***このブログについて***

書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1996年5月20日月曜日

大具へ向かう途中、道に迷う

核桃園に2泊し、三日目の朝に日本人男性二人と連れ立って、計4人で大具へ向けて出発した。ミネラルウォーターを3本用意したが、これは後から考えると少なすぎた。

核桃園から大具までは、最短コースをとれば17km。途中かなり大規模な地滑りの跡と、絶壁にかろうじて開かれた細道(左の写真参照)を過ぎれば、あとは危険な道を歩くこともなくなった。ところがである。

ここから先は道が何ヶ所かで分かれるため、もっとも道に迷いやすいと聞いていたところなのだが、大具への道を示す道標が何者かによって破壊され、別の道を指すように置き換えられているのだ。置き換えられた矢印は急斜面を下るよう指示していたが、我々はこれを悪質ないたずらと判断、先に進むことにした。なにしろカラカラに乾ききった炎天下であるため、余計に歩いて水分を消耗したくないのだ。また、目的地大具はもはや対岸前方に見えつつあった。

この日は不幸にも非常に天気のよい日で、大具がはっきりと見えた時点で水が3本ともなくなってしまった。深い谷を迂回したあと、道はまた二股に分かれた。左の大きな道は登り坂、右の道は右手に見える平らな土地へ緩やかに降りてゆく。そろそろ川を渡るために川辺へ降りてもいいころではないかと考えた我々は、左の道を離れて右の道へ進んだ。

しばらくゆくと、道はまた三叉に分かれた。左の小道は急な坂を垂直に登ってさっき分かれた大きな道と交わり、さらに丘を越えて行くのが見える。真ん中の道は平らな土地をまっすぐに進んでいるが、どうしたわけだか途中で大小の石が積まれ、道がふさがれている。右の道は急斜面をまっすぐに川辺へ降りてゆくようだ。ここで川を渡るのだろうか?

左手の丘に羊の放牧にやってきた女性に尋ねると、右の斜面を降りろ降りろという。丘の上と下で、大声でやりとりしていると、少年がやってきて自分のおじさんがこの下にボートを持っていると言い出した。我々は、ここはどうやら本来の渡し場ではない、おそらく道標に細工をしたり、道を石でふさいだりしたのはこの下にボートを持っているその連中だと見当をつけたが、しかし渡れるようなら渡ってもよいのではないかと迷い、しばらく立ちすくんでしまった。

そうこうしているうちに、我々に先行していたアメリカ人のカップルが、左の丘を越えて戻ってきた。行き止まりだったらしい。私が「この下にボートがあると言ってるけど」と少年を指すと、「写真で見た本来の渡し場はここではないようだから、進むことにする」と一番左の大きな道を進んでいった。

我々はどうする?と、休みがてら相談していると、2時間早く出発したはずのイギリス人4人が真ん中の道から引き返してくるのが見えた。するとアメリカ人カップルの行った左の大きな道が本来の道なのだろうが、みるからにきつい登り坂で、また対岸の大具から次第に離れてゆくようでもある。イギリス人も含め、私たちはここで川をわたることに決定した。(下の写真では対岸に大具が見えている)

急斜面をずりおちるように下ること30分。川面に手漕ぎボートが見えた。かなり大きなボートだが、二人の漕ぎ手以外は3人までしか乗れないという。大勢乗せると対岸につける前に流されてしまうのだそうだ。確かに大変な急流で、川の中ほどでは川底から吹き上げるように沸く水で、川面が盛り上がっている。

我々の乗ったボートは、川の中央に出るなり見る見る下流へ流された。流されつつもなんとか対岸へつけ、流れのゆるやかな所を選んで、えっちらおっちら上流へ船を進め、ボートの出発点のちょうど対岸で停泊した。

ちなみに料金は外国人15元、中国人5元。本来の渡し場ではそれぞれ10元、3元である。

3人ずつ渡してもらって、船は何度か往復。ここから大具まではさっき降りたのよりさらにきつい急斜面をよじのぼることとなった。大規模な地滑りのあとを、道を選んで横断したとき、子どもの背中ほどの岩に何気なく足をかけた瞬間、岩が砕けて私は横転した。この時山側ではなく谷側に倒れていたらどうなっていたか、今考えてもとゾッとする。幸い足もひねることなく、右手のひらを2個所切ったことと、右ひじ、右腰を強打したことだけで事は済んだ。この地すべりは2月の地震の際にできたものだとあとで聞いた。

地滑りを無事横断し、峡谷をひとつ迂回して一時間ほどきつい勾配をあがると、チーズケーキのように見事に平らな盆地に出た。小麦の収穫が終わったところらしい。一面の切り株の向こうに、納西族の集落、大具が見える。我々は全員、「ビールビールビール・・・」とつぶやきながら(叫ぶ元気がもうない)、小麦畑を突っ切ってまっすぐ歩き出した。

こうして、虎跳峡全40km走破という、怠け者の私にとって画期的な体験は無事終わったのであった。
(玉龍山(5,596m)のふもとの村、大具。村を覆う影は対岸の哈巴山(5、396m)のもの。)


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追記。
左の大きな道を上がっていったアメリカ人カップルは一時間ほどあとに大具に到着。やはり彼らのたどった道が本来の道だったらしい。歩きやすい道だが、やや遠回りになるようだ。我々が取った道は、最短距離ではあるらしいが、斜面や地滑りが多く危険な道である。このカップルは大具付近の地図を作成し、麗江でホテルやレストランに配布していた。良心的な人々だ。私は外国人があつまるカフェのノートに注意事項を書き付けてきた。

追記2。
例のはぐれたフランス人男性とは、麗江のホテルで会った。彼は川を渡るなり道を間違え、山の中で3夜を過ごしたしたのだという。最初の2晩は岩のかげややぶの中で、三日目の夕方に村をみつけ、そこで始めて水と食料と寝場所を得、村人の案内で大具まで引き返したという。もういちど虎跳峡へ行く気ある?と尋ねたら、「Non! 今ボクに必要なのは休息だけ。」と答えた。鼻の頭が気の毒なぐらい日焼けしていた。


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大具には泊まらず、そのまま麗江へ帰った。大具から麗江まで20元。最初の2時間ぐらいは大変な山道で、口を開けていると舌を噛みそうであった。途中、イ族の村を数多く通過した。写真を撮りたかったが、イ族は剽悍で知られた民族。バスの中から撮るのは失礼なような気もあり、撮らずじまい。2時間を過ぎたころから道がややましになり、山を完全に下って盆地へ出ると、道はまっすぐ麗江まで一直線。右手に玉龍山脈を見ながらの快適なドライブである。



ここからは貝の化石が多く取れるため。「乾海子」という地名がついているそうである。まったく突然に「雪花飯店」という小さくないホテルがあり、景色がいいので泊まってみたいと思ったが、地元民に聞くと、観光客相手の「紅灯区」だそうだ。



麗江到着。玉泉賓館の前で下車。麗江賓館のドミが空いているのを確認してチェックイン。10元+地震保険料2元。この保険料は麗江のどのホテルに泊まってもつく。終日、とりあえず休む。





麗江旧市街を近郊の丘から眺めおろす。灰色の屋根なみが美しい。