本日は休息日。誰が何と言おうと一日ぼけぼけすべしと決めて、朝から晩までCafeをはしご。陽朔にはこの手の外人向け飯屋が掃いて捨てるほどある。手紙をかいたり、ぼーっとしたり、ビールを飲んだりする。
なにしろ陽朔に着いてから、第1日;普益へ行く、第二日;河原でBBQ、第三日;船で福利へゆき、ちゃりで帰ってくる、第四日;サイクリングと月亮山登山、と、これでは私本来の旅ではありえない、もりだくさんすぎじゃい。それに私は本来アウトドアな方じゃないのだ。
朝ベルトをしめると、出発以来たった一ヶ月で穴4つ分痩せていた。このままではまた病気で倒れる。絶対に。
朝食のこと。
中国人は注文したものは「みんなで」食べるという常識がある。しかし私は日本人なのでそうではない。というか、中華を食べるときにはもちろ中国人ルールに従うが、洋食とか日本食の時には、好きなものを自分で注文して、自分で食べる。しかし、相棒はそうではない。
例えばこうである。
本日朝食時、私はヨーグルトとフレンチトーストを注文した。相棒はヨーグルトと(なんと)カレーライスである。朝から。
そしてこの時、相棒の考えでは、自分はカレーライス半分とフレンチトースト半分を食べるというのが常識なのだ。ところが私は、フレンチトーストを注文したのは私なのだし、これは私が食べるものと、つい思っちゃう。だから、「私の」フレンチトーストをばくばく食べる。すると相棒は、私を利己的な奴だとなじるのであった。
そんな事言われたって、私はフレンチトーストを食べたくて頼んだんだし、朝からカレーなんか食べたくない。できれば見たくもない。(向かいで食うな)しかし相棒はうれしくなさそうだ。
どうすればいいいのかなあ?
カレーといえば、昔、香港ジャスコの中の日本風ファミレスで私がカレー、相棒がうな重を食べたとき、やはり「注文したものはみなで食べる」思想の相棒が、 100%親切で私のカレー(のカレールウ)の上に、うなぎを一切れ乗せてくれたことがあった。つい、酢を飲んだような顔をしちゃったよ、私は。
これからもきっとあるだろう。深く考えんとこう。
***このブログについて***
書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。
1996年4月30日火曜日
1996年4月29日月曜日
農村サイクリング
昨日夕方5時ごろ、ちょっと横になるつもりで気づいたら今朝8時。昨日のサイクリングがよほどこたえたらしい。気づいたら香港出発以来、ベルトの穴三つ分やせている。病気をしたせいもあるだろう。
本日はガイド(近所の農民)をやとって農村サイクリング・
田んぼのあぜ道を抜け、駱駝山のわきを通って大溶樹(バンヤンツリー)のたもとへ2時間半。マウンテンバイクは、思うに手足が長くて胴の短い人種用だ。私が乗ると前傾姿勢が苦しくてたまらん。ずっと乗ってると、手のひらにタコができそうだ。
大溶樹公園、入場料が12元に値上がりしててびっくり。ただの樹のくせにー!誰がこの金をフトコロにいれているのであろう。結局入場せず。
月亮山へ行く。登る。天気に恵まれず、あまり見通しがよくない、降りる。へとへとである。
放し飼いの鶏を「土鶏」あるいは「農家鶏」という。ブロイラーは「飼料鶏」。ガイドさんの家で土鶏を料理してもらう。自転車にのり、山に登って下りてきた、ぐうぐうのお腹でがつがつ食べた。土鶏の皮や肉はブロイラーに比べてたいそう黄色く、強い歯ごたえがある。味も濃い。ぐふぐふぐふ。
白米が輝くように白く、また美味かった。尋ねると、自分ちの田の新米だからうまいのだ、との誇らしげなお答えであった。この季節になんで新米やねんと思ったが、このへんは二期作で、4月と9月に収穫があるのだそうだ。
2年前と同じく、ガイドさんのノートに感想を記入して、陽朔へ帰った。
そしてこれが本日会心の一枚。
一日チャリにのると。尻が痛くてたまらん。日本のママちゃりのようにふわふわしたサドルではないためだ。私はまだマシだが、骨の上に皮一枚張ってみましたという相棒の尻では、ほんとに辛そうだ。私もそうそう他人の尻を比べたわけではないが、相棒の尻は私が知る限りで一番肉のない尻である。うちの父よりまだないなあ。
本日はガイド(近所の農民)をやとって農村サイクリング・
田んぼのあぜ道を抜け、駱駝山のわきを通って大溶樹(バンヤンツリー)のたもとへ2時間半。マウンテンバイクは、思うに手足が長くて胴の短い人種用だ。私が乗ると前傾姿勢が苦しくてたまらん。ずっと乗ってると、手のひらにタコができそうだ。
大溶樹公園、入場料が12元に値上がりしててびっくり。ただの樹のくせにー!誰がこの金をフトコロにいれているのであろう。結局入場せず。
月亮山へ行く。登る。天気に恵まれず、あまり見通しがよくない、降りる。へとへとである。
放し飼いの鶏を「土鶏」あるいは「農家鶏」という。ブロイラーは「飼料鶏」。ガイドさんの家で土鶏を料理してもらう。自転車にのり、山に登って下りてきた、ぐうぐうのお腹でがつがつ食べた。土鶏の皮や肉はブロイラーに比べてたいそう黄色く、強い歯ごたえがある。味も濃い。ぐふぐふぐふ。
白米が輝くように白く、また美味かった。尋ねると、自分ちの田の新米だからうまいのだ、との誇らしげなお答えであった。この季節になんで新米やねんと思ったが、このへんは二期作で、4月と9月に収穫があるのだそうだ。
2年前と同じく、ガイドさんのノートに感想を記入して、陽朔へ帰った。
そしてこれが本日会心の一枚。
一日チャリにのると。尻が痛くてたまらん。日本のママちゃりのようにふわふわしたサドルではないためだ。私はまだマシだが、骨の上に皮一枚張ってみましたという相棒の尻では、ほんとに辛そうだ。私もそうそう他人の尻を比べたわけではないが、相棒の尻は私が知る限りで一番肉のない尻である。うちの父よりまだないなあ。
1996年4月28日日曜日
福利鎮の定期市へ
9時起床。貸しちゃりをチャーターした小船に乗せて、福利鎮へ行った。船のチャーター代は40元。本日は福利に定期市が立つ日。なかなかの賑わいである。2年前にここで「趕集」という単語を覚えたんだよなあ。 1時半に福利を出て、ちゃりで帰ってきた。帰り道は山有り谷ありトンネルあり、へっとへと。よく考えると朝食も昼食もまだ食べてない。
鯉を22元で買って、また紅焼にしてもらう。酸筍ときくらげと豚肉炒めものも。酸筍は、竹の多いこの地方の名産で、特別おいしい。
鯉を22元で買って、また紅焼にしてもらう。酸筍ときくらげと豚肉炒めものも。酸筍は、竹の多いこの地方の名産で、特別おいしい。
1996年4月27日土曜日
河原でBBQ
朝食を、陽朔に腐るほどある洋食屋でとる。食後、鉄製の網を一枚購入、鶏一匹、牛肉いくらか、小ぶりの鯉を2匹、胡椒と唐辛子と塩を少しずつ、木炭をバケツいっぱい買いこんで、河原へBBQに行く。
木炭を着火するのに難儀する。釣竿を持って河原にきた小学生にお願いしたら、あっさりつけてくれた。何事にもやり方というのはあるもんである。子ども4人にBBQを勧めると、明らかに食べたそうなのに、恥ずかしがってなかなか食べに来ない。押し付けるようにして渡すと。やっと受け取り。ぱくぱく食べはじめた。実にかわいらしい。
鶏美味し。鯉はBBQにはちと大きすぎ。
食後の後片付け。鉄網を捨てられるようなところが近所に無いかコドモに聞くと。仲間内で相談して、食べ物のお礼に持っていってやると言うのだった。なんていい子たちだろう。素っ裸で泳ぎ、とても恥ずかしそうに笑いさんざめきながら河原へあがってくるのだった。
相棒が、自分も子どものころは裸足で学校へ行くのがかっこよかったと言い、ちょっとびっくりする。夏、間違えてビーサンで学校へ来たりした子はヒーローであったが、ああいうもんか。
木炭を着火するのに難儀する。釣竿を持って河原にきた小学生にお願いしたら、あっさりつけてくれた。何事にもやり方というのはあるもんである。子ども4人にBBQを勧めると、明らかに食べたそうなのに、恥ずかしがってなかなか食べに来ない。押し付けるようにして渡すと。やっと受け取り。ぱくぱく食べはじめた。実にかわいらしい。
鶏美味し。鯉はBBQにはちと大きすぎ。
食後の後片付け。鉄網を捨てられるようなところが近所に無いかコドモに聞くと。仲間内で相談して、食べ物のお礼に持っていってやると言うのだった。なんていい子たちだろう。素っ裸で泳ぎ、とても恥ずかしそうに笑いさんざめきながら河原へあがってくるのだった。
相棒が、自分も子どものころは裸足で学校へ行くのがかっこよかったと言い、ちょっとびっくりする。夏、間違えてビーサンで学校へ来たりした子はヒーローであったが、ああいうもんか。
1996年4月26日金曜日
郊外の農村、普益鎮
朝食に骨頭粥を食べる。牛の背骨の塊を入れて炊いた粥。すばらしいスープの味がする。あさつきと白胡椒でいただく。
ミニバスで郊外の農村、普益鎮へ行く。何も特別なことはなく、散歩を楽しんでかえってきた。市場で鯉を一匹購入。宿の一階の飯屋で紅焼にしてもらう。酸筍ときくらげと豚肉炒めもの、白菜の炒め煮とあわせて、豪勢な昼食。夕方になっても空腹感がおとずれず、夕食抜き。
ミニバスで郊外の農村、普益鎮へ行く。何も特別なことはなく、散歩を楽しんでかえってきた。市場で鯉を一匹購入。宿の一階の飯屋で紅焼にしてもらう。酸筍ときくらげと豚肉炒めもの、白菜の炒め煮とあわせて、豪勢な昼食。夕方になっても空腹感がおとずれず、夕食抜き。
1996年4月25日木曜日
桂林に到着
朝7時、桂林に到着・さっそくおなじみ陽朔へ向かう。駅前からミニバスで一時間ほど。ここは93年に我々が出会った地なのであった。定宿に入る。バス・シャワー共同のツインが30元。向かいは青々とした山。まちなかの四海飯店で、相棒がどうしたわけだかステーキなぞを食す。10元。そぞろ歩きを楽しむ。いい季節だ。
1996年4月24日水曜日
1996年4月23日火曜日
上海到着
早朝五時、スピーカーから愉快な台湾演歌が流れ出す。熱がまだ少しあるようで、医者でもらった薬を飲む。解熱剤と抗生物質だということは聞いたが、あまり飲みたくないものだ。
7時半、上海到着。三角屋根の和平飯店を横目に見つつ通り過ぎ、鑑真号で着く国際埠頭とはまたちがった所に着いた。埠頭前から駅までミニバスが出ていたので、早速乗る。5元。駅で荷物を預け、上海第二医科大学へ電話をかけるも、S氏は不在。なにやら事情で日本へ帰ったそうな。どういうこっちゃろう?
S氏不在となれば上海に長居する理由もないので、桂林行きのキップを購入。人民料金で買ってみよう。チャレンジ!>没有。 外人料金で買ってみよう!>硬臥没有。
では軟臥をと購入してみると、ナゼか二人分で600元と格安である。なんと、いつのころからか、中国の列車チケットでは悪名高き外人料金制度が廃止されていたのだ。ひゃっほう!あっさり、しかも以前の半額で当日のキップが買えた我々は大喜び。私なんか、外人料金対策に陽朔で偽留学生証つくらなきゃなーと考えていたのに。
なお、気になる手数料はたったの5元。CITSの手数料といえば、以前は30元とか50元とか、ひどいぼったくりの値段がだったが、ここは良心的。
さて、バスで豫園へ。6年前と同じように、湖心亭で茶でもしばこうと2階へあがったら、最低消費がおひとりさま弐伍元となっており、すごすごと引き返す。さっき皮蛋痩肉粥、猪肝粥、揚げ豆腐と湯葉のスープ、おつけもの、雪菜包、もち米の包子を食べて14元だったのに、お茶いっぱいに25元も払えません。場所代なのはわかるけどさ。
すぐに豫園を去る。人がいっぱいであった。図書館へ行くも、入り口で荷物を預けよと言われ、相棒のカメラバッグの中にはニコンの一眼レフとソニーの8mmビデオが入っており、心配なので預けられず、入れずじまい。
歩いて南京路の新華書店へゆくも、期待していたより小さくてややがっかり。上海の都市規模からいうと、どこか他にもっと大きな書店があるはずだ。
林語堂名言集を購入。5.5元。
相棒は南京路に第一百貨大楼で消毒セッケンを購入。(こやつは消毒セッケンを使うと虫刺されが早く直ると信じている。そんなはずないと思う。)私は玉蘭という香港ではよく見かけるメーカーのUVクリームを買った。SPF15で40元。
4時、駅に戻る。駅の外文書店には目当ての日本語書籍はなかったものの、香港で出版されている「中国旅遊」(25ドル)のバックナンバーが7元で売られており、2冊購入。
5時、食料調達。書店で立ち読みした時刻表によれば、36時間の旅になるはずなので、パン・水・その他オヤツを買い込んで備える。軽い食事をとって6時に駅に入る。
実は私は軟臥に乗るのはこれが始めてなので、ちょっとわくわくする。さすがに硬臥よりキレイだ。しかし相棒がいうには、今回の列車のように上海から広西省に向かう場合、上海鉄道局が管理する、乗務員からコックまですべて上海人の列車と、反対に広西鉄道局が管理する列車の2種があり、乗務員の質、食堂車の味、列車のきれいさ新しさ、どれをとっても上海の方が「当たり」なのだそうだ。
そんなんことはいままで考えたことがなかったわい。してみると今回は「はずれ」か。枕に「柳州客車」と書いてある。(柳州は広西省の工業都市)
しばらくだれも乗ってこなかったので、4人コンパートメント貸し切り状態か、しめしめと思っていたら、杭州から一人、二人と乗り込んできた。
林語堂語録を読む。
7時半、上海到着。三角屋根の和平飯店を横目に見つつ通り過ぎ、鑑真号で着く国際埠頭とはまたちがった所に着いた。埠頭前から駅までミニバスが出ていたので、早速乗る。5元。駅で荷物を預け、上海第二医科大学へ電話をかけるも、S氏は不在。なにやら事情で日本へ帰ったそうな。どういうこっちゃろう?
S氏不在となれば上海に長居する理由もないので、桂林行きのキップを購入。人民料金で買ってみよう。チャレンジ!>没有。 外人料金で買ってみよう!>硬臥没有。
では軟臥をと購入してみると、ナゼか二人分で600元と格安である。なんと、いつのころからか、中国の列車チケットでは悪名高き外人料金制度が廃止されていたのだ。ひゃっほう!あっさり、しかも以前の半額で当日のキップが買えた我々は大喜び。私なんか、外人料金対策に陽朔で偽留学生証つくらなきゃなーと考えていたのに。
なお、気になる手数料はたったの5元。CITSの手数料といえば、以前は30元とか50元とか、ひどいぼったくりの値段がだったが、ここは良心的。
さて、バスで豫園へ。6年前と同じように、湖心亭で茶でもしばこうと2階へあがったら、最低消費がおひとりさま弐伍元となっており、すごすごと引き返す。さっき皮蛋痩肉粥、猪肝粥、揚げ豆腐と湯葉のスープ、おつけもの、雪菜包、もち米の包子を食べて14元だったのに、お茶いっぱいに25元も払えません。場所代なのはわかるけどさ。
すぐに豫園を去る。人がいっぱいであった。図書館へ行くも、入り口で荷物を預けよと言われ、相棒のカメラバッグの中にはニコンの一眼レフとソニーの8mmビデオが入っており、心配なので預けられず、入れずじまい。
歩いて南京路の新華書店へゆくも、期待していたより小さくてややがっかり。上海の都市規模からいうと、どこか他にもっと大きな書店があるはずだ。
林語堂名言集を購入。5.5元。
相棒は南京路に第一百貨大楼で消毒セッケンを購入。(こやつは消毒セッケンを使うと虫刺されが早く直ると信じている。そんなはずないと思う。)私は玉蘭という香港ではよく見かけるメーカーのUVクリームを買った。SPF15で40元。
4時、駅に戻る。駅の外文書店には目当ての日本語書籍はなかったものの、香港で出版されている「中国旅遊」(25ドル)のバックナンバーが7元で売られており、2冊購入。
5時、食料調達。書店で立ち読みした時刻表によれば、36時間の旅になるはずなので、パン・水・その他オヤツを買い込んで備える。軽い食事をとって6時に駅に入る。
実は私は軟臥に乗るのはこれが始めてなので、ちょっとわくわくする。さすがに硬臥よりキレイだ。しかし相棒がいうには、今回の列車のように上海から広西省に向かう場合、上海鉄道局が管理する、乗務員からコックまですべて上海人の列車と、反対に広西鉄道局が管理する列車の2種があり、乗務員の質、食堂車の味、列車のきれいさ新しさ、どれをとっても上海の方が「当たり」なのだそうだ。
そんなんことはいままで考えたことがなかったわい。してみると今回は「はずれ」か。枕に「柳州客車」と書いてある。(柳州は広西省の工業都市)
しばらくだれも乗ってこなかったので、4人コンパートメント貸し切り状態か、しめしめと思っていたら、杭州から一人、二人と乗り込んできた。
林語堂語録を読む。
1996年4月22日月曜日
病をおして上海へ移動
夜、死ぬほど苦しく、廈門の悪夢再びであった。寒気がしてやりきれん。おなかもぐるぐる鳴り出した。夜中に起きだして、中山医院でもらったクスリを飲む。薬、これで終わり。ほどなく、腹痛と喉の痛みがあっという間に引いていった。よほど強い抗生物質なのだろう。やだなあ。
しかしながら熱が下がらず、鼻水ズルズルである。朝7時、風邪薬を飲んでまた寝る。ふたたび寒気が始まった。セーター着て靴下はいて、ふとん2枚重ねて眠っているのにこの始末。どうしたわけだ。腹痛がおさまったのはありがたいが、悪寒が全身をはいまわっている。
昼ごろ、相棒が砂糖たっぷり甘甘コーヒーを入れてくれたので、パンを流し込む。もう一杯、甘甘紅茶を入れて寝る。
2時、相棒さしいれのみかんを、寝たまま口をあけて入れてもらう。
風邪薬をもう一度飲んで、寝る。寒気がだんだんおさまってきた。いいぞいいぞ。熱のある時は汗をかいた方が勝ち。(何が勝ちなのだろう?)相棒に布団の上から按摩をしてもらう。痛さの余り、汗が吹き出てきた。
寒気が飛び、汗がどんどん出てきたので、天気もいいことだし外を歩いて直すことにする。私としては食事に出るつもりだったのであるが(<どこまでも食い意地のはったヤツ)、相棒につれてゆかれたのは、医者。わたしは中国の医者に行くのは嫌なのだ。注射がこわいもん。
案の定「注射しましょう」というので、それだけはかんべんしてもらう。だって、どうみてもその注射器は使いまわし。薬をもらってびっくり。45元。廈門一の大病院で留学帰りの医者にみてもらって14元だったというのに、この田舎の開業医はなんなのだ。全島上げてぼったくりな島め。
ちなみに熱は38.5度もあった。にもかかわらず夕方6時の船で上海へ発つ。3等99元なり。二段ベッドが4つ入った8人部屋であった。一番下の等は部屋無し、その上は「筵席」といってござの上に雑魚寝である。
まわりがみんな上海人で、言葉が全くわからん。寝る。
しかしながら熱が下がらず、鼻水ズルズルである。朝7時、風邪薬を飲んでまた寝る。ふたたび寒気が始まった。セーター着て靴下はいて、ふとん2枚重ねて眠っているのにこの始末。どうしたわけだ。腹痛がおさまったのはありがたいが、悪寒が全身をはいまわっている。
昼ごろ、相棒が砂糖たっぷり甘甘コーヒーを入れてくれたので、パンを流し込む。もう一杯、甘甘紅茶を入れて寝る。
2時、相棒さしいれのみかんを、寝たまま口をあけて入れてもらう。
風邪薬をもう一度飲んで、寝る。寒気がだんだんおさまってきた。いいぞいいぞ。熱のある時は汗をかいた方が勝ち。(何が勝ちなのだろう?)相棒に布団の上から按摩をしてもらう。痛さの余り、汗が吹き出てきた。
寒気が飛び、汗がどんどん出てきたので、天気もいいことだし外を歩いて直すことにする。私としては食事に出るつもりだったのであるが(<どこまでも食い意地のはったヤツ)、相棒につれてゆかれたのは、医者。わたしは中国の医者に行くのは嫌なのだ。注射がこわいもん。
案の定「注射しましょう」というので、それだけはかんべんしてもらう。だって、どうみてもその注射器は使いまわし。薬をもらってびっくり。45元。廈門一の大病院で留学帰りの医者にみてもらって14元だったというのに、この田舎の開業医はなんなのだ。全島上げてぼったくりな島め。
ちなみに熱は38.5度もあった。にもかかわらず夕方6時の船で上海へ発つ。3等99元なり。二段ベッドが4つ入った8人部屋であった。一番下の等は部屋無し、その上は「筵席」といってござの上に雑魚寝である。
まわりがみんな上海人で、言葉が全くわからん。寝る。
1996年4月21日日曜日
地蔵観音は朝鮮の王子
本日も湯はないそうなので、別の宿をさがす。なんで宿ごときでこんなシンドイ思いを・・・ヨソの国では考えられん。
融来小院というお寺の隣に掘り出しもものを発見! 90元(120元から交渉)、農家の庭先といった風情、花壇に花が植わっていて、洗濯スペースと洗濯干しスペースがある。やったあ。
相棒となにやら山寺をめぐるが、体調のためあまり楽しめない。不肯去観音院もたいしたことなかったし。清代の「自殺禁止」の碑がややめずらしかったぐらいか。
相棒によると、地蔵観音は朝鮮の王子で、中国の九華山で修行して悟りを開いたが、「地獄未空誓不成仏」との請願をたて、菩薩として人間会と地獄界で衆上を救い続けているという。(とおばあちゃんが言ってたのだ!と力説。おばあちゃんっ子め。)中国人、弥勒菩薩も布袋さんにしてるしなあ・・・。それだけは太秦の弥勒半伽思惟像を国宝に持つ民族からは許せない所業ではある。
あとひとつ、閻魔大王が地蔵に懸想していると日本で聞いたことあるが、ほんまだろうか?だいたい、どこで聞いたんや、そんなこと。(追記:狂言『八尾』の演目でした。)
歩くのがツライので、宿に戻り花壇を謹賞しながら日光浴。
夜、シャワーの湯は申し分ない水量、温度だった。聞くと隣の融来小院の僧侶の宿泊施設から、 こっそり引いてきているのだという。中国人、なんでもありか。
消灯後、壁が薄く、隣の声が丸聞こえなことが判明。世の中うまくゆかんもんである。
融来小院というお寺の隣に掘り出しもものを発見! 90元(120元から交渉)、農家の庭先といった風情、花壇に花が植わっていて、洗濯スペースと洗濯干しスペースがある。やったあ。
相棒となにやら山寺をめぐるが、体調のためあまり楽しめない。不肯去観音院もたいしたことなかったし。清代の「自殺禁止」の碑がややめずらしかったぐらいか。
相棒によると、地蔵観音は朝鮮の王子で、中国の九華山で修行して悟りを開いたが、「地獄未空誓不成仏」との請願をたて、菩薩として人間会と地獄界で衆上を救い続けているという。(とおばあちゃんが言ってたのだ!と力説。おばあちゃんっ子め。)中国人、弥勒菩薩も布袋さんにしてるしなあ・・・。それだけは太秦の弥勒半伽思惟像を国宝に持つ民族からは許せない所業ではある。
あとひとつ、閻魔大王が地蔵に懸想していると日本で聞いたことあるが、ほんまだろうか?だいたい、どこで聞いたんや、そんなこと。(追記:狂言『八尾』の演目でした。)
歩くのがツライので、宿に戻り花壇を謹賞しながら日光浴。
夜、シャワーの湯は申し分ない水量、温度だった。聞くと隣の融来小院の僧侶の宿泊施設から、 こっそり引いてきているのだという。中国人、なんでもありか。
消灯後、壁が薄く、隣の声が丸聞こえなことが判明。世の中うまくゆかんもんである。
1996年4月20日土曜日
3日ぶりの風呂
さて、しつこく納得の行く宿探し。無い。こんな田舎なのに、観光地はオソロシイ。
どうしてリーズナブルな宿が発達しないかというと、中国人、そういうところへ自分の金で泊まる人があんまりいないからである。発票(領収書)一発で経費で落とせる階級の人間しか、観光旅行なんかいたしません。自分のフトコロが痛まないため、コストパフォーマンスの追求なんかしないのだな。こういう場合、市場原理は働かない。
探している間にも、前日から具合の悪かったワタクシ、目が眩んで一歩も歩けないほどの体調になる。相棒が考えて、220元のバス付きの宿にゴーインに決定した。山の上のガラガラホテル、350元を負けさせてきたという。チェックイン。持病のB胱炎(とくに伏せ字とする)を併発したワタクシ、750mlのミネラルウォーターを2本飲み干して、 10分に一回の割合でトイレへ行く。本日は観光どころではない。
楽しみにしていた風呂の湯は出ない。水道管が破裂したというがほんままいな。宿泊客が我々だけなので、手動のボイラーを沸かすのを面倒がったのだろうなあ。ポットをいくつも持ってきてもらい、水で埋めて風呂にする。3日ぶりの風呂である。
どうしてリーズナブルな宿が発達しないかというと、中国人、そういうところへ自分の金で泊まる人があんまりいないからである。発票(領収書)一発で経費で落とせる階級の人間しか、観光旅行なんかいたしません。自分のフトコロが痛まないため、コストパフォーマンスの追求なんかしないのだな。こういう場合、市場原理は働かない。
探している間にも、前日から具合の悪かったワタクシ、目が眩んで一歩も歩けないほどの体調になる。相棒が考えて、220元のバス付きの宿にゴーインに決定した。山の上のガラガラホテル、350元を負けさせてきたという。チェックイン。持病のB胱炎(とくに伏せ字とする)を併発したワタクシ、750mlのミネラルウォーターを2本飲み干して、 10分に一回の割合でトイレへ行く。本日は観光どころではない。
楽しみにしていた風呂の湯は出ない。水道管が破裂したというがほんままいな。宿泊客が我々だけなので、手動のボイラーを沸かすのを面倒がったのだろうなあ。ポットをいくつも持ってきてもらい、水で埋めて風呂にする。3日ぶりの風呂である。
1996年4月19日金曜日
普陀山で病に倒れる
本日は移動日。 7時半のバスで紹興から寧波に向かう。これが失敗。高速を走るのではなく、下の道を客を拾いながらちんたら走るバスだったのだ。12時に寧波到着。バス停前で軽食を取る。先に食べおわった相棒が外に出て行った。何事じゃいと待っていると、体重を記録したキップを持って帰ってきた。道端で計ってきたらしい。 55kg。あいかわらず骨皮筋衛門なやつよ。
寧波から普蛇山(山といっても、実際は島)行きの船が出る。高速船のチケットが売り切れていたので、4時間かかるフェリーで行くことになった、昼の2時発。
待合室で船を待っていると、民宿の客引きがどっさりやってきた。いずれも島の漁民で、今は自宅を民宿に改造しているのである。相棒は適当にあしらっていた。こういう時の対策も決まっていて、「教師だ」というのである。客引きはてきめんに引いてゆく。教師はビンボーの代名詞だ。私が南寧大学にいたころ、私の給料は1500元で、なんと校長より高給取りであった。教授はみなベトナムとの(密)貿易を副業にしていた。
さて、島について宿探し。あちこち見るも、どこも衛生面でツライものがある。相棒は民宿に泊まるのに気が進まなさそう。シーツや枕カバーを換えてないに決まってる、と言う。この辺の漁民は相棒が前回来た1989年のころはまだ米が満足に食べられず、サツマイモを主食にしていたほど貧しい地帯だから、5年や6年で衛生観念が育つわけはないと言うのだ。中国人が中国人について言うんだから、まあそうなんでしょうね。中国人、歯ブラシ家族で共有してたもんなあ。(南寧にての見聞ナリ)
もっとも、中国人にとっての漁民は、ワレワレにとっての被差別部落民的存在である。かつては非漢民族でも受験できる科挙を、受ける資格を与えられていなかったという。そういうのもあるのかも。
海軍招待所へ行くも、80元で風呂無し。部屋ももヒトツである。本日はひとつ安さを追求してみようと、結局民宿に泊まる。相棒の指示により、シェラフを使用しての就寝となる。実際寒い夜だった。
寧波から普蛇山(山といっても、実際は島)行きの船が出る。高速船のチケットが売り切れていたので、4時間かかるフェリーで行くことになった、昼の2時発。
待合室で船を待っていると、民宿の客引きがどっさりやってきた。いずれも島の漁民で、今は自宅を民宿に改造しているのである。相棒は適当にあしらっていた。こういう時の対策も決まっていて、「教師だ」というのである。客引きはてきめんに引いてゆく。教師はビンボーの代名詞だ。私が南寧大学にいたころ、私の給料は1500元で、なんと校長より高給取りであった。教授はみなベトナムとの(密)貿易を副業にしていた。
さて、島について宿探し。あちこち見るも、どこも衛生面でツライものがある。相棒は民宿に泊まるのに気が進まなさそう。シーツや枕カバーを換えてないに決まってる、と言う。この辺の漁民は相棒が前回来た1989年のころはまだ米が満足に食べられず、サツマイモを主食にしていたほど貧しい地帯だから、5年や6年で衛生観念が育つわけはないと言うのだ。中国人が中国人について言うんだから、まあそうなんでしょうね。中国人、歯ブラシ家族で共有してたもんなあ。(南寧にての見聞ナリ)
もっとも、中国人にとっての漁民は、ワレワレにとっての被差別部落民的存在である。かつては非漢民族でも受験できる科挙を、受ける資格を与えられていなかったという。そういうのもあるのかも。
海軍招待所へ行くも、80元で風呂無し。部屋ももヒトツである。本日はひとつ安さを追求してみようと、結局民宿に泊まる。相棒の指示により、シェラフを使用しての就寝となる。実際寒い夜だった。
1996年4月18日木曜日
またしても咸享酒店
早朝6時半、隣の小学校ですさまじい音のラジオ体操が始まるのである。7時までの30分間、なかなかツライものがある。
本日は天気が良いので洗濯日。シャツ4枚、靴下4足、その他イロイロで9時半となる。
洗濯後、相棒がプンプン怒りながら帰ってきた。郵電局から電話をかけたら、3分で52元も取られて、その上手数料を5元も取られたのだそうだ。怒りながら風呂へ行った。他人の横で体を洗うのがいやで、夕べ風呂に行っとらんのだ。かわいいやつ。
現像した写真を廈門へ送る。3.6元。
バスで東湖へ行く。隋唐時代からの採石場で、採石跡に水が流れ込んで湖になってしまったのだそうだ。そそり立つ絶壁が全部人工かと思うと、なかなかすごいものがある。きのう魯迅故居や越王殿でみたコンクリートか石かわからん素材(白っぽい地に、いろいろな小石をはめ込んであるかのように見える)は、ここの石だということが分かった。
紹興名物、フェルトの帽子をかぶったおじさんが、これまた名物足漕ぎ船で遊覧客を引いていた。本日も春風駘蕩である。
バスで市内へ帰り、またしても咸享酒店。茶碗酒2杯に兎・雪菜包。パイナップルで32元。
食後、大塔へ。特筆すべきものでもなし。
雨がひどくなったのでタクシーで帰る。一番小さいタクシーだと、初乗り6元なり。しかし運転手、我々が見るからに外地人なのでメーターを倒さない。ここで倒せと命じても、遠回りされれば同じである。我々には様々な役割分担があるが、こういう時の役割分担も決まっている。相棒はここに住んで1年半になる外地人、私は訪れてきたその友人だ。
私 「せっかく来たのに雨で残念やわあ。」
相棒「今度来るときはまた別のとこに案内したるさかい。」
私 「あんたこっちにきてもう2年やっけ?」
相棒「一年半ぐらいや。12月までここにおるからまたおいで。」
私 「このタクシー代、私がもつからね」
相棒「あかんあかん、アンタは客人、オレは住人。」
白々しい会話が功を奏したか、タクシーは最短距離を走り、初乗りでホテルに着いた。行きの半額である。つーことは、ぼられてたんかい、行きは。
雨がひどいので、ホテルで日記を整理する。
本日は天気が良いので洗濯日。シャツ4枚、靴下4足、その他イロイロで9時半となる。
洗濯後、相棒がプンプン怒りながら帰ってきた。郵電局から電話をかけたら、3分で52元も取られて、その上手数料を5元も取られたのだそうだ。怒りながら風呂へ行った。他人の横で体を洗うのがいやで、夕べ風呂に行っとらんのだ。かわいいやつ。
現像した写真を廈門へ送る。3.6元。
バスで東湖へ行く。隋唐時代からの採石場で、採石跡に水が流れ込んで湖になってしまったのだそうだ。そそり立つ絶壁が全部人工かと思うと、なかなかすごいものがある。きのう魯迅故居や越王殿でみたコンクリートか石かわからん素材(白っぽい地に、いろいろな小石をはめ込んであるかのように見える)は、ここの石だということが分かった。
紹興名物、フェルトの帽子をかぶったおじさんが、これまた名物足漕ぎ船で遊覧客を引いていた。本日も春風駘蕩である。
バスで市内へ帰り、またしても咸享酒店。茶碗酒2杯に兎・雪菜包。パイナップルで32元。
食後、大塔へ。特筆すべきものでもなし。
雨がひどくなったのでタクシーで帰る。一番小さいタクシーだと、初乗り6元なり。しかし運転手、我々が見るからに外地人なのでメーターを倒さない。ここで倒せと命じても、遠回りされれば同じである。我々には様々な役割分担があるが、こういう時の役割分担も決まっている。相棒はここに住んで1年半になる外地人、私は訪れてきたその友人だ。
私 「せっかく来たのに雨で残念やわあ。」
相棒「今度来るときはまた別のとこに案内したるさかい。」
私 「あんたこっちにきてもう2年やっけ?」
相棒「一年半ぐらいや。12月までここにおるからまたおいで。」
私 「このタクシー代、私がもつからね」
相棒「あかんあかん、アンタは客人、オレは住人。」
白々しい会話が功を奏したか、タクシーは最短距離を走り、初乗りでホテルに着いた。行きの半額である。つーことは、ぼられてたんかい、行きは。
雨がひどいので、ホテルで日記を整理する。
1996年4月17日水曜日
昼間っから茶碗酒
紹興がなかなか居心地よさげなので、延泊する。私たち日本人にとっても、紹興は魯迅の故郷として興味深いところだ。古い町並みがよく残り、ご老人の中国服(中山服にアラズ)着用率も高く、杭州のように観光客だらけということもなく。ナイスな街である。なにより静かなのがいい。
さて本日のメインイベント、紹興といえばここははずせない、というよりここしかない魯迅故居へ。隣が記念館になっており、門票はそこで買う。
記念館はよくできていた。魯迅の祖父は清朝のお役人であったそうだが、のちに汚職容疑で罷免され、魯迅家は没落する。父は秀才(科挙予備試験の合格者)だが、病弱で常に床に伏せっていたらしい。母は農村の出身で、姓は魯。魯迅の「魯」はここから来ている。本名は「周樹人」。
南京で学び、清朝から派遣されて日本へ留学。9年間滞在している。記念館には例の藤野先生コーナーもあり、銅像まであった。相棒が「魯迅のおかげで名を残した人やなあ」とスルドイことを言う。
内山完造夫妻と上海四川路の内山書店の写真があり、上海マニアには見逃せないだろう。(私はちがうが。) 魯迅の絶筆も、内山完造あての日文の手紙である。「ぜんそくがひどく、せっかくの約束ですがそちらには参れません・・・」 その夜、逝去したのである。
記念に「吶喊」を買った。秋謹の年表を、荷物が増えるのを考えて買わなかったのが残念。香港では手に入らなさそう。
さてさて、となりの紹興民俗博物館。なかなかヒット。紹興の習慣を展示したコーナーがあり、展示物自体はたいしたことないのだが、展示されているミニチュアの人形たち、おそらくは紙粘土で制作、着色されていると思うのだが、非常に生き生きしていいて、今にも動き出さんばかりなのである。同じ顔つきのものが一つとしてなく、また極めてリアルなポーズで、名人の作だ。
魯迅の小説に登場する「咸享酒店」で昼食。香港の「酒店」(広東語ではホテルの意)とはおのずとから違うわけで、昼間っから茶碗酒。サカナは昆布のつきだし、鶏の酒蒸し、ピーナッツなどなど。
丘の上に越王廟があり、紹興の街を一望できるというので行ってみる。越王殿は立派な建物でいづれはなんらかの由緒があるんだろうが、説明がきがまったくないのでわからない。中に絵が書いてあり、「臥薪嘗胆」「西施嫁夫差」などわかりやすい絵であった。あまり感心しない。
丘から降りると、日本人パッケージツアーのバスが泊まっていた。パックツアー客が泊まれるホテルなんてこの街にあるんだろうかといらん心配をするが、良く考えたら杭州から日帰りできているのだ。そーに決まってるよな。
さて本日のメインイベント、紹興といえばここははずせない、というよりここしかない魯迅故居へ。隣が記念館になっており、門票はそこで買う。
記念館はよくできていた。魯迅の祖父は清朝のお役人であったそうだが、のちに汚職容疑で罷免され、魯迅家は没落する。父は秀才(科挙予備試験の合格者)だが、病弱で常に床に伏せっていたらしい。母は農村の出身で、姓は魯。魯迅の「魯」はここから来ている。本名は「周樹人」。
南京で学び、清朝から派遣されて日本へ留学。9年間滞在している。記念館には例の藤野先生コーナーもあり、銅像まであった。相棒が「魯迅のおかげで名を残した人やなあ」とスルドイことを言う。
内山完造夫妻と上海四川路の内山書店の写真があり、上海マニアには見逃せないだろう。(私はちがうが。) 魯迅の絶筆も、内山完造あての日文の手紙である。「ぜんそくがひどく、せっかくの約束ですがそちらには参れません・・・」 その夜、逝去したのである。
記念に「吶喊」を買った。秋謹の年表を、荷物が増えるのを考えて買わなかったのが残念。香港では手に入らなさそう。
さてさて、となりの紹興民俗博物館。なかなかヒット。紹興の習慣を展示したコーナーがあり、展示物自体はたいしたことないのだが、展示されているミニチュアの人形たち、おそらくは紙粘土で制作、着色されていると思うのだが、非常に生き生きしていいて、今にも動き出さんばかりなのである。同じ顔つきのものが一つとしてなく、また極めてリアルなポーズで、名人の作だ。
魯迅の小説に登場する「咸享酒店」で昼食。香港の「酒店」(広東語ではホテルの意)とはおのずとから違うわけで、昼間っから茶碗酒。サカナは昆布のつきだし、鶏の酒蒸し、ピーナッツなどなど。
丘の上に越王廟があり、紹興の街を一望できるというので行ってみる。越王殿は立派な建物でいづれはなんらかの由緒があるんだろうが、説明がきがまったくないのでわからない。中に絵が書いてあり、「臥薪嘗胆」「西施嫁夫差」などわかりやすい絵であった。あまり感心しない。
丘から降りると、日本人パッケージツアーのバスが泊まっていた。パックツアー客が泊まれるホテルなんてこの街にあるんだろうかといらん心配をするが、良く考えたら杭州から日帰りできているのだ。そーに決まってるよな。
1996年4月16日火曜日
杭州から紹興へ移動
19
朝食後、荷物をバスターミナルに預け、杭州市内を最後にぶらつく。本日は晴天なり、くやしい。
全長3キロの蘇堤を歩く。蘇東波が築いた堤である。天気がよく、桃や桜が満開で、 春風駘蕩ってやつである。にもかかわらず、昼食をKFCで取る。外人でスマン。
さて、4時15分のバスで紹興へ。2時間ほどで夕暮れの紹興に到着した。道中の風景は一面の菜の花畑に新築の家がぽつぽつ建ち並ぶといった、新中国の豊かな農村そのものの光景で、こころ和んだ。菜の花ってすごくいい香りなのだ。
とりあえず、安いはずの東湖飯店を目指すが、実見してちょっとひいた。もヒトツ。ツイン27元/一人で、安いことは安いのだが・・・しかしパス。
どの街でもあたりはずれのない華僑飯店に行く。開放が始まった時期に里帰りした華僑用にたてられているため、設備がこましなことが多い。かといってもはやさすがに古いので、経済的な値段設定である。
ツイン70元/部屋。しかしバストイレは共同だ。チェックイン。すると、ベッドはふかふか、窓からの眺めもよく、なかなかいい感じではないの。共同トイレは普通の出来だった。お風呂は一階にあり、なんと湯船が無いこと以外は日本の銭湯そっくり。番台で2元のデポジットと引き換えに小さい南京錠を借りる。銭湯そっくりのロッカーがあり、服を脱いで洗い場へ。中は意外に広く、また人が少なくてよかった、壁に沿って並んでいるシャワーのお湯は、いい加減のやつがじゃんじゃんでてくる。
私は機嫌良く帰ってきたのだが、相棒はこれがダメなようだった。他人の横でハダカになるのがツライらしい。神経質なやつ。まあ、始めてならしょうがないか。
お風呂の回りは石鹸の香りがほのかにただよい、洗い髪の男女が行き交い、いい感じである。1回3.5元で外部の人にも開放しているのだ。にたような風呂屋をまちなかでも見かけたので、紹興の風習なのであろう。相棒は始めてみたと言っていた。
朝食後、荷物をバスターミナルに預け、杭州市内を最後にぶらつく。本日は晴天なり、くやしい。
全長3キロの蘇堤を歩く。蘇東波が築いた堤である。天気がよく、桃や桜が満開で、 春風駘蕩ってやつである。にもかかわらず、昼食をKFCで取る。外人でスマン。
さて、4時15分のバスで紹興へ。2時間ほどで夕暮れの紹興に到着した。道中の風景は一面の菜の花畑に新築の家がぽつぽつ建ち並ぶといった、新中国の豊かな農村そのものの光景で、こころ和んだ。菜の花ってすごくいい香りなのだ。
とりあえず、安いはずの東湖飯店を目指すが、実見してちょっとひいた。もヒトツ。ツイン27元/一人で、安いことは安いのだが・・・しかしパス。
どの街でもあたりはずれのない華僑飯店に行く。開放が始まった時期に里帰りした華僑用にたてられているため、設備がこましなことが多い。かといってもはやさすがに古いので、経済的な値段設定である。
ツイン70元/部屋。しかしバストイレは共同だ。チェックイン。すると、ベッドはふかふか、窓からの眺めもよく、なかなかいい感じではないの。共同トイレは普通の出来だった。お風呂は一階にあり、なんと湯船が無いこと以外は日本の銭湯そっくり。番台で2元のデポジットと引き換えに小さい南京錠を借りる。銭湯そっくりのロッカーがあり、服を脱いで洗い場へ。中は意外に広く、また人が少なくてよかった、壁に沿って並んでいるシャワーのお湯は、いい加減のやつがじゃんじゃんでてくる。
私は機嫌良く帰ってきたのだが、相棒はこれがダメなようだった。他人の横でハダカになるのがツライらしい。神経質なやつ。まあ、始めてならしょうがないか。
お風呂の回りは石鹸の香りがほのかにただよい、洗い髪の男女が行き交い、いい感じである。1回3.5元で外部の人にも開放しているのだ。にたような風呂屋をまちなかでも見かけたので、紹興の風習なのであろう。相棒は始めてみたと言っていた。
1996年4月15日月曜日
岳廟・白堤
チェックアウト。今晩泊まるなら270元でどうだ?と言われ、真剣にむっとする。国営のころも承包になっても、やりかたが気に触る連中だ。
相棒について杭州見物。大仏のある寺。しかしバスに乗ると雨。降りても雨。寒いよう。ジャケットを着込んでいるが、ゴアテックスではないのでレインコートにはならない。なのにどしゃぶり。相棒は完全防水のウィンドブレーカーを着ており、そりゃアンタはいいだろうけどさあ。
雨が止むかと期待して、精進料理を食べてみる。寒いので麻辛豆腐、たけのこと湯葉の炒めもの、干し椎茸と菜心、純菜のスープ。形容動詞「じゅんさいだ」の語源になっ食材を、始めて食べた。ぬるぬるしてすっぱくて、なかなかあおいしかった。
食べおわったが雨はやまぬ。仕方が無い。大仏を拝んでからバスで岳廟へ。
宋代の英雄岳飛をまつってある廟で、それはべつにいいのだが、共産党のプロバガンダのにおいがプンプンする。「亡国の危機に立ち上がった愛国精神の英雄は、国家のためには自分の命をも顧みなかった」あたりはいいのだが、「岳飛の愛国精神は共産主義者たちに大きな影響を与えた」に至っては失笑モノ。
岳飛を讒言した宰相およびその妻の石像があり、かつては参拝者が石でぶんなぐったり、棒でたたおたり、つばをはきかけたりするので有名だった。現在は柵で囲まれ、禁止されている。
気になったのが宋を圧迫した金王朝に対する評価で、完全に「不当な侵略」扱い。そりゃ侵略は侵略でしょうけど、金が悪魔の手先みたいな書き方はどうかと思いますぜ。中華人民共和国においては満族だって「中国人」というのが建前ではなかったのか中国人。
宋朝は五代の混乱を押さえて唐以来の統一を果たした王朝であり、「統一」ってのが現在の中国にとっては大きな政治的課題であることから、「政治的に」こう語っているのかという推測もできるが。清も近代史では悪者だしなあ。しかし、チベット。新彊まで中国の版図に組み入れたのは、清あってなのだがなあ。(つぶやいてもしょうがないっすね。)
相棒の意見では、岳飛が処刑されたのは皇帝が宰相を利用して権力を持ちすぎた家臣を排除したに過ぎない、ということである。重要なのはそこのところなのに、民衆は常に英雄を愛するから、宰相を悪者にして終わっちゃう。皇帝の罪を追求するメンタリティって、中国人にはないのかもしんない。毛沢東が今でも民衆には崇拝されていることを考えると。
白堤を散策する。
全長3キロほど、途中に公園や博物館まであり、なかなか整備の行き届いていた。説明に読み応えあり、陳列品に見ごたえあり、通路は時代別に整理されていて、規模も大きく、お勧めである。閉館時間がせまってきて、太平天国の部分をじっくり見られなかったのが残念。
ボートに乗らんかという客引きが大変多い。かわしつつ、堤を歩く。天気がよくなってきた。
相棒について杭州見物。大仏のある寺。しかしバスに乗ると雨。降りても雨。寒いよう。ジャケットを着込んでいるが、ゴアテックスではないのでレインコートにはならない。なのにどしゃぶり。相棒は完全防水のウィンドブレーカーを着ており、そりゃアンタはいいだろうけどさあ。
雨が止むかと期待して、精進料理を食べてみる。寒いので麻辛豆腐、たけのこと湯葉の炒めもの、干し椎茸と菜心、純菜のスープ。形容動詞「じゅんさいだ」の語源になっ食材を、始めて食べた。ぬるぬるしてすっぱくて、なかなかあおいしかった。
食べおわったが雨はやまぬ。仕方が無い。大仏を拝んでからバスで岳廟へ。
宋代の英雄岳飛をまつってある廟で、それはべつにいいのだが、共産党のプロバガンダのにおいがプンプンする。「亡国の危機に立ち上がった愛国精神の英雄は、国家のためには自分の命をも顧みなかった」あたりはいいのだが、「岳飛の愛国精神は共産主義者たちに大きな影響を与えた」に至っては失笑モノ。
岳飛を讒言した宰相およびその妻の石像があり、かつては参拝者が石でぶんなぐったり、棒でたたおたり、つばをはきかけたりするので有名だった。現在は柵で囲まれ、禁止されている。
気になったのが宋を圧迫した金王朝に対する評価で、完全に「不当な侵略」扱い。そりゃ侵略は侵略でしょうけど、金が悪魔の手先みたいな書き方はどうかと思いますぜ。中華人民共和国においては満族だって「中国人」というのが建前ではなかったのか中国人。
宋朝は五代の混乱を押さえて唐以来の統一を果たした王朝であり、「統一」ってのが現在の中国にとっては大きな政治的課題であることから、「政治的に」こう語っているのかという推測もできるが。清も近代史では悪者だしなあ。しかし、チベット。新彊まで中国の版図に組み入れたのは、清あってなのだがなあ。(つぶやいてもしょうがないっすね。)
相棒の意見では、岳飛が処刑されたのは皇帝が宰相を利用して権力を持ちすぎた家臣を排除したに過ぎない、ということである。重要なのはそこのところなのに、民衆は常に英雄を愛するから、宰相を悪者にして終わっちゃう。皇帝の罪を追求するメンタリティって、中国人にはないのかもしんない。毛沢東が今でも民衆には崇拝されていることを考えると。
白堤を散策する。
全長3キロほど、途中に公園や博物館まであり、なかなか整備の行き届いていた。説明に読み応えあり、陳列品に見ごたえあり、通路は時代別に整理されていて、規模も大きく、お勧めである。閉館時間がせまってきて、太平天国の部分をじっくり見られなかったのが残念。
ボートに乗らんかという客引きが大変多い。かわしつつ、堤を歩く。天気がよくなってきた。
1996年4月14日日曜日
杭州・紹興・春風駘蕩
杭州についたのは昼過ぎ。急いでホテルを捜すも、全く見つからん。きったない所でもかるく200元は越えるのである。これは外国人料金のせい。むっ!
で、どうせなら外人料金なしの杭大(杭州大学)内の宿泊所に行く。300元の部屋はキレイなバス付きで、コストパフォーマンスとしてはなかなかよいのだが、我々にはやはり予算オーバーである。一泊だけすることにして、市内へ出かけた。
外国人を泊められる宿は余りなく、やっと見つけた所はバス・トイレ共同で150 元。相棒と、ここ数年の沿岸部の物価上昇はすさまじい、と話し合う。昔は上海でも20元で朝食付きのドミがあったのになあ。
しかし、杭州寒い。すっごくおいしそうなパン屋があり、豆引きのコーヒーがあったので、クロワッサンとコーヒーを取ってみた。クロワッサン2.8元、大ヒット。
風呂入って寝た。
で、どうせなら外人料金なしの杭大(杭州大学)内の宿泊所に行く。300元の部屋はキレイなバス付きで、コストパフォーマンスとしてはなかなかよいのだが、我々にはやはり予算オーバーである。一泊だけすることにして、市内へ出かけた。
外国人を泊められる宿は余りなく、やっと見つけた所はバス・トイレ共同で150 元。相棒と、ここ数年の沿岸部の物価上昇はすさまじい、と話し合う。昔は上海でも20元で朝食付きのドミがあったのになあ。
しかし、杭州寒い。すっごくおいしそうなパン屋があり、豆引きのコーヒーがあったので、クロワッサンとコーヒーを取ってみた。クロワッサン2.8元、大ヒット。
風呂入って寝た。
1996年4月13日土曜日
廈門から杭州へ
杭州行きのチケットはどこで買えるのかと聞いただけで、叔父さんが4時間も並んで取ってきてくれた。本当にすみません。
叔母さん一家は3人でホームまで見送ってくれた。私たちが泊まってた一週間、相棒のイトコは居間のソファで寝てたのである。ほんとにありがとう。
さてさて、硬臥は乗ってうんざり向かいが子ども連れ、しかも3人。以前に南寧から広州まで乗ったとき、母親が子どもに床で大便をさせたことをすかさず思い出し、気分が暗くなる。今回のは推定4歳・2歳・生まれたて。上二人は女の子、下はどうやら男の子の様である。
しかし子ども3人というのは少数民族でもないかぎり犯罪なのだがなあ。相棒の推測;上の二人が女の子だったので、3人目を生みによそへ逃げていたのでは?
余談だが、廈門では、夫婦の年齢合計何歳か以上の夫婦については、申請すればある期間中に子どもをうんでもいい許可が下りるので、その期間にちょうど出産できるよう十月十日計算して、夫婦でせっせと仕込むのだそうだ。 悲劇の究極は喜劇だと言う点で、ジョージ・オーウェルまっつぁおである。
で、思ったとおり、うるさくてこっちが泣きそうだった。上の女の子はあちこち動き回るたびに私や相棒の足を踏むし、生まれたての子は四六時中泣きっぱなし。泣き止ませるために母親がおっぱいを含ませると、下の女の子はそれまで自分専用だったおかあちゃんのおっぱいを人に取られたのを見て火がついたように泣き出すし、それをみたおとうちゃんは娘のうしろあたまを手加減無しにはりとばして怒鳴りつけるし・・・いやはや戦場のようであった。
なによりツラかったのは、至近距離でしょっちゅうおむつ紙(なんかごわごわの紙。おしり大丈夫か?)を替えるのだが、使用後のそれをそのまま共用のテーブルの上に置くのだ・・・頼むから床に置いてくれい・・・
結局、食欲がわかず、サツマイモを干したおやつをかじって眠る。
叔母さん一家は3人でホームまで見送ってくれた。私たちが泊まってた一週間、相棒のイトコは居間のソファで寝てたのである。ほんとにありがとう。
さてさて、硬臥は乗ってうんざり向かいが子ども連れ、しかも3人。以前に南寧から広州まで乗ったとき、母親が子どもに床で大便をさせたことをすかさず思い出し、気分が暗くなる。今回のは推定4歳・2歳・生まれたて。上二人は女の子、下はどうやら男の子の様である。
しかし子ども3人というのは少数民族でもないかぎり犯罪なのだがなあ。相棒の推測;上の二人が女の子だったので、3人目を生みによそへ逃げていたのでは?
余談だが、廈門では、夫婦の年齢合計何歳か以上の夫婦については、申請すればある期間中に子どもをうんでもいい許可が下りるので、その期間にちょうど出産できるよう十月十日計算して、夫婦でせっせと仕込むのだそうだ。 悲劇の究極は喜劇だと言う点で、ジョージ・オーウェルまっつぁおである。
で、思ったとおり、うるさくてこっちが泣きそうだった。上の女の子はあちこち動き回るたびに私や相棒の足を踏むし、生まれたての子は四六時中泣きっぱなし。泣き止ませるために母親がおっぱいを含ませると、下の女の子はそれまで自分専用だったおかあちゃんのおっぱいを人に取られたのを見て火がついたように泣き出すし、それをみたおとうちゃんは娘のうしろあたまを手加減無しにはりとばして怒鳴りつけるし・・・いやはや戦場のようであった。
なによりツラかったのは、至近距離でしょっちゅうおむつ紙(なんかごわごわの紙。おしり大丈夫か?)を替えるのだが、使用後のそれをそのまま共用のテーブルの上に置くのだ・・・頼むから床に置いてくれい・・・
結局、食欲がわかず、サツマイモを干したおやつをかじって眠る。
1996年4月12日金曜日
廈門観光再びの日
廈門観光再びの日。私のリクエストと相棒の郷愁で、動物園に行くこととなった。動物園は中山公園の中にあった。相棒の記憶よりずいぶん小さいそうだ。そんなもんやって。
動物園は確かに小規模で、ゾウもキリンもパンダもなし。カバがいた。熊と虎と狼もいた。サルの種類がなかなか多く、楽しかった、特に仔ザル。寒い日だったので、4匹の仔ザルがぴったり体をくっつけ合ってじっとしているのが、とくにかわいらしい。
ダチョウに似た鳥もいた。エミュか? ダチョウは漢字では駝鳥だが、横の檻に駱駝がいたのは、ひょっとしてシャレだろうか。
相棒、動物園を出たとこの西門で超おいしい(本人談)土筍凍を発見、何皿も食う。のちにこれが廈門で最も有名な土筍凍屋だと判明する。
動物園は確かに小規模で、ゾウもキリンもパンダもなし。カバがいた。熊と虎と狼もいた。サルの種類がなかなか多く、楽しかった、特に仔ザル。寒い日だったので、4匹の仔ザルがぴったり体をくっつけ合ってじっとしているのが、とくにかわいらしい。
ダチョウに似た鳥もいた。エミュか? ダチョウは漢字では駝鳥だが、横の檻に駱駝がいたのは、ひょっとしてシャレだろうか。
相棒、動物園を出たとこの西門で超おいしい(本人談)土筍凍を発見、何皿も食う。のちにこれが廈門で最も有名な土筍凍屋だと判明する。
1996年4月11日木曜日
集美見物
本日は集美へ行く。廈門は実は大きな島で(雅名を鷺島という) 、2本ある廈門大橋で大陸側の集美とつながっている。
集美はマレーシアのゴム王陳嘉庚の出身地で、彼が建てた一大教育施設群で有名なところである。一応「集美中学」という名ではあるが、幼稚園から大学、水産大学、語学大学、華僑大学、などなどすべてそろっている。ちなみに廈門大学建学の費用もこのひとに負うところが大きい。
陳嘉庚は弟・妻とともに中国への新教育の普及に力を注ぎ、福建省には彼の建てた学校が数え切れないほどあるそうだ。福建・広東人はこういう事にたいそう熱心だが、上海人はそうでもないらしい。上海人がケチだと言われる理由のひとつである。陳嘉庚はその事業に財産と遺産を費やし、子孫に美田を残さなかったらしく、彼の子孫がどこでなにをしているかはわからない。
(2010年追記:↑うそです。陳嘉庚は弟・妻、そして娘婿とともに中国への新教育の普及に力を注ぎました。娘の陳愛禮はおなじく福建出身の移民である李光前に嫁ぎ、三男三女を儲けています。三男の李成偉は新加坡華僑銀行の主席を勤め、2006年時の個人資産は17億美元、フォーブスの個人資産家ランキングでは世界で第90番目ランクインしています。)
集美はマレーシアのゴム王陳嘉庚の出身地で、彼が建てた一大教育施設群で有名なところである。一応「集美中学」という名ではあるが、幼稚園から大学、水産大学、語学大学、華僑大学、などなどすべてそろっている。ちなみに廈門大学建学の費用もこのひとに負うところが大きい。
陳嘉庚は弟・妻とともに中国への新教育の普及に力を注ぎ、福建省には彼の建てた学校が数え切れないほどあるそうだ。福建・広東人はこういう事にたいそう熱心だが、上海人はそうでもないらしい。上海人がケチだと言われる理由のひとつである。陳嘉庚はその事業に財産と遺産を費やし、子孫に美田を残さなかったらしく、彼の子孫がどこでなにをしているかはわからない。
(2010年追記:↑うそです。陳嘉庚は弟・妻、そして娘婿とともに中国への新教育の普及に力を注ぎました。娘の陳愛禮はおなじく福建出身の移民である李光前に嫁ぎ、三男三女を儲けています。三男の李成偉は新加坡華僑銀行の主席を勤め、2006年時の個人資産は17億美元、フォーブスの個人資産家ランキングでは世界で第90番目ランクインしています。)
1996年4月10日水曜日
漳州から廈門へ
漳州行きのバスもおんぼろだった。漳州は水仙で有名な街だが、もちろん今はその季節ではない。(花は暮れから旧正月にかけて)
非常にいい感じの旧市街があり、ゆっくり歩いて流すのはいい気分だ。この辺も廈門t同じで、人々は道端に小さな机と椅子を出して功夫茶を楽しんでいる。功夫茶とはお茶の飲みかたの一種で、小さな急須と湯飲みのセット(こげ茶の素焼きの物が多い)でちびちびお茶を飲みながら、おしゃべりを楽しみ、ゆっくり時を過ごすもの。広東の「飲茶」は点心に重点があって、むしろ茶がオマケのような気もするが、こちらは純粋にお茶のみ。ほんの少ししか飲まないので、お茶はいいものを使う。
湯飲みは杯のように小さく、日本の杯ほど。たとえ一人でも二人でも、必ず3つ以上の湯飲みにお茶を入れる。一煎目は間髪入れずに捨て、冷たくなったお茶も惜しげもなく受け盆に捨てる。
駄菓子屋の店先に並んでいたお面。孫悟空が二つも有るのが中国っぽいし、ミッキーマウスと包青天が並んでいるのが時代を感じさせる。
漳州の輪タクの運転手(というか漕ぎ手)はみなレモンイエローのベストを着ている。聞くと、2着で70元。着用を義務付けられているのだそうだ。70元って、大金である。だって1キロ漕いで2元とかそこらなのに。
車はすべて政府からの借り物で、借り賃は月100元。(ちなみに中国では200元もあれば新品の自転車が買えるはず。) ベストを借りて自転車の借り賃払ったら、手元にはなんぼほど残るのだろう?
老舎の描いた「駱駝祥子」の世界そのままである。資本家が共産党に替わっているだけ。
バスで廈門に帰った。
非常にいい感じの旧市街があり、ゆっくり歩いて流すのはいい気分だ。この辺も廈門t同じで、人々は道端に小さな机と椅子を出して功夫茶を楽しんでいる。功夫茶とはお茶の飲みかたの一種で、小さな急須と湯飲みのセット(こげ茶の素焼きの物が多い)でちびちびお茶を飲みながら、おしゃべりを楽しみ、ゆっくり時を過ごすもの。広東の「飲茶」は点心に重点があって、むしろ茶がオマケのような気もするが、こちらは純粋にお茶のみ。ほんの少ししか飲まないので、お茶はいいものを使う。
湯飲みは杯のように小さく、日本の杯ほど。たとえ一人でも二人でも、必ず3つ以上の湯飲みにお茶を入れる。一煎目は間髪入れずに捨て、冷たくなったお茶も惜しげもなく受け盆に捨てる。
駄菓子屋の店先に並んでいたお面。孫悟空が二つも有るのが中国っぽいし、ミッキーマウスと包青天が並んでいるのが時代を感じさせる。
漳州の輪タクの運転手(というか漕ぎ手)はみなレモンイエローのベストを着ている。聞くと、2着で70元。着用を義務付けられているのだそうだ。70元って、大金である。だって1キロ漕いで2元とかそこらなのに。
車はすべて政府からの借り物で、借り賃は月100元。(ちなみに中国では200元もあれば新品の自転車が買えるはず。) ベストを借りて自転車の借り賃払ったら、手元にはなんぼほど残るのだろう?
老舎の描いた「駱駝祥子」の世界そのままである。資本家が共産党に替わっているだけ。
バスで廈門に帰った。
1996年4月9日火曜日
「賑成楼」を見学
客家の円居は、現地では土楼と呼ばれていた。私は知らなかったのだが正方形のものも多く、どちらにせよ外敵の進入を防ぐため、小さな入り口が一個所あるのみで、窓もすべてかなり上部に小さく開けられているのみである。これらは小規模ものも含めると2万楼ほどもあるのだそうだ。
ヒッチでトラックに乗せてもらい、岐嶺-湖坑を経由して地元で一番有名な「賑成楼」を見学に行く。入場料10元。(外国人は30元 ) 「賑成楼」では、内部にもう一つ円形の住居があり、さらに中心には共通の祖先を祭る祭祀堂があった。基本的に、一つの建物に住むのはすべて同族である。
内部は魚眼レンズでなければとても全体を写しきれない。
鳥小屋の扉に貼ってあった春聯。
「鶏も家鴨も群れを成しますように」
さらにヒッチで胡文虎(タイガーバーム社の創始者)の実家を見に行く。なかなか悪趣味な記念館が建っていた。
私は胡文虎は極貧の生まれで、シンガポールに出稼ぎに出た後たいへんな苦労をして薬屋を始め、阿片のくずを混ぜた萬金油が大ヒットして一躍大富豪・・・と勝手に思っていたのであるが、全然違ってた。実は胡文虎はビルマ生まれで、父は中国南部から南洋にかけて各地に店を構える薬商。胡文虎がシンガポールへわたったのは、父親の店のシンガポール支店を任されたためであった。記念館で父祖の写真や胡文虎自身の幼少時代の写真を見ると、どうしてなかなかのお金持ちである。ふーん、そうだったのかという感じ。ちなみに弟の名は胡文豹。
なんか見るからにお金持ちぽいっすね。しかしハイソックス・・・
それにしても胡文虎実家、バスもトラックも通らないド田舎なので、来たはよいが帰れない。このままでは山道を8キロぐらい歩いてトラックが拾える道に出るしかない。・・・と悩んでいると、ちょうど折よくオートバイが走ってきた。交渉し、3人乗りで下洋まで連れていってもらうことにする。
さて、下洋からバスで龍岩へ、相棒によると、特に見所の無い街だそうなので一泊して素通り。本日はやたらめったら疲れた。
ヒッチでトラックに乗せてもらい、岐嶺-湖坑を経由して地元で一番有名な「賑成楼」を見学に行く。入場料10元。(外国人は30元 ) 「賑成楼」では、内部にもう一つ円形の住居があり、さらに中心には共通の祖先を祭る祭祀堂があった。基本的に、一つの建物に住むのはすべて同族である。
内部は魚眼レンズでなければとても全体を写しきれない。
鳥小屋の扉に貼ってあった春聯。
「鶏も家鴨も群れを成しますように」
さらにヒッチで胡文虎(タイガーバーム社の創始者)の実家を見に行く。なかなか悪趣味な記念館が建っていた。
私は胡文虎は極貧の生まれで、シンガポールに出稼ぎに出た後たいへんな苦労をして薬屋を始め、阿片のくずを混ぜた萬金油が大ヒットして一躍大富豪・・・と勝手に思っていたのであるが、全然違ってた。実は胡文虎はビルマ生まれで、父は中国南部から南洋にかけて各地に店を構える薬商。胡文虎がシンガポールへわたったのは、父親の店のシンガポール支店を任されたためであった。記念館で父祖の写真や胡文虎自身の幼少時代の写真を見ると、どうしてなかなかのお金持ちである。ふーん、そうだったのかという感じ。ちなみに弟の名は胡文豹。
なんか見るからにお金持ちぽいっすね。しかしハイソックス・・・
それにしても胡文虎実家、バスもトラックも通らないド田舎なので、来たはよいが帰れない。このままでは山道を8キロぐらい歩いてトラックが拾える道に出るしかない。・・・と悩んでいると、ちょうど折よくオートバイが走ってきた。交渉し、3人乗りで下洋まで連れていってもらうことにする。
さて、下洋からバスで龍岩へ、相棒によると、特に見所の無い街だそうなので一泊して素通り。本日はやたらめったら疲れた。
1996年4月8日月曜日
永定 -客家の円居
朝6時半というキョーイ的な時間のバスで永定へ向かう。しかhし、6時半に我々が乗り込んだバスは我々を含めて3人しか客がおらず、結局バスは客を求めて市内をゆっくり流して回り、廈門を離れたのは一時間後のことであった。
大きなバスではなく、マイクロバスの老爺車。めっちゃトロイ。しかも地図で見て予想していた最短距離を取る道は走らないらしい。南請から河を渡って山道へ、とたんにタイヤがパ~ンク。30分かけて修理したのち、なんと舗装されていない道を走り出したではないの。お尻、痛いよう。
こんな道、地図にも乗ってない。舗装もされていない道をこんなに長距離移動するなんて・・・
相棒は前に座っているおっちゃんにバスの行き先を確認した。その人は永定に帰る人で、なんと68年に鼓浪嶼から永定に下放され、現地の女性と家庭を持って、永定に定住したのだそうだ。下放当時は発電所の技師だったという。都市戸籍を持つものが農村戸籍所持者と結婚すると、両名共に農村戸籍所持者となるのが普通だそうだから、この人はおそらくそのケースなのだろう、とは相棒の推測。ちなみに相棒と話すとき、このおじさんは完璧な鼓浪嶼語を話したそうだ。
相棒の伯父一人、叔母ふたりも永定に下放されたことがある。永定は客家語の土地。当時は普通語もほとんど通じず、非常な苦労をしたそうだ。
さて、わたしが永定に行きたかったのは、客家の円居を見たかったため。小規模のものは各地にあるが、永定のは直径50メートル、4階だて、壁の厚さ90センチ、見事なサイズである。これほど見事なものは数えるほどしかないのだろうと思っていたら、あるわあるわ、山道にはいるなりあっちにもこっちにも奇怪な円形の大型建造物がぼかすか建っている。これを見に来た私も、もうええわ!というぐらいあった。
円居の写真一枚目から3枚目までは絵ハガキである。3枚めは魚眼レンズで内部を撮ったもの。
アメリカの軍事衛星が、この完璧に円形で中空の建造物を上空から撮影、ペンタゴンが最初、軍事的な建造物だと判断したというウワサは本当だろうか。出来すぎかな。
夕方4時、永定到着。へとへとである。政府招待所では我々が婚姻証明を持っていないというので同室を拒否、こんなこともあろうかと香港の婚姻証明を見せるも、誰も英語が読めず、菊の御紋のパスポートを盾にねばりにねばって、やっと一室をとることができた。
簡単に食事をとり、7時に就寝。翌日7時までツェツェバエにさされたように眠る。
大きなバスではなく、マイクロバスの老爺車。めっちゃトロイ。しかも地図で見て予想していた最短距離を取る道は走らないらしい。南請から河を渡って山道へ、とたんにタイヤがパ~ンク。30分かけて修理したのち、なんと舗装されていない道を走り出したではないの。お尻、痛いよう。
こんな道、地図にも乗ってない。舗装もされていない道をこんなに長距離移動するなんて・・・
相棒は前に座っているおっちゃんにバスの行き先を確認した。その人は永定に帰る人で、なんと68年に鼓浪嶼から永定に下放され、現地の女性と家庭を持って、永定に定住したのだそうだ。下放当時は発電所の技師だったという。都市戸籍を持つものが農村戸籍所持者と結婚すると、両名共に農村戸籍所持者となるのが普通だそうだから、この人はおそらくそのケースなのだろう、とは相棒の推測。ちなみに相棒と話すとき、このおじさんは完璧な鼓浪嶼語を話したそうだ。
相棒の伯父一人、叔母ふたりも永定に下放されたことがある。永定は客家語の土地。当時は普通語もほとんど通じず、非常な苦労をしたそうだ。
さて、わたしが永定に行きたかったのは、客家の円居を見たかったため。小規模のものは各地にあるが、永定のは直径50メートル、4階だて、壁の厚さ90センチ、見事なサイズである。これほど見事なものは数えるほどしかないのだろうと思っていたら、あるわあるわ、山道にはいるなりあっちにもこっちにも奇怪な円形の大型建造物がぼかすか建っている。これを見に来た私も、もうええわ!というぐらいあった。
円居の写真一枚目から3枚目までは絵ハガキである。3枚めは魚眼レンズで内部を撮ったもの。
アメリカの軍事衛星が、この完璧に円形で中空の建造物を上空から撮影、ペンタゴンが最初、軍事的な建造物だと判断したというウワサは本当だろうか。出来すぎかな。
夕方4時、永定到着。へとへとである。政府招待所では我々が婚姻証明を持っていないというので同室を拒否、こんなこともあろうかと香港の婚姻証明を見せるも、誰も英語が読めず、菊の御紋のパスポートを盾にねばりにねばって、やっと一室をとることができた。
簡単に食事をとり、7時に就寝。翌日7時までツェツェバエにさされたように眠る。
1996年4月7日日曜日
廈門市内観光
19
起床。「好清香酒楼」という、廈門では有名な福建料理屋へ行く。一階が小吃、二階がレストランになっている。私は下の方でよかったのだが、相棒がとんとんとんと二階へあがる。なんと二階は広東菜。廈門でモヒトツの点心を食べて不機嫌な我々であった。
食後、あんまり暑いんで半袖に着替えにもどったところ、ちょうど相棒のイトコが起きてきたので、そのまま叔父さん叔母さん入れて5人で昼食に出る。オナカ、いっぱいやがな。
昼食後は我々とイトコで廈門市内観光に出かけた。
まず、湖里山砲台という、金門・大担などの台湾領の島々が見える小高い丘に上った。ガイドブックには「一人一分一元の望遠鏡が大人気。ピントを合わせてもらうと、台湾領のスローガン「三民主義・祖国統一」が見える」とあったが、それってやっぱりまずかったらしく(笑)、望遠鏡は撤去されていた。
しかし大砲は見事なものだった。全長13.9メートル。1891年の建造のドイツ製で、口径280ミリ、重量60トン、購入時の価格は6万両(テール)であったという。
次に南普陀山寺へ。達磨大師が手足が腐り落ちるまで瞑想にふけったのはここと書いてあるが、ヨソでもそういう説明見たような気がするな。布袋和尚と同じく実在の人物なのだろうとは思うが、伝奇的だ。
本日は天気がよく、寺の後ろの山に登ることにする。山は全体が大きな岩山で、名前は「万石山」そのままである。中国人好みの奇観であった。相棒はもちろん健康、イトコは毎朝5キロばかり走っているそうで、もちろん健康。彼らには山登りは楽しかっただろうが、病み上がりの私にはしんどかった・・・
万石山の向こう側は万石公園であり、南普陀山寺から山を越えて公園側へ降りてゆくと、立て札があった。「この山、外国人立ち入り禁止」。立て札は公園の方を向いていた。
立ち入り禁止もなにも、禁止されている方の側から公園へ降りてきたのであって、いくら順法精神あふれるわしでも仕方が無い。
日曜の万石公園は人でいっぱいだった。90年に、私が最初に来たころに比べると、人々の様子は格段に違って見える。考えてみれば、タクシーがみなメーター制になったこと、バスや電話で磁気カードがつかえること、一般家庭のトイレが西洋式の水洗で、台所や湯沸かしのガスは、香港ではあんまり普及していない天然ガスだったこと、などなど、大変な速さの進歩だ。
夕食は、鷺江賓館という、上海で言えば和平飯店のようなホテルの最上階にあるレストランへ。港に面しているので、鼓浪嶼がよく見渡せる。
福建菜は油を余り使わないところや、煮込み料理が多いこと、海の幸を多用するところなどが日本料理によく似ていて、私の口によく合う。特に、こんぶやワカメのつきだしなど、ばつぐん。
この日、生まれてはじめて兎肉を食す。鶏肉と似ている。生前の姿を思いうかべてみると、かわいそうで喉を通りにくくなるが、食べた。相棒は豚の大腸をほくほく食べている。
起床。「好清香酒楼」という、廈門では有名な福建料理屋へ行く。一階が小吃、二階がレストランになっている。私は下の方でよかったのだが、相棒がとんとんとんと二階へあがる。なんと二階は広東菜。廈門でモヒトツの点心を食べて不機嫌な我々であった。
食後、あんまり暑いんで半袖に着替えにもどったところ、ちょうど相棒のイトコが起きてきたので、そのまま叔父さん叔母さん入れて5人で昼食に出る。オナカ、いっぱいやがな。
昼食後は我々とイトコで廈門市内観光に出かけた。
まず、湖里山砲台という、金門・大担などの台湾領の島々が見える小高い丘に上った。ガイドブックには「一人一分一元の望遠鏡が大人気。ピントを合わせてもらうと、台湾領のスローガン「三民主義・祖国統一」が見える」とあったが、それってやっぱりまずかったらしく(笑)、望遠鏡は撤去されていた。
しかし大砲は見事なものだった。全長13.9メートル。1891年の建造のドイツ製で、口径280ミリ、重量60トン、購入時の価格は6万両(テール)であったという。
次に南普陀山寺へ。達磨大師が手足が腐り落ちるまで瞑想にふけったのはここと書いてあるが、ヨソでもそういう説明見たような気がするな。布袋和尚と同じく実在の人物なのだろうとは思うが、伝奇的だ。
本日は天気がよく、寺の後ろの山に登ることにする。山は全体が大きな岩山で、名前は「万石山」そのままである。中国人好みの奇観であった。相棒はもちろん健康、イトコは毎朝5キロばかり走っているそうで、もちろん健康。彼らには山登りは楽しかっただろうが、病み上がりの私にはしんどかった・・・
万石山の向こう側は万石公園であり、南普陀山寺から山を越えて公園側へ降りてゆくと、立て札があった。「この山、外国人立ち入り禁止」。立て札は公園の方を向いていた。
立ち入り禁止もなにも、禁止されている方の側から公園へ降りてきたのであって、いくら順法精神あふれるわしでも仕方が無い。
日曜の万石公園は人でいっぱいだった。90年に、私が最初に来たころに比べると、人々の様子は格段に違って見える。考えてみれば、タクシーがみなメーター制になったこと、バスや電話で磁気カードがつかえること、一般家庭のトイレが西洋式の水洗で、台所や湯沸かしのガスは、香港ではあんまり普及していない天然ガスだったこと、などなど、大変な速さの進歩だ。
夕食は、鷺江賓館という、上海で言えば和平飯店のようなホテルの最上階にあるレストランへ。港に面しているので、鼓浪嶼がよく見渡せる。
福建菜は油を余り使わないところや、煮込み料理が多いこと、海の幸を多用するところなどが日本料理によく似ていて、私の口によく合う。特に、こんぶやワカメのつきだしなど、ばつぐん。
この日、生まれてはじめて兎肉を食す。鶏肉と似ている。生前の姿を思いうかべてみると、かわいそうで喉を通りにくくなるが、食べた。相棒は豚の大腸をほくほく食べている。
1996年4月6日土曜日
本日は下雨天、休息天。
起床。体の節々が痛くて死にそう。出発から一週間も立たないうちにダウンか? お腹が痛くていたくて、フラフラである。とりあえず征露丸を5つ飲んでみた。それからまた3つ飲んでみた。さらに2つ飲んでみた。どうも食欲がわかない。(あたりまえ) また1つ飲んでみた。
どうにもならんので、作戦を変えて風邪薬と抗生物質を飲んでみた。うーうーうなっていると、みなが医者へ行け行けという。あまりにツライのでタクシーで中山医院へ。昭和大付属病院で一年間の研修を終えたばかりだという若い医者が、錠剤を3種と、水薬を一種出してくれた。
大量に薬を飲んだので、無性に眠くなり、眠る。3時間ほどで起床。体調は全快していた。いったいどのクスリが効いたのか? 直ったといってもだれも信用してくれず、病人扱いをされて白粥を食せらる。圧力釜で大量に炊いた白粥、おーいしい!
本日は下雨天、休息天。(雨が降っているので休息日とする。)
どうにもならんので、作戦を変えて風邪薬と抗生物質を飲んでみた。うーうーうなっていると、みなが医者へ行け行けという。あまりにツライのでタクシーで中山医院へ。昭和大付属病院で一年間の研修を終えたばかりだという若い医者が、錠剤を3種と、水薬を一種出してくれた。
大量に薬を飲んだので、無性に眠くなり、眠る。3時間ほどで起床。体調は全快していた。いったいどのクスリが効いたのか? 直ったといってもだれも信用してくれず、病人扱いをされて白粥を食せらる。圧力釜で大量に炊いた白粥、おーいしい!
本日は下雨天、休息天。(雨が降っているので休息日とする。)
1996年4月5日金曜日
泉州開元寺
昨夜の夕食と本日の朝食は雲南から出稼ぎに来ている耳の聞こえない男性の店で食べた。安くておいしくて、しかも清潔!この人は建水の出身で、もう5年、泉州で働いているという。建水行ったことあるよ、朝陽楼が有名な町でしょう?などと筆談を交わす。
さて朝食後、散策。大きな建物があったのでとりあえず入ってみる。孔子廟だった。居間は小学校として利用されている。宋代の建立だそうだ。日本だったら重文指定でもおかしくないが・・・
そこからあるいて開元寺に向かった。ここは北大の中野美代子教授(だったと思う、うろ覚え)が指摘した、孫悟空のルーツをうかがわせる猿のレリーフがある塔があるはずである。残念なことに、猿のレリーフがある方の西塔は風化が激しく、登れなかったが、本来こちらも登れないはずの東塔がたまたまパッケージツアー団体向けに開放されていて、ラッキーにもご相伴にあずかることができた。(東塔から西塔を見る。瓦屋の街なみが美しい。)

猿神はインド叙事詩「ラーマーヤナ」に搭乗する神様で、これが商人たちによって中国にもたらされ、孫悟空のモデルとなったというのが中野教授の説。
少林寺にも行ってみた。清代に反清活動の拠点となったため、キレイさっぱり焼き払われており、小さな御堂が残っているだけだった。湖南の北少林寺とはおおちがいだ。(一般的に少林寺と言えばこの北少林寺) 李連杰のクンフー映画「洪 官」(子連れ狼みたいな設定の話)の冒頭は、確かこの泉州南少林寺焼き討ちのエピソードであったはず。
それからイスラム寺へ。1009年建立。現在でも泉州14万の人口のうち、3万人はイスラム教徒なのだそう。イスラム寺のとなりに道教のお寺があり、関公(関羽雲長)、岳飛(宋朝の英雄。讒言により処刑)を祭ってあった。しかし相棒は天后娘娘が怒ると言うて見るだけ、お祈りはしない。外の塀に「封建迷信反対!」というハリ紙があり、ブキミだった。こんなん言うやつ、まだおるんかあ。
泉州の天后宮にお参り。台湾最大の天后宮、鹿港のはここから勧請したはず。廈門へ帰還。しかし、ちょこまかしいの相棒のペースで動いたため、私はヘトヘト。お風呂に入ったはいいけれど、たちの悪い風邪をひいたらしく、セーターを着て靴下はいて、ふとん+毛布2枚着て寝てるというのに寒くて寒くてしょうがない。体もだるくて死にそう。しかし不思議なことに、熱はまったくないのであった。苦しい夜であった。
さて朝食後、散策。大きな建物があったのでとりあえず入ってみる。孔子廟だった。居間は小学校として利用されている。宋代の建立だそうだ。日本だったら重文指定でもおかしくないが・・・
そこからあるいて開元寺に向かった。ここは北大の中野美代子教授(だったと思う、うろ覚え)が指摘した、孫悟空のルーツをうかがわせる猿のレリーフがある塔があるはずである。残念なことに、猿のレリーフがある方の西塔は風化が激しく、登れなかったが、本来こちらも登れないはずの東塔がたまたまパッケージツアー団体向けに開放されていて、ラッキーにもご相伴にあずかることができた。(東塔から西塔を見る。瓦屋の街なみが美しい。)

猿神はインド叙事詩「ラーマーヤナ」に搭乗する神様で、これが商人たちによって中国にもたらされ、孫悟空のモデルとなったというのが中野教授の説。
少林寺にも行ってみた。清代に反清活動の拠点となったため、キレイさっぱり焼き払われており、小さな御堂が残っているだけだった。湖南の北少林寺とはおおちがいだ。(一般的に少林寺と言えばこの北少林寺) 李連杰のクンフー映画「洪 官」(子連れ狼みたいな設定の話)の冒頭は、確かこの泉州南少林寺焼き討ちのエピソードであったはず。
それからイスラム寺へ。1009年建立。現在でも泉州14万の人口のうち、3万人はイスラム教徒なのだそう。イスラム寺のとなりに道教のお寺があり、関公(関羽雲長)、岳飛(宋朝の英雄。讒言により処刑)を祭ってあった。しかし相棒は天后娘娘が怒ると言うて見るだけ、お祈りはしない。外の塀に「封建迷信反対!」というハリ紙があり、ブキミだった。こんなん言うやつ、まだおるんかあ。
泉州の天后宮にお参り。台湾最大の天后宮、鹿港のはここから勧請したはず。廈門へ帰還。しかし、ちょこまかしいの相棒のペースで動いたため、私はヘトヘト。お風呂に入ったはいいけれど、たちの悪い風邪をひいたらしく、セーターを着て靴下はいて、ふとん+毛布2枚着て寝てるというのに寒くて寒くてしょうがない。体もだるくて死にそう。しかし不思議なことに、熱はまったくないのであった。苦しい夜であった。
1996年4月4日木曜日
湄州島から泉州
起床、文甲へ出発。文甲から船で湄州島へ。島の人に聞くと、天后にお祈りする時は、三つの品をお備えするのが決まりなそうなので、リンゴと梨と飴を買ってみた。 天后宮の本殿は福建様式の反り返った屋根が優雅で軽やかだ。
お香と紙幣(燃やすもの)を買って、熱心にお祈り(主に相棒)。相棒はなんとも気前よくお賽銭を入れていた。相棒いわく、「天后は航海・旅の神様だから、俺様の守護神なのだ!」 へいへいそうですか。「しかも天后は3月23日生まれだ!」ううむ、それって私の誕生日やん。「つまりオマエは天后が俺様に与えてくれた旅と人生のパートナーなのだ!」・・・そうやったんかい。わしに何の断りもなく。
船とバスを乗り継いで蒲田に帰り、そこからバスで泉州へ向かった。元代にはザイトンと呼ばれた世界最大の貿易港であった街で、イスラム教やゾロアスター教の遺跡が残ることでも有名だ。本日はここで一泊。
(追記)泉州のゾロアスター教遺跡についてお問い合わせがあり、改めてちゃんと調べたらゾロアスター教遺跡ではなくマニ教遺跡であった。訂正いたします。 (ここや ここなどをご参照のこと。)
お香と紙幣(燃やすもの)を買って、熱心にお祈り(主に相棒)。相棒はなんとも気前よくお賽銭を入れていた。相棒いわく、「天后は航海・旅の神様だから、俺様の守護神なのだ!」 へいへいそうですか。「しかも天后は3月23日生まれだ!」ううむ、それって私の誕生日やん。「つまりオマエは天后が俺様に与えてくれた旅と人生のパートナーなのだ!」・・・そうやったんかい。わしに何の断りもなく。
船とバスを乗り継いで蒲田に帰り、そこからバスで泉州へ向かった。元代にはザイトンと呼ばれた世界最大の貿易港であった街で、イスラム教やゾロアスター教の遺跡が残ることでも有名だ。本日はここで一泊。
(追記)泉州のゾロアスター教遺跡についてお問い合わせがあり、改めてちゃんと調べたらゾロアスター教遺跡ではなくマニ教遺跡であった。訂正いたします。 (ここや ここなどをご参照のこと。)
1996年4月3日水曜日
湄州島へ
湄州島へ行く。「媽祖」、別名「天后」の生誕地と言われているところである。まず、バスターミナルで11時20分発「蒲(蒲のさんずい無し)田」行きのチケットを買ったのだが、このバスが廈門を離れたのが1時ときたもんだ。
けっきょく蒲田に着いたのが5時半。ここで乗り換えて文甲という港町から船で島へ向かうはずが、最後の船が5時半なのでもう乗れない。あきらめて蒲田で一泊することに。
夕方、外出しようにも雨がざあざあ降り、さんざんな一日であった。ここの方言は、もはや相棒には全く聞き取れないという。ビン(門構えに虫)南語には広東語のような広がりはないらしい。
けっきょく蒲田に着いたのが5時半。ここで乗り換えて文甲という港町から船で島へ向かうはずが、最後の船が5時半なのでもう乗れない。あきらめて蒲田で一泊することに。
夕方、外出しようにも雨がざあざあ降り、さんざんな一日であった。ここの方言は、もはや相棒には全く聞き取れないという。ビン(門構えに虫)南語には広東語のような広がりはないらしい。
1996年4月2日火曜日
南普陀寺と鼓浪嶼
やはり250元は我々には高すぎる、ということで、相棒の叔母さんのうちにごやっかいに。実家へ帰省モードますます炸裂。
日本の団地そっくりの4階建てで、日本と違うのはやはり椅子生活だけあって天井が高いこと。香港の感覚でいうと大きなリビングに、寝室が二つ、台所とトイレ・シャワーにベランダ付き。まずまずうらやましいお宅ですなあ。
ここでびっくり。相棒が親戚ばら撒きように用意した大量のお土産の中から、香港であれだけ探しまくってとうとう出てこなかったCertificate of Identityを発見。こんなとこに!だれがこんなとこに入れたっ!?って、私じゃないですよ。私はお土産にはノータッチだ。しかしとりあえずこれで旅を続けるあてが出来た。
荷物を置いて観光へ。バスで南普陀寺へ。山の中腹に段々に並ぶ寺はとても見事である。精進料理を食べたが、これも見事なお味であった。それから華僑博物館へ行く。たいそう立派な洋館で、もともと何か由緒ある建物だったのだろう。
いったん叔母さんの家に帰り、手土産の洋酒などを携えて、いよいよ鼓浪嶼(グーランユイ(普)ころんす(廈))へ向かう。ほぼ20年近く帰っていなかった相棒の故郷へ。
輪渡から座席の無いフェリーで5分。鼓浪嶼はすっかり観光名所となっているようで、相棒はびっくりである。阿片戦争のあと、対外開放港に指定され、外国人貿易商が集中して住んだのがここ、鼓浪嶼なのだそうだ。(長崎の出島のようなものか) そのため、建物の多くが見事な洋館で、島ごと神戸の異人館通りといった趣である。もっとも、手入れは悪い。

「ワシは廈門で死ぬのじゃぁ」と言って香港から廈門に帰ってきたおばあちゃんは、相棒の生家に長男・次男夫妻と住んでいた。実家は最近立て替えたのでとってもキレイ。三階だて屋上付き。床なんかピカピカの花崗岩張りである。(南タイの華僑のウチで見たやつといっしょや。)各階に独立しており、一階なんか住む人がいないというありさまであった。思ったより立派なんでびっくりだ。(写真は相棒んちではない。念のため。)

1階においてある酸枝と大理石の椅子セットは、100年モノの骨董だそうである。相棒は子どものころ、よくこの椅子の上でうたた寝をしたそうだ。私にはヨダレのでそうな家具であるが、相棒の一の伯父・二の伯父夫妻にはそういうシュミはないらしく、彼らの居間にはそれぞれピカピカの応接セットが置いてあった。

こういう建物があちこちにある。

相棒の母校。
日本の団地そっくりの4階建てで、日本と違うのはやはり椅子生活だけあって天井が高いこと。香港の感覚でいうと大きなリビングに、寝室が二つ、台所とトイレ・シャワーにベランダ付き。まずまずうらやましいお宅ですなあ。
ここでびっくり。相棒が親戚ばら撒きように用意した大量のお土産の中から、香港であれだけ探しまくってとうとう出てこなかったCertificate of Identityを発見。こんなとこに!だれがこんなとこに入れたっ!?って、私じゃないですよ。私はお土産にはノータッチだ。しかしとりあえずこれで旅を続けるあてが出来た。
荷物を置いて観光へ。バスで南普陀寺へ。山の中腹に段々に並ぶ寺はとても見事である。精進料理を食べたが、これも見事なお味であった。それから華僑博物館へ行く。たいそう立派な洋館で、もともと何か由緒ある建物だったのだろう。
いったん叔母さんの家に帰り、手土産の洋酒などを携えて、いよいよ鼓浪嶼(グーランユイ(普)ころんす(廈))へ向かう。ほぼ20年近く帰っていなかった相棒の故郷へ。
輪渡から座席の無いフェリーで5分。鼓浪嶼はすっかり観光名所となっているようで、相棒はびっくりである。阿片戦争のあと、対外開放港に指定され、外国人貿易商が集中して住んだのがここ、鼓浪嶼なのだそうだ。(長崎の出島のようなものか) そのため、建物の多くが見事な洋館で、島ごと神戸の異人館通りといった趣である。もっとも、手入れは悪い。

「ワシは廈門で死ぬのじゃぁ」と言って香港から廈門に帰ってきたおばあちゃんは、相棒の生家に長男・次男夫妻と住んでいた。実家は最近立て替えたのでとってもキレイ。三階だて屋上付き。床なんかピカピカの花崗岩張りである。(南タイの華僑のウチで見たやつといっしょや。)各階に独立しており、一階なんか住む人がいないというありさまであった。思ったより立派なんでびっくりだ。(写真は相棒んちではない。念のため。)

1階においてある酸枝と大理石の椅子セットは、100年モノの骨董だそうである。相棒は子どものころ、よくこの椅子の上でうたた寝をしたそうだ。私にはヨダレのでそうな家具であるが、相棒の一の伯父・二の伯父夫妻にはそういうシュミはないらしく、彼らの居間にはそれぞれピカピカの応接セットが置いてあった。

こういう建物があちこちにある。

相棒の母校。

1996年4月1日月曜日
廈門・眉州島・泉州
【今回のあらすじ】
廈門とその周辺。ひっとこともわからん広東語世界にオサラバできたとおもったら、さらにわからん廈門語世界に突入。
--------------------------------------------------------------------------------
6時半起床。ただし体を起こすと船酔いが始まるため、手洗にゆく以外はふせって過ごす。8時、甲板に出てみると廈門が見えていた。中央やや左にチョコンとそびえているのが日光岩。十何年ぶりかの帰省のキンチョーのためか、次第にナーバスになる相棒。なんじゃそりゃ。

何枚か写真を撮る。相棒の5番目の叔母のご主人が我々を出迎えに来ていた。白鷺賓館へとチェックイン。シャワーを浴びて、叔母さんの家へご挨拶に行く。4人で食事に行く。帰ると相棒のイトコが仕事から帰ってきた。相棒が香港へ移民したときには小学生だったというが、今では立派な男性である。つーか、私と同い年。
しかしなんだこれは。旅行じゃないのか。これでは嫁ぎ先の実家に帰省モード炸裂ではないのか。しかも、ひとっこともわからん広東語の世界にオサラバできたかと思ったら、これではひとっこともわからん廈門語の世界突入ではないか。話がちがう。
白鷺賓館、キレイだが250元で我々には高すぎる。(<やつあたり)
午後、廈門の街を散策。中山路と思明路は洋館が多く、不思議なところだった。静かで清潔な上海という感じもする。しかしやはり上海・広州といった大都会と比較すると小さな都市だけあって、近隣からの流入人口が少ないのだろう、見たところ貧富の差があまり感じられないし、治安もよさそうだ。物乞いの数も少ない。

夕食は輪渡(対岸の島へのフェリー乗り場)のある、めっちゃ見晴らしのよい「必勝客」(ピザハット)で食べた。外人のヨメでごめんな。ピザ・スパゲティ。コーラ二つで63元と高級レストラン並み。
廈門とその周辺。ひっとこともわからん広東語世界にオサラバできたとおもったら、さらにわからん廈門語世界に突入。
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6時半起床。ただし体を起こすと船酔いが始まるため、手洗にゆく以外はふせって過ごす。8時、甲板に出てみると廈門が見えていた。中央やや左にチョコンとそびえているのが日光岩。十何年ぶりかの帰省のキンチョーのためか、次第にナーバスになる相棒。なんじゃそりゃ。

何枚か写真を撮る。相棒の5番目の叔母のご主人が我々を出迎えに来ていた。白鷺賓館へとチェックイン。シャワーを浴びて、叔母さんの家へご挨拶に行く。4人で食事に行く。帰ると相棒のイトコが仕事から帰ってきた。相棒が香港へ移民したときには小学生だったというが、今では立派な男性である。つーか、私と同い年。
しかしなんだこれは。旅行じゃないのか。これでは嫁ぎ先の実家に帰省モード炸裂ではないのか。しかも、ひとっこともわからん広東語の世界にオサラバできたかと思ったら、これではひとっこともわからん廈門語の世界突入ではないか。話がちがう。
白鷺賓館、キレイだが250元で我々には高すぎる。(<やつあたり)
午後、廈門の街を散策。中山路と思明路は洋館が多く、不思議なところだった。静かで清潔な上海という感じもする。しかしやはり上海・広州といった大都会と比較すると小さな都市だけあって、近隣からの流入人口が少ないのだろう、見たところ貧富の差があまり感じられないし、治安もよさそうだ。物乞いの数も少ない。

夕食は輪渡(対岸の島へのフェリー乗り場)のある、めっちゃ見晴らしのよい「必勝客」(ピザハット)で食べた。外人のヨメでごめんな。ピザ・スパゲティ。コーラ二つで63元と高級レストラン並み。
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