諦めて寝なおすと変な夢を見た。

福建のどこかを旅行していて、大勢の日本人の女の子と連れになる。しかし全員そろって山賊に捕まり、山賊のアジトに連行されて、金目のものをすべて取られる。その後、山賊は我々にB4ぐらいの八笑福(日本の七福神に似た中国の神様グループ)が描いてある紙を一枚づつ渡し、そこにご飯を盛って食べさせてくれたのだが、食べ終わったあとで私と相棒の紙をよく見ると、極彩色の絵なのに寿星(福禄寿)だけが真っ白である。相棒が叫んだ。「俺の寿星は白いぞ!」山賊が立ち上がって叫んだ。「しまった!」「誰だ、こいつらに白い寿星をやったのは!」なんでも福建の風習では白い福禄寿はラッキーアイテムで、それを得たものはなんでも一つだけ周りに要求できるのだという。ヨーロッパの「陶器の魚が入っているケーキの一切れを食べたものは一日王様ゲーム」ですな。釈放の要求のうち「全員」というのは却下され、私だけがアジトの外に放り出された。警察を探しにあてども無く歩き回り・・・というところで目が覚めた。朝6時。

8時のバスでProbollingoへ下り、10時のVIPバスでバリへ出発。VIPバスは25000ルピア。15000ルピアのエアコンバスとちがい、寄り道をしないので1時間ほど早く到着することと、食事がついているのがメリット。

午後4時半、Java島東端に到着。バスごとフェリーに乗る。Bali時間はJava時間よりも一時間早いので、30分で対岸に到着するともう6時、そこから100キロほど離れたデンパサールにたどり着くと、夜8時であった。ワゴンを拾ってAdi Yasa Hostelへ向かう。かわいらしい中庭つきの、いい感じの民宿であった。ばたりと眠る。

1996年11月5日火曜日

ブロモ山登頂

早朝4時。真っ暗な中をクレーターへ向かう。馬はシャンシャン走ってゆくが、歩きの私たちはそうはいかない。クレーターの中の火山灰はクリームのように柔 らかく、とても歩きづらい。霧は深く、10メートル先も見えないぐらいだ。白く塗られた石を頼りに歩くと、一時間ほどでブロモ山の真下に到着。ここから急 勾配の階段を上ることになる。このころから空が急速に白んできた。

しばらく上ると、ブロモ火口が吹き上げる硫黄を含んだ煙るが階段に沿って降りてきて、死にそうになった。息はできないし、目は涙であふれる。鼻水はだだ流 れになるし、げほげほずるずるくっちゅーん、はあはあげほげほ・・・と、布を口で押さえてうずくまってしまった。階段にいた全員が同様の体勢で口を押さえ てうずくまりつつ、じりじりそろそろt階段をにじりあがって行く。にじりあがった頂は、見事なクレーターになっていて、かみそりの刃のように細い細いク レーターの周辺をたどって、その最も高いところに立つ。標高2392メートル。

見下ろすと、外側の巨大なクレーターの内側部分は雲海に覆われて底が見えない。

外クレーターから昇る朝日は幻想的に美しかった。振り返って、ブロモ山のクレーター(直径1キロほどかと推測)の底は外クレーターと同じく平らな底で、亀裂が何本も走っていた。亀裂が交差したところからもくもくと絶え間なく白煙があがっている。今噴火したらやだな・・・。

再び歩いてホテルに戻る。7時。軽い朝食を取って眠る。起きたら12時で、雨がざあざあ降っていた。どこへも行くところが無く、そこらじゅう走り回っている立派な鶏を見た相棒が、食べたいと言い出した。ゆうべ夕食をとったメシ屋で、全く通じない会話で無駄な時間をだいぶ費やした挙句、絵を描いたら一発で通じた。鶏の絵。鍋でスープを煮ている絵。横にBerapa?(インドネシア語で「いくらだ?」)。

たくさん集まってきていた人々の「おおー!」というどよめきとともに、小さいのが10000ルピアという回答がすぐ出た。現物を見せてもらう。最初につれてこられたのが年取っためんどりで、卵穴を確認すると結構広がっていたので、若くないなーと難色を示してみた。別のをリクエストすると、すごく小さいめんどりが二羽出てきた。これは小さすぎる。700グラムぐらいしかなさそう。私たちが首をひねっていると、オヤジが大きな大きな立派な立派な雄鶏を連れてきた。首が長く、脚も長くそして太く、どう見ても闘鶏である。相棒が、闘鶏の肉は特別の味がする、肉が粘っこいんだと食指を動かしたが、この鶏はどうみても3キロちかくあり、二人で食べきれる量ではない。この店の持ち鶏はあと一羽、ちいさめの雄鶏だが、オヤジはこちらはさばきたくないという。多分、将来性のある闘鶏なのであろう。最初のめんどりで妥協することにした。中サイズなので12000ルピア、料理代が1000ルピア、しめて13000ルピア。しかしやはりといえばやはり、このめんどりは肉が硬かった。

1996年11月4日月曜日

ブロモ山頂へ移動

暑い。日本の熱帯夜の1.5倍ぐらい暑い。寝汗が目に染みて痛い。そして太ももは痒い。死にそうだ。夜中に暑さで目が覚め、水を飲み、思い付いてもう一度薬を飲んで眠る。

夜が明け、相棒は洗濯にとりかかったが私は薬のせいかもひとつ体に力が入らない。朝食はトースト三枚、バター、ジャム、ゆでたまご、ポット一杯の熱いインドネシア茶と、質素ながらたっぷりの量で、8000ルピアのなのにこれでちゃんとモトが取れてるのかフシギ。などと言いながら22500ルピアの部屋をみると、そっちはゴハンに5品ぐらいのおかずが付いてくるがっつりゴハンだった。なるほど。しかし朝から激辛パダン料理よりは、トーストとゆで卵のほうが有り難い。

薬を飲んでバルコニーで風に吹かれていると、また太ももがかゆくなってきた。やはり汗をかくのがマズイようだ。再び水風呂を浴び、薬を塗ったくって椅子に浅く浅く尾骶骨のはしっこだけで腰掛けて休む。その他の症状は無いので、かゆいだけなら気合で乗り切ろう。

一方、大問題は別にあった。明日はブロモ山頂付近に泊まって日の出を見る予定であるが、日の出ごろの予想気温は3~5℃だ。そして私たちは夏装備しか持って来ていない。

私が持っている長袖は3枚。2枚はタイで買ったスケスケうすうすコットンで、とても防寒の訳には立たない。一枚は厚手のシャツだが、やはり綿。相棒はレインコート兼ウィンドブレーカーを1枚持っているだけ。だから私の長袖を一枚貸してやらざるを得ないだろう。そうするとわたしはTシャツ2枚、うすうす長袖1枚、綿シャツ、レインコートの装備で5℃の気温に挑むことになる。

さて山頂へ出発。ワゴン車に相乗りして山頂へ向かう。ワゴンはぐんぐん山を駆け上り、気温はぐんぐん低くなる。ブロモ山は巨大なクレーターの中に三つの火山があり、クレータ周辺にも火山がいくつもあるという面白いカルデラ地形をしていた。クレーターの中でもくもくと煙をあげているのが最高峰であり、明日の登山目標である。クレーターのなかはぺったんこの砂の海で、ヒンドゥー寺院があった。バリ以外におけるヒンドゥー信仰って、どんな具合なのだろう?(参考)

カルデラのすぐ外にあるホテルCemoro Lawangに投宿。明日は4時起床である。

1996年11月3日日曜日

ブロモ火山へ出発

列車は中国の硬座とよく似ていた。しかし、痰をはく人が居ないので清潔である。これでゴミを床に捨てるのをやめてくれたらなあ。座席は硬く、直角で、硬座そのもの。93年に昆明から元謀まで10時間移動したときも、こんな硬座だった。あのときは往復だった。今回は片道で助かった。

もちろん空調などはなく、酷暑。汗をダラダラ流しながらぐーすかねむっているうちに到着。インドネシアの駅は駅名表示が一箇所しかなく、しかも到着時のアナウンスなどもないため、到着時間が近づくとドキドキする無事プロボリンゴで下車。コルトで大通りまで出るのにY300ルピア。めっこをつけておいたホテルまで500m。二段ベッドだがとても清潔な部屋が朝食付きで8000ルピアと、ガイドブックに載っていた通りたいへんお買い得。シーツも真っ白だ。

で、列車にのっていたときから痒くて痒くてしかたがなかった太もも裏を見る。鳥肌が立つほど悲惨なことになっていた。100匹ぐらいの薮蚊に太もも裏だけを集中攻撃されたらかくもあらんという感じ。腫れていない地の皮膚が無いぐらい満遍なく刺され、盛り上がっている。ボコボコの直径は2センチぐらいと結構大きく、また上への盛り上がりも大きい。全体としてザボンの皮を拡大したと言おうか、滑らかなワニの背中といおうか、相棒が「ぜひ写真を」と言うのを却下して、急いで水風呂を浴びにいく。消毒石鹸で念入りに洗い、抗ヒスタミン入り軟膏をぺたぺた塗る。新しいチューブが半分カラになった。

しかし何なのだこれは。相棒は南京虫ではないかと言う。夕べの宿で自分も刺されたと言って、刺され痕を見せてくれたが、米粒大のが三つだ。絶対に同じ原因のものとは思えない。私は列車の木の座席に虫がいたか、夕べ食べたシシリア風ピザのトッピングの貝が原因かどっちだろうと悩みながら、とりあえずアレルギーの薬を飲んだ。海鮮にはやかましい相棒に香港で仕込まれたせいで、ああ、これは新しくないなあ。。。と思いながら食べていたのだ。

さて、まともな食事を取るべく出かける。華人経営らしき店を探し、きのこと鶏の炒めもの、紅焼豆腐を食べる。私たちの中国語を聞き付けて出てきた親父は、自分は黄世強だと名乗り、名前の意味は黄種人、世界上、強大国だと胸を張った。海南人だそうだ。

部屋に帰りもう一度薬を飲んで就寝。

1996年11月2日土曜日

列車のチケット手配、買物

朝からブロモ火山行きの列車のチケットを予約。朝7時半発。10時間はかかるというのに300円ぐらいの切符を渡され、なんだかとても嫌な予感がする。ジャカルタからジョグジャは9時間乗って1000円ぐらいだった。今度はどんな列車なのであろうか。

午後から買い物。手染のバティックを購入。32000ルピア。宝物の様なシルクのバティックは230000ルピアと値札にあり、値段を交渉する以前に諦めた。

ボロブドゥールで買った水牛の角の腕輪がお気に入り。1500ルピア。

1996年11月1日金曜日

ボロブドゥール観光

本日はボロブドゥール観光。プランバンナンはヒンドゥ遺跡であるが、こちらは仏教遺跡。上から見ると曼陀羅になっているという構造。丘がまるごとひとつ石組みの遺跡なのだ。しかしなんと暑いのだろう。濃い色の石が太陽熱を吸収するため、日中の気温は40度を超えるそうだ。私たちは午後に行き、暑くて暑くてもうへっとへと。遺跡は10年かけて解体整備されたそうで 保存状態は悪くないものの、タイのスコタイ遺跡よりはずっと痛みは激しい。しかしその痛みが激しいところが私の好みに合っている。