7時のバスで中甸行きのバスに乗る。バス上で、夕べ用意しておいたジャムぱんと干しぶどうパンをぱくぱく食べ、お腹一杯になったのでくうくう寝てしまう。途中、時々頭を上げて景色をみると、山の中には花がたいそう一杯咲いていて、見事な眺めであった。バスが速度を出して走るのでじっくりとは眺められないのだが、白・ピンク・紫のつつじのようだ。
標高があがるにつれ木々の背は低くなる。小中甸を越えたあたりに、地面を這うような背の低いつつじが一面に咲き乱れた高原があり、見たこともないような光景だった。白い大降りの花は夾竹桃だろうか、薄いピンクのもあった。それから黄色い、小ぶりのダリアに似た高山植物。花の好きな相棒はとても機嫌が良い。
またしてもくーすか眠り、目を覚ますともう中甸市街地。バスターミナルで降り、チベットホテルを目指す。人民解放軍OBのチベット族経営の宿。2階のダブルベッドの部屋が30元であった。
さっそくゴハンを食べに行く。中国人は牛をこう区別する。黄牛・水牛・奶牛・牦牛。黄牛は一般農作業用の牛・水牛は水牛、奶牛はホルスタイン種、牦牛はヤク。で、この牦牛が、このあたりでは牛の中では一番美味いとされているそうなのである。
大理の喜州から来ているイスラム教徒の店で牦牛料理にありつく。普通の牛より肉が赤く、食べてみると軟らかい。紅焼牛肉と紅焼内臓、芹と香菜と牛肉のいためもの、キャベツと大根のおつけもの、ゴハンどんぶり2杯で18元。
しかし、標高3300mだけあって空気が薄い。少し歩くと息切れがする。とりあえず無理をせずに眠ることにする。5時半頃までぐうすか眠り、再び外出するも田舎なのでもう店がみんなしまっとる。宿に帰り、宿のレストランでフレンチフライズなぞをもそもそ食べ、本を読んで日記を書いて、10時半、消灯。
***このブログについて***
書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。
1996年5月31日金曜日
1996年5月30日木曜日
麻辣鍋で満腹
本日は洗濯日。昨日は4日ぶりのシャワーでしみじみうれしかった。
1人で旅行中のイスラエル人にはしみじみいい奴が多い。団体行動中のは百発百中で最悪だとしみじみ実感。悪態になっちゃうのでもう書かない。ああ、しみじみ。
麗江は四川省にかなり近いので、こんな屋台もある。辛い辛い香辛料の入ったスープに、串にさした具をさっとくぐらせて食べる。麻辣鍋という。
1人で旅行中のイスラエル人にはしみじみいい奴が多い。団体行動中のは百発百中で最悪だとしみじみ実感。悪態になっちゃうのでもう書かない。ああ、しみじみ。
麗江は四川省にかなり近いので、こんな屋台もある。辛い辛い香辛料の入ったスープに、串にさした具をさっとくぐらせて食べる。麻辣鍋という。
1996年5月29日水曜日
納西古楽の演奏会
麗江へ戻る。本日のくそったれバスと来たら、バスターミナルから出るなり、いや、まだ出切ってない、尻がまだバスターミナルの敷地に引っかかっている状態でさっそく故障。そのまま頭を道路に突き出した状態で2時間40分の修理に入った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ <歯噛みをする音。
しかしその分運転手も気が焦ったらしくがんがんとばし、昼食時間も半分にしてとばしまくったせいで、5時過ぎには麗江に入ることができた。行きと違って今回は私も眠っていなかったので、相棒が繰り返し語った例のキョーフの大峡谷をしっかり見ることができて震え上がった。中国の運転手というのは、内輪差ということを余り考慮していないのではなかろうか。それと、坂を降りるときにギアを空にするのはやめて欲しいです・・・
麗江賓館にチェックイン。夜は納西古楽の演奏会が開かれる夜なので、早速聞きに行く。20元。5年前と違って風情のある古い民家の中庭ではなく、彼ら自身の練習所とおぼしき場所での室内演奏であった。見覚えのあるおっちゃん(納西古音楽会会長の宣科先生である)が出てきて、英語と中国語で説明をしてくれた。両方とも難なく聞き取れるようになっているのでちょっとうれしい。5年前は中国語は全くだめ、英語も半分ぐらいしか聞き取れなかったものなあ。
灯りが消えて音楽が始まった瞬間、5年前と同じように鳥肌が立った。荘厳な調べ。にもかかわらず、隣の中国人ときたらずっとしゃべってるのだ。シンガポール人の団体も半時間遅れで入ってきて、やはりしゃべるのであった。おもわず注意しちゃったよ。都市部の知識層はまたちがうんだろうけどなあ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ <歯噛みをする音。
しかしその分運転手も気が焦ったらしくがんがんとばし、昼食時間も半分にしてとばしまくったせいで、5時過ぎには麗江に入ることができた。行きと違って今回は私も眠っていなかったので、相棒が繰り返し語った例のキョーフの大峡谷をしっかり見ることができて震え上がった。中国の運転手というのは、内輪差ということを余り考慮していないのではなかろうか。それと、坂を降りるときにギアを空にするのはやめて欲しいです・・・
麗江賓館にチェックイン。夜は納西古楽の演奏会が開かれる夜なので、早速聞きに行く。20元。5年前と違って風情のある古い民家の中庭ではなく、彼ら自身の練習所とおぼしき場所での室内演奏であった。見覚えのあるおっちゃん(納西古音楽会会長の宣科先生である)が出てきて、英語と中国語で説明をしてくれた。両方とも難なく聞き取れるようになっているのでちょっとうれしい。5年前は中国語は全くだめ、英語も半分ぐらいしか聞き取れなかったものなあ。
灯りが消えて音楽が始まった瞬間、5年前と同じように鳥肌が立った。荘厳な調べ。にもかかわらず、隣の中国人ときたらずっとしゃべってるのだ。シンガポール人の団体も半時間遅れで入ってきて、やはりしゃべるのであった。おもわず注意しちゃったよ。都市部の知識層はまたちがうんだろうけどなあ。
1996年5月28日火曜日
インスタントラーメンをぼりぼり
朝食をとれるところも見つからないまま、8時のバスで永寧を離れ寧浪へ戻る。本来ならば寧浪で悠々と夕食をとれる筈だが、昨日の雨で道がひどくぬかるんで安全運転を強いられているところへ、崖崩れで道路が埋まっている個所が途中あり、復旧作業のためさらに一時間ほど足止め。皆お腹がへってイライラしているところへ、乗客の1人がおごそかに言った。
「インスタントラーメンがダンボール一箱ある。」
相棒が「湯は!?」と阿呆なことを聞き返したが、あるわけないだろうが。たちまち乗客から注文が相次ぎ、ラーメンの持ち主は買い付け時の原価を記したメモ帳をう〜んと眺めながら、非常にリーズナブルな価格でラーメンを小売りした。アイツはきっと漢民族の商人じゃないぞと、相棒が妙な感動をしている。我々も2袋づつ購入。私はベビースターラーメンを思い出しながら食べた。
永寧到着。食べて、ビール飲んで寝る。
「インスタントラーメンがダンボール一箱ある。」
相棒が「湯は!?」と阿呆なことを聞き返したが、あるわけないだろうが。たちまち乗客から注文が相次ぎ、ラーメンの持ち主は買い付け時の原価を記したメモ帳をう〜んと眺めながら、非常にリーズナブルな価格でラーメンを小売りした。アイツはきっと漢民族の商人じゃないぞと、相棒が妙な感動をしている。我々も2袋づつ購入。私はベビースターラーメンを思い出しながら食べた。
永寧到着。食べて、ビール飲んで寝る。
1996年5月27日月曜日
荒廃したチベット仏教の寺
さらに奥地にある、摩峻族の中心地、永寧へ向かう。永寧はイ族自治県なので、こんな表札つーか看板を見かけた。漢字にイ文字のふりがながふってある。呪術用などではなく、実用文字なのだろうか?現在でも使用されているのか?
チベット仏教の寺がひとつあり、かなり大規模なのだが、耳の遠いお坊さんと作男が1人づつしかいない。お坊さんと必死に会話すると、文革前には700名からの僧侶がいたという。ふと、耳の遠い振りをしているだけなのかもと思ったり。
寺を出ると、雨が降り出した。見る間にざざぶりになり、寒い寒い。帰りのバスが運行を中止したので、不本意にもこの寒村に一泊することになってしまった。宿を探すもロクなのがなく、長いこと換えてなさそうなシーツをめくるとわらを編んだベッド。しかし、他に選択の余地がある訳でもなく、仕方なく眠る。夕食は抜きである。
チベット仏教の寺がひとつあり、かなり大規模なのだが、耳の遠いお坊さんと作男が1人づつしかいない。お坊さんと必死に会話すると、文革前には700名からの僧侶がいたという。ふと、耳の遠い振りをしているだけなのかもと思ったり。
寺を出ると、雨が降り出した。見る間にざざぶりになり、寒い寒い。帰りのバスが運行を中止したので、不本意にもこの寒村に一泊することになってしまった。宿を探すもロクなのがなく、長いこと換えてなさそうなシーツをめくるとわらを編んだベッド。しかし、他に選択の余地がある訳でもなく、仕方なく眠る。夕食は抜きである。
1996年5月26日日曜日
静かな村、静かな湖を散策
対岸にモンゴル族(フビライの雲南攻めの帰りに置いてきぼりを食らった兵士の末裔)の村があるらしいが、今では言語・習慣ともに摩峻族に同化しているそうなので、行くのはやめにする。なにしろ馬で一日かかるっていうし。
村にはレストランが一軒もなく、食事に非常にこまる。なんとはなれば、宿の女主人の料理の腕がもひとつなのであった。おまけに朝、窓から外を見ていると、湖に造ったいけすの横で宿の下働きとおぼしき少女が洗剤を派手に泡立てて洗濯、いけすの魚が全部腹を見せて浮いてしまった。女主人がそれに気づいて魚をすべて厨房に回収。本日はきっと魚料理の夕べとなると予測されたが、相棒と二人でぜったい魚だけは食べないでおこうと確認し合う。
静かな村、静かな湖を散策して日が過ぎる。
村にはレストランが一軒もなく、食事に非常にこまる。なんとはなれば、宿の女主人の料理の腕がもひとつなのであった。おまけに朝、窓から外を見ていると、湖に造ったいけすの横で宿の下働きとおぼしき少女が洗剤を派手に泡立てて洗濯、いけすの魚が全部腹を見せて浮いてしまった。女主人がそれに気づいて魚をすべて厨房に回収。本日はきっと魚料理の夕べとなると予測されたが、相棒と二人でぜったい魚だけは食べないでおこうと確認し合う。
静かな村、静かな湖を散策して日が過ぎる。
1996年5月25日土曜日
濾古湖へは70キロを5時間
昨日よりもっとひどい破車で、座席は砂だらけ。彼は勇ましいうなり声をあげて、急な坂道に突っ込んでゆくのだが、悲しいかな馬力が全く足りず、時速5キロ出てる〜? ぐらいの人より遅い速度で、数ある山をやっとこさ越えてゆくのであった。
濾古湖へは70キロを5時間かかった。
湖は想像していたよりずっとずっと美しく、私は満足だ。海抜2,690m、透明度は11mである。かすかに打ち寄せる湖畔の水はうす青く透き通っていて、小魚たちが泳いでいるのがはっきり見える。大理の湖で泳いでみたいとは思わなかったけど、ここでなら泳いでみたい。子供たちが素っ裸で泳いでいた。
対岸は四川省である。
濾古湖周辺には摩峻族という納西族の支族が住んでいて、母系性社会を保持していることで有名である。完全な通い婚が残っていて、男性は夜だけ女性のもとに通うという。子どもはすべて母親に養われ、財産は女性から女児へと引き継がれる。摩峻語には「父」に相当する語がなく、母親の本に通ってくる男性(単数とは限らない)はすべて「叔父さん」に相当する語で呼ばれる。
彼らの言語は納西語と近縁関係にあるが、納西語ほどは漢化していない。摩峻語の表記にはチベット文字が使われる。宗教としてはチベット仏教を信仰しており、バター茶を飲む・タルチョをあちこちで見かける・石を積んだ塔が村の周辺に多いなど、かなりチベット文化圏に属するという印象が有る。
ただし、女性たちの服装はチベット族とは大きく異なっていて、むしろイ族に近い。頭にはターバンを巻き、数珠状のかざりと大きな房を片側に垂らしている。チベット風のえりの上着に、縞模様の帯を巻き、ひだの入ったロングスカートをはいているところはイ族と同じである。ただし、スカートの切り替えは一ヶ所のみで、色も白ばかり。切り替え部分には赤い線が入っている。脇の下まで届くような長い長いイヤリングも、イ族とは異なっている。
濾古湖へは70キロを5時間かかった。
湖は想像していたよりずっとずっと美しく、私は満足だ。海抜2,690m、透明度は11mである。かすかに打ち寄せる湖畔の水はうす青く透き通っていて、小魚たちが泳いでいるのがはっきり見える。大理の湖で泳いでみたいとは思わなかったけど、ここでなら泳いでみたい。子供たちが素っ裸で泳いでいた。
対岸は四川省である。
濾古湖周辺には摩峻族という納西族の支族が住んでいて、母系性社会を保持していることで有名である。完全な通い婚が残っていて、男性は夜だけ女性のもとに通うという。子どもはすべて母親に養われ、財産は女性から女児へと引き継がれる。摩峻語には「父」に相当する語がなく、母親の本に通ってくる男性(単数とは限らない)はすべて「叔父さん」に相当する語で呼ばれる。
彼らの言語は納西語と近縁関係にあるが、納西語ほどは漢化していない。摩峻語の表記にはチベット文字が使われる。宗教としてはチベット仏教を信仰しており、バター茶を飲む・タルチョをあちこちで見かける・石を積んだ塔が村の周辺に多いなど、かなりチベット文化圏に属するという印象が有る。
ただし、女性たちの服装はチベット族とは大きく異なっていて、むしろイ族に近い。頭にはターバンを巻き、数珠状のかざりと大きな房を片側に垂らしている。チベット風のえりの上着に、縞模様の帯を巻き、ひだの入ったロングスカートをはいているところはイ族と同じである。ただし、スカートの切り替えは一ヶ所のみで、色も白ばかり。切り替え部分には赤い線が入っている。脇の下まで届くような長い長いイヤリングも、イ族とは異なっている。
1996年5月24日金曜日
寧浪・彝族自治州
朝7時10分のバスで寧浪へ向かう。日本人の女性が二人乗っていた。バスは案の定見事な破車(ひどいボロボロの車)で、永勝を経由して寧浪に到着したのが4侍。私はぐうすか眠っていて知らなかったのだが、麗江盆地を出てすぐものすごい峡谷を走り、あまりの危なっかしさに相棒は震え上がっていたのだそうだ。
私が目を覚ましたときには永勝の一つ手前の盆地で、青い山々に囲まれた中に一面の水田が広がり、美しく装飾された家々が点在する集落を抜けるところだった。家の造りから判断して、ここと永勝は漢民族の集落らしい。
さて、寧浪はイ族自治州。永勝を抜けると、途中経過した村もイ族の集落が多かった。女性はイカのような形の、黒い布を張ったでかいでかい帽子をかぶり(中に板でもはいっているのか、棒でもつっかえてあるのか?)、長袖の上にベストを着て、縦シマ模様の帯をしめている。スカートは細かいひだが無数に入ったくるぶしまであるロングスカート。切り替えが二段入っていて、真ん中と上下の布の色が違う人も多い。老婆たちは40センチほどもありそうな長い長いキセルを吸っている。
男性はほとんど民族衣装を身につけていないが、黒い服に黒いズボン、黒いターバンに黒い帯の老人を2度見かけた。相棒が言った。「"黒イ"や。」黒イとは何ぞや?
やっとこさたどり着いた寧浪はめちゃくちゃ暑かった。同行の日本人女性が30分歩いただけで日射病らしき症状を訴えたぐらいだ。我々は「中暑(日射病)にはビール!」の合い言葉通り、明日のキップの手配も後回しに、とりあえず飯屋でビール瓶をかたむけた。飯屋の従業員に話し掛けるも、そこの従業員ときたら全員見事な四川語しか話せなくて、向こうはこっちの言ってることがわかるのだが、その返答が我々には全く聞き取れない。そこで、通訳をしてくれたのがなんと客のイ族の男性。彼はでかいでかい碗で麺を食べながら、ゆっくり私たちの相手をしてくれた。私は先ほどの疑問を口に出してみた。「黒イ」とは何ぞや?
イ族には黒イと白イの別がある。これは部族や住んでいる地域による区別ではなくて、社会的な地位、つまり階級による区別なのだという。黒イは貴族、白イは平民に当たる。解放前のイ族は奴隷制社会の段階にあり、白イは平民といっても売買の対象であったので、史学的に言えばやはり奴隷である。馬一頭と女一人がほぼ等価、男は4〜5人ぐらいだったそうだ。子を産むほうが価値が高いというのは、鶏といっしょである。
イ族の本拠地は四川なので、成都でイ族関連の文献が手に入るだろうか。
飯屋で教えてもらった通りに明日のキップを手配、小さな宿で早寝をする。
私が目を覚ましたときには永勝の一つ手前の盆地で、青い山々に囲まれた中に一面の水田が広がり、美しく装飾された家々が点在する集落を抜けるところだった。家の造りから判断して、ここと永勝は漢民族の集落らしい。
さて、寧浪はイ族自治州。永勝を抜けると、途中経過した村もイ族の集落が多かった。女性はイカのような形の、黒い布を張ったでかいでかい帽子をかぶり(中に板でもはいっているのか、棒でもつっかえてあるのか?)、長袖の上にベストを着て、縦シマ模様の帯をしめている。スカートは細かいひだが無数に入ったくるぶしまであるロングスカート。切り替えが二段入っていて、真ん中と上下の布の色が違う人も多い。老婆たちは40センチほどもありそうな長い長いキセルを吸っている。
男性はほとんど民族衣装を身につけていないが、黒い服に黒いズボン、黒いターバンに黒い帯の老人を2度見かけた。相棒が言った。「"黒イ"や。」黒イとは何ぞや?
やっとこさたどり着いた寧浪はめちゃくちゃ暑かった。同行の日本人女性が30分歩いただけで日射病らしき症状を訴えたぐらいだ。我々は「中暑(日射病)にはビール!」の合い言葉通り、明日のキップの手配も後回しに、とりあえず飯屋でビール瓶をかたむけた。飯屋の従業員に話し掛けるも、そこの従業員ときたら全員見事な四川語しか話せなくて、向こうはこっちの言ってることがわかるのだが、その返答が我々には全く聞き取れない。そこで、通訳をしてくれたのがなんと客のイ族の男性。彼はでかいでかい碗で麺を食べながら、ゆっくり私たちの相手をしてくれた。私は先ほどの疑問を口に出してみた。「黒イ」とは何ぞや?
イ族には黒イと白イの別がある。これは部族や住んでいる地域による区別ではなくて、社会的な地位、つまり階級による区別なのだという。黒イは貴族、白イは平民に当たる。解放前のイ族は奴隷制社会の段階にあり、白イは平民といっても売買の対象であったので、史学的に言えばやはり奴隷である。馬一頭と女一人がほぼ等価、男は4〜5人ぐらいだったそうだ。子を産むほうが価値が高いというのは、鶏といっしょである。
イ族の本拠地は四川なので、成都でイ族関連の文献が手に入るだろうか。
飯屋で教えてもらった通りに明日のキップを手配、小さな宿で早寝をする。
1996年5月23日木曜日
金沙江・石鼓・オランダ人詐欺師
6時半起床。本日の課題は洗濯と両替。両方済ませた後、9時半のバスで石鼓へと向かう。2時間ほど。石鼓は金沙江ぞいの納西族の小村である。金沙江は長江の重要な支流の一つで、金沙江はここでぐぐっと見事にヘアピンカーブしている。よってここを長江第一湾と称す。
またここは急流の金沙江がめずらしくゆるやかに流れているところなので、古来渡し場として有名だった。古くは蜀漢の諸葛亮孔明が雲南征伐の時にここを渡り、またフビライ・ハンも雲南を攻めるときにはここを渡っている。新しくは1935年4月23日、賀龍将軍率いる中国工農紅軍第二方面軍が長征の途中でここを渡っている。って看板をそのまま書き写してるだけ。賀龍将軍ってだれや? あとで相棒に聞いてみよう。
石鼓という名は、太鼓に似た丸い石碑から付けられたもの。この石碑は16世紀頃に麗江の土高という納西王が、蔵族(チベット族)と戦って買った記念に、1561年に作られたそうだ。
しかしこの石鼓、石碑と金沙江以外何も見るべきものがない田舎である。見るべきものが無いのは別にいのだが、帰りのバスが無いのは困ったさん。本日は定期市が立つ日らしく、坂の上の道いっぱいに出店が出ているのでそれをみて時間を過ごす。
能舞台のようなものがあり、中国のほかの地方では見たことが無いので興味深かった。なにに使うのだろう? 演劇? 人形劇? または演説台?
古い木造民家が多く、面白い。一軒の民家が、門神として関羽と張飛のセットを張っていた。門神は普通は秦涼(玉へん)と尉遅恭が多く、関羽と張飛なんて見たことない。
などと時間をつぶすも、バスは来ない。仕方なく、バス通りまで出て待つ。空気カラカラのかんかん照りで、とても日向には立っていられない。別に空腹ではなかったのだが、飯屋にへたりこんで麺を注文。そしてゆっくり食べた。バスはこない。食べおわって、ビールを頼んだ。バスは来ない。客が立て込んできたので店を出た。バスはこない。駄菓子屋でアイスクリームを買って店先にへたり込んだ。バスはこない。水を買って飲んだ。バスが来た!喜び勇んで走って行くと、麗江行きではなかった。戻ると、さっき座っていた所には別の人が座っている。バスはこない。
・・・とかしているうちに3時間半後、バスが来た。よかったなあ。
麗江に帰って3週間ぶりに自宅へ電話するも、誰も出ない。10分おいてまた電話。誰も出ない。くそお、また二人で仲良くゴハンでも食べに出とるなあ。仕方なく友人Kに電話。うちに電話しといてもらうよう頼む。
さて、宿代を前払いすべくフロントで順番を待っていると、大理で有金を全部とられたとか言って同情を引いてきたオランダ人がいた。食事時なのでとりあえずおごってやることにして、食事がてら話を聞く。ドミで寝ている時に同室の旅行者に取られたようだ、食事もできなくて困っているとオランダ人フランク・デ・ローイ、ゴハンを5回もおかわりしたが、外弁(外国人弁事局/外人対応専門の役所)の知人に話つけたるわと相棒がカマをかけると、とたんにそわそわ落ち着きがなくなった。おおかた、私が日本人女性なのでマヌケだと判断して声をかけたのだろう。まあ、私ってお育ちよさそうに見えるしなあ(<言っとれ)。で、今まで何例ぐらい成功してるのであろうか。
またここは急流の金沙江がめずらしくゆるやかに流れているところなので、古来渡し場として有名だった。古くは蜀漢の諸葛亮孔明が雲南征伐の時にここを渡り、またフビライ・ハンも雲南を攻めるときにはここを渡っている。新しくは1935年4月23日、賀龍将軍率いる中国工農紅軍第二方面軍が長征の途中でここを渡っている。って看板をそのまま書き写してるだけ。賀龍将軍ってだれや? あとで相棒に聞いてみよう。
石鼓という名は、太鼓に似た丸い石碑から付けられたもの。この石碑は16世紀頃に麗江の土高という納西王が、蔵族(チベット族)と戦って買った記念に、1561年に作られたそうだ。
しかしこの石鼓、石碑と金沙江以外何も見るべきものがない田舎である。見るべきものが無いのは別にいのだが、帰りのバスが無いのは困ったさん。本日は定期市が立つ日らしく、坂の上の道いっぱいに出店が出ているのでそれをみて時間を過ごす。
能舞台のようなものがあり、中国のほかの地方では見たことが無いので興味深かった。なにに使うのだろう? 演劇? 人形劇? または演説台?
古い木造民家が多く、面白い。一軒の民家が、門神として関羽と張飛のセットを張っていた。門神は普通は秦涼(玉へん)と尉遅恭が多く、関羽と張飛なんて見たことない。
などと時間をつぶすも、バスは来ない。仕方なく、バス通りまで出て待つ。空気カラカラのかんかん照りで、とても日向には立っていられない。別に空腹ではなかったのだが、飯屋にへたりこんで麺を注文。そしてゆっくり食べた。バスはこない。食べおわって、ビールを頼んだ。バスは来ない。客が立て込んできたので店を出た。バスはこない。駄菓子屋でアイスクリームを買って店先にへたり込んだ。バスはこない。水を買って飲んだ。バスが来た!喜び勇んで走って行くと、麗江行きではなかった。戻ると、さっき座っていた所には別の人が座っている。バスはこない。
・・・とかしているうちに3時間半後、バスが来た。よかったなあ。
麗江に帰って3週間ぶりに自宅へ電話するも、誰も出ない。10分おいてまた電話。誰も出ない。くそお、また二人で仲良くゴハンでも食べに出とるなあ。仕方なく友人Kに電話。うちに電話しといてもらうよう頼む。
さて、宿代を前払いすべくフロントで順番を待っていると、大理で有金を全部とられたとか言って同情を引いてきたオランダ人がいた。食事時なのでとりあえずおごってやることにして、食事がてら話を聞く。ドミで寝ている時に同室の旅行者に取られたようだ、食事もできなくて困っているとオランダ人フランク・デ・ローイ、ゴハンを5回もおかわりしたが、外弁(外国人弁事局/外人対応専門の役所)の知人に話つけたるわと相棒がカマをかけると、とたんにそわそわ落ち着きがなくなった。おおかた、私が日本人女性なのでマヌケだと判断して声をかけたのだろう。まあ、私ってお育ちよさそうに見えるしなあ(<言っとれ)。で、今まで何例ぐらい成功してるのであろうか。
1996年5月22日水曜日
石畳の美しい市街を散策
体調がすぐれず、休む。夕方、食事のために世界遺産にも指定されている旧市街へ行き、TOWER CAFEとやらで親子丼を食す。誰が教えたのか知らんが、良くできていた。8元。石畳の美しい市街を散策する。麗江布のマフラーを買い、風呂に入って早々に寝る。
1996年5月21日火曜日
白沙村壁画と玉峰寺
本日は洗濯日。一時間かかった。たいそう天気がよく、白沙村へ行きたいのだがちゃりでは行く気がしない。バスを探すと運良くミニバスが来た。とりあえず乗ってみた。2元。
バス停前の毛沢東。
白沙には明代と清代の壁画があり、明代のものは参観可能である。門票は1元。きわめて均整の取れた壁画で、唐代の遺風を残していると説明人は誇らしげに語った。もっとも、門外漢の私にはそれが妥当な評価なのかはさっぱりわからない。私にとっておもしろかったのは、絵の中央部が完全に中国風の絵かと思えば下の方はなにやらチベット絵画風であったり、また別の絵にはインドのカーリーそっくりのものがあったりして、なにやらいろいろな作風が混ざっているように見受けられたこと。
そして、白沙村といえば忘れてはならないドクター・フー(和医者)。自慢話にあけくれるかわいいおじいちゃんである。一種の名物なので、白沙を訪れる外人はたいてい彼を訪れる。そして「東洋」に関する過剰な思い入れ(たいていは無知と裏あわせ)から、完全に傾倒してしまう人も少なくないらしい。豪州で教育を受けたマレーシア華僑が、やはりエライ感心のしようでおかしかった。我が相棒は残念ながらそれほどお育ちが良くないので、20秒で飽きたらしく、勧められたナゾの薬茶を見て「その茶、飲むなよ」と広東語で私に命じた。
白沙村から三輪で玉峰寺へ向かう。てっきり門まで付けてくれると思っていたら、大変なでこぼこの小道を玉峰山の下の小村まで連れていってくれて、ハイお終い。仕方なく30分ほどの登山となる。
玉峰寺は万朶山茶(万の花をつける椿)で有名。花の季節は終わっていたが、奇怪な枝振りの椿の巨木はおもしろかった。寺はチベット仏教で、本尊も脇侍も中国風とはちがっていた。ここは空気がいいのか水がいいのか、まつぼっくりが長さ20センチ直径10センチほどもあり、びっくりである。
CITSのワゴンに便乗(10元/一人)、麗江まで帰ってきた。CITSの職員の一人が摩峻族の女性で、歌を歌ってくれたがほれぼれするような声と声量であった。 摩峻族の歌い手というのは、北雲南では有名らしい。
バス停前の毛沢東。
白沙には明代と清代の壁画があり、明代のものは参観可能である。門票は1元。きわめて均整の取れた壁画で、唐代の遺風を残していると説明人は誇らしげに語った。もっとも、門外漢の私にはそれが妥当な評価なのかはさっぱりわからない。私にとっておもしろかったのは、絵の中央部が完全に中国風の絵かと思えば下の方はなにやらチベット絵画風であったり、また別の絵にはインドのカーリーそっくりのものがあったりして、なにやらいろいろな作風が混ざっているように見受けられたこと。
そして、白沙村といえば忘れてはならないドクター・フー(和医者)。自慢話にあけくれるかわいいおじいちゃんである。一種の名物なので、白沙を訪れる外人はたいてい彼を訪れる。そして「東洋」に関する過剰な思い入れ(たいていは無知と裏あわせ)から、完全に傾倒してしまう人も少なくないらしい。豪州で教育を受けたマレーシア華僑が、やはりエライ感心のしようでおかしかった。我が相棒は残念ながらそれほどお育ちが良くないので、20秒で飽きたらしく、勧められたナゾの薬茶を見て「その茶、飲むなよ」と広東語で私に命じた。
白沙村から三輪で玉峰寺へ向かう。てっきり門まで付けてくれると思っていたら、大変なでこぼこの小道を玉峰山の下の小村まで連れていってくれて、ハイお終い。仕方なく30分ほどの登山となる。
玉峰寺は万朶山茶(万の花をつける椿)で有名。花の季節は終わっていたが、奇怪な枝振りの椿の巨木はおもしろかった。寺はチベット仏教で、本尊も脇侍も中国風とはちがっていた。ここは空気がいいのか水がいいのか、まつぼっくりが長さ20センチ直径10センチほどもあり、びっくりである。
CITSのワゴンに便乗(10元/一人)、麗江まで帰ってきた。CITSの職員の一人が摩峻族の女性で、歌を歌ってくれたがほれぼれするような声と声量であった。 摩峻族の歌い手というのは、北雲南では有名らしい。
1996年5月20日月曜日
大具へ向かう途中、道に迷う
核桃園に2泊し、三日目の朝に日本人男性二人と連れ立って、計4人で大具へ向けて出発した。ミネラルウォーターを3本用意したが、これは後から考えると少なすぎた。
核桃園から大具までは、最短コースをとれば17km。途中かなり大規模な地滑りの跡と、絶壁にかろうじて開かれた細道(左の写真参照)を過ぎれば、あとは危険な道を歩くこともなくなった。ところがである。
ここから先は道が何ヶ所かで分かれるため、もっとも道に迷いやすいと聞いていたところなのだが、大具への道を示す道標が何者かによって破壊され、別の道を指すように置き換えられているのだ。置き換えられた矢印は急斜面を下るよう指示していたが、我々はこれを悪質ないたずらと判断、先に進むことにした。なにしろカラカラに乾ききった炎天下であるため、余計に歩いて水分を消耗したくないのだ。また、目的地大具はもはや対岸前方に見えつつあった。
この日は不幸にも非常に天気のよい日で、大具がはっきりと見えた時点で水が3本ともなくなってしまった。深い谷を迂回したあと、道はまた二股に分かれた。左の大きな道は登り坂、右の道は右手に見える平らな土地へ緩やかに降りてゆく。そろそろ川を渡るために川辺へ降りてもいいころではないかと考えた我々は、左の道を離れて右の道へ進んだ。
しばらくゆくと、道はまた三叉に分かれた。左の小道は急な坂を垂直に登ってさっき分かれた大きな道と交わり、さらに丘を越えて行くのが見える。真ん中の道は平らな土地をまっすぐに進んでいるが、どうしたわけだか途中で大小の石が積まれ、道がふさがれている。右の道は急斜面をまっすぐに川辺へ降りてゆくようだ。ここで川を渡るのだろうか?
左手の丘に羊の放牧にやってきた女性に尋ねると、右の斜面を降りろ降りろという。丘の上と下で、大声でやりとりしていると、少年がやってきて自分のおじさんがこの下にボートを持っていると言い出した。我々は、ここはどうやら本来の渡し場ではない、おそらく道標に細工をしたり、道を石でふさいだりしたのはこの下にボートを持っているその連中だと見当をつけたが、しかし渡れるようなら渡ってもよいのではないかと迷い、しばらく立ちすくんでしまった。
そうこうしているうちに、我々に先行していたアメリカ人のカップルが、左の丘を越えて戻ってきた。行き止まりだったらしい。私が「この下にボートがあると言ってるけど」と少年を指すと、「写真で見た本来の渡し場はここではないようだから、進むことにする」と一番左の大きな道を進んでいった。
我々はどうする?と、休みがてら相談していると、2時間早く出発したはずのイギリス人4人が真ん中の道から引き返してくるのが見えた。するとアメリカ人カップルの行った左の大きな道が本来の道なのだろうが、みるからにきつい登り坂で、また対岸の大具から次第に離れてゆくようでもある。イギリス人も含め、私たちはここで川をわたることに決定した。(下の写真では対岸に大具が見えている)
急斜面をずりおちるように下ること30分。川面に手漕ぎボートが見えた。かなり大きなボートだが、二人の漕ぎ手以外は3人までしか乗れないという。大勢乗せると対岸につける前に流されてしまうのだそうだ。確かに大変な急流で、川の中ほどでは川底から吹き上げるように沸く水で、川面が盛り上がっている。
我々の乗ったボートは、川の中央に出るなり見る見る下流へ流された。流されつつもなんとか対岸へつけ、流れのゆるやかな所を選んで、えっちらおっちら上流へ船を進め、ボートの出発点のちょうど対岸で停泊した。
ちなみに料金は外国人15元、中国人5元。本来の渡し場ではそれぞれ10元、3元である。
3人ずつ渡してもらって、船は何度か往復。ここから大具まではさっき降りたのよりさらにきつい急斜面をよじのぼることとなった。大規模な地滑りのあとを、道を選んで横断したとき、子どもの背中ほどの岩に何気なく足をかけた瞬間、岩が砕けて私は横転した。この時山側ではなく谷側に倒れていたらどうなっていたか、今考えてもとゾッとする。幸い足もひねることなく、右手のひらを2個所切ったことと、右ひじ、右腰を強打したことだけで事は済んだ。この地すべりは2月の地震の際にできたものだとあとで聞いた。
地滑りを無事横断し、峡谷をひとつ迂回して一時間ほどきつい勾配をあがると、チーズケーキのように見事に平らな盆地に出た。小麦の収穫が終わったところらしい。一面の切り株の向こうに、納西族の集落、大具が見える。我々は全員、「ビールビールビール・・・」とつぶやきながら(叫ぶ元気がもうない)、小麦畑を突っ切ってまっすぐ歩き出した。
こうして、虎跳峡全40km走破という、怠け者の私にとって画期的な体験は無事終わったのであった。
(玉龍山(5,596m)のふもとの村、大具。村を覆う影は対岸の哈巴山(5、396m)のもの。)
--------------------------------------------------------------------------------
追記。
左の大きな道を上がっていったアメリカ人カップルは一時間ほどあとに大具に到着。やはり彼らのたどった道が本来の道だったらしい。歩きやすい道だが、やや遠回りになるようだ。我々が取った道は、最短距離ではあるらしいが、斜面や地滑りが多く危険な道である。このカップルは大具付近の地図を作成し、麗江でホテルやレストランに配布していた。良心的な人々だ。私は外国人があつまるカフェのノートに注意事項を書き付けてきた。
追記2。
例のはぐれたフランス人男性とは、麗江のホテルで会った。彼は川を渡るなり道を間違え、山の中で3夜を過ごしたしたのだという。最初の2晩は岩のかげややぶの中で、三日目の夕方に村をみつけ、そこで始めて水と食料と寝場所を得、村人の案内で大具まで引き返したという。もういちど虎跳峡へ行く気ある?と尋ねたら、「Non! 今ボクに必要なのは休息だけ。」と答えた。鼻の頭が気の毒なぐらい日焼けしていた。
--------------------------------
大具には泊まらず、そのまま麗江へ帰った。大具から麗江まで20元。最初の2時間ぐらいは大変な山道で、口を開けていると舌を噛みそうであった。途中、イ族の村を数多く通過した。写真を撮りたかったが、イ族は剽悍で知られた民族。バスの中から撮るのは失礼なような気もあり、撮らずじまい。2時間を過ぎたころから道がややましになり、山を完全に下って盆地へ出ると、道はまっすぐ麗江まで一直線。右手に玉龍山脈を見ながらの快適なドライブである。
ここからは貝の化石が多く取れるため。「乾海子」という地名がついているそうである。まったく突然に「雪花飯店」という小さくないホテルがあり、景色がいいので泊まってみたいと思ったが、地元民に聞くと、観光客相手の「紅灯区」だそうだ。
麗江到着。玉泉賓館の前で下車。麗江賓館のドミが空いているのを確認してチェックイン。10元+地震保険料2元。この保険料は麗江のどのホテルに泊まってもつく。終日、とりあえず休む。
麗江旧市街を近郊の丘から眺めおろす。灰色の屋根なみが美しい。
核桃園から大具までは、最短コースをとれば17km。途中かなり大規模な地滑りの跡と、絶壁にかろうじて開かれた細道(左の写真参照)を過ぎれば、あとは危険な道を歩くこともなくなった。ところがである。
ここから先は道が何ヶ所かで分かれるため、もっとも道に迷いやすいと聞いていたところなのだが、大具への道を示す道標が何者かによって破壊され、別の道を指すように置き換えられているのだ。置き換えられた矢印は急斜面を下るよう指示していたが、我々はこれを悪質ないたずらと判断、先に進むことにした。なにしろカラカラに乾ききった炎天下であるため、余計に歩いて水分を消耗したくないのだ。また、目的地大具はもはや対岸前方に見えつつあった。
この日は不幸にも非常に天気のよい日で、大具がはっきりと見えた時点で水が3本ともなくなってしまった。深い谷を迂回したあと、道はまた二股に分かれた。左の大きな道は登り坂、右の道は右手に見える平らな土地へ緩やかに降りてゆく。そろそろ川を渡るために川辺へ降りてもいいころではないかと考えた我々は、左の道を離れて右の道へ進んだ。
しばらくゆくと、道はまた三叉に分かれた。左の小道は急な坂を垂直に登ってさっき分かれた大きな道と交わり、さらに丘を越えて行くのが見える。真ん中の道は平らな土地をまっすぐに進んでいるが、どうしたわけだか途中で大小の石が積まれ、道がふさがれている。右の道は急斜面をまっすぐに川辺へ降りてゆくようだ。ここで川を渡るのだろうか?
左手の丘に羊の放牧にやってきた女性に尋ねると、右の斜面を降りろ降りろという。丘の上と下で、大声でやりとりしていると、少年がやってきて自分のおじさんがこの下にボートを持っていると言い出した。我々は、ここはどうやら本来の渡し場ではない、おそらく道標に細工をしたり、道を石でふさいだりしたのはこの下にボートを持っているその連中だと見当をつけたが、しかし渡れるようなら渡ってもよいのではないかと迷い、しばらく立ちすくんでしまった。
そうこうしているうちに、我々に先行していたアメリカ人のカップルが、左の丘を越えて戻ってきた。行き止まりだったらしい。私が「この下にボートがあると言ってるけど」と少年を指すと、「写真で見た本来の渡し場はここではないようだから、進むことにする」と一番左の大きな道を進んでいった。
我々はどうする?と、休みがてら相談していると、2時間早く出発したはずのイギリス人4人が真ん中の道から引き返してくるのが見えた。するとアメリカ人カップルの行った左の大きな道が本来の道なのだろうが、みるからにきつい登り坂で、また対岸の大具から次第に離れてゆくようでもある。イギリス人も含め、私たちはここで川をわたることに決定した。(下の写真では対岸に大具が見えている)
急斜面をずりおちるように下ること30分。川面に手漕ぎボートが見えた。かなり大きなボートだが、二人の漕ぎ手以外は3人までしか乗れないという。大勢乗せると対岸につける前に流されてしまうのだそうだ。確かに大変な急流で、川の中ほどでは川底から吹き上げるように沸く水で、川面が盛り上がっている。
我々の乗ったボートは、川の中央に出るなり見る見る下流へ流された。流されつつもなんとか対岸へつけ、流れのゆるやかな所を選んで、えっちらおっちら上流へ船を進め、ボートの出発点のちょうど対岸で停泊した。
ちなみに料金は外国人15元、中国人5元。本来の渡し場ではそれぞれ10元、3元である。
3人ずつ渡してもらって、船は何度か往復。ここから大具まではさっき降りたのよりさらにきつい急斜面をよじのぼることとなった。大規模な地滑りのあとを、道を選んで横断したとき、子どもの背中ほどの岩に何気なく足をかけた瞬間、岩が砕けて私は横転した。この時山側ではなく谷側に倒れていたらどうなっていたか、今考えてもとゾッとする。幸い足もひねることなく、右手のひらを2個所切ったことと、右ひじ、右腰を強打したことだけで事は済んだ。この地すべりは2月の地震の際にできたものだとあとで聞いた。
地滑りを無事横断し、峡谷をひとつ迂回して一時間ほどきつい勾配をあがると、チーズケーキのように見事に平らな盆地に出た。小麦の収穫が終わったところらしい。一面の切り株の向こうに、納西族の集落、大具が見える。我々は全員、「ビールビールビール・・・」とつぶやきながら(叫ぶ元気がもうない)、小麦畑を突っ切ってまっすぐ歩き出した。
こうして、虎跳峡全40km走破という、怠け者の私にとって画期的な体験は無事終わったのであった。
(玉龍山(5,596m)のふもとの村、大具。村を覆う影は対岸の哈巴山(5、396m)のもの。)
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追記。
左の大きな道を上がっていったアメリカ人カップルは一時間ほどあとに大具に到着。やはり彼らのたどった道が本来の道だったらしい。歩きやすい道だが、やや遠回りになるようだ。我々が取った道は、最短距離ではあるらしいが、斜面や地滑りが多く危険な道である。このカップルは大具付近の地図を作成し、麗江でホテルやレストランに配布していた。良心的な人々だ。私は外国人があつまるカフェのノートに注意事項を書き付けてきた。
追記2。
例のはぐれたフランス人男性とは、麗江のホテルで会った。彼は川を渡るなり道を間違え、山の中で3夜を過ごしたしたのだという。最初の2晩は岩のかげややぶの中で、三日目の夕方に村をみつけ、そこで始めて水と食料と寝場所を得、村人の案内で大具まで引き返したという。もういちど虎跳峡へ行く気ある?と尋ねたら、「Non! 今ボクに必要なのは休息だけ。」と答えた。鼻の頭が気の毒なぐらい日焼けしていた。
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大具には泊まらず、そのまま麗江へ帰った。大具から麗江まで20元。最初の2時間ぐらいは大変な山道で、口を開けていると舌を噛みそうであった。途中、イ族の村を数多く通過した。写真を撮りたかったが、イ族は剽悍で知られた民族。バスの中から撮るのは失礼なような気もあり、撮らずじまい。2時間を過ぎたころから道がややましになり、山を完全に下って盆地へ出ると、道はまっすぐ麗江まで一直線。右手に玉龍山脈を見ながらの快適なドライブである。
ここからは貝の化石が多く取れるため。「乾海子」という地名がついているそうである。まったく突然に「雪花飯店」という小さくないホテルがあり、景色がいいので泊まってみたいと思ったが、地元民に聞くと、観光客相手の「紅灯区」だそうだ。
麗江到着。玉泉賓館の前で下車。麗江賓館のドミが空いているのを確認してチェックイン。10元+地震保険料2元。この保険料は麗江のどのホテルに泊まってもつく。終日、とりあえず休む。
麗江旧市街を近郊の丘から眺めおろす。灰色の屋根なみが美しい。
1996年5月19日日曜日
核桃園(Walnuts Grove)
ところで、1996年2月3日の麗江大震災には、核桃園でもかなりの揺れがあったという。夜7時ごろ、多くの旅行者がすでに到着して夕食を取っている最中に地震は起こったそうだ。これが白昼、彼らが歩いている時間帯に起こっていたら、いったいどうなっていただろうか。村にいてさえ、落石で村人が一人死亡したほか、多くの村人と二人の外国人が負傷しているのである。
60すぎのおじいちゃんと話をすると、30年ぶりの地震に若い世代は肝をつぶしたそうな。地震の瞬間、山のあちこちでダイナマイトを仕掛けたような爆音が鳴り響き、見る間に対岸の黒い絶壁が見渡す限りの白い粉塵-衝撃で砕けた岩の破片-で覆われた。絶え間無い落石の音が尾を引く中、やがて粉塵は風に乗ってこちら側に届き、あたり一面を白い世界に変えてしまったという。
その後の数日間、村はもちろん外界から孤立した。数日後、公安と軍隊が外国人の安否を確認し、彼らを保護するために道を開きながらやってくるまでー。
宿の雑貨売り場に、なにげなくピストルが置いてあった。もちろん売り物ではない。ぞっとしながら主人に尋ねると、一人で橋頭に行くときにはこれなしでは恐くて行けないという。ヨソ者の強盗は、襲う時には外国人でも現地人でも区別なしで襲うという。なんでも、この北の方にある採石場で囚人が労働力として使われており、そこからの脱走犯が複数潜伏しているのではないかという噂だそうだ。このへんの村人は町へ出る際には何人か集まり、腰にナイフをさげて行くのが普通だとか。
60すぎのおじいちゃんと話をすると、30年ぶりの地震に若い世代は肝をつぶしたそうな。地震の瞬間、山のあちこちでダイナマイトを仕掛けたような爆音が鳴り響き、見る間に対岸の黒い絶壁が見渡す限りの白い粉塵-衝撃で砕けた岩の破片-で覆われた。絶え間無い落石の音が尾を引く中、やがて粉塵は風に乗ってこちら側に届き、あたり一面を白い世界に変えてしまったという。
その後の数日間、村はもちろん外界から孤立した。数日後、公安と軍隊が外国人の安否を確認し、彼らを保護するために道を開きながらやってくるまでー。
宿の雑貨売り場に、なにげなくピストルが置いてあった。もちろん売り物ではない。ぞっとしながら主人に尋ねると、一人で橋頭に行くときにはこれなしでは恐くて行けないという。ヨソ者の強盗は、襲う時には外国人でも現地人でも区別なしで襲うという。なんでも、この北の方にある採石場で囚人が労働力として使われており、そこからの脱走犯が複数潜伏しているのではないかという噂だそうだ。このへんの村人は町へ出る際には何人か集まり、腰にナイフをさげて行くのが普通だとか。
1996年5月18日土曜日
橋頭に向けて出発
翌日7時のバスで橋頭に向けて出発。こちらからのルートの方が登りが少なく、やや楽なためである。橋頭から徒歩で虎跳峡風景区に入境。しばらくは車でも入れる広い道が続く。
峡谷沿いに細々と連なるこの道は、車で入れる道の終点とともに突然頼りないものとなった。
(右の写真真ん中あたりの人影が我々。)
広くある歩きやすくなる部分もあるにはあるが、多くは角張った石だらけの歩きづらい道である。滝を4つ越え、岩を登り、無数にある地滑りの後を落石と転落に注意しながら歩くのは、私にとっては初めての経験だ。絶壁に細い道が危うく連なっている場所では、風が吹くたびにひやりとし、急斜面に連なる幅15センチぐらいしかない山羊道に泣きそうになることもあった。
風の強い日にこのルートをたどるのは恐らく極めて危険なのだろうと思う。下は崖で、その下は濁流だ。死体すらも上がってこないのではあるまいか。また、雨の日には絶対に歩くなと何人もの人に警告された。悪天候で虎跳峡に向かった日本人がすでにひとり行方不明になっているという。
我々が出発した日は、きわめて理想的な一日だったのだろう。薄い雲が太陽の日差しを遮り、ほどよい追い風はついに一度も突風とはならなかった。核桃園までの23kmは5~8時間ぐらいで歩くのが標準だそうで、我々は5時間で到着した。晴れた暑い日であれば、もっとかかったことだろう。熱射病で亡くなった外国人も、やはり2名ほどいるという。
同行のイギリス人老夫婦はトレッキングが夫婦共通の趣味とかで、トレッキング歴25年のベテラン。フランス人のうち一人はフレンチアルプスのふもと出身、玉龍山脈をみあげては俺はむしろあっちに登ってみたいとつぶやく本物のクライマー。彼らをペースメーカーに、必死で付いていったための6時間であった。あとふたりのフランス人は結局遅れ、2時間後に到着した。
核桃園の景色は抜群だった。対岸の絶壁は雄大にそそり立ち、一面に黒っぽく、まばらに草木が生えている。こちら側では急斜面にへばりつくようにして民家が散在し、人々はずりおちそうな小麦畑をかろうじて耕作している。
外国人にWalnuts Groveと意訳され、愛されているこの集落の名は、もちろん胡桃(中国語では核桃)の樹が多いことから名づけられた優雅な名だ。この小さな集落にも宿が2軒あり、どちらも外国人相手に繁盛している。宿の主人によれば、ここのやってくる旅行者の99%までが外国人だそうだ。
この村のほとんどの住人は、清朝末期に四川省から移民してきた人々で、日常語としては四川語を話し、普通語をうまく話せない人も多い。宿の主人は小学校に2年間いった後、12歳のときに我々が今日歩いてきた道を村の若い衆とともに橋頭へ向かい、それからは雲南省と四川省を仕事をしながら流れ歩いてきたのだという。流れ歩いたといっても別に怪しい大男というわけではなくて、小柄でひょろひょろした、笑みを絶やさないお兄さんなのだが・・・。
この村のあまりの風景のよさ、静けさ、かつゴハンのおいしさ(放し飼いの鶏を一羽しめてもらいました・・・)、なんとびっくり手作り太陽熱ホットシャワーシステム、清潔なトイレ、などなどに感動した我々、もう一泊することに決定。なまけものの私だけなら、一週間はここでぼけぼけしそうだ。ちなみにこの宿の記録はドイツ人の23泊だそうである。
さて、その夜は15人ほどの旅行者が我々の宿に泊まっていた。その中に連れのフランス人男性とはぐれたという日本人・オランダ人の女性二人連れがいて、連れのことを非常に心配していた。彼女たちは我々とは反対に、大具から入ったのだが、川を渡る前に彼とはぐれ、そのままそれっきりになってしまっているそうなのだ。夜になっても来ないということは、どこかで道に迷い、夜を過ごしているのだろう。渡し舟や大具で聞いてみることを約束した。
峡谷沿いに細々と連なるこの道は、車で入れる道の終点とともに突然頼りないものとなった。
(右の写真真ん中あたりの人影が我々。)
広くある歩きやすくなる部分もあるにはあるが、多くは角張った石だらけの歩きづらい道である。滝を4つ越え、岩を登り、無数にある地滑りの後を落石と転落に注意しながら歩くのは、私にとっては初めての経験だ。絶壁に細い道が危うく連なっている場所では、風が吹くたびにひやりとし、急斜面に連なる幅15センチぐらいしかない山羊道に泣きそうになることもあった。
風の強い日にこのルートをたどるのは恐らく極めて危険なのだろうと思う。下は崖で、その下は濁流だ。死体すらも上がってこないのではあるまいか。また、雨の日には絶対に歩くなと何人もの人に警告された。悪天候で虎跳峡に向かった日本人がすでにひとり行方不明になっているという。
我々が出発した日は、きわめて理想的な一日だったのだろう。薄い雲が太陽の日差しを遮り、ほどよい追い風はついに一度も突風とはならなかった。核桃園までの23kmは5~8時間ぐらいで歩くのが標準だそうで、我々は5時間で到着した。晴れた暑い日であれば、もっとかかったことだろう。熱射病で亡くなった外国人も、やはり2名ほどいるという。
同行のイギリス人老夫婦はトレッキングが夫婦共通の趣味とかで、トレッキング歴25年のベテラン。フランス人のうち一人はフレンチアルプスのふもと出身、玉龍山脈をみあげては俺はむしろあっちに登ってみたいとつぶやく本物のクライマー。彼らをペースメーカーに、必死で付いていったための6時間であった。あとふたりのフランス人は結局遅れ、2時間後に到着した。
核桃園の景色は抜群だった。対岸の絶壁は雄大にそそり立ち、一面に黒っぽく、まばらに草木が生えている。こちら側では急斜面にへばりつくようにして民家が散在し、人々はずりおちそうな小麦畑をかろうじて耕作している。
外国人にWalnuts Groveと意訳され、愛されているこの集落の名は、もちろん胡桃(中国語では核桃)の樹が多いことから名づけられた優雅な名だ。この小さな集落にも宿が2軒あり、どちらも外国人相手に繁盛している。宿の主人によれば、ここのやってくる旅行者の99%までが外国人だそうだ。
この村のほとんどの住人は、清朝末期に四川省から移民してきた人々で、日常語としては四川語を話し、普通語をうまく話せない人も多い。宿の主人は小学校に2年間いった後、12歳のときに我々が今日歩いてきた道を村の若い衆とともに橋頭へ向かい、それからは雲南省と四川省を仕事をしながら流れ歩いてきたのだという。流れ歩いたといっても別に怪しい大男というわけではなくて、小柄でひょろひょろした、笑みを絶やさないお兄さんなのだが・・・。
この村のあまりの風景のよさ、静けさ、かつゴハンのおいしさ(放し飼いの鶏を一羽しめてもらいました・・・)、なんとびっくり手作り太陽熱ホットシャワーシステム、清潔なトイレ、などなどに感動した我々、もう一泊することに決定。なまけものの私だけなら、一週間はここでぼけぼけしそうだ。ちなみにこの宿の記録はドイツ人の23泊だそうである。
さて、その夜は15人ほどの旅行者が我々の宿に泊まっていた。その中に連れのフランス人男性とはぐれたという日本人・オランダ人の女性二人連れがいて、連れのことを非常に心配していた。彼女たちは我々とは反対に、大具から入ったのだが、川を渡る前に彼とはぐれ、そのままそれっきりになってしまっているそうなのだ。夜になっても来ないということは、どこかで道に迷い、夜を過ごしているのだろう。渡し舟や大具で聞いてみることを約束した。
1996年5月17日金曜日
虎跳峡("Hutiaoxia" あるいは TLG/Tiger Leaping Gorge)
虎跳峡は中国雲南省北部に位置し、ヒマラヤ山脈の東辺を為す玉龍山脈(5,596m)と哈巴山脈(5、396m)に挟まれた全長約40Kmの峡谷を言う。間を縫うように金沙江(長江源流の一つ)が濁流となって流れており、途中、虎が跳んで渡ったという伝説のある地点が三ヶ所あり、ゆえにこの名がある。
橋頭(Qiao Tou)から大具(Da Ju)までのうち、絶壁の高さはもっとも高いところで3,700m、両岸は最も狭いところで30mを切っており、わかりやすく言えば富士山を縦にすっぱりふたつに割ったところに河が流れていていて、両脇の絶壁を見上げながら歩くようなもの。こんなんで説明になってるか???
さて、私は前回の91年夏に行けずじまいであった虎跳峡に、今回ぜひとも行きたくてたまらなかった。かつて公安の許可をとってCITSでジープをチャーターしても、その途中までしか行けなかった虎跳峡が、外国人に開放されたと聞いていたからだ。しかし相棒は鈍くさい私には無理だという意見と、二人だけでは危険だという判断から、あまり乗り気ではないのであった。
ところが、本日昼に入ったレストランで、スイス人旅行者によって95年2月に作成された地図が壁にはられているのを発見、またレストランに置いてあった旅行者の感想ノートから、虎跳峡は現在すでに麗江への外国人旅行者にとっては非常にポピュラーなルートであることが判明した。
ノートによれば、全長40kmの橋頭-大具間には、ほぼ真ん中に核桃園(通称Walnuts grove)という集落があり、宿泊可能とのこと。また虎跳峡を通貨する外国人は、シーズン中には一日多いときで20人を越えるらしい。同時に、悪天候時には地滑り、落石が非常に危険であること、また強盗による死亡者が複数出ていることもわかった。
昼すぎ、宿の廊下で水と食料品を抱えたイギリス人の老夫婦とすれちがい、もしやと思って尋ねると思ったとおり明日の朝虎飛峡へ向かうとのこと。彼らのほかに少なくとも3人のフランス人が同じバスを予約していたということなので、1)7人いれば強盗の心配はない(これまでの被害者はすべて単独トレッカー) 2)現地納西族によれば現在は乾季で、悪天候の心配は全く無い 3)運動神経の鈍い私に歩けない道ならすぐに引き返す(重要) 以上を確認した上で、我々も明日出発することにした。
その夜、食料、ミネラルウォーター5本、懐中電灯(かなり多くの旅行者が山の中で迷っている)などを買いそろえた。
橋頭(Qiao Tou)から大具(Da Ju)までのうち、絶壁の高さはもっとも高いところで3,700m、両岸は最も狭いところで30mを切っており、わかりやすく言えば富士山を縦にすっぱりふたつに割ったところに河が流れていていて、両脇の絶壁を見上げながら歩くようなもの。こんなんで説明になってるか???
さて、私は前回の91年夏に行けずじまいであった虎跳峡に、今回ぜひとも行きたくてたまらなかった。かつて公安の許可をとってCITSでジープをチャーターしても、その途中までしか行けなかった虎跳峡が、外国人に開放されたと聞いていたからだ。しかし相棒は鈍くさい私には無理だという意見と、二人だけでは危険だという判断から、あまり乗り気ではないのであった。
ところが、本日昼に入ったレストランで、スイス人旅行者によって95年2月に作成された地図が壁にはられているのを発見、またレストランに置いてあった旅行者の感想ノートから、虎跳峡は現在すでに麗江への外国人旅行者にとっては非常にポピュラーなルートであることが判明した。
ノートによれば、全長40kmの橋頭-大具間には、ほぼ真ん中に核桃園(通称Walnuts grove)という集落があり、宿泊可能とのこと。また虎跳峡を通貨する外国人は、シーズン中には一日多いときで20人を越えるらしい。同時に、悪天候時には地滑り、落石が非常に危険であること、また強盗による死亡者が複数出ていることもわかった。
昼すぎ、宿の廊下で水と食料品を抱えたイギリス人の老夫婦とすれちがい、もしやと思って尋ねると思ったとおり明日の朝虎飛峡へ向かうとのこと。彼らのほかに少なくとも3人のフランス人が同じバスを予約していたということなので、1)7人いれば強盗の心配はない(これまでの被害者はすべて単独トレッカー) 2)現地納西族によれば現在は乾季で、悪天候の心配は全く無い 3)運動神経の鈍い私に歩けない道ならすぐに引き返す(重要) 以上を確認した上で、我々も明日出発することにした。
その夜、食料、ミネラルウォーター5本、懐中電灯(かなり多くの旅行者が山の中で迷っている)などを買いそろえた。
1996年5月16日木曜日
麗江に移動
いらちの相棒が大理に飽きたようなので、麗江に移動することにする。私ももっとのんびりするつもりだったのだが、大理はあまりに観光開発がすすんでいて、もはやくつろげない感じになってしまっていた。
乗ったバスがはずれバス。30分遅れの後発バスに追い抜かれ、機嫌が悪くなる。
さて、とりあえず三合飯店とやらに行ってみた。三人部屋ドミが一人30元。キレイはキレイなのだが、大理価格に慣れてしまった我々にはやや高い気がする。包すると90元だし。で、以前一番安かった第二賓館へゆくも、改装中でしまっており、向かいの玉泉賓館へゆく。ツイン70元。とりあえず本日はこのあたりで妥協か。
玉泉賓館の前で、同じバスで来たドイツ人と会う。彼は麗江賓館のドミが満室で、120元のツインを勧められたのでここへ来たと言った。玉泉にもドミがなかったので困っているそうな。三合飯店に30元のドミがあると教えてあげる。
さて、両替と食事を済ませてから、麗江賓館の一番安いドミを見にいくことにした。会議室を改造したような16人部屋、建物にはなつかしいクレゾールの匂いが漂っていて、ああやっぱり、という感じであった。ドミには3つか4つの空きがあって、明日はここに移るかという話をしながらフロントへ行くと、「今日も明日もいっぱいだ」と堂々と言われてしまった。来た来た、久しぶりの中国流だ。
つまり、さっきのドイツ人はだまされた訳である。空きベッドは確かにあるのだ。フロントは我々の人品骨柄を見て、我々には60元のツインを勧めやがった。相棒と二人で「白吃飯」だの「鉄飯碗」だのと悪態をつきながら帰る。
乗ったバスがはずれバス。30分遅れの後発バスに追い抜かれ、機嫌が悪くなる。
さて、とりあえず三合飯店とやらに行ってみた。三人部屋ドミが一人30元。キレイはキレイなのだが、大理価格に慣れてしまった我々にはやや高い気がする。包すると90元だし。で、以前一番安かった第二賓館へゆくも、改装中でしまっており、向かいの玉泉賓館へゆく。ツイン70元。とりあえず本日はこのあたりで妥協か。
玉泉賓館の前で、同じバスで来たドイツ人と会う。彼は麗江賓館のドミが満室で、120元のツインを勧められたのでここへ来たと言った。玉泉にもドミがなかったので困っているそうな。三合飯店に30元のドミがあると教えてあげる。
さて、両替と食事を済ませてから、麗江賓館の一番安いドミを見にいくことにした。会議室を改造したような16人部屋、建物にはなつかしいクレゾールの匂いが漂っていて、ああやっぱり、という感じであった。ドミには3つか4つの空きがあって、明日はここに移るかという話をしながらフロントへ行くと、「今日も明日もいっぱいだ」と堂々と言われてしまった。来た来た、久しぶりの中国流だ。
つまり、さっきのドイツ人はだまされた訳である。空きベッドは確かにあるのだ。フロントは我々の人品骨柄を見て、我々には60元のツインを勧めやがった。相棒と二人で「白吃飯」だの「鉄飯碗」だのと悪態をつきながら帰る。
1996年5月15日水曜日
挖色(Wase)の定期市
30元の言い値を25元に値切って湖の対岸の五日市に行くことにする。9時半に馬車で船着き場まで連れていってもらい、船に乗って一時間半。対岸のWaseという町に着く前に、船の上でゴハンを食べる。
相客のデンマーク人たちがじゃがいもの料理を非常に気に入り、私にレシピを聞いてくれという。きわめて正確に「味精(MSG)をどっさり入れることが重用」と翻訳すると、"MSG"ってのが最初わからなかったようで、それはなんだと聞かれて大弱り。「うーんと、あかいんどおぶけみかるしーずにんぐ、なんやったけな、いっつしょーとふぉー モノソリディウムぐるたみのーす?」などと言っていると、はた!とわかったらしく、一人が猛烈な勢いでもう一人に説明しはじめ、二人でフクザツな顔となった。(たいていの外人は味の素を毒だと見なしている。)
挖色(Wase)の定期市はなかなかよかった。昔行った沙坪のとちがって完全に地元民向けで、外人向けのお土産などは全く売っていない。私が買ったのは麦わら帽子とトンボ玉14個。このトンボ玉、明らかにハンドメイドで、人間のメダマみたいになっているところがひとつにつき3ヶ所ある。この部分だけが透明で、しかも奥行きがある。PLの花火で丸く立体に広がるやつがあるが、あれみたいだ。どうやってつくるのかな。
市の日だけ開業する青空理容室。ひとんちの壁にいきなり釘を売って、鏡とハサミをかけて客を待つ。客が来たら今まで自分が座ってた椅子に座らせて、営業開始だ。
定期市をひやかしているころには日差しが強くて死ぬほど暑かったというのに、船にのって太陽が雲に隠れると、あっという間に寒くなった。海抜が高いとこういう気候になるのかな。
相客のデンマーク人たちがじゃがいもの料理を非常に気に入り、私にレシピを聞いてくれという。きわめて正確に「味精(MSG)をどっさり入れることが重用」と翻訳すると、"MSG"ってのが最初わからなかったようで、それはなんだと聞かれて大弱り。「うーんと、あかいんどおぶけみかるしーずにんぐ、なんやったけな、いっつしょーとふぉー モノソリディウムぐるたみのーす?」などと言っていると、はた!とわかったらしく、一人が猛烈な勢いでもう一人に説明しはじめ、二人でフクザツな顔となった。(たいていの外人は味の素を毒だと見なしている。)
挖色(Wase)の定期市はなかなかよかった。昔行った沙坪のとちがって完全に地元民向けで、外人向けのお土産などは全く売っていない。私が買ったのは麦わら帽子とトンボ玉14個。このトンボ玉、明らかにハンドメイドで、人間のメダマみたいになっているところがひとつにつき3ヶ所ある。この部分だけが透明で、しかも奥行きがある。PLの花火で丸く立体に広がるやつがあるが、あれみたいだ。どうやってつくるのかな。
市の日だけ開業する青空理容室。ひとんちの壁にいきなり釘を売って、鏡とハサミをかけて客を待つ。客が来たら今まで自分が座ってた椅子に座らせて、営業開始だ。
定期市をひやかしているころには日差しが強くて死ぬほど暑かったというのに、船にのって太陽が雲に隠れると、あっという間に寒くなった。海抜が高いとこういう気候になるのかな。
1996年5月14日火曜日
チャリで大理観光
「表層生活」読了。生きることにこんなに違和感を持つ人っているのだな。私ってば単純でよかった。ツインに空きが出たので見に行く。あかんかった。狭くて暗くて臭い。
雨でどうしようもなかった昨日と比べ、天気がいいのでちゃりを借りて湖まで降りてみた。考えていたより時間がかかった。こぶし大の丸い石を埋めた石畳をちゃりでとばすと、おしりが痛くてしょうがないったら。
ホテルの貸しちゃりにはコンディションのいいものがほとんどなく、いろいろと点検していると、レストランの厨房から最初から最後までじいっと我々を見ていた女がいて、彼女はレストランのウェイトレスである。この女が、初日からずっと穏健派の相棒をイライラさせているのであった。おそらくオーナーの親戚かなんかでもともと態度がでかいのだが、それにしても白人とそれ以外に対する態度の差がひどいのだ。
白人にはフレンドリーで、我々にはハイハイ何言ってんのってな感じである。白人のオーダーは常にすばやく、我々のオーダーはたとえ冷蔵庫から出すだけのヨーグルトであろうと遅い。私の注文が30分立っても出てこないので厨房まで見に行ったら、まだ手をつけられていなかったこともあった。
中国女には珍しくないタイプなので、正直私はあまり気にならならなかったが、相棒には我慢がならなかったらしい。相棒は中国人・私は配偶者ということで名誉中国人(笑)としてほかの白人以外の客(日本人とか韓国人とか)よりまだひどい応対を受けていたし。まあ、同じ民族にこんな女がおったら私だってハラ立つよなあ。民族的義憤ってやつですか。
さてこの女、ほとんど使えない貸しチャリの点検と空気入れなどの作業をようやく終わって、さあでかけよう!という我々を見て、フンと鼻で笑ってぬかしやがった。「ご苦労様。」
一塔寺へゆく。三塔寺は三度も行ったことがあるが、一塔寺は一度もない。一塔寺は公園になっていたが、手入れもされておらず人気もない。野の花が咲き乱れていて、かえって好ましかった。透明感のあるブルーの野花、白の細かい花、たんぽぽの黄色、サクラ草に似たピンク、さまざまだ。
一塔に座って湖を見下ろしていると、下から観光客らしくない二人連れが登ってくるのが見えた。と、相棒が「すぐ降りよう」と、どんどん歩きだした。そして「おーい、速く登ってこいよ、景色がいいぞー」と、あらぬ方角に向かって呼びかける。察した私も「花が一杯咲いてるわよー」などと、大声で出しつつ、速攻でちゃりを止めてあるところまで戻った。ま、何事もないとは思いますが、一応保険です。我々は外人には見えないことだし。
夕食を、相棒があのレストランでは絶対に食べたくないと言うので、城内へ食べに出た。150年の歴史のある木造建築という店で、おいしいソースのかかった熱いステーキに、おいしいドレッシングのかかった冷たいサラダを食す。10元。大満足。ツーリスティックな店は嫌いだとかぬかしながら、食べ物に関してはあっさりと日和りますなあ。
雨でどうしようもなかった昨日と比べ、天気がいいのでちゃりを借りて湖まで降りてみた。考えていたより時間がかかった。こぶし大の丸い石を埋めた石畳をちゃりでとばすと、おしりが痛くてしょうがないったら。
ホテルの貸しちゃりにはコンディションのいいものがほとんどなく、いろいろと点検していると、レストランの厨房から最初から最後までじいっと我々を見ていた女がいて、彼女はレストランのウェイトレスである。この女が、初日からずっと穏健派の相棒をイライラさせているのであった。おそらくオーナーの親戚かなんかでもともと態度がでかいのだが、それにしても白人とそれ以外に対する態度の差がひどいのだ。
白人にはフレンドリーで、我々にはハイハイ何言ってんのってな感じである。白人のオーダーは常にすばやく、我々のオーダーはたとえ冷蔵庫から出すだけのヨーグルトであろうと遅い。私の注文が30分立っても出てこないので厨房まで見に行ったら、まだ手をつけられていなかったこともあった。
中国女には珍しくないタイプなので、正直私はあまり気にならならなかったが、相棒には我慢がならなかったらしい。相棒は中国人・私は配偶者ということで名誉中国人(笑)としてほかの白人以外の客(日本人とか韓国人とか)よりまだひどい応対を受けていたし。まあ、同じ民族にこんな女がおったら私だってハラ立つよなあ。民族的義憤ってやつですか。
さてこの女、ほとんど使えない貸しチャリの点検と空気入れなどの作業をようやく終わって、さあでかけよう!という我々を見て、フンと鼻で笑ってぬかしやがった。「ご苦労様。」
一塔寺へゆく。三塔寺は三度も行ったことがあるが、一塔寺は一度もない。一塔寺は公園になっていたが、手入れもされておらず人気もない。野の花が咲き乱れていて、かえって好ましかった。透明感のあるブルーの野花、白の細かい花、たんぽぽの黄色、サクラ草に似たピンク、さまざまだ。
一塔に座って湖を見下ろしていると、下から観光客らしくない二人連れが登ってくるのが見えた。と、相棒が「すぐ降りよう」と、どんどん歩きだした。そして「おーい、速く登ってこいよ、景色がいいぞー」と、あらぬ方角に向かって呼びかける。察した私も「花が一杯咲いてるわよー」などと、大声で出しつつ、速攻でちゃりを止めてあるところまで戻った。ま、何事もないとは思いますが、一応保険です。我々は外人には見えないことだし。
夕食を、相棒があのレストランでは絶対に食べたくないと言うので、城内へ食べに出た。150年の歴史のある木造建築という店で、おいしいソースのかかった熱いステーキに、おいしいドレッシングのかかった冷たいサラダを食す。10元。大満足。ツーリスティックな店は嫌いだとかぬかしながら、食べ物に関してはあっさりと日和りますなあ。
1996年5月13日月曜日
「旅先でコワレタ」人々ばかり
5時半に目が覚め、トイレに行く。星が、こぼれ落ちそうなぐらい空一杯にまたたいていた・帰りに2匹いる犬のうちの妹、小Kwaiが私に吠え掛かってきてちとコワイ思いをした。すぐに、姉の小蘭が走ってきて小Kwaiを一噛みしてだまらせた。晩御飯のときにハムをやったのが私ではなく相棒であったため。覚えていてくれなかったのだろうか。くっすん。
眠れず、夜明けの光で鏡花を読む。練り絹の、なめらかな光沢のような美文にうっとりする。あっという間に読了してしまい、いささか後悔。もっとみみっちく読めばよかった。
朝、ドミへの入居者が二人。イギリス人とドイツ人。どうも陽朔でみた顔だなと思い、尋ねるとそのとおり。二人とも靴がないんだ~、中国では俺達のサイズの靴が売ってないんだ~と嘆くので、軍用品放出の店があれば行ってみたらとアドバイス。
ウィリアム・ギブスンの「モナリザ・オーバードライブ」読了・こんなとこで読む本でもないと思うが、おもしろかった。大岡玲の「表層生活」を借りてきた。
中庭に座っていると、日本人から話し掛けられた。一人は北京と杭州の美術学院で絵の勉強をしているという男性。1年の漢語班とあわせて、もう6年も中国にいるという。うらやましい話だ。しかし、6年中国にいてこの漢語はなんなのだろうともヒソカに思う。
もう一人日本人がいて、もし日本で見たら完全に浮浪者とまちがえそうな風体であった。中国製のタオルを頭にぐるぐる巻いているのはどういう意図なのだろう。6年中国男が「この人の彼女が白人でー」と何度も強調するので(おそらく、私が分かりやすく感心してやらなかったので何度も言ったのだと推察される)、物好きな女もおるなあと思っていたら、同じくらいキタナイ格好のおばちゃんが、ゴム長をはいて出てきたので納得した。
もう一人は女の子。鼻ピアスに茶パツでタバコをすう様がなんかイタイタしい。結局、昆明の夫婦者といい、私がしばしば表現するところの「旅先でコワレタ」人々ばかりなので、なんだかがっかりする。まともにお話できる人、どっかにいないかな。
眠れず、夜明けの光で鏡花を読む。練り絹の、なめらかな光沢のような美文にうっとりする。あっという間に読了してしまい、いささか後悔。もっとみみっちく読めばよかった。
朝、ドミへの入居者が二人。イギリス人とドイツ人。どうも陽朔でみた顔だなと思い、尋ねるとそのとおり。二人とも靴がないんだ~、中国では俺達のサイズの靴が売ってないんだ~と嘆くので、軍用品放出の店があれば行ってみたらとアドバイス。
ウィリアム・ギブスンの「モナリザ・オーバードライブ」読了・こんなとこで読む本でもないと思うが、おもしろかった。大岡玲の「表層生活」を借りてきた。
中庭に座っていると、日本人から話し掛けられた。一人は北京と杭州の美術学院で絵の勉強をしているという男性。1年の漢語班とあわせて、もう6年も中国にいるという。うらやましい話だ。しかし、6年中国にいてこの漢語はなんなのだろうともヒソカに思う。
もう一人日本人がいて、もし日本で見たら完全に浮浪者とまちがえそうな風体であった。中国製のタオルを頭にぐるぐる巻いているのはどういう意図なのだろう。6年中国男が「この人の彼女が白人でー」と何度も強調するので(おそらく、私が分かりやすく感心してやらなかったので何度も言ったのだと推察される)、物好きな女もおるなあと思っていたら、同じくらいキタナイ格好のおばちゃんが、ゴム長をはいて出てきたので納得した。
もう一人は女の子。鼻ピアスに茶パツでタバコをすう様がなんかイタイタしい。結局、昆明の夫婦者といい、私がしばしば表現するところの「旅先でコワレタ」人々ばかりなので、なんだかがっかりする。まともにお話できる人、どっかにいないかな。
1996年5月12日日曜日
読書の日
昨夜借りた「水の上を歩く?」を本日も継続して読んでいる。1日2元。朝のうちに読了。大理はけっこう寒く、靴下をはいて寝ている。
シャワーやトイレが別棟にあって非常に遠く、夜中に電灯のないらせん階段を降りるのが非常に面倒なため、一階のドミに移動。部屋は同じようなものだが、中庭とプールに面した壁が上から下までガラス張りになっていて、日中のプライバシーというやつが全く無い。ドミだからもともとないんだけど。
シャワーを浴びたいが、相棒のまぬけが一足しかないビーサンをはいてどっかにいってしまった。
大理では、肉屋を営んでいるのは回教徒が多い。もちろん牛肉専門。
どうも消化の具合が悪く、ゆうべの夜、今朝と二食ぬいてみた。すると、昼ごろ猛烈にお腹がすいてきたので、太白楼にゴハンを食べに出た。従業員が日本人と結婚したあの店である。カツ丼と冷やっことほうれん草のおひたしを食べてみた。まあ、こんなもんだろうという味である。15元と高かったけど。
中庭のプールサイドでゆっくり過ごす。つばめが水面へ遊びに来る。ちっ、ちっ、と水面を切って飛び去り、また戻ってくる。遊んでいるのか? 水を飲んでいるのか?
相棒が私に、あれがつばめだとどうしてわかると尋ねた。尾羽が燕尾服の後ろのようだからと答えると、物知りだなあと感心された。こやつと私の自然認識のちがいに、驚かされることが多々ある。コオロギについて話しているときに、「空き地でつかまえて遊んだ」話を私がすると、相棒はちょっとだまりこんで、「コオロギは、農民が売りに来るのを買うもんやろ・・・」などと言うのであった。
(10年後に香港の新聞を読んでいてツバメの謎が解けた。中国には尾羽が二股になっていないツバメも多いのだ!雨燕とか。)
「燃える秋」読了。イマイチ。「春昼・春昼後刻」を借りてきて、寝る。
シャワーやトイレが別棟にあって非常に遠く、夜中に電灯のないらせん階段を降りるのが非常に面倒なため、一階のドミに移動。部屋は同じようなものだが、中庭とプールに面した壁が上から下までガラス張りになっていて、日中のプライバシーというやつが全く無い。ドミだからもともとないんだけど。
シャワーを浴びたいが、相棒のまぬけが一足しかないビーサンをはいてどっかにいってしまった。
大理では、肉屋を営んでいるのは回教徒が多い。もちろん牛肉専門。
どうも消化の具合が悪く、ゆうべの夜、今朝と二食ぬいてみた。すると、昼ごろ猛烈にお腹がすいてきたので、太白楼にゴハンを食べに出た。従業員が日本人と結婚したあの店である。カツ丼と冷やっことほうれん草のおひたしを食べてみた。まあ、こんなもんだろうという味である。15元と高かったけど。
中庭のプールサイドでゆっくり過ごす。つばめが水面へ遊びに来る。ちっ、ちっ、と水面を切って飛び去り、また戻ってくる。遊んでいるのか? 水を飲んでいるのか?
相棒が私に、あれがつばめだとどうしてわかると尋ねた。尾羽が燕尾服の後ろのようだからと答えると、物知りだなあと感心された。こやつと私の自然認識のちがいに、驚かされることが多々ある。コオロギについて話しているときに、「空き地でつかまえて遊んだ」話を私がすると、相棒はちょっとだまりこんで、「コオロギは、農民が売りに来るのを買うもんやろ・・・」などと言うのであった。
(10年後に香港の新聞を読んでいてツバメの謎が解けた。中国には尾羽が二股になっていないツバメも多いのだ!雨燕とか。)
「燃える秋」読了。イマイチ。「春昼・春昼後刻」を借りてきて、寝る。
1996年5月11日土曜日
とっとと大理へ
朝8時のバスで大理へ向かう。高速ができてるから速いと聞いてたが、建設が終わっているのは途中の楚雄までだった。その後はむかしなつかしガタガタの道。8時間ぐらいでつくかなーという期待もむなしく、10時間ちょっとでやっと到着。以前よりは3~4時間程度の時間短縮か。
南門の外にオープンした第六招待所とやらを目指す。ドミ10元とやらに心引かれたのである。すると、第六招待所という看板などどこにも出ておらず、明明白白に外人向けのMCAゲストハウスという宿があった。中庭にはなんとプールがあり、植え込みがよく手入れされていて、レストランあり、申し分ない宿であった。キレイすぎてむしろ違和感あるけど。
ドミは10元のと20元のがあり、ちがいはベッドマットを直接床に置いてあるか、ベッドに乗せてあるかというもの。床はきれいなフローリングだし、客は基本的に土足では入っていないようなので、10元の方にする。50元のツインはただいま満室とのこと。空いたら見せてもらおう。
しかし、できたてだけあってキレイな宿だ。ここは二招(第二招待所)の向かいにあるチベタンカフェのオーナーの、四川人の水墨画作家夫妻が開いた宿なのだそうだ。どうりで外人の好みをようわかっとるわ。フロントのPCはネット接続してるのかとおもったら、それはマダ、とのこと。そういえば大理にプロバがあるとも思えんしなあ。
貸し本屋もあり、わくわくする。日本語の本も2~30冊あった。さっせく明日はプールサイドで読書だ。
南門の外にオープンした第六招待所とやらを目指す。ドミ10元とやらに心引かれたのである。すると、第六招待所という看板などどこにも出ておらず、明明白白に外人向けのMCAゲストハウスという宿があった。中庭にはなんとプールがあり、植え込みがよく手入れされていて、レストランあり、申し分ない宿であった。キレイすぎてむしろ違和感あるけど。
ドミは10元のと20元のがあり、ちがいはベッドマットを直接床に置いてあるか、ベッドに乗せてあるかというもの。床はきれいなフローリングだし、客は基本的に土足では入っていないようなので、10元の方にする。50元のツインはただいま満室とのこと。空いたら見せてもらおう。
しかし、できたてだけあってキレイな宿だ。ここは二招(第二招待所)の向かいにあるチベタンカフェのオーナーの、四川人の水墨画作家夫妻が開いた宿なのだそうだ。どうりで外人の好みをようわかっとるわ。フロントのPCはネット接続してるのかとおもったら、それはマダ、とのこと。そういえば大理にプロバがあるとも思えんしなあ。
貸し本屋もあり、わくわくする。日本語の本も2~30冊あった。さっせく明日はプールサイドで読書だ。
1996年5月10日金曜日
昆明に到着
朝、昆明に到着、適当な三輪が見つからなかったので、でかいでかい荷物を背負ったまま昆湖飯店へ行く。昆湖のドミ、なんと30元/一人というすばらしい値上がりをしていて、二人で60元。4人部屋で先客が2人いるようだ。
相棒は食事に出、食欲の無い私が部屋でぼけぼけしていると、その先客が帰ってきた。日本人である。よく言えば楽ちんプーな服、はっきりいうとかなり変な (そして汚い)服を着ている。これはもしかして、ちょっとかんべんしてほしいタイプの日本人かと思ったら、やっぱりそうだった。変ににこやか~なのだが、帰ってくるなり大麻を一服しはじめたのだ。
他人のことなのだから、勝手にやってはる分にはかまわないが、公安に踏み込まれた場合に同じ日本人だということでとばっちりを食らうのはかなわない。それに、大麻はクサイから嫌いだ。ドミで吸うな。
この二人は自己紹介によると夫婦者で、タイ・カンボジア・ベトナムとまわって列車で昆明についたのだそうだ。夕食を一緒しませんか、我々はベジタリアンなんですがと誘われ食事に出るも、話してみても第一(悪)印象が変わることはなかった。旅している国について知的好奇心を持たない人は、私にはつまらない。
この二人がどのくらイカレテル連中かというと、酒・タバコはやりますかと聞かれたので、両方たしなむ程度にはと答えると、「ドミトリーでタバコはちょっと・・・」とぬかしてけつかったのだ。いまそこで大麻のくっさい煙を吹き上げてた連中がやで。頭がおかしいというのは、つまり頭がおかしいということなのだなという真実を実感する。
以上のことを帰ってきた相棒に話すと、「オーム真理教みたいなやっちゃな。相手にするな」と一刀両断。相棒、外人のくせにナイス表現だ。
そういえば、地下鉄サリン事件が香港で報道されたとき、私はカルト系新興宗教のことは中国語でどういうのかと思い、相棒に「こういう宗教のことは中国語でなんというのか」と聞いてみたことがあった。相棒、さくっと回答。「邪教。」
相棒は食事に出、食欲の無い私が部屋でぼけぼけしていると、その先客が帰ってきた。日本人である。よく言えば楽ちんプーな服、はっきりいうとかなり変な (そして汚い)服を着ている。これはもしかして、ちょっとかんべんしてほしいタイプの日本人かと思ったら、やっぱりそうだった。変ににこやか~なのだが、帰ってくるなり大麻を一服しはじめたのだ。
他人のことなのだから、勝手にやってはる分にはかまわないが、公安に踏み込まれた場合に同じ日本人だということでとばっちりを食らうのはかなわない。それに、大麻はクサイから嫌いだ。ドミで吸うな。
この二人は自己紹介によると夫婦者で、タイ・カンボジア・ベトナムとまわって列車で昆明についたのだそうだ。夕食を一緒しませんか、我々はベジタリアンなんですがと誘われ食事に出るも、話してみても第一(悪)印象が変わることはなかった。旅している国について知的好奇心を持たない人は、私にはつまらない。
この二人がどのくらイカレテル連中かというと、酒・タバコはやりますかと聞かれたので、両方たしなむ程度にはと答えると、「ドミトリーでタバコはちょっと・・・」とぬかしてけつかったのだ。いまそこで大麻のくっさい煙を吹き上げてた連中がやで。頭がおかしいというのは、つまり頭がおかしいということなのだなという真実を実感する。
以上のことを帰ってきた相棒に話すと、「オーム真理教みたいなやっちゃな。相手にするな」と一刀両断。相棒、外人のくせにナイス表現だ。
そういえば、地下鉄サリン事件が香港で報道されたとき、私はカルト系新興宗教のことは中国語でどういうのかと思い、相棒に「こういう宗教のことは中国語でなんというのか」と聞いてみたことがあった。相棒、さくっと回答。「邪教。」
1996年5月9日木曜日
黄果樹、中国最大の滝
朝8時安順着。一応安順に泊まるつもりで宿を捜す。安順民族飯店30元、もちろん風呂などなし。旅社なみの設備であった。しかし安いので荷物を降ろし、黄果樹へ出かけることにする。
大きな十字路で黄果樹行きの札を出しているバスを発見。これが大失敗の本。11時半に乗車するも、同じ道を延々と客引きをし、結局安順を離れたのは12時をとっくにすぎていた。おまけに高速道路ではなく、下の道を客を拾いながらちんたら走るローカル生活密着バスで、挙句に黄果樹手前の鎮寧という町で黄果樹行きのバスに我々を乗せかえ、行ってしまった。(こういうのを「売猪仔」という)結局、63キロの道のりに2時間半かかったことになる。いらちの相棒はかんかんだ。
さて、黄果樹、中国最大の滝である。
晴れた日には水煙が遠くからでもよく見えるという。残念ながら私たちが行ったときは雨だった。相棒が「なんか前に来たときより迫力に欠ける気がする・・・」というので土産物屋の現地人に聞いてみると。確かに今は水量がない時期だとのこと。夏にはもっと水量が増えるが水が黄色くなってしまうので、美観でいうと今が一番なのだそう。しかしあいにくの雨模様。また、滝の後ろが天然の洞窟になっていて、右から左へ通り抜けられる。カサかレインコート持参をおすすめ。
正直言って、私自身にはたいそう心引かれるところではなかった。なんか、滝。中国最大だというので、ナイアガラの滝みたいなのを想像してたせいもある。
それより印象深かったのは、この地方の布依族の村落。すべて石造りの民家。このあたりは桂林と同じカルスト地形らしく、石の山、岩山が非常に多く、平地がほとんどない。貴州の貧しさを現す一句に、「天無三日晴、地無三里平、人無三文銭」というのがあると相棒が教えてくれたが、まさしく岩と岩山ばかりで、くしの歯のようにとがった岩の間にひっかかった、ほんの洗面器ほどの広さの土地に、三株四株、また二株三株となにくれとなく植わっているのは、胸をつかれる眺めである。
きれいに地層が出た岩山は、その地層に沿って雲母のように一片一片はがれるらしく、このあたりでは家を建てるのに煉瓦や土を使っていない。厚みが煉瓦ほどのものを集めて壁を組み、薄いものを並べて屋根を葺く。野積みは通常、耐久性にも美観にも欠けるが、ここのは美しい。特に印象深いのは瓦がわりの石の屋根で、厚みは一様に2センチ程度、濃いグレーのグラデーションが不規則な鱗のように並んでいる。
さて、黄果樹からどうやって帰ろうかと歩きながら相棒と相談していると、早速客引きがやってきた。「5元でどうだ?」なにー!? 行きには12元を10元に値切ってきたというのに、しかも5元で高速に乗って帰るという。やられた。われわれはがっかりだ。
そのバスに乗ると、なんと列車で向かいの臥鋪にいた西安人ではないの。彼らは6人でこのバスをチャーターしたんだそうだ。相客を拾ってもいいという条件で値段交渉したのだという。いくらで乗ってんの?と聞かれたので、正直に答えると、皆フクザツそうな顔で黙り込んだ。彼らは6人130元でこのミニバスをチャーターしたのだという。なんだか申し訳なく、こちらも行きはぼられた話をする。
高速をスカスカ走って安順到着。
駅で明日のチケットを予約しようとすると、当日のしか売らないと言われ、いったん宿に帰る。しかし、寒いのと雨が降っているのとで気がすぐれず、宿も汚く気乗りのしない雰囲気で、やだやだやだやだと言いながらトイレに行くと水が止まっている。必然的に汚物たまりっぱなしのテリブルなトイレとなっており、用を足すのに難儀する。水がないので歯も磨けない。
プチ、と何かが切れ、今夜の夜行でここを離れると宣言、駅へ再度足を運んで本日のキップ購入にトライ。割り込みをした少数民族に注意をしたら腰のナイフを抜かれてしまい、「こらあかん」とにわかに日本語や英語で怒鳴ってみるも、外国人だとわかってもらえず効果なし。左半身で怒鳴りながら右半身でキップを買い、購入するなり下半身は速攻全速力で走って上半身はタクシーを止め、「今日はこのくらいにしといたるわ」とは言わなかったが何やら叫んでその場を去る。
宿で穏健派の相棒にこってり油を絞られる。
宿では手も触れられないほどの熱湯は出るが、水はやはり止まっているという不思議な状況になっており、トイレの水は熱湯に切り替えられていて、すさまじいにおいの湯気が立っていた。
今日のトイレ日記。
1) 列車 汚かった
2) 宿 狭くてドアがしめられない
3) 鎮寧バス停 人生でもっとも汚いトイレのひとつ
※汚物で地面がじくじくし、うじがわきまくっていて目的地(穴)までたどりつけない。私も手前で済ませた。
4) 黄果樹 立ち上がると通行人から丸見えの腰だけトイレ
5) 宿 断水。椎名誠の「ロシアにおける・・・」みたいになっていた。
6) 宿 熱湯で流す奇妙なトイレと化していた
7) 列車 夜10時ごろ
8) 列車 夜12時ごろ
B胱炎(とくに伏せ字とする)持ちは大変だ。
ところで、我々は硬臥票を買ったはずなのに。542kmで269元(二人分)とやたら高かった。桂林-安順が883kmで267元である。そこで、チケット代金の内訳を子細に見てみると、基本料金72元、寝台費が90元、保険が4元、手数料が10元に、なんと「冷房費」が93元もついていた。冷房ったって余りの寒さにセーターとジャケット着込んでるという天気でなにが冷房だ。
しかしながら、中国では冷房付きの列車というのは新車だということだ。私より年上の列車(もちろん蒸気機関車)だって珍しくない中で、少なくとも新しい列車にのれるはずと期待していたが、期待通りのキレイな列車で、テーブルにカバーがかかっており、カーテンは真新しく、通路にはじゅうたんがしかれていて、各開放式コンパートメントにゴミ箱がひとつづつ支給されていた。始めて列車に乗った90年には、ごみはたとえビール瓶でも窓から捨てるのが常識中の常識だったことから考えると、全くたいへんな進歩である。
大きな十字路で黄果樹行きの札を出しているバスを発見。これが大失敗の本。11時半に乗車するも、同じ道を延々と客引きをし、結局安順を離れたのは12時をとっくにすぎていた。おまけに高速道路ではなく、下の道を客を拾いながらちんたら走るローカル生活密着バスで、挙句に黄果樹手前の鎮寧という町で黄果樹行きのバスに我々を乗せかえ、行ってしまった。(こういうのを「売猪仔」という)結局、63キロの道のりに2時間半かかったことになる。いらちの相棒はかんかんだ。
さて、黄果樹、中国最大の滝である。
晴れた日には水煙が遠くからでもよく見えるという。残念ながら私たちが行ったときは雨だった。相棒が「なんか前に来たときより迫力に欠ける気がする・・・」というので土産物屋の現地人に聞いてみると。確かに今は水量がない時期だとのこと。夏にはもっと水量が増えるが水が黄色くなってしまうので、美観でいうと今が一番なのだそう。しかしあいにくの雨模様。また、滝の後ろが天然の洞窟になっていて、右から左へ通り抜けられる。カサかレインコート持参をおすすめ。
正直言って、私自身にはたいそう心引かれるところではなかった。なんか、滝。中国最大だというので、ナイアガラの滝みたいなのを想像してたせいもある。
それより印象深かったのは、この地方の布依族の村落。すべて石造りの民家。このあたりは桂林と同じカルスト地形らしく、石の山、岩山が非常に多く、平地がほとんどない。貴州の貧しさを現す一句に、「天無三日晴、地無三里平、人無三文銭」というのがあると相棒が教えてくれたが、まさしく岩と岩山ばかりで、くしの歯のようにとがった岩の間にひっかかった、ほんの洗面器ほどの広さの土地に、三株四株、また二株三株となにくれとなく植わっているのは、胸をつかれる眺めである。
きれいに地層が出た岩山は、その地層に沿って雲母のように一片一片はがれるらしく、このあたりでは家を建てるのに煉瓦や土を使っていない。厚みが煉瓦ほどのものを集めて壁を組み、薄いものを並べて屋根を葺く。野積みは通常、耐久性にも美観にも欠けるが、ここのは美しい。特に印象深いのは瓦がわりの石の屋根で、厚みは一様に2センチ程度、濃いグレーのグラデーションが不規則な鱗のように並んでいる。
さて、黄果樹からどうやって帰ろうかと歩きながら相棒と相談していると、早速客引きがやってきた。「5元でどうだ?」なにー!? 行きには12元を10元に値切ってきたというのに、しかも5元で高速に乗って帰るという。やられた。われわれはがっかりだ。
そのバスに乗ると、なんと列車で向かいの臥鋪にいた西安人ではないの。彼らは6人でこのバスをチャーターしたんだそうだ。相客を拾ってもいいという条件で値段交渉したのだという。いくらで乗ってんの?と聞かれたので、正直に答えると、皆フクザツそうな顔で黙り込んだ。彼らは6人130元でこのミニバスをチャーターしたのだという。なんだか申し訳なく、こちらも行きはぼられた話をする。
高速をスカスカ走って安順到着。
駅で明日のチケットを予約しようとすると、当日のしか売らないと言われ、いったん宿に帰る。しかし、寒いのと雨が降っているのとで気がすぐれず、宿も汚く気乗りのしない雰囲気で、やだやだやだやだと言いながらトイレに行くと水が止まっている。必然的に汚物たまりっぱなしのテリブルなトイレとなっており、用を足すのに難儀する。水がないので歯も磨けない。
プチ、と何かが切れ、今夜の夜行でここを離れると宣言、駅へ再度足を運んで本日のキップ購入にトライ。割り込みをした少数民族に注意をしたら腰のナイフを抜かれてしまい、「こらあかん」とにわかに日本語や英語で怒鳴ってみるも、外国人だとわかってもらえず効果なし。左半身で怒鳴りながら右半身でキップを買い、購入するなり下半身は速攻全速力で走って上半身はタクシーを止め、「今日はこのくらいにしといたるわ」とは言わなかったが何やら叫んでその場を去る。
宿で穏健派の相棒にこってり油を絞られる。
宿では手も触れられないほどの熱湯は出るが、水はやはり止まっているという不思議な状況になっており、トイレの水は熱湯に切り替えられていて、すさまじいにおいの湯気が立っていた。
今日のトイレ日記。
1) 列車 汚かった
2) 宿 狭くてドアがしめられない
3) 鎮寧バス停 人生でもっとも汚いトイレのひとつ
※汚物で地面がじくじくし、うじがわきまくっていて目的地(穴)までたどりつけない。私も手前で済ませた。
4) 黄果樹 立ち上がると通行人から丸見えの腰だけトイレ
5) 宿 断水。椎名誠の「ロシアにおける・・・」みたいになっていた。
6) 宿 熱湯で流す奇妙なトイレと化していた
7) 列車 夜10時ごろ
8) 列車 夜12時ごろ
B胱炎(とくに伏せ字とする)持ちは大変だ。
ところで、我々は硬臥票を買ったはずなのに。542kmで269元(二人分)とやたら高かった。桂林-安順が883kmで267元である。そこで、チケット代金の内訳を子細に見てみると、基本料金72元、寝台費が90元、保険が4元、手数料が10元に、なんと「冷房費」が93元もついていた。冷房ったって余りの寒さにセーターとジャケット着込んでるという天気でなにが冷房だ。
しかしながら、中国では冷房付きの列車というのは新車だということだ。私より年上の列車(もちろん蒸気機関車)だって珍しくない中で、少なくとも新しい列車にのれるはずと期待していたが、期待通りのキレイな列車で、テーブルにカバーがかかっており、カーテンは真新しく、通路にはじゅうたんがしかれていて、各開放式コンパートメントにゴミ箱がひとつづつ支給されていた。始めて列車に乗った90年には、ごみはたとえビール瓶でも窓から捨てるのが常識中の常識だったことから考えると、全くたいへんな進歩である。
1996年5月8日水曜日
広西から貴州へ移動
11時20分の列車に乗るべく、9時ごろのバスをつかまえようとするも、桂林駅行きのバスがない。すべてのミニバスは桂林城内へは入れなくなったらしい。仕方なく、桂林城外、平山行きのバスの乗る。平山からは徒歩で11路市内バスに乗り換えだ。
平山到着。11路バス乗り場へ向かうも、列車の時間がせまってきて焦る。ダイハツミゼット型の三輪タクシーをつかまえ、7元で駅までやってもらう。11時到着。おやつを買う時間も無く乗車。中鋪・下鋪というベストな位置である。
今回は硬いキップなしの代用票のみ。外人用窓口で楽をして買う訳だから、2元づつぐらいの手数料を払うのにはやぶさかではないのだが、「始発駅建設費」とやらで20元も取られるのは納得が行かない。なんなの、これ。
列車上では特筆すべきことなにもなし。西安からの社員旅行の団体が40人ほど乗っていて、列車はほぼ貸し切り状態。団体なのでにぎやかなのは仕方が無いが、たんを吐くのはひとりだけだったし、ゴミはゴミ箱へ、たばこが車両連結部へと都市居住者らしく皆お行儀よく、まずまずの移動であった。
平山到着。11路バス乗り場へ向かうも、列車の時間がせまってきて焦る。ダイハツミゼット型の三輪タクシーをつかまえ、7元で駅までやってもらう。11時到着。おやつを買う時間も無く乗車。中鋪・下鋪というベストな位置である。
今回は硬いキップなしの代用票のみ。外人用窓口で楽をして買う訳だから、2元づつぐらいの手数料を払うのにはやぶさかではないのだが、「始発駅建設費」とやらで20元も取られるのは納得が行かない。なんなの、これ。
列車上では特筆すべきことなにもなし。西安からの社員旅行の団体が40人ほど乗っていて、列車はほぼ貸し切り状態。団体なのでにぎやかなのは仕方が無いが、たんを吐くのはひとりだけだったし、ゴミはゴミ箱へ、たばこが車両連結部へと都市居住者らしく皆お行儀よく、まずまずの移動であった。
1996年5月7日火曜日
1斤7両の鯉が17元・清蒸
起床、8時。大雨である。川辺のこましなレストランでごはん、甲天下餐庁という店である。オーナーは台湾人。あまりはやってません。朝ご飯セットが50元、ぶっかけごはんが15元、我々はもちろん後者をとったが、それでも高いなあ。
帰って12時半、また寝てしまった。頭痛がするので上呼吸器感染とやら再発か?と、残っていた薬を飲んだら(文明人のすることではない)、何かに引き込まれるように眠りに落ちたのであった。起きたら3 時。
相棒が1斤7両の鯉を17元で買ってきた。下の飯屋で紅焼を頼むも、出てきてみたら清蒸になっててびっくり。どういうこっちゃい。清蒸でもそれほど臭みがないところが離江鯉魚のスゴイところだが、海っぱた育ちの相棒は、それでも海魚しか清蒸にはできんという。私もそう思う。鯉の清蒸は失敗であった。一食損した気分で一休み。いつのまにか雨は上がっている。
午後をうだうだと過ごす。荷物を整理し、本を読み、日記をつけた。
夜8時ごろ、軽く何か食べようと言う話になり、William's cafeとやらに入る。店は白木づくり、おおかた常連になった外人の指導であろう、なかなか趣味の良いつくりである。注文したオレンジジュースは高いほうのオレンジを使ってあるおいしいやつだった。相棒のジャスミンティーは素焼きの急須、小花模様の部分にだけうわぐすりをかけてある凝ったもので、風情があった。
奥から、中国人男性にもかかわらず、珍しく24金以外のアクセサリー(木のチョーカーと象の骨のブレスレット)をつけた男が現われ、何者じゃいと思っていると、店のオーナーであった。
店にはなにやら不思議なプリミティブ水墨画がたくさんかけてある。全部同一作者だ。よく見ると5歳半とか6歳とか、署名の横に書いてあるのであった。読めた。オーナーの息子なのだ。にゃるほどう。これが売りなのだな。この店は正式名をWilliam's "Art" Cafeといい、中文名は「芸友酒店」。奥は画廊になっていて、近隣の水墨画家の絵を展示販売しているそうな。
座っていると、することが無くなったらしいウェイトレスが琴を弾き出した。けっして上手くはないのだが、いい風情である。他の店では外人向けに大ボリュームでうるさい音楽をかけまくっているので、ことのほかこの静けさがヨロシイ。店の感じといい、東門のむげんどうを思い出すなあ。
ところで店には我々のほかにアジア人と白人の男性二人連れがおり、このふたりがまた西原理恵子ならホモセンサーのメーターが振りきれてしまうぐらい雰囲気丸だしなのであった。それだけなら別にどうでもいいことだが、アジア人のほうが中学時代の恩師M先生に見れば見るほどそっくりで、しかしM先生といえば大学時代にはボクシング部に所属、対近大戦の秘密兵器と言われたほどのハードパンチャーなので、その落差がおかしくてどうしても笑ってしまう。
彼らはうっふんいちゃいちゃという感じで茶を飲んでいる。我々としてもなんだか気まずい。
私は店から、オーナーの息子の個展のリーフレットを持って帰ってきたが、相棒は「捨ててしまえ」とむべもない。聞くと、オーナーがさっきの外人カップルに子供の絵を600元で売ろうとして失敗したのを見てなかったのか、だと。ふんがあ、そんなことがあったのかい。
帰って12時半、また寝てしまった。頭痛がするので上呼吸器感染とやら再発か?と、残っていた薬を飲んだら(文明人のすることではない)、何かに引き込まれるように眠りに落ちたのであった。起きたら3 時。
相棒が1斤7両の鯉を17元で買ってきた。下の飯屋で紅焼を頼むも、出てきてみたら清蒸になっててびっくり。どういうこっちゃい。清蒸でもそれほど臭みがないところが離江鯉魚のスゴイところだが、海っぱた育ちの相棒は、それでも海魚しか清蒸にはできんという。私もそう思う。鯉の清蒸は失敗であった。一食損した気分で一休み。いつのまにか雨は上がっている。
午後をうだうだと過ごす。荷物を整理し、本を読み、日記をつけた。
夜8時ごろ、軽く何か食べようと言う話になり、William's cafeとやらに入る。店は白木づくり、おおかた常連になった外人の指導であろう、なかなか趣味の良いつくりである。注文したオレンジジュースは高いほうのオレンジを使ってあるおいしいやつだった。相棒のジャスミンティーは素焼きの急須、小花模様の部分にだけうわぐすりをかけてある凝ったもので、風情があった。
奥から、中国人男性にもかかわらず、珍しく24金以外のアクセサリー(木のチョーカーと象の骨のブレスレット)をつけた男が現われ、何者じゃいと思っていると、店のオーナーであった。
店にはなにやら不思議なプリミティブ水墨画がたくさんかけてある。全部同一作者だ。よく見ると5歳半とか6歳とか、署名の横に書いてあるのであった。読めた。オーナーの息子なのだ。にゃるほどう。これが売りなのだな。この店は正式名をWilliam's "Art" Cafeといい、中文名は「芸友酒店」。奥は画廊になっていて、近隣の水墨画家の絵を展示販売しているそうな。
座っていると、することが無くなったらしいウェイトレスが琴を弾き出した。けっして上手くはないのだが、いい風情である。他の店では外人向けに大ボリュームでうるさい音楽をかけまくっているので、ことのほかこの静けさがヨロシイ。店の感じといい、東門のむげんどうを思い出すなあ。
ところで店には我々のほかにアジア人と白人の男性二人連れがおり、このふたりがまた西原理恵子ならホモセンサーのメーターが振りきれてしまうぐらい雰囲気丸だしなのであった。それだけなら別にどうでもいいことだが、アジア人のほうが中学時代の恩師M先生に見れば見るほどそっくりで、しかしM先生といえば大学時代にはボクシング部に所属、対近大戦の秘密兵器と言われたほどのハードパンチャーなので、その落差がおかしくてどうしても笑ってしまう。
彼らはうっふんいちゃいちゃという感じで茶を飲んでいる。我々としてもなんだか気まずい。
私は店から、オーナーの息子の個展のリーフレットを持って帰ってきたが、相棒は「捨ててしまえ」とむべもない。聞くと、オーナーがさっきの外人カップルに子供の絵を600元で売ろうとして失敗したのを見てなかったのか、だと。ふんがあ、そんなことがあったのかい。
1996年5月6日月曜日
解水-桂林-陽朔
朝7時のバスで桂林へ向かう。行きの小さいバスは馬力が無くて、坂道でしばしば牛のように遅くなっていたので、帰りは大きなバスをリクエストしたら、この時間しかなかったのだ。朝から雨。山道は非常に滑りやすそうで、また霧も深い。で、バスは必然的に安全運転と言うわけで、桂林到着は1時である。ほぼ6時間。も一度書くが、桂林-融水間は130 キロである。
桂林駅で貴州省行きのキップを購入。我々の前にスウェーデン人の二人連れがいて、「キップを買うのがなんてむづかしい国なんだろう」とこぼす。もっともな愚痴である。キップが本物かどうか見てくれというので、私だってニセモノかどうかなんかわからないが、少なくとも行き先の都市名の漢字ぐらいは読めるので、気はココロ、力強く「OK!」と言ってあげる。
さてわれわれの硬臥票は二人合わせてなんと244元という安さ。お金の節約のため、軟臥はやめようねという申し合わせを事前に交わしていたふたりであったが、こんなに安いのなら軟臥でもよかったかと早速日和りかける。いやいや、ゼイタクは禁物だ。その他駅施設使用費やら空調費やらでプラス24 元。
桂林から陽朔行きのバスをさがすも、いつもは駅前にいっぱいいるはずのミニバスが一台もない。まだスト中なのか? 銀行で両替のついでにきくと、11路のバスで終点の平山まで行き、そこから歩いて 10分ぐらいの空き地にバスがいるとのこと。めんどくさーい。駅前での客引きを禁じられた挙句、この処置が不満でバスはストを行っていたのだそうだ。客引きが悪質なので、ミニバスが桂林城内に入るのに規制をしたのだろうな。
しかし、不便なのはわれわれ利用者なのであった。特に今回はフル荷物なので、ローカルバスに乗るのがちとツライ。スリの心配もあるし。
バスを乗り換えて、陽朔へついたのが夕方4時。良く考えると朝からなにも食べていない。消化を考えて、スパゲティ(に似たもの)を食べると、疲れがどっと出て、風呂にも入らず、歯も磨かず、ツェツェバエに刺されたように眠りこけてしまった。
桂林駅で貴州省行きのキップを購入。我々の前にスウェーデン人の二人連れがいて、「キップを買うのがなんてむづかしい国なんだろう」とこぼす。もっともな愚痴である。キップが本物かどうか見てくれというので、私だってニセモノかどうかなんかわからないが、少なくとも行き先の都市名の漢字ぐらいは読めるので、気はココロ、力強く「OK!」と言ってあげる。
さてわれわれの硬臥票は二人合わせてなんと244元という安さ。お金の節約のため、軟臥はやめようねという申し合わせを事前に交わしていたふたりであったが、こんなに安いのなら軟臥でもよかったかと早速日和りかける。いやいや、ゼイタクは禁物だ。その他駅施設使用費やら空調費やらでプラス24 元。
桂林から陽朔行きのバスをさがすも、いつもは駅前にいっぱいいるはずのミニバスが一台もない。まだスト中なのか? 銀行で両替のついでにきくと、11路のバスで終点の平山まで行き、そこから歩いて 10分ぐらいの空き地にバスがいるとのこと。めんどくさーい。駅前での客引きを禁じられた挙句、この処置が不満でバスはストを行っていたのだそうだ。客引きが悪質なので、ミニバスが桂林城内に入るのに規制をしたのだろうな。
しかし、不便なのはわれわれ利用者なのであった。特に今回はフル荷物なので、ローカルバスに乗るのがちとツライ。スリの心配もあるし。
バスを乗り換えて、陽朔へついたのが夕方4時。良く考えると朝からなにも食べていない。消化を考えて、スパゲティ(に似たもの)を食べると、疲れがどっと出て、風呂にも入らず、歯も磨かず、ツェツェバエに刺されたように眠りこけてしまった。
1996年5月5日日曜日
貝江苗族村訪問ツアー
外人が泊まれるもうひとつの宿に行くと、部屋はこましなのだが外人料金が倍で、腹立たしいので泊まってやらない。招待所の3人部屋30元シャワーなしに泊まることにする。風呂には入れないが、涼しいので気にならない。
融江支流の貝江沿いにある苗族村を訪問するツアーに参加。バスで行き、船で帰ってくる。ごはん付きで一人70元なりなり。自力で村まで行く方法を聞きまくったが、車をチャーターするしか方法がない模様であった。
さて、バスで苗族村対岸に到着、船着場には民族衣装の子供たちが観光客を迎えにきていた。エライ服を着せられて、エライ化粧をされている。しかし、コドモ自身は楽しそうだ。
苗族の楽器はなかなか印象的だった。笙のような竹製の楽器だが、大きさはさまざま。アルペンホルンのように低音のものもあった。いっせいに和音を奏でると非常に好聴である。ターバンを巻いたじいさまがバンマス(笑)らしく、じいさまの竹フルートに合わせて皆音を出している。じいさまが体を振り振り笛を吹いている所は絵になった。民話のようでもあった。
笛を吹きながら踊る男性の中に一人、異様に踊りのうまい人がおり、ひときわ精彩を放っていた。どう踊ろうが、しょせん観光客相手の見世物のはずなのだが、そんな感じではなく、足をぴっと出してはかろやかに飛び回り、笛をふきならすのであった。実はそれまで「白老アイヌ村 アイヌ民俗ショー」とかを思い出してなんだかわびしい気分になっていたのだが、そんなネガティブな感情を拭い去ってくれる熱演であった。
さて、苗族の習慣。女性から男性への愛の告白は「足を踏む」という行為によって表現されるのだそうだ。かーわいいー!好きな女の子に足を踏まれた男の子はどんなにうれしいだろう。また、愛情表現のひとつに「耳をひっぱる」というのもあるんだって。これもかわいいなあ。
歓迎の演奏&ダンスのあと食事、苗族の料理は正直言って中華とあんまりかわらなかった。食後は酒盛り。女性たちが客の男性に米酒(薄いドブロク。甘くておいしい)をむりやりに勧め出した。まっかっかのウィンドブレーカーを着用に及んでいた相棒は真っ先に目をつけられ、湯のみいっぱいのドブロクを押しつけられている。必死で断っているのだが、周りは盛り上がるし、「苗族の酒は飲めないって言うの!」などと煽られるし、こういうときは世界共通で断れないものなのだ。
しきたり通り3杯も勧められ、また相棒もがんばって飲み干して拍手喝采を浴びてるんだもん、びっくりだ。しかし、ヨソの女の人に耳を引っ張られながら酒を飲まされている我が夫を見るのは、なんだか妙な気分だのう。妙な気分になる自分をかわいいとも思うが。
あとで相棒に言われたが、こういうときに助けたかったら、「我幇你」(手伝ってあげるわ)といって相棒のかわりに飲むふりをすればいいそうなのだ。例えば妻ならそのことによって、この人は私の夫なの、だから他の人は手を出しちゃだめ、と明示でき、酒の無理強いも止められるんだってさ。中国流、奥が深い。私は横でゲラゲラ笑っているだけでした。
融江支流の貝江沿いにある苗族村を訪問するツアーに参加。バスで行き、船で帰ってくる。ごはん付きで一人70元なりなり。自力で村まで行く方法を聞きまくったが、車をチャーターするしか方法がない模様であった。
さて、バスで苗族村対岸に到着、船着場には民族衣装の子供たちが観光客を迎えにきていた。エライ服を着せられて、エライ化粧をされている。しかし、コドモ自身は楽しそうだ。
苗族の楽器はなかなか印象的だった。笙のような竹製の楽器だが、大きさはさまざま。アルペンホルンのように低音のものもあった。いっせいに和音を奏でると非常に好聴である。ターバンを巻いたじいさまがバンマス(笑)らしく、じいさまの竹フルートに合わせて皆音を出している。じいさまが体を振り振り笛を吹いている所は絵になった。民話のようでもあった。
笛を吹きながら踊る男性の中に一人、異様に踊りのうまい人がおり、ひときわ精彩を放っていた。どう踊ろうが、しょせん観光客相手の見世物のはずなのだが、そんな感じではなく、足をぴっと出してはかろやかに飛び回り、笛をふきならすのであった。実はそれまで「白老アイヌ村 アイヌ民俗ショー」とかを思い出してなんだかわびしい気分になっていたのだが、そんなネガティブな感情を拭い去ってくれる熱演であった。
さて、苗族の習慣。女性から男性への愛の告白は「足を踏む」という行為によって表現されるのだそうだ。かーわいいー!好きな女の子に足を踏まれた男の子はどんなにうれしいだろう。また、愛情表現のひとつに「耳をひっぱる」というのもあるんだって。これもかわいいなあ。
歓迎の演奏&ダンスのあと食事、苗族の料理は正直言って中華とあんまりかわらなかった。食後は酒盛り。女性たちが客の男性に米酒(薄いドブロク。甘くておいしい)をむりやりに勧め出した。まっかっかのウィンドブレーカーを着用に及んでいた相棒は真っ先に目をつけられ、湯のみいっぱいのドブロクを押しつけられている。必死で断っているのだが、周りは盛り上がるし、「苗族の酒は飲めないって言うの!」などと煽られるし、こういうときは世界共通で断れないものなのだ。
しきたり通り3杯も勧められ、また相棒もがんばって飲み干して拍手喝采を浴びてるんだもん、びっくりだ。しかし、ヨソの女の人に耳を引っ張られながら酒を飲まされている我が夫を見るのは、なんだか妙な気分だのう。妙な気分になる自分をかわいいとも思うが。
あとで相棒に言われたが、こういうときに助けたかったら、「我幇你」(手伝ってあげるわ)といって相棒のかわりに飲むふりをすればいいそうなのだ。例えば妻ならそのことによって、この人は私の夫なの、だから他の人は手を出しちゃだめ、と明示でき、酒の無理強いも止められるんだってさ。中国流、奥が深い。私は横でゲラゲラ笑っているだけでした。
1996年5月4日土曜日
融水苗族自治県
体OK。
11時20分のバスで融水苗族自治県へ向かう。バスは11時50分に出発し、12時10分に桂林郊外の草原の上で故障。運転手はタイヤをはずしたあと、草原にどっかりと座りこんだ。どないなるねん。
対向車にバス停への伝言を頼んで待つこと1時間、トラクターみたいな車がタイヤを運んできた。1時15 分に再出発。しかしその後、3回のエンストを経て、融水到着は夕方6時。ちなみに桂林-融水間は130 キロである。
チケット発券にコンピューターを導入するぐらいなら、バスをなんとかしてくれい。
融水県人民政府招待所に投宿。風呂付き60元。しかし、日没後に蚊が湧く湧く。恐るべき量が湧いて出た。カーテンがごま塩模様なのでよく見たら蚊だった。目が認識したとたん、全身にトリハダがざざざと立った。
部屋を歩くと、歩いた所から煙のように蚊が立つ。蚊帳が各ベッドについてなかったらどうしようかというところだ。1階なので空気か湿っており、ベッドがかび臭くて困った。二人で宿替えの相談をしながら寝る。
11時20分のバスで融水苗族自治県へ向かう。バスは11時50分に出発し、12時10分に桂林郊外の草原の上で故障。運転手はタイヤをはずしたあと、草原にどっかりと座りこんだ。どないなるねん。
対向車にバス停への伝言を頼んで待つこと1時間、トラクターみたいな車がタイヤを運んできた。1時15 分に再出発。しかしその後、3回のエンストを経て、融水到着は夕方6時。ちなみに桂林-融水間は130 キロである。
チケット発券にコンピューターを導入するぐらいなら、バスをなんとかしてくれい。
融水県人民政府招待所に投宿。風呂付き60元。しかし、日没後に蚊が湧く湧く。恐るべき量が湧いて出た。カーテンがごま塩模様なのでよく見たら蚊だった。目が認識したとたん、全身にトリハダがざざざと立った。
部屋を歩くと、歩いた所から煙のように蚊が立つ。蚊帳が各ベッドについてなかったらどうしようかというところだ。1階なので空気か湿っており、ベッドがかび臭くて困った。二人で宿替えの相談をしながら寝る。
1996年5月3日金曜日
幹に呑まれる清代の石碑
起床、もう一度大小天平へ行くも、頭痛のためあまり楽しめない。体を引きずるようにして近所の四賢祠へ行くと、清代の石碑を幹に呑み込んでさらに成長しつづける古木があった。樹齢千年に近いそうだ。相棒が、幹に両手と額をを付けて瞑想してみろ、と言う。確かに頭痛がマシになったような気がする。って、んなわけあるかい。錯覚に決まっとるがな。行きよりは少し速い列車で桂林へ戻る。バスはまだストライキ中である。1時間ぐらい。しかし席無し。頭痛がぶりかえす。体もだるくなり、車両連結部でへたりこむ。
やっとこさ桂林到着、すぐに医者へ行く。たいしたことないが上呼吸器感染を起こしているとやらの診断で、たいしたことないと言うわりには6種類もの謎のクスリを処方される。80元。しかも病院の薬局ではなにやらこちらの風体を見た上で、「処方箋の薬代単価が間違っているので、あと40元追加しないとこれだけの薬は出せない」と、なにげにぬかしよった。
「じゃあ、さっきの医者に確認してくるから」と処方箋をひったくると、なにやらごちゃごちゃ言ってけっきょく薬を出した。もう中国で医者へ来るのはよそう。薬剤師がはっきり説明できた薬のうち、薬の箱などから正体が明らかな2種類のみを服用することにする。イブプロフェンとサルファ系の抗生物質であった。
桂林にて一泊。
やっとこさ桂林到着、すぐに医者へ行く。たいしたことないが上呼吸器感染を起こしているとやらの診断で、たいしたことないと言うわりには6種類もの謎のクスリを処方される。80元。しかも病院の薬局ではなにやらこちらの風体を見た上で、「処方箋の薬代単価が間違っているので、あと40元追加しないとこれだけの薬は出せない」と、なにげにぬかしよった。
「じゃあ、さっきの医者に確認してくるから」と処方箋をひったくると、なにやらごちゃごちゃ言ってけっきょく薬を出した。もう中国で医者へ来るのはよそう。薬剤師がはっきり説明できた薬のうち、薬の箱などから正体が明らかな2種類のみを服用することにする。イブプロフェンとサルファ系の抗生物質であった。
桂林にて一泊。
1996年5月2日木曜日
興安・「霊渠」
陽朔を離れ、興安という街に行ってみることにした。
興安は秦始皇帝がベトナムを攻めるときに作った運河、「霊渠」が現存する街である。これによって湖南省を流れる長江支流のひとつ相江と、広西省を流れる珠江の支流離江が連結され、ふたつの流域がつながったことになる。
これら二つの流域では水位がちがうので、興安に大小天平と呼ばれる堰を設けて調節してあるのだが、その技術と計算が、現在の土木技術の水準を以ってしても驚嘆に値する正確さなのだという・・・。だからこんにちでも現役で使われているわけだ。
さてさて、出発。ところが桂林行きのミニバスがない。一台もない。なんでや?
バス停などで事情をききまくると、なんとストライキ実行中なのだと。桂林駅前で客引き(というか客の争奪戦)をしていたミニバスを、警察が交通整理にあたったところ、そのやり方に不満をもったバスの運転手たちが、スト実行に及んだんだそうだ。
社会主義国でもストってあるのか。労働者が主役の国なんで、職務に不満を持つことなどありえず、よってストライキは存在しないはずじゃなかったのかなあ。という建前はさておき、実際にストが許されるような国だとは思ってなかったんで、なんか貴重なもん見たという気がする。 陽朔を通過して桂林へゆくバスを拾い、乗せてもらう。なんとびっくり、ストは陽朔だけではなく、桂林からいくつかの街へ向かうバス路線も含まれていた。運の悪いことに、興安行きのバスもスト中なのであった。
仕方なく、列車で行くことにする。63キロを1時間45分かけて走る列車のキップは3元。早く乗って席を確保したかったら、「茶座票」というチケットを買って、ちがう入り口から他人より早くプラットフォームに出してもらうことが出来る。(なんじゃそりゃ・・・)
興安到着。霊渠公園の中にある興安霊渠飯店に投宿。見どころ大小天平まで歩いて10分ぐらい。運河に定量の水を流す(あるいは運河から逃がす)ための堰である大小天平は斜めに築かれていて、はめ込まれた石が魚のうろこのように見える。始皇帝の時代から、2度の修復を経て現役なのだ。感動だ。
しかしこの頭痛は何事じゃい。そしてねばっこい緑色の鼻水よ。かんでもかんでもわいてくるぞ。熱もあるようだ。薬は桂林に預けてきた荷物の中だ。こんな時になあ。休むことしか出来ない。
興安は秦始皇帝がベトナムを攻めるときに作った運河、「霊渠」が現存する街である。これによって湖南省を流れる長江支流のひとつ相江と、広西省を流れる珠江の支流離江が連結され、ふたつの流域がつながったことになる。
これら二つの流域では水位がちがうので、興安に大小天平と呼ばれる堰を設けて調節してあるのだが、その技術と計算が、現在の土木技術の水準を以ってしても驚嘆に値する正確さなのだという・・・。だからこんにちでも現役で使われているわけだ。
さてさて、出発。ところが桂林行きのミニバスがない。一台もない。なんでや?
バス停などで事情をききまくると、なんとストライキ実行中なのだと。桂林駅前で客引き(というか客の争奪戦)をしていたミニバスを、警察が交通整理にあたったところ、そのやり方に不満をもったバスの運転手たちが、スト実行に及んだんだそうだ。
社会主義国でもストってあるのか。労働者が主役の国なんで、職務に不満を持つことなどありえず、よってストライキは存在しないはずじゃなかったのかなあ。という建前はさておき、実際にストが許されるような国だとは思ってなかったんで、なんか貴重なもん見たという気がする。 陽朔を通過して桂林へゆくバスを拾い、乗せてもらう。なんとびっくり、ストは陽朔だけではなく、桂林からいくつかの街へ向かうバス路線も含まれていた。運の悪いことに、興安行きのバスもスト中なのであった。
仕方なく、列車で行くことにする。63キロを1時間45分かけて走る列車のキップは3元。早く乗って席を確保したかったら、「茶座票」というチケットを買って、ちがう入り口から他人より早くプラットフォームに出してもらうことが出来る。(なんじゃそりゃ・・・)
興安到着。霊渠公園の中にある興安霊渠飯店に投宿。見どころ大小天平まで歩いて10分ぐらい。運河に定量の水を流す(あるいは運河から逃がす)ための堰である大小天平は斜めに築かれていて、はめ込まれた石が魚のうろこのように見える。始皇帝の時代から、2度の修復を経て現役なのだ。感動だ。
しかしこの頭痛は何事じゃい。そしてねばっこい緑色の鼻水よ。かんでもかんでもわいてくるぞ。熱もあるようだ。薬は桂林に預けてきた荷物の中だ。こんな時になあ。休むことしか出来ない。
1996年5月1日水曜日
興坪鎮への日帰り旅行
19
興坪鎮へ行く。今回は福利鎮を経由してミニバスでの日帰り旅行。バスで一時間ぐらいか。2年以上前に来たとき、興坪の河べりに建築中のホテルがあり、景色を見るには抜群のロケーションであったため、ちょっとぐらい高くても泊まってみようと考えたのであった。
しかし、台湾人オーナーの資金繰りが悪いらしく、工事はほとんど進んでいなかった。がっかり。
徒歩で田螺岩へ向かう。たにしそっくりのかたちの岩山の横に、観音を祭った祠がある。太陽かんかん照りの川原を3キロぐらい、しかも往復したのでもうへとへと。上海で買ったUV乳液を塗りもって歩いたので、サイアクの日焼けは免れる。よく効くぞ、40元。
バスで陽朔へ帰ると、今夜は帰らないつもりでチェックアウトして出てきてしまった定宿がいっぱいになっており、しかたなく別の宿を探す。西朗山飯店。ツイン、シャワートイレ付きで40元。たいそう古い建物で、床が板張り、ベッドもギシギシの骨董品。めったに客が来ないらしく、カビ臭い部屋であった。
興坪鎮へ行く。今回は福利鎮を経由してミニバスでの日帰り旅行。バスで一時間ぐらいか。2年以上前に来たとき、興坪の河べりに建築中のホテルがあり、景色を見るには抜群のロケーションであったため、ちょっとぐらい高くても泊まってみようと考えたのであった。
しかし、台湾人オーナーの資金繰りが悪いらしく、工事はほとんど進んでいなかった。がっかり。
徒歩で田螺岩へ向かう。たにしそっくりのかたちの岩山の横に、観音を祭った祠がある。太陽かんかん照りの川原を3キロぐらい、しかも往復したのでもうへとへと。上海で買ったUV乳液を塗りもって歩いたので、サイアクの日焼けは免れる。よく効くぞ、40元。
バスで陽朔へ帰ると、今夜は帰らないつもりでチェックアウトして出てきてしまった定宿がいっぱいになっており、しかたなく別の宿を探す。西朗山飯店。ツイン、シャワートイレ付きで40元。たいそう古い建物で、床が板張り、ベッドもギシギシの骨董品。めったに客が来ないらしく、カビ臭い部屋であった。
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