***このブログについて***

書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1997年7月1日火曜日

痩公胖婆400天渡蜜記(作成中)

【香港、つまらん】
【おまけの日本】
【最後に中国】
【パキスタン】
【再びインド】
【スリランカ】
【インド】

【灼熱のインド】 つくりかけ 1997/??/?? - 1997/??/??
■タフな旅ほど楽しんでしまえる私たち。マゾなのか?

【天国ネパール?】 つくりかけ 1997/01/24 - 1997/??/??
■長期旅行者に大人気のネパール、なぜかへそまがり夫婦のお気に召さない。

【インド亜大陸突入】 1997/01/17 - 1997/01/23
■バングラデシュ経由ネパール行き。人々の顔がぐぐっと濃くなる。バングラディシュは混乱に満ちた国でした…。ネパールでは久しぶりの寒さにたじたじ。

【ミャンマーそれともビルマ?】1996/12/20 - 1997/01/16
■鎖国状態が解除され、ずいぶん旅行しやすくなったという話のミャンマーへ。古都マンダレー、三大仏教遺跡の一つバガン、バグーの巨大涅槃仏などなど。

【マレー半島北上】 1996/12/06 - 1996/12/19
■シンガポール動物園、大好き!!! マラッカ・KL経由で、再びプーケットへ。タウンでしばらく過ごした後、BKKへ冬荷物をとりに戻る。

【Hop Islands back to S'pore!】1996/11/23 - 1996/12/05
■フローレス、スンバワ、ロンボック、バリ、ジャワ、シンガポールとホッピングバック。ちょっとジリ三島で寄り道をしたりしつつも。

【アイランドホッピングの日々】 1996/11/07 - 1996/11/22
■ジャワ本島からバリ・ロンボック・スンバワ・フローレスと、アイランドホッピングの日々。頂上に3色湖を持つフシギな山、ケリムトゥでまたまた朝日を見る。

【古都ジョグジャ・ブロモ火山】 1996/10/30 - 1996/11/06
■古都ジョグジャカルタから鈍行でプロボリンゴへ。硫黄の煙を吐くブロモ火山で朝焼けを見る。すがすがしい気分でバリへれっつごー。

【混沌のジャカルタ】 1996/10/25 - 1996/10/29
■地獄のバス旅を終えた私たちを待っていたのは混沌のジャカルタ北バスターミナル、雲助タクシー、ミゼラブルなゲストハウス。がんばれ我々!負けるな我々!脱走だ我々!<さっそく負けてるやん。

【マレーシアからインドネシアへ】 1996/10/09 - 1996/10/24
■南タイはすでにマレー世界。ペナンのジョージタウンからフェリーで対岸のインドネシア・スマトラ島へ。オランウータンのリハビリセンターを訪ねる。世界最大のカルデラ湖、トバ湖を経由して、スマトラ島を南下。

【アンダマン海の真珠たち】 1996/09/27 - 1996/10/08
■アンダマン海に浮かぶ大粒の南洋真珠・プーケット。そしてふたつぶのベイビーパール・ピーピーアイランズ。

【南タイのビーチで自炊生活】 1996/09/08 - 1996/09/27
■BKK。ホアヒンでエビ・カニに舌鼓を打ち、コ・サムイのビーチでのんびり日焼けにいそしむ。バイクで転倒。めげすにイカや魚も焼いてみる。

【ヴィエンチャンからタイ北部へ】 1996/08/21 - 1996/09/07
■ビエンチャンからメコンを越えてタイ入国。ピサヌロークで孫文遺墨に出会い、スコタイ遺跡で陽に灼かれ、ミャンマーとの国境沿いに北上して北の薔薇チェンマイへ。

【緑したたるラオス】 1996/08/15 - 1996/08/20
■北部ボーテンから入境。増水期のスピードボートでルアンプラバンまで川下り。無知とは恐ろしいもので、ヴィエンチャンまでバスに乗る。

【ラオスへの道】 1996/07/22 - 1996/08/14
■香港にて雑用を済ませ、またまた中国。古巣陽朔にて一休みの後、雲南へ。陸路でラオスへ向かう。

【銀川西夏王陵・内蒙古シラムレン草原】 1996/07/08 - 1996/07/21
■寧夏回族自治州銀川、西夏王陵で祟りに遭う。シラムレン草原で蒙古包に泊まり、馬に乗る。相棒、落馬。北京経由で広州へ。

【天水麦積山・夏河ラプラン寺】 1996/06/29 - 1996/07/07
■仏教遺跡麦積山石窟。臨夏へのバス旅で回族の歌にうちのめされる。夏河のチベット仏教寺でまったり。蘭州でシマリスを買ってしまう。

【成都から西安へ】 1996/06/15 - 1996/06/28
■ 楽山大仏。普賢菩薩の修道地峨眉山。パンダの成都(蜀漢にはキョーミなし!)。シルクロードの玄関口西安。革命聖地延安。帰ってきた西安で一騒動やらかす。

【中甸・準開放地区徳欽 】1996/05/31 - 1996/06/14
■ 中甸でチベット寺訪問、若ラマにカモられる。碧塔湖へピクニックに行き、イヤミなフレンチじじいにむかつく。公安に見つからんように徳欽に行き、なんとかばれずに帰ってくる。

【世界遺産麗江・濾沽湖】 1996/05/21 - 1996/05/30
■ 麗江周辺をめぐる。納西族の氏族・摩峻族の居住する濾沽湖周辺地区へ行く。

【虎跳峡全長40km走破の巻】 1996/05/17 - 1996/05/20
■ 両岸を玉龍山脈(5,596m)と哈巴山脈(5、396m)にはさまれた濁流、金沙江。絶壁はもっとも高いところで3,700m、両岸は最も狭いところで30mを切る。両脇の絶壁を見上げながら、崖に切り開かれた頼りない山道を行く。

【黄果樹瀑布・昆明・大理】 1996/05/08 - 1996/05/16
■ 貴州省は中国最大の滝黄果樹瀑布。布依族の民家が印象的。雲南省は省都昆明を通過して、大理古城から世界遺産麗江へ。

「风景这边独好!」(毛泽东)】 1996/04/25 - 1996/05/07
■ 陽朔。毛沢東が中国第一の風景と褒め称えた地で、アウトドアな日々を送ってみる。始皇帝の運河「霊渠」見物。苗族の村訪問、ドブロクで酔っ払う。

【普陀山で病に倒れる】 1996/04/19 - 1996/04/24
■ 寧波から船で観音菩薩生誕の地、普陀山へ。なんで観音が中国生まれやねん。インド人とちゃうんかい。バチあたりなことを言うてたら、仏罰てきめん、病に倒れる。

【杭州・紹興・春風駘蕩】 1996/04/14 - 1996/04/18
■ 岳飛廟で見たモノ考えたコト。魯迅の故郷はナカナカよろしいで。昼間っから茶碗酒。酒はモチロン紹興酒だ。

【永定 -客家の円居-】 1996/04/08 - 1996/04/13
■ アメリカの軍事衛星が、この完璧に円形で中空の建造物を上空から撮影、ペンタゴンが最初、軍事的な建造物だと判断したというウワサ

【廈門・眉州島・泉州】 1996/04/01 - 1996/04/07
■ 廈門とその周辺。ひっとこともわからん広東語世界にオサラバできたとおもったら、さらにわからん廈門語世界に突入。

【香港】 1996/03/31 -
■ 二年間住んだこの忙しい都市を、船でゆっくり離れるヨロコビときたら。ぐはは。しかしながら一年の予定で出発なのに、当日朝もまだ荷造り…しかも…










1997年5月15日木曜日

忘れ物が戻る

バスターミナルの職員に「明天!」と言われたとおりに朝から行ってみるも、収穫なし。昨日のバスは今日営業するつもりなら確実にここに来るそうなのだが、私営バスなのでいつ来るかは誰も知らない。中身は洗濯が必要な服、歯磨きと歯ブラシ、そして相棒の日記帳。これが痛い。私のと違って簡便な内容ながら、1年以上つけてた日記ですからな。外側はタイで買ったビニールのしましまカバン。貴重品が何一つ入ってないので、返ってくる可能性は高いと思うのだがな…。

さて、気を取り直して観光。近郊の農村で市が立つ日だそうである。朝食を食べたウィグル人のめし屋でその村の名を聞く。Laashuqui(ラーシュクイ)と聞こえた。街の中心からバスが出るそうだ。

そこへ行くのは街で昼食をとってからにすることにして、まずはホータン名物の絨毯工場へ行く。相棒が「工場にしては静かやなあ」とマヌケなことをぬかすが、当たり前だ。手織りに決まっとろうが。手織りだから価値が高いの。機械織りで良ければ天津の大量生産ものを買ってなさい。

体育館のように大きな建物の中で、幾つも並んだ織り機に女性たちが向かい合い、一心に絨毯を織っていた。私達が香港から来たと告げると、責任者の女性が別館入れてくれた。そこでは香港返還式典に間に合うように織らせている巨大な絨毯を一対織っている最中で、一枚は地が白、一枚は臙脂で、どちらも新疆に住む13の民族が並んで踊る姿と、白地のものにはウィグル語、臙脂のものには中文で、「祝賀香港特別行政区成立」と書いてある、そうだ。私達にはもちろんウィグル語の方は読めない。

元のデザインでは「祝賀回復主権」だったそうなのだが、その後「祝賀香港特別行政区政府成立」と変更になり、しかし「政府」と漬けると北京と香港に二つ別個の政府があるようでまずいということで、最終的にこのデザインになったのだという。そのせいで制作が遅れ、今頃まだ織っているんだと責任者は笑った。私達が写真を取ろうとすると、他の絨毯は問題ないが、これだけは完成して香港に送るまで機密扱いなので遠慮してください、と断られた。私たちはいずれ湾xのコンベンションセンターでこの絨毯に再会できるのだろうか。

さて、食事をとってラーシュクゥイへ。大変な賑わいだ。羊、ヤギ、牛、ロバ、馬などの売買で人々は忙しい。なぜか私達を見て人々が「パキスタン!パキスタン!」と騒ぐのがおかしい。相棒がパキスタン人とは、いくらなんでも無理があると思うのだが。やはり長く伸ばした山羊ヒゲのせいだろうか。最近どこへ行っても漢人とは思ってもらえない。

タクシーもロバタクも非常に安く、タクシーなら市内どこでも5元ほど、ロバタクは一人1元。短距離なら二人で1元。

1997年5月14日水曜日

バスに忘れ物


北京時間9時発のはずのバスは9時半にやっとバスターミナルを出発した。出たのはいいが、出るなり別の駐車場のような広場に入っていき、運転席前の行き先の看板を掛け変えた。「皮山行き」。皮山ってどこ!?そしてなぜ???和田はどーなったの!?

運転手と切符もぎの話を総合するとこういうことらしい。乗客は八割ぐらい乗っているがそのうち和田まで行くのは我々含めて6人だけ。少なすぎて採算が合わないので途中の皮山行きに変更し、後の皮山→和田間は切符代は負担するから皮山で別のバスを探して乗り換えてもらうう、と。中国語ではこういうのを「売猪(豚を売る)」と言う。いいけどさあ…。

このバスは超おんぼろで全くスピードが出ず、三時間かかって通過した地点の看板に「カシュガルまで87キロ」と書いてるのを見た時にはめまいがした。時速30キロ切っとるがな!500キロ走るのに何時間かかるの実際…。今から本気出したら10時間ぐらい?と楽観していたら、結局9時間半かかって皮山という町にやっとこさたどり着いた。

すでに夕方6時半、ここでバスを乗り換える。中型バスでさっきよりは走りそうな見かけである。しかし香港なら厳格に定員16人にバスに、38人乗せて走るからなあ。きっちきちだ。7時半にやっと出発の運びとなり、いくつかのオアシスを縫うようにして砂漠を突っ走った。ほどなく日が暮れた。

揺られること4時間、すっかり真っ暗になった深夜11時半、バスは停車し、道端で乗客を下ろし始めた。バスターミナルには入らないらしい。慌ててバスを降りた私たちは真っ暗な道端でかろうじてオート三輪を拾い、宿にたどり着いたのは良いがそこで相棒が声を上げた。「カバン忘れた!」

なんてこと!慌てて同じオート三輪に乗りさっき下車した地点へ引き返すが、時すでに遅し、カバンを荷棚に載せたまま、バスはいづこともなく消え去っていた。ここは実はバスターミナルの真ん前だった。さっきのバスは公営でなく私営だったので、ターミナルに入らなかったのだ。バスターミナル職員に救いを求めるも、ウィグル人で漢語があまり通じず、「明天明天!」と繰り返すばかりでどうしようもなかったので、仕方なくホテルに引き返す。なにしろ夜中だし。ふうぅ。

四人部屋は18元/ベッド、三人部屋は20元。外人ばその倍。私たちは「香港人は中国人だ!」と言い張って、1.5倍で折り合った。そして三人部屋に60元で泊まり、かつフロントの小姐は相客を部屋に入れないと明言してくれたので、結局三人部屋を国内人士が包したのと同じ費用。安くはないが納得して止まることにする。しかし、歯磨きと歯ブラシは忘れた鞄の中だ。

1997年5月13日火曜日

7年ぶりのカシュガル

私は7年ぶり、相棒は8年ぶりのカシュガルなり。

宿のそばで3元の麺を食べ、街をうろつく。新しいビルがいっぱいだ。エイティガールバザールにも行ってみた。記憶の中の姿と随分違うような気がする。バザール入口近くの陶器屋で、店主に話しかけられた。「どこから来た?」相棒が珍しく本当のことを言った。「香港。」

店主は我々をじっと見て、「香港はいいなあ。」と真面目な顔で言った。相棒がいつものように「香港のどこがいいもんか。物価は高いし・・・」と笑い飛ばそうとすると、店主はこう言ったのだった。「誰が物価のことなんか言ってるか。香港はいい。カシュガルはよくない。『これ』のことだ。なんのことかわかるな?」店主は『これ』と言いながら、両手で自分の首を絞める仕草をしてみせた。

・・・わからいでか。

店主は香港人が大量に移民として香港を離れている現状を詳しく知っていた。私たちは少し真面目な話をした。ごくありきたりの、しかし中国境内で漢民族と少数民族が交わすにしては、ややありきたりではない会話。私は話をしながら、7年前にこの通りで国民党時代の紙幣を一枚買ったことを思い出した。政権が変わっても、エイティガールに礼拝に来る人々は変わらない。変換後の香港はどう変わるのだろうか。


この日、身長と体重を測る。166センチ61キロ。トレッキングシューズを履いたままだったので、身長から3センチ、体重から500g~1kg差し引く必要があると思う。一年半で体重が20キロ減った。

1997年5月12日月曜日

カシュガルへの移動日

朝食をいつもの店で食べる。店主に、我々が買いに行くとチケット代が100元も高いから、代わりにチケットを買ってくれないかなーとお願いしてみる。店主は嫌な顔ひとつせず買ってきてくれた。しかしチケットを見てどっきり。外地人&外国人用のチケットとはぜんぜん違う。バレバレでーす。うーん。

(この日の記述がここまでしかなく、結局どうなったのかは15年後の現在ではとても思い出せない。無事カシュガルに到着しているのは間違いないのだが。あとで夫の日記帳を参照させてもらう。2012年4月29日)

1997年4月15日火曜日

ジョドプル到着、ジャイサルメールへ移動

朝7時過ぎにジョドプル到着。駅で朝食を済ませてからオートに乗り、プライベートバスのバス停へ。この運転手はコミッション欲しさに途中で旅行代理店へ寄り、バスならここで予約せよとウルサイので難儀した。

どうにかバス停へ向かわせる。バスターミナルとは名ばかり、ただの道端に私営バスが数台止まっており、道端でチケットを売っている。観察するとインド人には70Rsで売っているのに、我々には二枚で180Rsと言いよった。「じゃ、買わん」と言うと140Rsに。油断のならんところだのう。荷物を荷物入れに入れろというので係員についていく。トランクにバックパックを入れて「荷物代10Rs」「じゃ、乗らん」「・・・・・」うやむやのうちに係員は去った。ホンマ油断ならんのう。

バスは結構乗り心地よく、砂漠を走ること六時間でジャイサルメール到着。途中で野生の孔雀をたくさん見た。街の中心に近いAmel Sagal Pol付近に到着したので便利便利。インド銀行近くのホテルん入る。清潔なバストイレ付きで50Rs。食事をとると、ゆうべは各駅停車の寝台上段でほとんど眠れなかったという相棒が眠たがり、宿に戻って昼寝。わたしはどこでもぐっすり眠れる方で平気でありましたので、ロジャー・ゼラズニィの「光の王」を読む。しかしながら六時間たっても目を覚ます気配がなく、夕食を食べはぐってしまうので揺り起こす。夜10時過ぎ、閉店間際のめし屋になんとか駆け込んで、Thaliにありつくことができた。

1997年4月14日月曜日

ウダイプル王宮参観

朝、駅までチケットを買いに行く。300kmに十時間かかるとてつもないスロートレイン、これまで乗ったのは一晩乗って二人分300Rsぐらいのチケット代だったので、300Rs握りしめて窓口に向かう。言われた金額は「ワンハンドレッドエイトフォーむにゃむにゃ…」という感じに聞こえたので、184Rsか?なんか安すぎないか?と訝しみつつ、おそるおそる200Rs渡すと、チケットは140Rpsだった。「ワンハンドレッドアンドフォーティ」だった模様。

なんでこんなに安いのだ。いやだよう。十時間乗る寝台の料金が一人2ドルだなんて。よほど遅い列車なのだ。チケットを見ると、Express(特急)でもMail(急行)でもないPassenger(普通)だった。でもこれしか無いので仕方がない。

王宮を見に行く。石材をあまり使っておらず、失礼ながらとっても豪華という感じはしない。しかしながら滑らかに塗られた漆喰に、細かい色ガラスをはめ込んだ壁の装飾は華麗で軽やかだ。そして湖から吹く風は日中でもとても涼しく、住みやすい宮殿、住み心地の良い宮殿だったのだろうなという気がする。マハーラーナの子孫は今でもここに住んでいるとか。うらやましい。いつかお金の出来た時に、付属のホテルに泊まっていい気分になってみたいもんだ。

本日は相棒の誕生日だということをコロッと忘れており、駅で列車待ちの時に「今日のおれはとってもいい気分だなー。嬉しいなあー」と何度もシツコク言われてやっと気がついた。列車は始発なのにホームに来るのが一時間半も遅れた。

1997年4月13日日曜日

ウダイプル到着

朝の検札時に、ウダイプル到着は何時頃かと尋ねる。昼の一時とのこと。5時間以上遅れてるなあ。

ゆうべ、クロークルームに荷物を預けるときに、仔ヤギを二匹預けようとしている人々がいて、おもしろかった。冗談で荷物預かり証をヤギの目の前でひらひらさせてやると、ヤギの持ち主が本気で慌てた。

列車には例によって勝手に床掃除の男の子が乗っており、掃除が終わるとケガをした脚を指さしながら掃除代を請求。とても哀れっぽい仕草だ。私達はいつもどおり小銭をやった。彼は脚を引きずりつつ次の客へ。ひと通り金を集め終わると、私達の向かいの空席に座った。多分どこに座っても歓迎はされないが、外人の私達はあまり邪険にしないからだろうと思う。

男の子は本日の稼ぎを一枚づつ数えだした。十数ルピーはあるだろうか。これで彼はこの日の食い扶持がなんとかなるのだ。手のひらいっぱいの小銭を数え終わり、彼は私達を見てにたぁと笑った。真っ白な歯がこぼれた。仕事は終わった。あの哀れっぽい仕草も仕事のうちなのだ。彼はただのコドモに戻り、外人相手にはしゃぎはじめた。周りのインド人たちはそんな私達をあからさまに不愉快そうに、険しい目つきで見ている。この子供の階層には分を過ぎた行為なのだろう。

相棒がタバコを取り出した。男の子相手にマッチを擦る真似をしてみせると、彼は待て待てという仕草をして、どこかへ去り、ほどなくマッチ箱を持って帰ってきた。相棒はそれを受け取り、50パイサを渡した。マッチはだいたい一箱50パイサなので。箱のなかにはマッチ棒が一本しか入っておらず、風のつよい車内でその一本はタバコに火を移す暇もなく消えてしまった。箱を男の子に返すと、男の子は50パイサを返してよこそうとしたのがなんとも微笑ましかった。もちろん受け取らない。

火もなく、一度くわえてしまった煙草を相棒が持て余していると、男の子はそれをくれとねだりはじめた。相棒が冗談で「2ルピーだ」と言うと、さっきの稼ぎから2Rsを取り出して本当に買おうとする。「おまえは小さすぎるからまだダメだ」と手真似で言ってやると、オレは小さくない!と背伸びをする。またマッチを擦る真似をしてやると、とび上がって探しに行った。その隙に、本当は持っているマッチで火をつけて吸い始めたので、またもやマッチを手に帰ってきた男の子は騙されたことを知って地団駄を踏んだ。そして「吸いさしでいいからちょうだいちょうだい」とねだりはじめたので、相棒は「子供はダメダメ」と、吸い殻を窓の外に放ってしまった。

それから男の子にお小遣いでもやったのかな。もう忘れてしまった。


ウダイプル到着は結局一時半、先に駅周辺で昼食を済ませ、翌日の夜行の手配に行くも、本日は日曜で窓口は2時までしか開いておらず、結局明日にもういちど足を運ぶことになる。

オートリクシャーでKunbh Palaceへ。運転手はコミッションを期待して5Rsでいいと言ったが、ホテルの位置をはっきりとは知っておらず、私達がホテルを見つけたのにそのまま行き過ぎてしまった。OK、歩いて引き返すからとリクシャーを降りて歩いて戻る。路地が狭すぎてオートは方向転換できず、運転手は歩いて追ってきたが結局そのホテルは満室で、運転手は諦めて帰った。すぐとなりのHotel Monalisaに入る。広い部屋にホットシャワー付き。前は木陰でテーブルと椅子があり、シマリスが20匹ぐらいうろちょろしているという天国のような環境。125Rsナリ。

荷物をおいて街に出る。今日は日曜なので王宮は休み、湖の周りを歩いて暑さにへとへとになり、水を飲んではへこたれる。ウダイプルは坂の多い街で、暑季に街をうろつくのは単なる愚か者だと思った。

夕食に、ホテルのレストランで30Rsもするトマトきのこピザを食べる。ウマイ。水分をたっぷり摂取して、本日は終了。

1997年4月12日土曜日

アジメーリー門でお買物


本日は空きの日。朝は相棒が牛乳を二リットルも買ってきた。南インドのコーヒーでカフェオレにして飲む。朝のベランダは日が当たらないのですごぶる気持ちが良い。風が程よく吹く。昼前からHawa Mahalに出かけ、折よくラジオの修理屋を見つけたので短波ラジオを修理してもらう。私のバレッタのネジがひとつとれていたのもついでに修理してもらって、20Rps。

アジメーリ門へゆき、政府経営の土産物屋をひやかす。どれも安くない。市価の1.5~2倍ぐらいか。相棒が玉に似た素材の象の彫刻に興味を持ち、手にとって見たらばりばりにひびが入っていた。中国人の感覚で言うと、いくら彫りが良くてもこれでは台無しである。200Rpsほど。私はドゥパッタ(ショールのような布)を探した。コットンの大判のものが125Rpsだが、同じサイズのシルクのドゥパッタが140Rpsなのと比べると割高な気がする。でもシルクのはドレッシーすぎて旅行中の服には合わない。サンガネール染めの超かわいいサリーも欲しくてたまらなくなるが、何に使うというのだ。模様がひとつながりなので途中で切るのも惜しいし、カーテンやテーブルクロスには薄すぎる。

店をひととおりじっくり見て、何も買わずに出たので店員が鼻でフンと笑った。相棒が朝の牛乳の飲み過ぎでおなかが賑やかになったというので、急いでリクシャで宿に戻る。間一髪で間に合ったそうである。正露丸をのませて一休みと思ったが、日が差す時間になると部屋は暑くてとても休んでいられない。昨日のThali屋で昼食、駅を行って空調の効いた予約オフィスで涼を撮る。ジャイプルでこの暑さなら、ジョドプールやジャイサルメールはどうなるのだろう。

駅前で飲んだ冷やし過ぎシャーベットペプシが激ウマなり。再びアジメーリー門まで遠征し、土産物屋をいくつか冷やかし、ついにドゥパッタを一枚買う。黒地に白のフラワーモチーフ。75Rps。パキスタンでは頭を隠していたほうがよさそうな気がするので、やはり一枚は必要。Hawa Mahal方面へ歩いていると、二人の若者に話しかけられた。曰く「ボクらはネパーリーで…。」昔、広州で三人組の男女に「僕らは北京大の学生で…」と話しかけられたことを懐かしく思い出す。もちろん相手にはしない。相棒二人に「そっかー、この通りはスリが多いから注意しろよ、あっ、後ろに!」と二人が振り返った隙にさっさと別の方向へ歩き出した。

政府直営店で125Rpsのドゥパッタを買う。これより気に入った柄は市場では見つからなかった。140Rpsのサリーはインド人にとってもたいへんお買い得感があるらしく、三人組のおじさんが20枚まとめて買っていた。

少し離れたところにある銀細工の専門店、相棒は象の置物に惹かれて店に入ったのだが、私はイヤリングに釘付けになった。暗いオリーブグリーンの縞の入ったオニキス、硬貨ぐらいあるサイズの平たいティアドロップ型で、周囲を厚めの銀細工が取り囲んでいる。銀は92.5%。かなり大きいが、地味な色合いなので派手ではない。店員の状況を見てこれはと思い、試しにに値段を聞いてみたら250Rps。あっと思った。そこまで下がれば買おうと考えていた値段ぴったりだったから。

この店はかなり大きな間口で立派な店構えなのだが、三人の店員のうち英語ができるのは一人だけだった。ということは、外国人を主要顧客にした土産物屋ではないはず。その英語が話せる店員は地元の女性客にかかりきりになっており、他の二人は値段すら英語では言えないので、接客中で悪いなとは思ったが値段だけ聞いてみたら、返ってきた答えがこれ。思うに、上客の前でふっかけられなかったんだと思う。言い値で買った。

上客の買い物が終わった店員と、少し話をした。基本的に卸売の店で、銀製品は量り売りなのだそうだ。外側一面に蔓草の彫金のある純銀のグラスがUSD40ほど。安くはないが彫金は見事だ。バングルも少しあり、細工も良かった。買い物らしい買い物を二ヶ月もしていなかったのに、昨日のスカート以来ばたばたと立て続けにほしいものが現れた。南インドではハイダラバードで見たダブル・イカット(縦と横双方の糸で模様を織り出す絣)以外には欲しい物があまりなかったが、北インドにはいろいろとある。

駅へ。二等寝台のチケットしか持っていないくせに、堂々と一頭の待合室に座り込み、夜10時発の列車を待つ。デリー発の列車で、距離から見てそんなに遅れないだろうと見積もっていたら、ほぼ時刻通りに到着した列車はそのまま駅に停車25分、出発したはいいがちょっと進んでは蹴っつまづくようにして止まり、後ろに下がり、またこころもち進み、蹴っつまづき・・・と繰り返しているうちに、駅から出ることもなくそのままなんと三時間。大丈夫なのかこの列車。脱線せんか?客も皆始めはがやがやしていたが、出発を待ちきれずにみんな寝台を下ろして寝てしまった。

夜中の二時頃目を覚ますと、列車は何事もなかったかのようにスカスカ走っていた…。

1997年4月11日金曜日

Amber Fort見物


バスでAmber Fortへ。宿のフロントでどこからバスに乗れるか訊ねると、有無をいわさず宿の前にいたオートに乗せようとするのでむっとした。たった一人英語の話せる従業員がこれでは利用価値の低い宿である。結局朝食をとっためし屋のオヤジに教えてもらい、」Hawa Hamal前からミニバスに乗る。しかしいくらか尋ねるのを忘れていて、一人10Rpsも請求された。10kmちょっとでそんなにするわけないのだ。案の定到着してからあちこちで訊ねると、公定価格は3Rpsということであった。三倍以上もぼりくさって、油断も隙もない連中である。

Fortは美しかった。Agra Fortの豪壮さには比すべくもないが、華麗で華奢で優雅だった。湖が見えるのも良い。象がたくさんいた。

市街へ戻り、王宮へ。普段は35Rpsの入場料が、本日はお祭りということで20Rps。神様がぼられたバス代を返して下さったのだと思います。王宮内の3つの博物館の入場料も含まれていた。一つはテキスタイル館。2つ目は武器と火器館、そして美術館。武器館には宝剣が多くあり、柄の細工と宝石の象嵌がどれも見事。私はほら貝がおもしろかった。貝、動物の角を始めとし、象牙、木、銅、皮など、さまざまな素材の法螺があった。

美術館で相棒が気に入ったのは、「薄い布をかぶっている顔」のトルソ。顔の上に薄い布をかぶっている様子が、薄布の細かいひだも含めて真っ白な石で克明に再現されていた。私はそういうスーパーリアリズム的なものよりは古典的な形式を持ったものが好き。細密画コレクションが素敵だった。なかでも水牛と戦うドゥルガーの連作のうちの一枚で、蹴りあげた後ろ足が絵の枠をはみ出ししつつ巨大な水牛を打つドゥルガーの絵が、細密画の形式を超えた躍動感に満ちていて、かつ緻密で繊細ですばらしかった。

インドでついに初めての買い物。茶色とベージュとカーキで一面に象が並んでいる愉快なスカート。象の一頭一頭が金糸のチェーンステッチで縁取りされている。インド以外のどこで穿くのだこれ…。香港で穿けるかな。帰ってみないとわからんな。

列車の予約に行く。期待していなかったがやはり当日のは取れず、明日の夜10時発、ウダイプル止まりの夜行となる。

遅い昼食をとりい、パレードを見に行く。本日がパレードの最終日。昨日よりもいい位置で見物でき、相棒がいい写真がとれたと喜んだ。私は最近なにやら全くカメラに興味がなく、見物のみ。ジャイプルの愛称はピンク・シティ。赤い砂岩の家が立ち並ぶピンク・シティは、夕暮れ時が一番美しい。街の色と空の色がおんなじになる。


夕食。ターミナルそばのThali屋、25Rpsとよそより高めだがよく流行っている。理由はおかわり自由なことにある。チャパティもふくふくしてうてバター付きだし、2品付くサブジーも具だくさん。アチャールも2品、ダールも二品。玉ねぎ、きゅうり、ライムのサラダ付き。そしてこのすべてがおかわり自由という気前の良さ。そうそう、Papadも付いてた。これでダヒーが付いてたら、もう少し高くてもパーフェクトなんだけどなあ。おまけにお勘定をすると私にだけスイートをくれた。商売上手だなあ。この街に住んでたら、毎日通っちゃっうよ。


1997年4月10日木曜日

ジャイプルへ移動


ジャイプルへ移動。バスで六時間ほど。ジャイプルのリクシャの客引きはアグラよりすごいなあ。相棒の好みでインド政府経営のホテルへ行くも、500Rpsは我々の予算を大幅に超えているので泊まれません。

バス停近くの路地を入ったところにGolden Hotelという大層な名前の安宿があり、前がベランダになっている四階の部屋が175Rps。まあ値段相応の出来。床が大理石で絨毯が一枚敷いてあるといえばひどく聞こえが良いが。

さて旧市街に行くとなんぞのパレードをやっており、夢中で見ているとインド痴漢に前を触られた。前って言っても上じゃねえぞ。けつならともかくそんなところを撫でられたのは初めてで、逆上のあまり思わず三発もぶん殴ってしまった。拳で。

1997年4月9日水曜日

ファテープル・シークリへ


バスでファテープル・シークリへ。でかい建築物好きんば相棒が嬉しがって写真をどんどん取る。栄華の跡が渺々と風に吹かれている。ピンク色の砂岩が美しい。ムガル帝国ってお金持ちやったんやなあ…。

午後からアグラ・フォートへ。中庭のリスが人馴れしており、舌を鳴らすと「何くれるの?」という顔で寄ってくる。かわいい。手のひらから食べる。

そして真打タージ・マハル。こないだ見たビビーカー・マクラムなど経の突っ張りにもならんですよ。その規模、美しさ、装飾の華麗さ、ロケーション、あまりにも完璧すぎて笑っちゃうほどだ。これと比べると金閣寺はグリコのおまけみたいに見える。三島の金閣寺を焼いた鬱々青年がタージ・マハルを見ていたら、絶望のあまりヤームナーに身を投げるしかなかったかも。何しろ大理石は燃えないし。

タージ・マハルから世界一の夕焼けを見て充実した本日はおしまい。

1997年4月8日火曜日

アグラへ移動

バスでJansiへ。Agra Canttまで列車で三時間というので、最も安い二等席を買う。窓口で運賃を訊ねると、「エイトハンドレッドトゥエルブ」と言われ、たまげる。そんなに高いわけあるもんか。"Eight Hundred Twelve? Are you sure?"と何度も尋ね返すが、係員はそうだと答える。私達の押し問答に気づいた隣の窓口の係員が横から口を出した。"One hundred and twelve." 私達の窓口の係員も、あっ、そうだ!という顔で"One hundred and twelve, please."と言い直した。思うに彼は英語で112Rpsと言うとき、Oneの部分をヒンディーで「エーク」といっていたらしい。「エークハンドレッドトゥエルブ」、それは812Rpsに聞こえるわい。


2時15分発の列車に乗車。'もちろん席があるはずもなく、寝台車の連結部分にぎゅうぎゅうに立っていると、車掌が来て検札を始めた。私達のチケットを見て、ここは寝台車だから差額を払いなさい。80Rpsと。たしかにここは寝台車両だが、席があるわけではなくトイレの横にたってるだけで追加料金を取られるのは割に合わない。規定を厳格に適用すれば追加料金は払うものなのかもしれないが、周囲のインド人には要求せず外人だけに要求するってのは、やはり見くびられているような気がする。私たちは「次の駅で座席車に移るからチケット返して」「払わん」と押し問答し、結局検札はものすごい怒りの表情で去っていった。ほれみい、払わんでもええもんではないか。そもそも誰も払っとらんぞ。

Agra Cantt駅から悪名高いAgraのリクシャを振り切って、イードガーバス停横のホテルに入る。一軒めで従業員のあまりの馴れ馴れしさにうんざりし、隣の一軒へ。部屋は広く、ホットシャワーが24時間使えて200Rps。アグラに一軒しかない中華料理を食べに行く。思ったより貧相な店でやや当て外れ。食べてナットク、これではリピーターはないわいな。オーナー家族はカルカッタから移住してきた客家人で、漢語は客家語しか話せなかった。料理はオーナ自らがしているようだ。とりあえず安いし、どうしてもカレー以外のものが食べたいなら行くといいと思う。

1997年4月7日月曜日

カジュラホのミトゥナ

朝7時サトナ到着。オートでバスターミナルへ移動し、カジュラホ直行はなかったものの、10キロ手前のPANNAまで行く政府経営バスを捕まえるのに成功。7時45分。昼前にPanna到着、すぐに接続するバスに飛び乗り、昼過ぎにはカジュラホにたどり着いた。なんだか最近移動することに喜びを見出している私達である。

宿を三軒ほどあたる。場所と値段が良かったHotel Lake Sideに泊まる。100Rps、部屋は狭いが大変きれいで清潔で、部屋もバスルームも床はすべて大理石張りだ。ホットシャワー付きでこの値段はありがたい。

荷物をおいて昼食に出る。イタリア語の名前(失念)のレストランでスパゲティを注文、一口食べて後悔する。腹の虫を黙らせるやいなや、カジュラホ西群遺跡を見物に行く。ここはご存知、男女交合像(ミトゥナ)で有名な寺院である。「見学」とか「鑑賞」というより、「見物」という表現になってしまうものではないか。遺跡は、わっはっは、やってはるわー、としか言えない。英語の説明板に"Erotic Couple"と書いてあるのだが、なんかあんまりエロくない。そして別にカップルではない。3P、4Pの方が多いです・・・。いつも思うが、インド人は何を考えているのだろう。

というのはこう。性的な事項というのは、たいていの社会では隠すことになっている。しかしそれが「性的」であると意識されていない場合、’もしくは(建前上)「性的ではない」「もっと崇高なものだ」ということになっている場合には、露出することもあり得る。たとえば女性が胸を見せることを恥じない社会はいくらでもある。昔のタイとか日本とかでもそうだ。私が子供のころには、公園での授乳はごく当たり前に見られた。

密教などに見られる男女交合図や歓喜仏は、たいてい人間ではなく神や超人間的な存在が宗教的な必然性のもとに交合を行なっているという設定であって、画風もあまりリアリスティックではなく、多くは形式に沿った形での表現である。神々しさや荘厳さ、あるいは異様な印象は受けるが、それを人間の日常の営みとちょくに結びつけて考えるにはちょっと遠い。性を主題にしつつ、それを昇華しているのだ。(すくなくともそういうことになっている)

ところがカジュラホのミトゥナは精を十分に意識しつつ、それを宗教的なものと関連させて表現し、崇拝の対象としつつ、かつ生々しい人間の性を忘れていないという二面性を持つところがおもしろい。

交合する男女の横で、両手で顔を覆って逃げ出そうとする女。顔や陰部を手のひらで隠して、恥ずかしさに身をよじる全裸の女。つまり、それが性的であると十分に意識し羞恥心を覚えつつ、その像を自らの崇拝する神像の横に並べて飾る。時にはその神像そのものより大きく。寺院の壁画の最も目立つ場所を、それらの像で埋める。埋め尽くす。

やはり感想は、インド人何を考えているのだ、である。

私はもう一泊して東群のジャイナ教寺院(ミトゥナはない。よって観光客はほとんど行かない)を見に行きたかったのだが、相棒が何やら旅を急いでいる。よほど里心がついたらしい。


1997年4月6日日曜日

初めての一等寝台

朝8時のバスでJalgaonへ向かう。列車の名前はゴラクプル・エクスプレス。国境へ向かう列車か。北が近づいてきた。

バスターミナルから駅までオートで10Rps、駅で最確認したことは、やはり我々の寝台は無いという厳然たる事実である。ウェイティングリスト4番5番なら、なんとか回ってくると思ってたのに。現に今まではなんとななっていた。

朝食をすませ、薬局で相棒の薬を買う。咳止めシロップと点鼻薬。スイカを買い、駅の待合室で食べ、待合室のベンチにいた南京虫に5箇所やられ(鉄のベンチだから大丈夫だとなんの根拠もなく思ってました…)、しているうちにもしつこく何度も窓口へ行ってキャンセルが出てないかどうか確かめたのだが無駄足。このままだと中国の火車で言ういわゆる無座で乗ることになる。どうしようかなあ。

待合室で、輪切りにしたスイカをスプーンでほじりながら食べていると、インド人からどこから来た?と聞かれた。相棒が愛想よく「ネパール。」ばか。ネパール人はヒンディーとよく似た言葉を話すから、バレバレなのに。

と思ったが相手はそんなことを全く知らない田舎の人らしく、すっかり頭から信じこんで「インドはどうだ?」とお決まりの会話となった。そのスイカはウマイか?と聞かれたので、「うまいうまい。これはネパールにはない果物だ。」と答える相棒。「そうか、ネパールにはないのか・・・。その果物はそういうふうに食べるのではなく、こういうふうに切って…」と、スイカの食べ方を詳しく教えてくれるインド人であった。ありがとう。そしてスマン。

さて、列車の到着は遅れ、’本来2時のはずだったが3時半に乗車。ついに無座のままである。乗車時に車掌を捕まえ、空いている寝台はないかと尋ねたが、やはり無し。ここで相棒が「おれは一等寝台に乗る!」と宣言、AC 2Tier Sleeperの車両に乗り込んで車掌に差額支払いを申し出た。

二頭と一等の差というのは天地の差で、エアコンがあるかないか、寝具があるかないかなどの差異のほか、要は乗客が違う。そのときの財布の厚みで乗り分けるというもんではないという気がする。ある階級に生まれればこちら、別の階級に生まれればこちらと、生まれつきでほぼ固定されているのではないかな。

さて差額。払ってびっくり1558Rps。もとの二頭寝台が392Rpsなので、1950Rps/二人。実に5倍の差。すごいなあ。

食事も二等とちがって売りに来るものを適当に買うわけではなく、夕食の注文取りが来た。しかしその夕食を食べられるのが10時過ぎだとは。列車で調理するのではなく、駅でピックアップするという仕組みらしいのだ。運行が遅延していると、当然夕食も遅れるというわけ。

空腹をなだめながら待っていたのだが、披露に負けて9時頃眠ってしまい、一時間後にたたき起こされた時には揺れる列車の上で寝ぼけまなこに冷たいご飯と冷えきったチキンカレーを手渡され、夢うつつで食事をはじめるなりきっちり服の前を汚す。そういう時に限ってベージュのシャツを着ていたりするのだよ!

舌打ちしつつ、寝る。

1997年4月5日土曜日

アジャンタ石窟

朝9時半のバスでAjantaへ。泊まるつもりだったAjanta石窟前のホテルが満室で、5キロ離れたFaldapurまで行かざるを得ず、時間のロスにちょっと不機嫌に。Faldapurで州経営のゲストハウス、大きなゆったりとした部屋に泊まる。インドで初めて見る、バスとトイレが別れている形式。200Rps。

さっそくAjantaへ。壁画はたいそう美しく、これもElora同様、感想を書き連ねても何もならん。

面白かった出来事がひとつ。

あまりの暑さに耐え切れず、珍しく清涼飲料水を買う。石窟前で冷やした飲料を売っている男に値段を訊ねると、12Rps。店売りは普通8~10Rps、レストランでは10~12Rpsぐらいなので、観光地であるし別に異議はなく一本買買った。すると、私達のそばに座っていた年配の男性が何やら怒りだした。この人は富裕層のインド人には見えなかったが、アイロンの当たった清潔なシャツを着ていて、ジェラルミンの小箱にビンロウに必要なものをきっちり用意していた。よく洗ってたたんである葉っぱ、中に入れるビンロウ、香料らしい粉類。小奇麗に整理して入れてあるのが珍しい。一般に、ビンロウを愛用しているのは低所得者階級、肉体労働者か農民で、ビンロウの用意も適当にポケットや頭陀袋に突っ込んであるだけのことが多い。ビンロウ氏は飲料品売りを何やら叱りつけている。まさかと思ったけど、周囲に小声で確かめると、やはり「外国人相手に不当な小売をするな!」と怒っているのだった。

私達も市価よりはちょびっと高いことは知りつつ、しかしこんなとこまで箱に商品と氷を入れて登ってきて売っているのだから、ささやかな上乗せは当然ではないか。インドにはいろんなひとがいる、と思った日であった。

1997年4月4日金曜日

エローラとダウタラバード

早々にチェックアウト。バスターミナルへゆくとなんてこと、バゲージルームがない。(インドではクロークルームと呼んでいたことが多かった。ストアルームとも言う。) あらま珍しい。急遽予定を変更し、アウランガバードにもう一泊することにする。昨日食事をしたホテルにチェックイン。円形の建物なので、部屋が角を切り落としたショートケーキ型、あるいは底辺が弓形になった台形。でも広い部屋だ。そしてとても清潔。50Rpsの差で昨夜の部屋とは大違いだが、その50Rpsがインドにおいてはとても大きいというのもまた事実。

早速荷物をおいてEloraへ出発。エローラの感想は…。感想なんか書いてもしょうがないなあ。もうすでに何度も思ったことだが、インド人何考えてるねん!というのが第一印象で、かつ最終印象だ。巨大な岩石をくり抜いて作った寺院、それ自体がひとつの巨大な彫刻。石自体は気泡を多く含む礫質で、彫りやすいだろうが風化もしやすい。細かい表現にはちと向いていない石質なので、かつては全体に厚い漆喰をほどこし、壁画を描いていたらしい。ところどころにかすかに彩色が残っている。どれほど壮麗な眺めだっただろうか。

多言はやめよう。

エローラから12キロ、アウランガバードとの中間にあるダウタラバード山城へ行く。山はまるでカステラかチーズケーキのように絶壁が垂直にそそり立っていて、周囲には堀も掘ってあるのでまさに鉄壁の守り。エローラで体力を使い果たした我々は登るのを断念、ふもとのミナレットと砲台に登ってお茶を濁すことにした。ちなみにこの日は金曜だったので、エローラ、ダウタラバードともに入場無料。ラッキー。

酷暑期のデカン高原、乾ききった日中を歩きまわったため、一人一リットルずつの水を用意してきたにも関わらず、のどカラカラ。アウランガバードへ帰るのを待ちきれず、通りすがりに見つけた酒の飲める店の駆け込んだ。インドでは飲酒というのは自宅か高級ホテルか、もしくはライセンスのある酒屋の中のPermit Roomという部屋に限られる。そしてそのPermit Roomというのがたいてい地下か、窓とカーテンを締め切った薄暗い小部屋であることが多く、なんだかとても悪いことをしているような気にさせられるのだ。

でもビールは飲む。出されたグラスがとても臭かったので、夫婦で瓶を奪い合うようにしてらっぱ飲みしていると、隣のテーブルでビールを飲んでいた親父が話しかけてきた。どっから来た、インドではどこを見た、などの話のうちは良かったが、そのうち「なぜその水をのむのか」とミネラルウォーターのボトルを指して言い出した。意図がもうひとつよくわからなかったので聞き返すと、「なぜ普通の水を飲まんのだ?インド人が飲んでいる井戸の水を。その水には味がない。井戸の水はもっとうまいぞ。それに井戸の水を飲めば力が沸く。」と、もっともらしいことを言い出すのだ。しかし私達には飲めません。中国人には生水を飲む習慣はないからと説明するも、オッサン酔っとるし話にならん。しまいには「飲んでみろ」と店員に水を持ってこさせたりする始末。酔眼で目の赤くなったオッサンにうんざりしつつ、もう一本飲む心づもりを変更して早々に切り上げて店を出た。営業妨害やで。

鉄道のアウランガバード駅で一時間並び、Jalgaon発Satna行き、明後日の二等寝台のウェイティングリスト4番と5番を買う。乗車までに果たして席は空くだろうか。

1997年4月3日木曜日

アウランガバード到着


朝7時頃、何やら大きなバス停に到着。車掌が「Puneは次」と言うのでそのまま座って次のバス停へ向かう。そこがこのバスの終点だった我々がアウランガバード行きのバスを探していると、職員らしき男性が「ここからは出ない。ここへ行きなさい。」と、現地語で何やら書き付けた紙をくれた。ここから3キロ、リクシャで8~10Rpsだそうである。オートリクシャでそこへ行くと、案の定というかなんというか、最初に止まったバス停であった。うーん、無駄足。

だが首尾よく7時45分発のバスを捕まえ、乾いたデカン高原を突っ走ること5時間、バスは無事アウランガバードに到着した。Goaでも思ったことだが、南インドと違って看板やバスチケットの表記に英語が少なくなり、ヒンディーのみの表示が多くなった。バスやバス停の行き先表示、座席番号、道路標識など。我々にとっては不便この上ないし、多分南インド人にとっても同じだろう。また、英語も南寄りはずっと通じにくいので、少し込み入ったことを尋ねるときなどにはけっこう困ることがある。南インドでは、道端でヤシの実を売ってる農民でも英語は話せた。また、北インドの英語は南のよりも訛りが強いうえ、すごい早口でドドドドとしゃべるので、とてもわかりづらい。南インド人のように愛想が良いわけではないのも北インドだ。別に怒っているわけではないと思う。中国の北方人も、南方人に比べるとこんな感じだ。

バス停の向かい、ガイドブックおすすめのGreen Palaceとやらはダブルが150Rps、しかし満室。近所で何軒か当たるも、いづこもダブルで125Rpsと安いものの、あまりきれいではなく、もひとつ乗り気がしない。しかし妥協し、うち一軒に一泊することにする。シャワーは浴びたくないバスルームだ。狭くて汚くて臭い。

昼食をとりに出るが、めし屋の少ない街で、どこもホテル付属のめし屋ばかり。その内の一軒に入り、食事のついでん部屋代を聞く。ダブルで175Rps、悪くない値段だ。今の部屋よりマシだろうか。しかし、明日はバスターミナルにに荷物を預けてEloraを見物、夕方のバスでAjantaへ向かうつもりなので、泊まる用はないだろう。ちなみに食事は今ひとつだった。

食後にビビ・カー・マクラムというタージマハルに似た建物をを見に行く。ドーム部分と棺の周りだけが白大理石で覆われていた。中央の棺の部屋への明かり取りになっている透かし彫りの大理石板は見事。夕日の落ちゆくのを見て本日は終了。


1997年4月2日水曜日

オールドゴアの残光


朝バスターミナルに行くと、Pune行きの夕方六時発のチケットが買えた。しかしリクライニングシートではなく、安いやつ。安いバスは大抵の場合、遅いバスである。だが背に腹は代えられん。郵便局から荷物をおくる。4キロで900Rps。船便。銀行でT/Cを替える。USD1=35.3Rps。郵便局も銀行も、非効率を絵に描いたような場所だった。

Old Goaを見物に行き、Bon Jeses教会でフランシスコ・ザビエルの遺体を見る。この教会の簡略ザビエル伝によれば、悪魔の地日本における布教の疲れにより、インドへの帰りにマカオで死んだことになっていて、日本人の私としてはそこまで褒められると面映い。褒めてません。Old Goaに残る教会はどれもばかでかく、ポルトガル人、熱心にこんなもんばっかり建ててるからイギリス人にインドを取られてしまうのだ。教会の正堂には長椅子がたくさん並んでいたが、Old Goa自体は疫病の流行等ですでに遺棄された街であり、この椅子がいっぱいになることがそうそうあるとはおもえない。静かな、いい場所である。(私達にはゴアビーチには興味が無いので)

夕方六時にバス乗車。若い衆グループがが夜中すぎまで歌い、手拍子をうち、遠足のチャーターバスか学生のコンパ会場に紛れ込んでしまったようであった。

1997年4月1日火曜日

ゴアのバスストライキ


目覚めるも部屋の居心地が良いのでゴロゴロする。そして昨夜一周年記念でタンドリーチキンを食べ、ビールを飲んだせいでインドルピーがすっかりなくなっているので両替に行く。しかし本日はBank Holidayなのだそうで銀行も両替屋も一軒も開いておらず、土産物屋等にあたるもレート悪し。ホテルで聞いてみると、ホテル自体では両替はしていないとのことで、従業員に闇両替をしてもらう。USD1=36Rps。

バスターミナルで列車のチケットを手配できるときき、赴く。アウランガバード行き列車のチケットは旅行会社がパッケージツアー用に大量に押さえているので16日までいっぱいだと言われ、すごすごと引き返す。うーん、最近列車関係では連戦連敗だ。この時バス停での職員に「アッサムから来たのか?」と聞かれる。我々もついにインド人の仲間入りか。

巨大な荷物を減らすべく、遅れるものは送ってしまおうと荷造りをする。スリランカの茶入り象2頭、バティック数枚、日記数冊、写真、フィルム、インドネシアのシャコ貝、タイの灰皿、などなど。

ツーリストインフォメーションにルートの相談に行く。アウランガバードへ列車以外で行くために、ボンベイ経由以外の何かいい方法はないかと相談すると、Pune(Poona)経由を提案された。ボンベイまでバスで16時間のところ、Puneまでなら14時間、ボンベイからアウランガバードまで10時間弱のところ、Puneからなら五時間と、かなりの時間の節約になる。そこでバスチケットの手配に出かけるも、明後日の分まですべて売り切れ。どういうことかというと、私営バス保険費の値上げ徴収に反対してボンベイでは二日前から、ゴアでは本日から無期限のストライキに突入、そのため公営バスの席が極端に埋まってしまってるのだそうだ。明日朝から臨時バスのチケットを販売するということなので、それを試すことにする。

さて観光!といってもPanajiでは白いPanaji教会を見るとあとは特に何もなく、博物館へ行くとどこかへ移転したらしくて閉まっており、市場へ行くと魚はすでに売り切ってしまっていて、そこまで歩くと何しろカンカン照りで暑いのなんのって、もうへとへと。スイカとざくろを買い、おつりがないとのことでおつり分のみかんをもらって、とぼとぼ帰る。食って寝る。

1997年3月31日月曜日

ゴアへ移動


旅行一年目の記念日にふさわしいのかふさわしくないのか微妙なり。移動日。HospetからGoa行きの列車がないとはゴさんであった。Goa行きのバスはガイドブックによれば所要時間6時間、バスターミナルの職員によれば8時間、現実には実に十時間半になるとは、誰が思うだろうか。別に故障もなしである。そして座席の周囲のフォーメーションがこんなかんじ。機種依存文字使っちゃうけど出るかな。



  前

○③ ○○○
①② ④⑤⑥
私夫 ⑦○○
○⑧ ○○○

  後


真ん中は通路。まず①の女性が吐いた。いち早く察した私は素早く窓を閉めたが、さもなくばゲロまみれであっただろう。窓ガラスが無残に汚れてしまったので、以後は車窓の風景を楽しむどころではない。続いて②の幼児が吐く。この子は祖母らしき老婆の膝に抱かれていたのだが、その老婆のスカーフの中に吐く。老婆は風通しの良いんバスの通路でスカーフを振り、汚れを落とす。④と⑦の人に見事なとばっちりが行く。老婆、周囲に大声で注意される。この後①と②は交互に吐き続ける。そして③の小学生男児、周囲の大人が止めるまもなく、③と②と④の間の通路に吐く。わざわざ振りむいて、後ろに見せつけるように吐く。床はゲロまみれ。

さて④の老婆、異様に臭い。インド人にはキョーレツな体臭持ちが珍しくないので特にに気にならないのだが、この老婆の臭いは膿の臭いだ。傷口をひどく化膿させてしまった時の臭い。どこか怪我でもしているのだろうか。とか考えながら、正直な私が感じていたのは、感染る病気じゃなかったらいいなあ、である。

さてこのバスに乗車していた外国人は実は我々だけではなく、⑤⑥⑦はひどいイスラエル人の典型だった。物乞いのインド人よりもひどい格好で、背中はできものだらけ。頭髪も汚いのなんのって。バスの中でタバコを吸うのはやめてくれ。特に周囲に車酔いでゲロゲロの人々がいるときには。

とどめは⑧。乳児。泣きっぱなし。当然だよな。快適とは口が裂けても言えん環境だもんな。



さて、バスは夜7時になってようやくPanaji到着。Goa州観光局経営のTourist Hostelが294Rps。極めて清潔で、バルコニー付きの部屋。石鹸やらタオルやらまで付いているので、値段に見合ったいい部屋だと思う。しかしフロントの女性にもう少し安い部屋はないかと念のため訊ねると、張り切ってあちこちに電話をかけまくり、私達をそちらへ遣ろうとする。リクシャ代はもちろんタダよ、ここより安いわよ、等々。みるからにコミッション狙いという気がしたので、ここ、つまりその女性の職場にチェックインすると告げるととたんに不機嫌に。やっぱなあ。


1997年3月30日日曜日

ハンピ遺跡


六時半に起床。昨夜の移動疲れでゆうべは風呂も入らずに死に寝したので、シャワーを浴びてしゃっきりする。相棒の起床後に、まずバス停からGoa行きのバスの時間を聴く。6時半、8時半、9時半の三本。鉄道駅は何キロ先かと尋ねると、一キロもないということだったので、リクシャに乗るほどのこともないなと歩き始めたらたっぷり3キロは先立った。くーっ。

そしてたどり着いた駅ではGoa行きの列車はないと言われ、無駄足ですごすごと引き返す。バスターミナルからHampi行きのバスに揺られること半時間、Hampi到着時には南インドの遺跡見物には最も避けるべきだと考えられる時間帯にさしかかろうとしていた。11時。腹が減っては歩けないので、Mealsを平らげてめし屋を出ると、南国の強烈な太陽がほぼ南中にさしかかっていまして…。なんて愚かな私達。


灼熱の太陽をいっぱいに浴びつつ、太陽熱を存分に吸収した岩の上を喘ぎつつ歩く。気をつけないとあっという間に熱射病だ。スカーフを頭からかぶる。相棒にも布を帽子がわりに頭に巻かせる。岩だらけの道を、あちこちに残る遺跡に寄り道し目をやりながら、ニキロほど歩く。やっとビッダラ寺院に到着。だんじり型の石造建築という面白い建物が、この寺院の一番の見もの。建物の脇に大きな車輪が付いているはず。だがそれらしい建物はない。む?あれはなんだ?バナナの葉のむしろで囲まれた工事現場を覗いてみると、案の定それがメインのし建築物であった。修復中とか。残念残念。しかし周囲の神殿の彫刻は素晴らしく、かすかに残る彩色が昔の栄華を偲ばせた。この神殿にかぎらず、Hampiの遺跡のほとんどが巨石を積み木式に、あまりかみ合わせなどもなしに積み上げるだけでできているようで、傾いたり崩れたりしているものが多かった。

川べりを歩いてバザールへ戻る。巨大なNandi(聖牛)像の横で一休み。このバザールは本来はNandiとゴプラム(南インド式の塔)の間を結ぶ石の回廊であったものが、周囲の住民が両脇の柱と柱の間に壁や仕切りをこしらえて自宅とし、前に店を出しているという愉快な門前町。ここから南に向けても幾つか見所がある。でかいガネーシャ像ともっとでかいラクシュマン(人獅子)像とか、ヴィシュヌ寺院とか、床に水を張ったリンが寺院とか。あたりの荒涼とした岩石だらけの風景はとても異様で、中国にはない風景だと相棒が言った。これは彼にとっては最大の褒め言葉のうちのひとつである。

山がすべて岩からできている。おそらく元はひとつの岩であった山が、過酷な気候のもとで風化し、こうなったのだろう。こんな場所でもひとは棲むのだなあ。夕方のバスを捕まえてHospetに戻る。よほど雨が降らない気候なのだろう。ホテルのレストランは中庭だった。羊肉のフライとビールを頼む。マサラ(カレー味のスパイス)を使っていない料理は久しぶり。満足の行く夕食だった。

1997年3月29日土曜日

ハンピを目指すも時間切れ

列車は一時間遅れで朝の8時過ぎにBangarore到着。駅前のバスターミナルでHampi行きバスを探すも直行は見つからない。Bellarかなんか、そんな名の街で乗り換えの必要あり。9時発、そのBellarとやらには4時前にやっとこさ到着。途中、風力発電の白い巨大な風車が数十本、いや数百本?も立ち並ぶ平原を横切った。壮観だった。


Hampi行きを探すも、そこからも直通は無し。Hampiが地図にもなか名乗らないような小さな村だというのは最初からわかっていたので、その付近のHospetという町を探す。というより、HampiがHospetの近郊なのである。バスターミナルの職員が三番プラットフォームで待てというので一時間近く待ってみたが、いつまでたってもHospet行きはこない。偵察に出た相棒がバスターミナルの外に私営のミニバスがいて、客がいっぱいになると出発しているということをそのへんのインド人に教えてもらってきた。早速行ってみると、かなり頻繁に出ているではないかミニバス!ターミナル職員は呪われよ。すぐにミニバスで出発するも一時間のロスは痛く、六時半に到着した時にはもうすっかり日が暮れており、移動には時間切れ。Hospetで一番いい宿の一番安い部屋に泊まる。バス停からリクシャで5Rps、ダブルでシャワーとトイレ付きで124Rpsなり。

1997年3月28日金曜日

マドゥライのミーナクシ寺院

朝八時のバスに乗るべくバスターミナルに行ったら7時半のバスがちょうど出るところで、職員が切符の裏に何やら書き込みをして言った。「急げ!」

私らの希望もなにもあったもんではないです・・・。しかも乗車の際に荷物の重量を計られ、二つのバックパックがあわせて40キロ、その他に相棒がカメラバッグ、私がデイパックを持っているので一人20キロの制限を超えているということで、追加料金を10Rps取られた。これってほんまに払わねばならんものなのだろーか。なんかどさくさに紛れて掠め取られたような気がしてならん。

バスはスカスカ気持よく走り、昼二時にはMadurai到着。駅に荷物を預け、さっそくMeenaksi寺院へ行く。偏執狂的なデザインの塔が4つ。びっしりと隙間なく、リアリスティックかつグロテスクな彫刻で表面を埋め尽くされ、ペンキのようなけばけばしい色を塗られている。いかにもある種のインド的な好みだ。(タイガーバームガーデンみたいな感じね)

中の千柱堂は博物館になっており、あまり手入れは行き届いていないが、しかし結構いい展示が並んでいた。ただ残念ながら明かり取りの窓が殆ど無い壁なし吹き抜けの空間を、展示物用に壁をどっさりこしらえて採光と通風を大変悪くしてあるので、薄暗くて展示物がよく見えない上に冗談じゃないほど暑い。湿度も高いので体に危険なほど暑い。もっとじっくりみたかったが、早々に退散。

時間が少し開いたので、国際電話を掛けられる場所を見つけて香港に電話。電話の待ち客から「」ビルマ人か?」とさんざん聞かれた。なにかゆかりのある土地なのか。

夜八時、乗車。

1997年3月27日木曜日

カーニャクマリ

起床、しかし体が異様にだるい。ここ二日間の成り行きを考えるとまあ妥当か。3月24日には濃すぎる茶の飲み過ぎで二時間ほどしか眠れず、よく3月25日には空港ロビーの石張りの床で二時間ほど仮眠したのみ。その後ソファで一時何ほどまどろむもすぐ搭乗。飛行機で寝ればいいのに苦手の英語の雑誌を食い入るように読み、ビールを飲んできっちり酔っ払う。軽い頭痛をかかえたままバスの乗り、二時間半のバス旅の中、やはり一時間ほど眠る。到着後にミールスを食べてインドに帰ってきた!と実感し、シャワーを浴びて夜九時に倒れ寝、起きたら翌朝八時で、低血圧の一番ひどい時のように頭がぼうっとし、体が自分のものではないような感覚だ。

相棒は朝食を仕入れに出かけ、私はのろのろと起きだしてベランダの籐椅子に座る。いい眺めである。目の前にはインド洋、左手には背の高い尖塔を持つ真っ白な教会が建ち、さらに左へ目をやると、ごつごつした岩の岬が海の方へ突き出している。手前は漁村と椰子の木。海は明るい青。

私の印象に残るスリランカとインドの違い。

(1) スリランカでは野外の用足しを見なかった。12日間の滞在で2回だけ、一度は5歳ぐらいの子供だったし、もう一度は漁師が浜辺で尻を洗っているのを目撃、しかし落し物は見当たらなかったので海の中で済ませたかと思われる。インドでは砂浜や岩の上に落し物が異臭を放っていて、夕暮れの散策の興を削いでくれることおびただしい。都市、農村、漁村を問わず、一日必ず数度は現在進行形のやつを目撃し、かつ歩いている最中にも大小両便の確かな痕跡を嗅ぐことしょっちゅうなのであるが、スリランカでは全くなかった。なお、暗闇の中でどこならともなく漂ってくるこういう臭いを、中国語では諧謔を込めて夜来香(夜に芳香を放ちつつ咲く白い花の名)と呼ぶ。

(2) スリランカの車は、道を横断したがっている歩行者を見ると停車する!オドロキだ!日本や香港ですらこんなに停まってくれないと思う。インドや中国では横断したがっている歩行者を見るとアクセルを踏むのがデフォルト。

(3) カレーが辛い。とんでもなく辛い。今まで食べたどこのカレーより辛い。しかも具が少ない。ゆうべ久しぶりにTamil Mealsを食べて幸せだった…。しかも私の大好きなバナナの葉っぱの上にごはんをどさり式。おかわりも自由だったし、白米そのものもおいしかった。


というわけで、(1)および(2)においてスリランカが先行したにも関わらず、軍配はインドに上がるのであった。(なんの勝負だ)


さてさて、インド最南端、聖なるクマリの岬を見物に行く前に、ここを離れる切符の手配。列車駅でゴア行きの直通はないのかと聞く。無い。最も便利なのはバンガロール乗り換えだと。またバンガロールか。ま、いいや、じゃそれくださいと言うと、なんと明日も明後日もウェイティングリストが100番以上になっていて、席がまわってくる確率は随分と低そう。といって、この距離をバスで行くのはツライ(列車でも22時間)ので、何か別の方法はないかと相談すると、Trivandrum発バンガロール行きの今日の便ならあいてると教えてくれた。でも今日ってのはなあ。昨日そこから来たのに、今日またもどるのは馬鹿馬鹿しいし、だいたいまだカーニャクマリの見物を済ませていない。明日は?と尋ねると、明日夜Madurai発なら取れるというので、やた!それだ。まだ行ってない街だし、Maduraiの目玉Meenakusi寺院は見ておきたかったのだ。いいぞいいぞ。

Maduraiまではバスで7~8時間、朝のバスの乗れば観光の時間はありそうだ。Madurai発Bangarore行きの二等寝台を買い、バスターミナルへ向かう。ホテルかと思ったほど綺麗な建物でびっくり。実際、二階はリタイヤニングルームのようだ。Madurai行きのバスは午前中なら半時間おきにあり、8時発のスーパーエクスプレスとやらを買った。

出る足を確保したので観光に行く。博物館のエントランスフィーがたったの1Rpsで、えらいなあインド。岬は風が強く、満月の直後だけあって波が高く、海底の砂を巻き上げていて海が濁っている。岩だらけの海岸で泳げるような場所はなく、海パンを穿いてきた夫はガッカリ。海岸沿いに砂浜を探して歩くも、どこも例によってうんこビーチ。

部屋から見える白い協会まで歩く。周囲はクリスチャンの漁村であるらしく、いずれの民家もみすぼらしい風情であった。白くそびえたつ教会とは好対照だったが、まさにインドのこういった民を救いにきたのがインド現代のキリスト教であるわけで。インド聖地における異教徒の村。余所者が言及するには重すぎる歴史があるに違いない。

1997年3月26日水曜日

インドへ帰る

Air Indiaよりはマシという評判だったに、六時間も遅れやがってAir Lanka!もう二度と乗ってやらん。(乗る機会があればな)

今回の機内食は辛いツナサンド。ビールを注文し、飲む。相棒が目ざとくTimeの最新号を見つけた。中国に関する記事をチェック。新疆独立闘争激化というのはやはりマジらしい。といって、記事の論調からすると現時点でパキスタンからの陸路入国が不可能なほど荒れているわけでもなさそうだ。しかしTime、中国の地方独立の可能性を真剣に検証していて、チベット、新疆、内蒙古あたりなら民族問題もあってまあまあわかるが、漢民族の多様性についても9つの言語区に15の方言を話す漢民族、だから…という論調でやや違和感。

中国は絶対に分裂しないだろう。ヨーロッパ全体とと同じような面積の国なのだから、分離独立するとか地方自治権を拡大するとかした場合のメリットはいろいろ考えるだろうと思うが(例えば日本の近代の成長なども、幕藩体制の地方分権により中央/周辺という格差が拡大再生産されなかったという歴史的経緯に支えられていると思う)、中国には全史と全土を通じて「統一への意思」があるので(漢字によるwriting systemによるところが大きいと思う)、いまさら台湾を除く漢民族の地域が、中央政権に対して分離独立を要求することはありえない。

非武装路線をとっているチベットの独立は事実上ありえないし、内蒙古は外蒙古経済と現代の中国経済の格差を目の前にして、独立や外蒙古への合併を望むということは無さそうな気がする。残る新疆、ここが最も可能性高いし、そのぶんきな臭くなるんだろうなとは思う。何しろ武器調達が用意な立地だ。

インド到着。リクシャーでバス停へ40Rps。四時半のバスでKanyakumari(カーニャクマリ)へ向かう。7時到着。Hotel Sangar、シービューと部屋の広さ、清潔さをしつこくチェックし、見せてもらった4つ目の部屋にチェックイン。ダブルで165Rps。

1997年2月9日日曜日

私が「便場」を開拓

朝7時半のバスでゴラクプルへ向かい、そこからリクシャでバラナシ行きのバスが泊まっている畑の中まで行ってもらった。そして私はここで、大勢のインド農民たちに見守られながらの野グソを決意するまで、20分ぐらいやみくもに畑をあるき続けた。橋のたもとで用を足して、身繕いを終わって顔を上げると、インド人たちが橋の上から私を見下ろしている。せめて見ないふりをするだけの最低限の文化はないのかキミらには!!!と、瞬間激しい怒りがこみ上げたが、しかし男たちの顔にはスケベそうな、または卑しい、あるいは好奇心すらも現れておらず、険しい、無表情に似た、むしろ何かに耐えているような眉間の寄った表情ばかりであることに気づき、やや怒りがおさまる。そういえば私とて見られた、恥ずかしい、といったこれまでであれば当然の感情はもはや全くわかない。

私が立ち去ると、男たちのうちのひとりは私のしゃがみこんでいた場所まで降りて、自分も用を足し始めた。あれはつまり私が「便場」を開拓したことになるのか。ようわからん。

サールナート到着。オートリクシャでツーリストバンガローまで行くも客満。日本寺へ行ってみた。日月山妙法寺という日蓮系のお寺で、一人30ルピーで食事もご一緒させていただけるという。ご住職はものすごい江戸弁で、関西人の私にはヒヤリングが厳しい。その他に若い僧がおふたり。

1997年2月8日土曜日

インドは濃ゆい

昨夜相棒のベッドで枕を上げたとき、ピーナッツの殻が残っていて、「誰や! ベッドで花生食ったやつは! 人間のやることとは思えん!!!」と相棒はカンカンに怒っていたのだが、やはり人間の仕業ではなかった模様。夜中、ビニール袋ががさごそ鳴る音で目が覚め、同時に悟った。ねずみだ。相棒は大胆にごーすか寝ているのだが、私はビニール袋が カサ と鳴るたびに目が冴え、まんじりともせず。

朝、涅槃仏を拝んで2キロほど散策。もういちど中国寺へ行ってみると、今日は100ルピーの部屋が空いているという。みせてもらうと、今泊まっているところより「少し」きれいだ。トイレが別で、全く離れたところにあるのが却ってありがたい。移ることにする。

ミャンマー寺に戻り、宿代としてのドネーションはどこに払えばいいのかと寺の作男に尋ねると、本堂二階の賽銭箱を示された。いくばくかを入れて荷物を中華寺に移し、めし屋で昼食をとっていると、ミャンマー寺のインド僧がやってきて、お布施はしたのかという。賽銭箱に入れたよと答えると、あれとこれとは別、宿泊の布施は自分に払ってもらわないと困ると言い出したので、ちょっと笑ってしまった。僧衣にもポケット付いてんのか。

この僧はゆうべ仏像を売りつけに来たときも、焼き物の仏像を「まだ旅は長いから、割れ物はちょっと」と婉曲に断ると、「割れやすくないよ、これは」と言って仏像を床に打ち付けてみせたのだった。やっぱりインドは濃ゆいなあ。

荷物も移してるのであっさり断る。スリランカ寺の仏塔に登って読書。すると塔の下にインド人がたくさん集まってきて、私を指してなにやらどうこう言っている。もしかして女性は登ったらアカンのか。しかし非難しているような口ぶりでもない。ようわからん。

一旦退散することにして、中華寺へ散歩に行く。今日はご住職がいらした。ベトナム系アメリカ人の女性で、中国語は全く話せなかった。


1997年2月7日金曜日

旧暦元旦に鹿を見る

早朝5時に目が覚め、寺の周囲に散歩に出る。森を切り開いただけのような、何もない土地である。朝霧の中に鹿が二頭現れ、草をはんでしばし後にゆっくりと去っていった。息を詰めてそれを見送りながら気がついたが、今日は旧暦の元旦だ。一年の始まりの日に、釈迦が生まれた場所で、釈迦の第一の弟子を見かけたとは。今年もいい年だといいな。

早朝の読経に参加。いいお声でした。朝食は豆ごはんで、匂いを嗅いだだけで芳しさのあまり涙が出そうだった。ほうれん草のおひたしにごまとごま油をふったもの。なすびの炊いたの。卵の白身の部分だけを蒸したもの。すまし汁。

私達はこのとき経済的にとても切り詰めた旅行をしていたので、宿坊代としてごく普通の額のお布施しかできなかったのだが、いつか余裕ができたときに何らかのご恩返しをしたいと折りに触れ夫婦で語りつつ、今に至る。いつか、きっと。ご住職のお名前は覺賢法信(Gak Hyun Bub Sin)とおっしゃいました。


さて出立。バスでバイラワに戻り、国境のスノウリ行きのバスをキャッチ。20ルピーを渡すと、10インドルピーが帰ってきた。国境ではインドルピー100に対し、ネパールルピー160.40のレートだった。のどかな国境を越えてインド側へ。きわめて順調に通関を済ませ、ゴラクプル行きのバスに乗る。30ルピーのミニバスと、35ルピーのバスがあり、大きな方のバスに乗った。二時間でゴラクプル到着、私はバスの窓からの風に吹かれて熱が上がり始め、あわててゴラクプルでみかんを3つ買いもとめ、そのまま路上でふたつ食った。

ゴラクプル→クシナガルのバスの上では風に当たらず、しかし太陽の当たる席で三十分、ぐうぐう眠ったら治った。しかしでかいみかんだったので二時間後のクシナガル到着時には猛烈にトイレに行きたくなり、しかしインドは中国とはちがってバスターミナルに使えるようなきちんとしたトイレが必ずしも提供されているとは限らないので、まあどういうことかというと、白昼のまちなかで物陰を探して用を足した。もはや達人なので動じない。落ち着いたものである。

さて、中国寺へ行ってみるも、漢字は書いてあるが、なんだか妙な中華寺だ。ベトナム語とかヒンディーとかでも何かいろいろ表示があり、そして中国語を話せる人が全くいない。宿坊は300ルピーとかなり高め。

隣のミャンマー寺に行く。隣室とトイレが共同のツインがあり、簡素だがまあまあ清潔。おいくらですかと尋ねたら、お好きなようにとのこと。ありがたく泊まらせていただく。でもここも中国寺と同じで、ミャンマー人はいないようだ。宿泊客はスリランカの僧侶団と、チベットからの巡礼家族。管理人のインド僧は、夜に部屋まで数珠と仏像を売りに来た。クシナガル自体も、ルンビニの静寂とはまったくちがい、人の多いざわざわした街である。

1997年2月6日木曜日

本日は陰暦の大晦日

12時間の深い眠りの後に目覚めると、本日は陰暦の大晦日。こういうのを中国語では像豬一樣睡覺(豚のようにいぎたなく眠る)と言う。起床、昨日の果物を食べきってから、昨夜おいしかったヴェジタリアンレストランで朝食をとる。やはりダヒー(ヨーグルト)がおいしい。ネパールのヨーグルトは水のようで、私には物足りなかった。

ルンピニーまでバスで一時間、10ルピー。バスを降りるとEnquiryがあり、聞いてみた。宿泊できる寺のうちのひとつである韓国寺はここから2キロもなく、徒歩で行けるということなので行ってみた。ドミトリー一室を二人で使わせてくださった。ほかには韓国人学生と、日本人旅行者がいた。部屋は簡素で清潔で、しかも一日中お湯の出るシャワー室があった。

ご住職が食事を提供してくださった。韓国料理は当然ながら日本食や中華と同じ文脈にある味なので、相棒が特に嬉しがった。とくに圧力釜で炊いた米の旨さときたら…。米はネパールの普通のお米だということだが、炊き方が違うだけでこうも味が違うとは。甘い。また、キムチや紫蘇など、この地では貴重なのではないかと思われる食材を、惜しげもなく振る舞っていただいた。感謝に耐えない。

さて、この地に来た目的のルンピニ苑に行く。淋浴池があり、ネパール寺とチベット寺が有り、どこにも属しないMahadevi寺院があったが、現在改修中で中には入れなかった。淋浴池のほとりには大きな菩提樹が有り、幹の根本に日本式の可愛らしい地蔵菩薩が鎮座していた。後に日本人旅行者から聞いたが、瀬戸内寂聴が日本から持ってきた地蔵なのだそうだ。

地蔵菩薩はインド系の参拝者が掛けるプジャという赤い粉でまっかっか、そして同じ参拝者が撒く米粒を食べに、菩提樹に住むシマリスが5~6匹ほども地蔵の周りに降りてきてきているのが可愛らしかった。どのシマリスも、鼻の先がまっかっかだ。近づくとみんな慌てて樹上に戻っていくのだが、1匹だけ大胆なやつがいて、近づいてもぽりぽり米を食っていた。

夕食をまた韓国寺でごちそうになる。というか、食事ができるところなどどこにもないのだ。夕食には日本のと全く同じ味噌汁と韓国海苔が供されて、日本の旅館に泊まっているような不思議な気分だった。私はご飯をおかわりしてしてしまった。食後にはコーヒーまで頂いたのだ。なんて豊かな一日だったろう。

1997年2月5日水曜日

インド国境のバイラワ

朝5時半頃目が覚めた。相棒の熱はまだ下がりきってはいないものの、体の震えはおさまっており、昨夜よりはずっとマシらしい。薬を飲んで出発するという。バスは高い方を買ったので、リクライニングシートで座り心地よかった。荷物は天井に乗せるタイプ。

山道を縫って7時間走り、バスはインド国境まで4kmのバイラワ到着。取り立てて見どころのない町なので大抵のツーリストは乗り換えて直接ルンピニーを目指すが、相棒に休みが必要だと考えてここで一泊。みかん1kg(7個)24ルピー、ざくろ1kg(3個)48ルピーなどを購入。ちょっと高級そうなレストランに入ったら、ヴェジタリアンレストランで全く高くなかった。マサラ各種が24ルピーから、ナン12ルピー、ダヒーとラッシーが12ルピー。このダヒーとラッシーがばつぐんに濃い味で、驚きの旨さだった。クリームチーズのような濃厚さで、しかもくどくない。

部屋に戻り、軽くシャワーを浴びて就寝。


1997年2月4日火曜日

「光の王」、読了。

朝までかかって「光の王」、読了。満足。

歩いてダムサイドへ行く。レイクサイドよりも静かである。土産物屋もあまり見当たらず、旅行会社もなく、客引きの「ナマステー」もない。そのかわりにめし屋もあんまりないので、食事には不便なのであった。

ポカラはレイクサイドとダムサイド以外が道も舗装されていないような田舎で、市の中心部以外は「村」であった。散歩にはとてもよい。

しかしなぜだろう。私はこの静かで居心地良いネパールを早く逃げ出したくてしょうがない。この国とは合わない。自分でも何故かはわからない。多くの人にとってここは楽園か、すくなくとも長期滞在にもってこいの場所なのに。多分私はもっと「旅」がしたいのだ。もっと緊張と忍耐を強いられるような、そしてやはり「移動」をともなった、旅。

私はインドに行きたくてうずうずしている。私は多分インドで、緊張と忍耐にも関わらず、数多くの痛い目に合うだろう。それがむしろ楽しみで仕方がない。気の毒なのは相棒で、この人は明白に、極めて明白に行きたがっていない。むしろ、帰りたがっている。私は何度も帰れと勧告したのだが、この人の感覚では私をインドにやって自分は香港に帰るというのは不可能だ。で、仕方なく私についてくる。私を守るつもりで。正直に言うと、私には重荷だ。

今日、国境行きのチケットを買った。

ここまで書いたところで、明日早朝のバスに乗るべく今夜のうちに支払いを済ませておこうとしたら、来たよ来た来た、150ルピー/泊のはずが220ルピーだと。値段を文書にさせておかなかったこちらが悪いと言えば悪いのだが、率直に言ってネパールの民宿でやられるとは思っていなかったので、油断した。五年前なら払っていただろうが、いまなんとか交渉に持ち込むガッツと能力があるので、険悪な話し合いの末に150+10%の165ルピー/泊で決着をつける。インドへの序曲としてはまずまずだ。

と、ひさびさに嬉しくなってきたところでふと相棒を見ると、手が震えている。どうした?額を触るとなんてこと、高熱だ。歯の根が合わないほどの悪寒に震えているのだ。すぐにベッドに入れ、まず胃の保護薬を飲ませ、それからイブプロフェンを飲ませた。様子を見て、数時間後にイブプロフェンをもう1錠追加、それから枕元に白湯と薬を置いて眠る。

1997年2月3日月曜日

ロジャー・ゼラズニイの「光の王」

朝から雨。どこにも行けない。朝食を久しぶりにEgg&Toastで食べてみた。ブラウンブレッド2枚、バター、ジャム、ハッシュドポテト、トマト、チーズ、スクランブルドエッグが卵二つ分、ホットミルク、以上で50ルピー。

昼食を韓国レストランで。私が頼んだミネストローネはさほどの味ではなかったが、相棒は炒麺がウマイウマイとご機嫌である。店のマガジンラックはほとんど韓国語ばかりだったが、一冊だけASIA WEEKを見つけ、「アジアで一番住みやすい都市」特集を読む。基準は人口一万人あたりの病床数、教育状況、道路に占める車面積の割合、空気汚染度、住宅問題、治安、ナイトライフ、インフレ、税率、失業率など、様々な指数を総合した結果、一位はなんと東京とあった。そっかぁ?!

以下シンガポール、バンダルスリブガワン、大阪、香港、そして仙台と続く。三位のバンダルスリブガワンというのは選んだ方も意外だったらしく、コメントで色々言い訳をしていた。税率0%ってのがやっぱり点数稼いだらしい。ただ、これを読んで知ったことだが、ブルネイに多く住む華僑は公式には市民と認められておらず、従って教育や医療の無償制度の枠外にいるということだった。国王、サルタンだもんなあ。

本屋でロジャー・ゼラズニイの「光の王」を発見、SFを読み漁っていた高校生の頃の記憶が、紅茶マドレーヌを直接鼻につっこんだようにごうごうを溢れ出てきて、ついに195ルピーもするその本を値切りもせずに購入してしまったのだった。

1997年2月2日日曜日

森に帰る白鷺を見た日

朝、ポリッジ(バナナとオートミール)とミューズリーを食べた。このレストラン、味は良いのだが毎回勘定書が多めに計算されているので、もう来ないことにする。昨夜雨が降ったので空気が澄んでいて、朝の間は雪山が見えた。朝食を食べているうちに、山はゆっくりと雲の向こうに隠れていった。

相棒、吐きはしないのだが胃の具合は本調子ではないとのことで、再び薬局で消化剤2種類と、胃腸のガスを抜くという薬を買ってきた。屋上に座って暮色を楽しんでいると、白鷺が次から次へと隊列を組んで、同じ森へ帰っていく。あの森には幾千の白鷺が住んでいるのだろう?

夕食をレイクサイドに一軒だけある中華屋で食べた。おいしくはなかったが、まあ中華の味であった。

1997年2月1日土曜日

チャリを借りて市内へ

相棒、朝食にトマトをいくつか食べた後、再び吐く。熱なし下痢なしの完全な胃だけの問題で、今の所吐いてしまえば気分的にも体力的にも問題なしだと言うのでやや安心。体調に異常はないというので、チャリを借りて市内へでかけ、大きめの薬局で消化剤(昨日と同じ)、吐きどめ(胃の保護薬)を買う。それとはべつに、上気道感染時の抗生物質とししてAmoxicillinともう一種、喉シロップなどを購入。

昼に私は再度スパゲティ、相棒はバナナヨーグルトを食した。薬がよく効いたか、今度は吐かなかった。夕食は私はミネストローネのみ、相棒は野菜チャーハン。胃が悪いというのにチャーハンを注文するってのは、日本人の感覚ではちょっとありえないです。しかし今夜は吐かなかった。これで復活か。

1997年1月31日金曜日

食べても食べても吐く

ブランチをチベタンレストランで。しばらくの間ヴェジでいってみようと考えた私は、ヨーグルトにミントティーにポテトサラダという健康的なメニューにした。だが相棒は肉なしでは生きられません。焼き肉と餃子。両方ともBuff肉。

相棒、部屋に帰るなり吐く。全部吐く。どうしたこったい。「おやつに食べたビーナッツクッキーが悪かった…」違うと思うな。肉が悪かったんだと思う。本日は休憩日にする。

夜、私はきのこのスパゲティ、相棒は控えめにヨーグルトだけを食べる。スパゲティはおいしくて幸せだった。しかし驚くべきことに相棒、再び吐く。全部吐く。急いで薬局に行き、消化剤を買ってきて飲ませる。胃の薬なんかふたりともめったに必要としないので、持ち合わせがないのだ。

相棒、うんざりした顔で薬だけ飲んで眠る。

1997年1月30日木曜日

ポカラ到着

朝7時始発のバスは7時半にようやくやってきたと思ったら、そのままポカラへは向かわずにいったん郊外のカトマンドゥ・バスターミナルへ向かい、さらに再びカトマンドゥ市内へ戻って朝のラッシュにきっちり巻き込まれ、盆地を出たのが八時半、そして9時にはパンクした。なにやら修理を終えて9時45分、再出発。私は昨夜ホテルから借りパチしてきた「一握の砂・悲しき玩具」をじっくり腰を据えて味わう。

10時半、再び停車。タイヤ交換屋の前である。なおこのバスの予定所要時間は八時間、多分そんなもんでは全然済まないとおもうが、一応予定では八時間、そしてバス代は日本円にして160円である。

パンクしたタイヤの周囲に集まっている男たちの頭の隙間から、マンガの歯医者が抜歯に使うようなごっつい黒い工具を使って、でかいでかい釘を引き抜いていた。こんなもんが刺さっとったのか。

再出発。昨夜のBuff肉のせいでまだ胃が苦しくてたまらず、夜もよく眠れなかったのでバスに揺られてぐうすか眠る。このローカルバス、やはりツーリストバスとはちがって道端で人を拾ったり下ろしたりするのでとても時間を食う。結局ポカラ到着は五時半。十時間のバス旅となった。なお距離は190km。時速20キロ切ってるやん…。

バス停の客引きに、「我々は200ルピー以下の部屋を探している。条件はバストイレ付きのダブルで、ホットシャワーは24時間使えること。ホテルにはバルコニーがあって山が見え、そこには屋外と屋内に座ってくつろげる場所があること。部屋は広めで清潔であること」と、言いながら笑ってしまうような条件を並べてみた。250ルピーって400円ぐらいね。なんちゅう過大な要求だよ。

しかしここではそれでも大丈夫なのだ。客引きの一人が、150ルピー、タクシー代はタダと名乗りを上げた。見にゆくと、わりといい。お湯も出る。二階は200ルピーというのを、5日泊まったら150ルピー/日と値切って泊まることにした。残念ながら天気がよろしく無く、屋上からマチャプチャレの方角を見ても雲だらけだったが。

消化の良さそうなスープを飲んで、本日は終了。

1997年1月29日水曜日

Buff肉三食の日

余分の一日、することもなし。

朝食・昼食・夕食と三度の外食。(普段は朝食は部屋で前日に買ったものを何かしら食べる)三食ともBuff肉を食べた。朝は焼きモモ、昼はトゥクパ、夜はスープモモ。胃がもたれて仕方がない。やはり私、肉は大量には食べられない消化器になってきたのかもしれん。インドではヴェジですごしてみるか。

夜二時過ぎ、胃の苦しさに目覚めた。そのまま翌朝まで呻く。

1997年1月28日火曜日

「ストライキ」

五時半起床。しかしなんてこと、相棒、発熱。パラセタモールを飲ませて、仕方なく再び寝る。9時、フロントから電話がかかってきた。早朝チェックアウトすると通告して、昨夜のうちに支払いを済ませていたからだ。今思ったが、電話付きの部屋なんて何ヶ月ぶりだろうか。もう二・三泊すると伝える。

十時頃、頭痛が少しマシになったと相棒が体を起こしたので、パンとホットレモンを取らせて様子を見る。もっと食べたいというので、軽食を取りに外出する。

食後、諦めて旅行会社にツーリストバスの予約に行くも、明日・明後日ともに無し。どういうことかというと、ストライキだという。しかし、よくよく事情を聞いてみると、それってストライキっていうのかなあ。

カトマンドゥ→ポカラのエクスプレスパス(パブリックバス)は、カトマンドゥ・バスターミナルから出る。このバスターミナルは日本の援助で作られた新しい、よくできたターミナルであるそうなのだが、市内から遠く、そこへ行くまでの交通がとても不便なのだ。そこで、多くの旅行者のみならず、ローカルのネパール人も、カンティ・パト(市中心)から出るツーリストバスのほうを好んで利用する。そのため、パブリックバスは常にガラガラで、公共交通としての採算が立たない。

そこでパブリックトランスポートアソシエーションがこの状況を打破すべく、カトマンドゥからポカラへ向かったツーリストバスをポカラで没収してしまい、カトマンドゥへ帰さないのだという。そのため、ここ数日カトマンドゥからポカラへ向かうバスがなくなってしまっている、ということだそうだ。それはストライキとは全然ちがうんとちゃうかな。

バンコックでは、バスターミナル以外のバンコック市内で客を乗せるのは違法だと聞いたが、カトマンドゥではどうなのだろう。カンティ・パトから出発するツーリストバスは法に触れているのだろうか? だとしたら、それを取り締まるのは警察の仕事のような気がするhが。パブリックトランスポートアソシエーションとやらの仕事は、ツーリストバスの仕事を邪魔するのではなく、市内からカトマンドゥ・バスターミナルまでの足を便利にすることだろう。例えばカンティ・パト/ダルバール マルグ/タメルの三箇所から、三十分に一本でもターミナル行きのミニバスを運行させれば、ターミナルの利用率はだいぶ上がるんではないの。だってパブリックバスは80ルピーから、ツーリストバスは150-200ルピーと、バス自体には差がないらしいのに、チケットの値段にかなり差があるから。

まあいい。しかたなくビンセンタワーに行き、一日1-2本しかないポカラ行きのバスを予約しようとしたら、「ストライキ」のあおりを食って今晩、明日早朝ともに売り切れなのであった。背に腹は変えられず、明後日の早朝、それも後ろから二列目という条件の良くない席を渋々予約。

宿に戻り、相棒は昏々と眠った。大丈夫だろうか。


1997年1月27日月曜日

インドVISA取得

ナガルコットに行こうと思ったが…(昨日と同様の状況)

インド大使館へVISAの具合を聞きに行く。なんと相棒のVISA CLEARANCEはロンドンから速攻で帰ってきていたが、私のがない。私のがないよー、ないよーと主張して、私と相棒ではなにやら違う手続きでVISAの申請となった。午後には発給されるそうだが、そこへたどり着くまであっちへ行き申請用紙に記入、こっちへ行って長らく待っては話を聞き…、何やらとても能率の悪い手続き手順だった。しかしとりあえず申請手続きは終わり、本日四時半にパスポートを返してくれるという。よかった、よかった。ランチを食べて宿に戻る。ぽから行きのチケットを買いに行こうと思ったが、パスポートが帰ってこなかったときのことを考えてやめにする。

三時半、インド大使館へ。四時半まで待てと言われ、素直に待つ。なんと4時にパスポート返却、ビザも付いている。さっそくビンセンタワーへ向かい、バスチケットを購入しようとするも、「予約の時間は終わりました。明日当日券を買ってください」と言われ、びっくり。明日の当日券って、バスは朝6時の一便しかないのに、フル荷物でここまできてもし席がなかったら無駄足じゃん…。

旅行会社にも行って見画が、ツーリストバスも明日は満席、明後日のしか空いていない。私と相棒は相談して、明日の朝早起きをして、ビンセンタワーから出るローカルバスに挑戦してみることにした。

1997年1月26日日曜日

ボダナート訪問

ナガルコットに行こうと思ったが、ガスっているのか霧なのかスモッグなのか、ヒマーラヤどころかカトマンドゥ盆地を取り巻く山ですら見えないという天気の悪さ。快晴は快晴なのだが、空気が悪いのだ。というわけで、今日はBoudhanatへ行くことにした。

セントラルバススタンドへ行く途中に、大量の山羊に出くわす。それ自体はそれほど珍しくもない風景だが、群れから脱走した一匹を追う牧人が全力疾走のままためらいもなく見事な飛び蹴りで羊を止めたのが見ものだった。

ボダナートは牛だらけ。チベット人にとっての聖地であるらしく、チベタンでいっぱいだった。五体投地をしている人が大勢いた。西洋人はなぜチベット仏教があんなに好きなのだろう。ムスリムの一日五回のお祈りをファナティックだとかいうくせに、五体投地を見て敬虔さに感動したりするのは不公平だ。そのへんのところをよく了承した上で白人を味方につける作戦を取り続けている猊下はやはりうまい。

「私は観音菩薩の生まれ変わりです」という人が管理する国に住むのは私はツライが、まあわが祖国だって「私の祖先は神様で、何だったら私も神様です」という人を国の象徴として頂いているわけだしな。他人様のことは言えん。

ボダナートではラマの格好の外人をたくさん見たが、私の正直な感想は「お調子者」であった。

1997年1月25日土曜日

Monkey Temple(猿寺)

朝食の後、Loof Top Garden(ただの屋上とも言う)で日向ぼっこ。高地なので、日向はポカポカと暖かく、日陰はいきなり寒いという、月の表面のような気候である。

昼食の後、Monkey Temple(猿寺)というカトマンドゥ北郊の丘の上にある仏教寺まで遠出する。片道一時間ぐらい。たいそう急な階段を登りきると、カトマンドゥ盆地が一望される景色が開けた。見事な眺めだ。あいにく霧が深く、本日は晴天なれどもヒマラヤは見えずなり。残念残念。

寺は完全にチベット式で、チベット人でいっぱいだった。インド人観光客も多かった。不思議だったのは、シーク教徒の若い男性が首から数珠をかけてお参りに来ていたことで、彼は布で頭を覆い、額の上にお団子をのせている典型的な若シークだった。シーク教でもブッダは聖人なのだろうか?

山の麓で、8月にチェンマイで会った人とばったり出会った。タイから飛んできたばかりだそうで、しかしあの後一度は日本に帰っており、今回の旅ももっと長いものにする予定だったが、付き合っている彼女がじゃあ別れるというので、仕方なく三ヶ月ほどで帰るんだそうだ。いろいろ大変ですね。

相棒、風邪をひく。やはり亜熱帯育ち、寒さには極端に弱い。

1997年1月24日金曜日

おいしいものをぽつぽつ発見

今日はPatan(パタン)へ行く。セントラルバススタンドからバスで二十分、バクタプルよりきれいで、カトマンドゥより静かな街だった。王宮博物館は残念ながら修復中で内部は見られずじまい、マハーボダー(マハーブッダ)寺院を見に行くと、チベット人の先客がたくさんいた。なんと1000Rs札をお賽銭箱に入れていたので、信仰厚い人達だなあとしみじみ驚いた。

ネワールモモ(水餃子)はチベタンモモよりも私の好みに合っているかも。辛~いカレースープをかけて食べる。蒸したてモモはとってもおいしいと思うのだが、相棒は例によって全然ダメ。マサラ系が苦手なのだ。今日は道端で揚げモモも食べてみた。わりとイケる。油がよければもっとおいしいだろうと思う。10個で12RsのSweet&Saltクッキーがばつぐんにおいしかったので、朝食用に同じ店の4個12Rsのパンを買ってみた。ライム3つで5Rs、トマト1kgで20Rs。トマトが激安だ。別の店で尋ねたときには1kg50Rsだったのに。品種が違うのかな。(見た目同じ) 1kgは食べられないので、半kg買ってみた。せっせと食べてビタミンを補給しよう。

夕食はBuss Pulaw(水牛の肉入り炊き込みご飯)が相棒の気に入った。丁香(丁字、Clove)が入っていることを除けば、とてもおいしいそうだ。食べられるものがあってよかったね。トゥンパ(黍の実の発酵酒)を飲んで、本日はおしまい。

1997年1月23日木曜日

カナダ人最後の謎

朝からバスに乗ってBhaktapur(バクタプル)へお出かけ。エクスプレスではないバスに乗ってしまったので、一時間もかかった。途中でTimiという村を抜けていく。素焼きの獅子や象がたくさん売られていた。

今日はお天気がよく、ヒマラヤがクリアに見えてご機嫌である。バクタプルに到着すると、町の入口にチケット売り場があり、250Rs。ガイドブックの50Rsから大幅に値上がりしていた。カトマンドゥと違ってツーリストが殆どおらず、静かな街だった。王宮に入るのにチケットのチェックあり。

午後、またしてもエクスプレスパスに当たらず、遅いバスでちんたら楽しくカトマンドゥに帰ってきた。運転席の隣りに座ったので、景色もよく見えた。夕食後にカナダ人とばったり。仕事を見つけたと言うのでなんだと聞くと、日本の映画だという。主人公に話しかける外人の役で、ギャラはUSD100。やったじゃん!これまでのバッドラックを全部帳消しにできるじゃん!「明日は僕のフィルムデビューの日さ!」と明るく笑うので、オメデトウという気が九割、この人ほんまに大丈夫なんかな…という気が一割。

後記:1997年の邦画で主人公がカトマンドゥにくる映画というと、深夜特急のユーラシア編が97年7月に公開されている。ひょっとしてこれなのだろうか?真相は永遠に謎。

1997年1月22日水曜日

カトマンドゥの大気汚染

カトマンドゥ市内をうろうろと探索する。なんと大気汚染のひどいところだろう。周囲を高山に囲まれた盆地で、空気の流通が悪いという地理的な悪条件なのだ。また寒い上に天気が悪く、舗装されていない道がぐじぐじにぬかるんでいるのも嬉しくない要因だ。

あと、各店舗・各ご家庭に自分ちの前は掃除するという習慣が薄いらしく、道端の生ゴミがすごいのである。野良犬・野良牛が用を足しまくっているので、せっせとこまめに掃除する気にはなれんのかもしれんなー。野良牛がゴミの中からビニール袋を漁って食べていたのでぎょっとした。それは明らかによくない。

1997年1月21日火曜日

インドビザ申請

激寒。ネパールの宿には綿ふとんは標準装備ではないものなのでしょうか…。ベッドをくっつけて、二人分四枚を毛布を重ね、それぞれが寝袋を使用して寝たにもかかわらず、まだ寒い。私なんか服を六枚着て、マフラー巻いて寝てるのに。まあ、灼熱の国を何ヶ月も歩いてきていきなりだから、体が慣れてないのかも。

朝からインド大使館に行き、ビザを申請する。簡単なインタビューの後にTELEX用紙を欠かされ、申請料が300Rs。TELEXがインド本国から返ってくるのが七日後で、返ってきたら即ビザ発行とのことであった。ビザ代は1200Rs。計1500Rs、3000円ぐらいか。大使館員はめちゃめちゃ尊大で、久しぶりに世界三大最悪民族説を思い出したが(インド人・中国人・アラブ人)、本人たちに悪気はない。しかし、お釣りをごまかそうとしたのではないかという疑いは晴れないので、インド!気を引き締めてかからねば!!!(ちょっと楽しみ)

さて、このままでは頭から風邪をひくという相棒の主張により、羊毛の手編みの帽子を買う。相棒、帽子のてっぺんのぼんぼりが気に入らず、購入後に店の人に切ってもらう。私は頭からは風邪をひかない方なので、買わなかった。そのかわりにトパーズの指輪が欲しくてたまらない。小さすぎるのでサイズ直しが必要だが、直し込みで375Rs。800円である。楽しくうじうじ悩む。寒さに弱い相棒は、帽子に続いて毛糸のパッチを買う。骨だけの脚の人には必要な装備だろうと私も思う。200Rs。相棒の買い物を見て私も指輪を買う気になり、先程の店のトパーズを買う。とってもキレイ。似たようなデザインのガーネット、ムーンストーン、ペリドット、オパールもあり、どれも欲しくてたまらない。

1997年1月20日月曜日

カナダ人の不幸は続く

起床。このホテル、夜寝ているとしんしんとカビ臭さがつのってきて、鼻炎・気管支炎もちの我々にはなかなかつらい夜となった。11時頃に両替屋を探し、USD100T/Cを5700Rsで両替して、チェックアウト。宿の主人は大変なふくれっ面であったが仕方がない。昨日の一軒目に行き、今ホットシャワーが使えるならここに移ると宣言して、湯を確かめに行く。出た。チェックイン。風呂だ! ミャンマーのバゴー以来、なんと六日ぶりのシャワーである。たっぷりの熱い湯、幸せ。

昼食をチベタンレストランで。食後のそぞろ歩きを楽しんでいると、カナダ人にばったり。昨日は入国でもめたの?と尋ねると、彼はこう言うのであった。空港で米ドルの持ち合わせがなく、アライバルビザの費用が払えなかったので、パスポートを空港に預けてきたのだと。先程両替商で米ドルを入手、今から空港へパスポートを取りに行くのだそうだ。なんだか手際の悪い人だなあ…。そしてさらに続けてこんな事をいうのでびっくりした。「カナダドルを受け付けてくれない場合のために、バングラディシュ・タカをUSD30相当用意してたんだけど、それも受け付けてくれなかった」

世界のどこの国がカナダドルよりもバングラタカを欲しがるというのだろうか。この人の不運というのは、ある程度までは自分で引き寄せているのかも知れない。

1997年1月19日日曜日

ダッカからカトマンズへ

昨日のイブニングティーのことを書くのを忘れていた。

夕方4時ごろ、ボーイが部屋にきて「イブニングティーの準備ができたからレストランに来てください」と告げた。眠っている相棒を置いて、私一人で出かけると、サーブされたのは1杯の小さい小さいカップの紅茶と、直径30センチぐらいの大皿の上にぽつん3枚マリービスケット・・・が、きっちり縦にそろえて積んでありました。爆笑しそうになったがぐっとこらえ、そのとたんに頭に浮かんだ何の根拠もない確信は、「絶対しけってる。」食べてみた。しけってた。

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本日カトマンドゥへ飛ぶ日、朝食を急いで食べに行く。9時にホテル出発、11:40の飛行機搭乗の予定だからだ。食べ終わって「バス9時?」とフロントに確認に行くと、呼ぶまで部屋で待っててくださいとのこと。あの部屋に座ってんの、イヤー!夕べは湿気とひどい空気で二人ともよく眠れず、おまけに今朝から断水で、トイレの水も流せないのだ。

が、仕方がないので部屋に帰ってCNNを見たり、フロントから撮ってきたバングラディシュの英字新聞を解読したりする。ペルー大使人質事件は、まだフジモリ大統領の弟含む73人が解放されてへんのだと。昨日は2週間ぶりに、医療が必要なペルーの大臣が解放され、病院へ直行したそうな。日本円は117円と安い。へブロンがパレスチナ軍の管轄下に入った。等等。

9時、バスまだ?と聞きにいくと、飛行機が遅れて2時ごろの離陸になる見込みと言われ、くそうと思う。思えばビーマン、これで乗るの4度目だが、定刻どおり出発できたためしがない。やはり激安には理由あり。

昼食もここで食べることになってしまった。またあのメニューか・・・とつぶやきながらダイニングへ降りると、今日のメニューにはちょっと変化があった。チキンカレーとカレースープと生野菜と白ごはん。つまり、炒飯とポテトカレーがない。突然なので間に合わなかったのか、単にめんどくさいのか。

しかし、例のカナダ人は実はベジタリアンで、このままだと白ごはんと生野菜しか食べるものがない。ポテトカレーは?と控えめに催促してみたところ、20分後にポテトが煮崩れていないカレーが現れ、よかったね。しかし芋カレーごときで油断をしてはならず、このカナダ人の不運な話はまだまだ続く。

朝食の席でわかったことだが、彼は航空券の出発時刻が間違っていたために、私たちと出発時刻についての話をしなかったら(そしてビーマンが定刻に近い時間に出発していれば)、危うく午前いっぱい外出をして。飛行機に乗り遅れるところだったのだ。

ビーマンの航空券は自動発券ではなく、カーボン紙に手書きである。本来11:40の出発時刻が16:40となっており、当然だが本人はそのつもりでいた。旅行会社のレシートには正しい時刻が記されており、完全にビーマンのミスである。昼食時に「今日はテーブル変えてみる?」と聞かれたので、「変えようか、ツキを変えるために」と答えると、哀しく苦笑。しかし、彼の不運はコレだけではなかったのだ…

正午、例のボロボロのワゴンで空港へ。チェックインカウンターに並ぶと、散々待った挙げ句にやっと順番が来たカウンターで、「トランジット客はあっち」と無人のカウンターを指さされ、その前にセキュリティチェックを受けるように指示される。無人カウンターで待つこと十五分、白紙の搭乗券の用紙を持った男が現れ、私達の名前を非常におぼつかないキータッチで入力し始めた。ようやく入れ終えた頃、別の男がすでに搭乗客情報を印刷済みの搭乗券を持って現れ、「ボーディングパスはここだ」と言って搭乗券とパスポートを返してくれた。

ここでカナダ人レッツトラーイ 「トランジット客であることがわかっているのにツーリストビザを買うよう要求されて支払ったUSD50を返金してほしい」 → 「イミグレーションで支払い済みの費用はすべて返却不能!」と一言のもとに拒否され、さっさとその場を去りかかる。おいおい、このフル荷物はすべて機内持ち込みでいいのか?「何、まだチェックインしてないのか」 「今搭乗券とパスポートくれたとこやん…」 「では荷物をよこしなさい」といってクレイムタグを発行してくれたのはいいが、三人分の荷物が全てウチの夫の名前になっています。私のはともかく、なにかが起こったときにこのカナダ人が困るでしょう。(この人の運の悪さとビーマンの手際の悪さを考えれば、全く杞憂ではない)しかし係員は「名前は重要ではない!」ととんでもないことを言い捨ててさっさと帰ってしまった。カナダ人はキョーレツなショックを受けているようで、一言も声が出ない。

さて搭乗、BANGKOK→YANGON時と同じ機体だと相棒が言う。渡されたボーディングパスの座席は離れていたのだが、例によってガラガラなので一緒に座る。一時間ほどでカトマンドゥ到着。用意していた服をすべて着込んで降り立った私と相棒はちょっと拍子抜け。そんなに寒くないぞ。寒さに強い白人なんか半袖や。空港はバングラデシュのそれよりだいぶ出来が良く、降機客も少なかったのでスムーズに入国できた。TAXIは200Rs、例のカナダ人を待ってみたのだが、なかなか出てこない。なんかあったのだろうか。日が暮れてからの宿探しは難儀なので、気の毒だが、諦めて行くことにした。(伏線)

タクシーでThamel Street到着。一軒目はめちゃキレイだが250Rsとちと高めで部屋が狭い。二軒目、200Rsで一軒目の倍ほどの広さ。天井も高い。こちらにすることにして、とりあえず一泊。

夜、相棒が前回ここでばかり食べていたというAlice's Restaurantへ行く。高かった。でもばつぐんにおいしかった。風呂も入らずにばたりと寝る。

1997年1月18日土曜日

ダッカ自由行動の日

起床後、ダイニングで朝食。トースト&エッグと言えば聞こえが良いが、卵はともかく食パンは悲しい味だった。ジャムの替わりに強烈な蛍光色のゼリー状のものが添えてあり、もちろん口にはしていないが、なんだったのであろうアレは。

銀行で両替。USD1=Taka42というレート。さあ、どれほど使い出があるのだろう。徒歩圏内にマーケットがあるというので出かける。行ってみたが、どうしたわけか食材部門も含め、ほとんどの店がまだ開いていない。ダッカの朝は遅いのか。先に郵便局に言ってみた。小さい郵便局が人でごった返していたので、すごすごと引き返す。絵葉書なんかも売ってなかったし。

マーケットはぼちぼち開き始めていたが、ひなびた味わいのあったビルマの市場とちがって、ちゃちな工業製品を扱う店が多く、あまりおもしろくない。土産屋、骨董屋も何軒かあった。絵葉書を買う。1枚3Taka。5枚買った。13枚でUSD1という計算になるので、タイバーツだと一枚2B、ビルマチャットだと12~13Kyatで、両国に比べてずいぶん安い。が、絵葉書自体の質もかなりちがう。国内印刷だろうか。

のどの炎症をなんとかするために、みかんを探した。果物セクションに足を踏み入れるなり、「マダーム!!!」の集中攻撃を浴びた。「マダーム、Carry?」と叫びながら、頭にかごを載せた子供たちが寄ってくる。とても落ち着いて見ていられない。そのうち、私たちの中国語を聞きつけて、すいか売りが中国語をしゃべりだしたのには驚いた。どこで覚えたのだろう。

みかん、つやつやの大粒のをキロ5Takaで買う。ビルマではいつも8~10Kyatぐらいのを買っていた。それと比べるとちょっと高めだが、こちらのほうが大きくて味が良い。もっとも、マダーム攻撃から鑑みるに、ひょっとするとこの市場は上客相手にいいものをおいている市場なのかもしれない。

ホテルに帰り、廊下の突き当たりの大きなベランダに椅子を持ち出し、日に当たりながら絵葉書を書いていると、下の道に路上生活者とおぼしき子供たちが集まってきて、今度は「マダーム!ハングリー!」攻撃が始まった。小心者の私はなかなかゆっくりは座っておられず、尻尾を巻いて部屋に戻る。部屋は寒く、湿っており、異臭がする。昼も近いので、レストランへ逃げることにした。

昼食はチキンカレー、ポテトカレー、カレースープ、カレー炒飯、白飯、生野菜、以上。ブッフェ形式であった。味はまずまずで幸せである。

同席したカナダ人の気の毒な話を聞く。彼は私たちと同じ便でダッカに来たのだが、ダッカ空港の混乱のせいで、何の誘導も無いままにイミグレに並んでしまい。イミグレの役人に「君はビザを取得する必要がある。30日ビザがUSD50 。」と言われてしまったのだそうだ。そして彼もそもそもトランジットということをよくわかっていなかったせいもあり、そういうものかと考えてUSD50を1100THBで支払ってしまったのだそうだ。払ってからトランジットデスクに案内され、ホテルへの送迎を申し出ると、ではパスポートをよこしなさいといわれ、軽いショック。何で?との問いに対し、「あなたはトランジットパッセンジャーなので、ビザ無しで入国することになるので、ビーマンがパスポートを預かります。」とのこと。そこでほかのトランジット客にビザ代の件を尋ねると、もちろん誰も払っていない。つまり、やられたのだ。

私がレシートもらった?と訊くと、うん、と言って見せてくれたのは手書きの銀行のレシート。なんでイミ切れでビザ代払って銀行のレシートなのだろう。ようわかりません。明日空港で返してもらうように交渉すると彼は言うが、それは難しいとおもうなー。

絵葉書を出しに、郵便局へ行く。アジア地区へは10Taka、30円ぐらい?切手は単色刷りで、まるで日本の印紙のように味気なく、記念に買う気があまりおこらず、6Takaと2Takaを買うにとどめた。私はもひとつ心配だったので、ぜひとも目の前で消印を押して欲しかったのだが(発展途上国ではしばしば必要な確認である。でないとはがして転売する職員がいる。)、今日はもう消印を押す時間は終わり!と言われて、やむなく郵便局内のポストに投函した。この絵葉書はちゃんと届くのだろうか。(後日、日本の実家到着を確認。)

町をうろつき、ミネラルウォーターを買い、宿に戻って再びベランダで日に当たりながら午後を過ごす。ダッカは男性がめったやたらと多く、町で見かけた男女比率は100:1ぐらいの感覚であった。ムスリムの国なのだなあ。しかも本日一日で十指に余る野グソ(現在進行形)を目撃、インド亜大陸に到着したという実感がひしひしとわく。

夕食は昼と全く同じメニュー。ちょっと笑った。カレーとカレーとカレーとカレー。カレーの苦手な相棒はうなだれている。私はライムを大量に搾って、ものすごくすっぱいカレーにしておいしく食べた。

1997年1月17日金曜日

ビルマ最後の日

古道具屋でTIMEの神戸復興特集(96年1月号)を買う。K10。昨日はNewsweekのバックナンバーを、こことはちがう道端古本屋で眺めていたら、特集が台湾で、なんだか見覚えのあるような無いようなオッサンが表紙だった。誰だろうとしばらく立ち止まって考えていて、ふと思いついてひっくり返して日付を見ると、1982年3月号! うっひょー、15年前のNewsweek、あっ!このオヤジ蒋経国(蒋介石の長男)だ!

昼食は以前に食べたことのある薄餅(ぽーぴゃあ)屋で。薄餅(ぽーぴゃあ)とは福建南部の食べ物で、揚げてない春巻きのでかいやつである。甘辛いたれと、青海苔をつけて食べる。揚げてないやつを4本、揚げてあるやつ(つまり春巻)を2本食す。肉は入っていない。これが中華の喰いおさめになるかもな…。

300Kのタクシーを捕まえて、市街地からYMCAへ移動し、荷物をピックアップ。それから空港へ向かう。BIMANは、やはりといえばやはり、遅れた。お詫びのしるしに空港のレストランでお茶とサンドイッチが提供されたが、5mmのパンに1mmのチーズが挟まっていて、寂しかった。

やっと到着したBIMANは、ミャンマーに乗ってきたときのよりやや新しい、しかし同じ大きさの機体だった。1時間で予定通りチッタゴン到着。私たちは乗ったままでダッカへ行くのかと思いきや、全員荷物を持って降りろとの指示。人の流れに沿って歩いてゆくと、イミグレがあった。トランジット客も本当にここに並ぶのだろうか?係員に尋ねると、トランジットラウンジに行って、新しいボーディングパスを取ってこいとのことである。

トランジットラウンジで、首尾よく新しいボーディングパスを取得。ヤンゴンからは自由席であったが、ここから座席指定であった。係員に、「飛行機に荷物を置いてきたか?」とフシギなことをたずねられる。大荷物のほうはチェックイン時に預けたが…。そう告げたら、「では今すぐ飛行機からその荷物を取ってきて、税関へ急げ」との指示が出た。訳がわかりません。

そもそもダッカでトランジットしてネパールへ向かうのに、なんでチッタゴンで通関なの。ぜんぜんわからん。しかしここはバングラデシュ、非合理的で非効率的なこともいろいろあるのだろう…とあっさり納得というかあきらめ、飛行機の方へ戻ると、飛行機の腹の下に私たちの荷物だけがぽつんと二つ、地面に置いてあった。ひー。誰でも持っていけるやん。

税関へ行くと、荷物と役人と客で戦場のようであった。税関職員・イミグレ職員たち、誰一人制服を着ていないので一般人となんの見分けも付かず、この人たち誰!?信用できるのっ?って感じである。客一人につき係員一人がカバンを開けると、何人もが寄ってたかってカバンの中をごそごそ調べだす。うかうかしていると、小さなものをやられてしまいそうだ。実際、一人が私のタンポンに目をつけ、ごそごそやりだした。箱を勝手にべりっと破り、中身を取り出してはいろいろと調べだしたのである。そうこうしているうちにほかの係員たちもコレはなんだと騒ぎ出し、なにやら蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

それは「サニタリーナプキン」の一種だ!と主張しても、誰も耳を傾けない。サニタリーナプキンという単語を知らんのかもしれん。今思ったが、アンダーパンツが普及してない国での月経血の処理というのはどうやってるんだろう。しまいには個別包装をやぶって中身を分解し始めた。

「それはレーヨンと綿ならなる衛生用品である」
「確かに綿だ」

と、タンポンをほぐしながら難しい顔の係員。この先インド亜大陸でそれを補給できる見込みは無いので、頼むから無駄にせんといてほしい…。私たちはとうとう別室に連れて行かれた。別室で女性係員を呼ぶように強硬に主張。女性係員に粘り強く説明をすると、彼女は突然電球がともったような表情になり、「あなたは結婚しているのか?」

なんの関係がー。

「そこにいるのが夫だが。」
「しかし国籍がちがうし、姓もちがう!」

タンポンと私のマリッジステータスに何の関係があるのか問い詰めたかったがぐっと我慢し、ここでもまた英文が併記された香港の結婚証明が役に立ったのであった。ようやく私の荷物は解放され、チョークで大きくなにやらベンガル語で書かれたが、そのときには貴重な私のタンポンは好奇心あふれる係員たちにきっちりパチられ、ごっそり減ってしまっていたのであった。

再び荷物を預け、飛行機に戻った。再離陸。出張先のチッタゴンから駐在先のダッカに戻るという、日本の商社の男性たちが乗っていた。つまりここから国内線扱いか。しかし私たちはまだ入国していない(パスポートコントロールを受けていない)のだが・・・。えらい国に駐在してはるなあ…。

ほどなくダッカ到着。ぞろぞろと空港の建物に入り、予約済みのホテルの指示に従い、トランジット/トランスファーデスクに並ぶ。パスポートを取り上げられ、待つ。ものすごく効率の悪い仕事ぶりにもかかわらず、7人のトランジット客をホテルへ送り届ける手続きはたった一時間で完了した。

ぼろぼろのワゴンに乗せられて、連れて行かれたのはMID TOWN HOTEL。私は、その国のフラッグキャリアがトランジット客に斡旋する宿なのだから、てっきりエアポートホテルかそれに準じたようなホテルだろうとなんとなく思っていたら…

これだけ汚いカーペットは中国でもみたことがない。入るなり強烈な悪臭がした部屋は、余りのひどさにすぐに換えてもらったが、変えてもらった先のカーペットも大して変わりは無かった。窓の外30センチに隣の建物があり、窓を開けても換気にはならない。シャワーは当然お湯などでない。

しかもバングラデシュ、暑い国かと思ったら結構寒く、あわててセーターを着込むもときすでに遅し、二人とものどが腫れてきた。私は鼻水もズルズルだ。どうやら持病のカビ&ハウスダストアレルギーも出たらしく、たいそうツライ一夜になりそうだ。

私たちの部屋はレセプションがあるビルの隣の工事中の建物の中にあり、このたいそう治安のよさそうな国で、門も玄関もへったくれもなく、いわゆるひとつの「どっからでもかかってこんかい」状態。戸締りもへちまもない、開けっ放し、外部の人間入り放題である。私たちは部屋の窓、風呂の窓等々をしつこく確認したうえに、チェーンロックのないドアを片方のベッドで塞いで眠った。

1997年1月16日木曜日

ヤンゴンの寝釈迦

朝からヤンゴンの寝釈迦を見に行く。36番バスで20分、下車してすぐの小さい入り口から丘を登ると、丘の上にはどどーんという感じの大仏が横たわってい た。でかいぞ。全長65.83メートル、顔だけで7.31メートル、鼻は2.74メートルで、まつ毛は30センチもあるバチバチのすごいやつを植えてあ る。耳は5.39メートルのがだらりんこ。そしてめっちゃくつろいだ姿勢で寝ていらっしゃった。

かえってまた排骨を食べる。おいしいおいしい。しかしどうやら私、肉類をたくさん摂取すると軟便になる体質らしく、下痢ではないがおなかがクルクルだ。しばらく肉を控えてみよう。

夕方、実家に電話しに郵電局へ行く。すると160Kという値段のまま値上げされていないことがわかった。恐るべき安さだ。国際電話なのに3分で100円。 もちろん掛けた。しかし、3分100円の電話を掛けるためには、そのあたりに立ったまま45分も待たねばならなかったのだが・・・。夜、中華を食べに行 き、白菜一皿とオクラとなすびの一皿を食べる。やはり中華はうんまい。一人120Kx二人分。

1997年1月15日水曜日

本日はヤンゴンへの移動日

相棒は朝からヤンゴンのシュエダゴンパヤより14メートル高いと言うバゴの仏塔を見に行き、私は荷物の整理。

ヤンゴン行きの交通は、またしてもトラック。しかもスーレーパヤまで行かず、市中心から遠く離れた場所で降ろされた。折よく来たエアコンバスが市中心まで行くというのに乗せてもらうと、一人15K。やはり普通バスよりずいぶん高い。しかし乗り心地はたいへんよろしい。YMCAに入る。USD14の部屋が空いていてラッキー。早速排骨湯の屋台へ行き、ふたりとも二杯ずつおなかいっぱい食す。やっぱり中華はいいなあ。

1997年1月14日火曜日

休養日

昨日6時間もトラックに乗ったせいで、ふたりとも腰とけつが目覚ましく痛い。座ってんのがしんどいぐらいだ。部屋で休む。バゴーはかつてモン族の首都だったというが、現在は普通の街道沿いの町で、大仏以外は見るべきものもなく、市場もそれほど大きくない。

昼、おなかがゆるくなる。なぜだ。ひさしぶりに征露丸を飲み、茶を大目に飲む。熱や吐き気は無し。様子見。

1997年1月13日月曜日

チャイティヨの落ちそうな岩見物

8時起床。朝食に市場で買って来た濡米飯(もち米のごはん)を食べ、8時半、道端でバスを待つ。折よく!トラックではなく、バス(どうも緑の南海バスくさいが、中途半端に外装を塗り替えているのでイマイチ確信がもてない)が来た。バスは地平線まで続く田畑を走り抜けて行く。背中に大きなコブのある白いコブ牛をつけた牛車が土けむりをもうもうとあげながら、ゆっくりと進んで行く。ミャンマーで見た牛は必ず痩せていた。それも猛烈に。水牛はどんなところでもパンパンに太っているに、あれはなぜなのだろう。道は形だけ舗装されているが、実のところガタガタで、しかも土まみれだ。

45分の昼ゴハン休憩をはさんで、バスは11時半にチャイティヨ到着。少し離れた場所にピックアップトラックが集まっている場所があり、キンプンまでそれで移動。約30分。キンプンからは全くのトラック、屋根も座席もない荷台に乗り換えて、山頂を目指そうとすると、来た来た外人料金取り。私は諦めて普通の服で来てたので潔くオフィスに向かい、例の中国人だから米ドルがない作戦を鋭意展開していると、阿中が監視人に連れられてやってきたのでびっくり。初めてバレた!ロンジーはいてるのに。

結局二人合わせてUSD12を徴収され、ぷんすか怒りまくりながらトラックに戻る。トラックえらい山道を30分以上かけてえっちらおっちら登って行き、荷台の客はアクセルとブレーキの度にころころ転がった。阿中は昨日インド人の雑貨屋ではちみつの瓶を右足の親指の上に落とされ、爪にひびが入っている。にもかかわらず本日の(失敗した)ビルマ人変装作戦のために、靴をはけずにサンダルだ。荷台でころころ転がっているうちに客の一人に足をふまれ(私かも)、爪が割れてはがれて血が出ている。破傷風が心配だ。

トラックを降ろされると、そこから歩いて一時間ほどで山頂である。がけっぷちから転がり落ちそうな岩を遠目に見ながら、山道をじりじりと登って行く。暑くて埃っぽくてとてもしんどい。これをがんばっちゃうと、明日まる一日くたばって過ごすことになるなーと思いつつ登っていると、折よくトラックが登って来た。インド人の家族が包車(貸し切り)したらしい。ご家族にお願いし、50チャットで乗せてもらった。そのトラックも岩の真下まで行くわけではなく、だいぶ手前で降ろされた。(しかし歩けば一時間はかかったと思う)

さらに15分ほど登って岩へ。男だけが岩に触ることをゆるされている。愉快ではないが、大峰山とかもそうだよな。相棒が岩の下を覗きこんでいるところを写真に取り、岩をひとめぐりし、拝み、眺めると、もうここでできることは終了。ぜひとも夕陽を見たかったのだが、バゴー行きの最終便(バスとは限らない)が6時ごろだというのであきらめ、急いで山を降りる。

キンプンでピックアップに乗ると、行きしなに道を教えてくれたお爺さんが乗って来た。目の青い、顔の長い老人だ。ネパーリーかとも思ったが、だとすると少しぐらいは英語が出来そうな気がするので、違うだろうな。もしかして植民地時代の遺児。。。それはさておきバゴー行きの便を待つ。チャイトーの路傍茶屋で待っていると、やってきたのはやはりというべきかバスではなくピックアップトラック。料金はバスと同じ150チャット。この後にバスが来る見込みは限りなく低いと思われるので、仕方なく乗る。けつが痛い。しかも、混みこみのきちきちだ。

行きに食事休憩が有った場所で休憩。再出発しようとするもなかなか出発しない。乗客の一人であるお婆ちゃんを、全員で引きずり降ろそうとしているが、お婆ちゃんは降りない。(ここで一つビルマ語を覚えた。「セッセッセッ!」は「降りろ!」だ、たぶん。) みんなすごーく困った顔をしていて、お婆ちゃんは一人でだだをこねまくっている。ドライバーは怒っているし、客も怒ったり苦笑したりだ。どうやらこのお婆ちゃん、「わしはマンダレーにいくのじゃあ!」と主張しているらしい。しかしこのトラックはバゴー経由ヤンゴン行きで、全然反対方向である。お婆ちゃん、どうやら痴呆症らしい。しかし口はとっても達者で、乗客、集まって来た見物客の説得にもがんがん口答えしまくってて、一向に降りない。「わしはマンダレーへ・・・」

そのうち一人の若者が、「お婆ちゃん、あっちにマンダレー行きのバスがきたよ!」と暗闇を差してお婆ちゃんの気を引いた。「わしはこのトラックでいくのじゃあ。」「でもこのトラックはいかないよ。マンダレーに行くのはあっちのバスだよ。」「絶対か?絶対か?」とおぼしき会話ののち、お婆ちゃんの動揺を見て取った例の青い目の老人が突然、「あのバスがマンダレー行きだ!みんなであっちに乗り換えよう!(推定)」と、大声で呼びかけた。即座に老人の意図をくみ取った乗客が全員腰を浮かせ、マンダレー行きはあっちのバスだ!と口々にわざとらしく叫びながら下車、つられてお婆ちゃんも不安そうに下車し、見物客のひとりに手を引かれてあちらへとふらふら歩き始めたところで乗客、速攻でトラックに飛び乗った。三人いた僧侶など、入り口から乗るのももどかしく、窓から乗り込んだぐらいだ。乗客が座るのもまたずに、トラックはきゅーんと出発。ここまでたっぷり20分。お婆ちゃんはあのあとどうしたのだろう。ちゃんと皆に騙されて、家行きのトラックに乗せてもらえたのかなあ。

明かり一つないたんぼの中の道を、トラックは頑張ってぶんぶん走り、バゴー到着は九時半。急いで軽く食事をとると10時過ぎ、風呂に入って十一時。ぐーーーーーすか寝た。時間と体力を使った一日であった。

1997年1月12日日曜日

宿替え、荷物の整理ほか

この宿、どうも売春宿くさいので、別のところに移ることにする。移り際にUSD6でどうかと言われて気分が悪い。最初からそう言え!

今日の宿はUSD7、バストイレ付き。トイレは洋式ではないのだが、とっても清潔だ。しかし朝メシはついていない。昨日の宿にもなかった。もっとも、インド人のTea Shopに行けば、ひとり30Kyatで済んでしまう。

昼ごはんをビルマめし屋で。カレー、ごはん食べ放題、冬瓜スープ、サラダ、もやしの漬物でわりかし満足。70Kyat。この街の中華は200Kyatぐらいするので、そしてあのMSG味ではなかなか食べに行く気がしない。ヤンゴンに帰るのを楽しみにしとこうっと。

部屋で荷物の整理、お金の計算、はちみつライムを性懲りもなく作って飲む。果たしてまたもや気分が悪くなる。大丈夫と思ったのに。晩メシをパスして寝る。

1997年1月11日土曜日

Bagoの涅槃仏(全長55m)

Bagoに到着。というか、Bagoにはまだ着かぬのか?と運転手に尋ねると、何!おまえらはBagoで降りるのか!そうかしまった!と、とんでもないことを言い出すので慌てた。運転手は華人で、会話ができたのだ。結局、輪タクが客待ちをしているところで下ろしてもらい、Bagoへ引き返した。2キロもなかった。助かった。

San Francisco G/Hというアレな名前のもひとつな宿、USD8ツインで、ミャンマーでは初のバストイレ付き。しかし、あまり清潔な宿でもなかった。とりあえずシャワーを浴びて旅塵を落とす。

朝の托鉢に行くお坊さんの列がすごい。ここには国内でも最大の僧院があるそうで、先頭のお坊さんも、最後尾のお坊さんも、どこにいるのか全く見えない。一列にきっちり並んで、ぞろぞろ歩いていらっしゃるが、全くの切れ目なしにいつまでたっても列の終わりがない。何キロあるの、という感じ。

さて腹減りの我々は、インド人の店で茶と油条を食べて朝食とした。ガンジーとネルーの絵が貼ってあった。お茶が10Kyat、油条が6Kyat。町をぶらついてみる。小さな町、というよりは、街道沿いに建物が散在するだけの場所、完全に涅槃仏のお寺の門前町という感じ。

昼、中華屋で米粉と炒飯を食べ(ひどいMSG味だった。最近素朴な味の料理ばかり食べていたので、よけいに舌にキタ)、目的のBagoの涅槃仏を見物に出かける。今日はふたりともビルマ人変装大作戦で頑張ってサロンやロンジーなどを穿いているのだが、相棒は実に様になっているが、私はどうも…、なにがちがうのだろう?(けつのデカさです)

相棒がおりこうにも裏口を見つけ、そこから入った。涅槃仏はちょっと信じられないデカさだった。全長55メートルだそう。そうですね、コンバトラーVより2メートル背が低いです。小指だけでも3.05mですってよ。私と相棒がそれぞれ気になるポイントを好きなように眺めまくっていると、門番のおじさまが私のところにやってきて、問うた。「Tourist?」 はいそうです。そのとおりです。なんでバレるのだ(バレいでか)。中国人なの。米ドルは全然持ってないの、と言ってみると、ほんじゃ200Kyatでいいよと言われ、素直に払う。外人料金はUSD2なので、ややトクをしたと思うことにする。しかし納得いかんのは、わたしとおじさまの目の前をのそのそ動き回っている相棒は全くマークなしのフリーであるということである。なんでバレへんの。

宿に帰り、五時頃ちょっと横になったら、ふたりともそのまま深い眠りに落ちてしまった。

1997年1月10日金曜日

名鉄バスでバゴー(Bago)へ

本日はBagoへの移動日なり。Bagoは巨大な涅槃仏で有名な町である。ここからは、十数時間はかかるはず。

出発前に市場で米線を食べる。30Kyatぐらいで私には激ウマなのであるが(小皿に盛ってくれる高菜と、ライムを絞ったのを足すと、スープの程よい酸味がたいへんよろしい)、相棒は全く受け付けないのである。残念ね。これと同じような米線は、雲南でも何度も食べた気がする。

さてトラックで長距離バスを拾えるジャンクションまで25Kyat、そこで首尾よくバスを止めることができた。本日のバスは名鉄バス。名古屋のバスらしい。初詣前売り割引きっぷの広告が貼ったままなっていて、信長「初詣は速く行くに限る」、秀吉「皆で楽しく参るが一番」、家康「ゆったり行きたいのう」 いざ、初詣!、などというめでたい広告を、暑い、乾いた1月のビルマで見るのはしみじみ感慨深い。

席は前も横もきっちきちに改造してあり、足の置き場もないぐらいであった。しかし、市バスを長距離バスに使っているので、馬力はそれなりにあるが、音が出るだけで速度は全然出ないのよ。ぶんぶん走る。エンジンが頑張っている音を聞きながら、相棒と寄りかかり合いながら眠る。

1997年1月9日木曜日

蜂の巣が効きすぎて倒れる

今日の市場はとっても賑やかだ。昨日は市が休みだったからなのだろう。いつもより売っているものも売り手も買い手も、バラエティに富んでいる。少数民族がたくさん買い物に来ていた。市の日には高地から降りてくるのだろうか。

いちごを発見!豆のように小さいが、いい匂いだ。両手に山盛りほどで50Kyat。ヘチマ大の、はちみつを取った後のはちの巣を並べて売っている少女がいた。相棒、早速二つ買い込んだ。のどに良いのだそうだ。二つで50Kyat。

宿に帰り、湯を沸かし、はちの巣を刻んで湯に溶かす。と、浮いてきたのは黄色い蝋と蜂の子、白い、幼虫。はっきり言うと蛆虫的なやつ。うっひょー。私は全身総毛立ったが、相棒は「わー」とか言いながらふうふう吹いて避け吹いて避けしながら、そう、まさにふだん中国茶を茶っ葉を避けながら飲むように、上手に飲んでいるではないか。恐ろしいやつ。

私はと言うと、布で濾したらええやん!そうそう!などと言いつつ、ハンカチでウジ虫、ちがった蜂の子と蝋のかたまりを濾過し、ライムをきゅっとしぼってうまいうまいと飲んだのであった。我ながら信じられん神経の太さだ。

ところが、しばらくして急に気分が悪くなってきた。といっても、「気持ちの悪いものを我慢して食べたから気持ち悪くなった」というタイプの気持ち悪さではない(はちみつライムは十分おいしく飲みました)。相棒がああしまったという顔で言うには、はちみつよりもはちの巣そのもののほうが漢方の上では重要で、それなりに強い薬なのだそうだ。解熱・消炎効果があり、妊娠中・生理中の女性が摂取すると、体温が下がるという。ほんまか。

横になって休むも、気分が悪いのはおさまらない。相棒が市場へ生姜を買いに行き、熱い生姜茶を作って飲ませてくれたところ、午後には気分は収まった。はちみつ自体にはこの効能はないそうなので、はちみつをぺろぺろ舐めることにする。

1997年1月8日水曜日

川向うの集落へ散歩に

朝食はJoy Innと同じタイプだった。マンダレーが懐かしい…、食に困らぬ街だったのう…。相棒の気管支炎、よろしくない。炎症と言うより、痰が出まくっているようなのだ。本人もしんどそうだ。旅を切り上げて帰るか?ともふと思うが、私のカラコルムハイウェイのことを考えると、たぎる思いが爆発しそうになる。七年間行きたいと思っている場所に、一度は自身の決定で、二度は自信ならぬ身の都合によって決行を延期され、ついに四度目の断念になるかと思うと、ちょっと精神の平衡を失いそうだ。

散歩に出る。川向うの集落で、葉巻の家内制手工業の現場を見る。農閑期の副収入なのだろう、一日500本は巻くそうだ。その先では、ポン菓子を臼で挽いて粉にしたものを、握って団子にしていた。見ていたら「食べる?」とひとつくれた。こちらは売り物ではないらしい。うす甘くておいしいかった。

LPで不味いと紹介していためし屋に行く。別にまずくはなかった。というより、他と同等にうまくない味だった。しかし、他よりだいぶ安かった。

1997年1月7日火曜日

Taunggyiへのサイドトリップ

朝食が貧しく、食べ物がアレだとすぐに機嫌が悪くなる相棒のご機嫌が悪くなってきた。備蓄燃料(脂肪)のない人はたいへんである。朝食は薄いパンとお茶とくだもの。卵なし。しかもお湯が出ず、朝はトイレの水も流れず(流さずに出るのはとても精神的にくる)、これでマンダレーと同じUSD8というのは納得いかんなあ。マンダレーではお湯は24時間じゃあじゃあ出て、清潔なタオルが提供され、パンはおいしいのが焼きたてて食べ放題で、卵は二つ、注文に応じて調理してくれた。ぐぬう。

宿の印象が悪かったせいではないが、インレー湖自体の風光も、湖のそばにいる限りは正直言って大理より優れているという感じはしなかった。めぼしい観光地を小舟でまわってしまうと、あとは正直いってすることがない。散歩かサイクリングかトレッキングかというところだが、実は湖畔は湿地帯で徒歩でも自転車でも入って行けないし、トレッキングはガイドと車を雇う必要がある。それでインレー湖で長居をすることは諦めて、西に移動してTaunggyiという、外国人に許可された最西の街に行ってみることにした。

交通はトラックしか無し。トラックで一時間、途中から道はぐんぐん登り始め、インレー湖を見下ろす景色のいいことといったらない。遠目のほうが美女なのか。

さて、Taunggyi自体は特に魅力的な街ではなかった。ただ、でかい街なので市場の規模が大きく、それはおもしろい。私としてはぜひ一泊してみたかったのだが、宿を探すとUSD10以下の宿がなく、それも何やらちょっと荒れた感じの宿ばかり。外国人がここから西の国境付近の地域に入れないのは、この先が主要民族による中央政権のコントロールの届かない地域、パキスタンで言うトライバルエリアに当たるから。この先をずーっと行くと、中国・ラオス・タイとの国境地帯です。つまりアヘンの栽培地。

東部のThaziかMelktila行きの交通を探すも、バスはなく、ヒッチは相場の倍をふっかけてきて譲らず、これも断念。インレー湖に戻ることにした。Joy Innはどうも好みに合わなかったので、運河に面したGolden Duck G/Hに行く。ここは最も安いダブルがUSD4なのだが、それは床の上にマット直敷きなので避けて、USD6のツインに入る。建物は木造だが部屋はJoy Innより広く、窓からの眺めもよろしい。湯も水も出た。

1997年1月6日月曜日

フローティングマーケット

本日は5日に一度の市が立つ日ということで、ボートをシェアしていくつかの観光ポイントにお出かけすることにする。同行者は台湾人の奥さんとハワイ人(チャイニーズと白人のミックス)の旦那さんのカップル。ご主人の方は新潟県で四年間日本語を教えていたとかで、日本語がかなり話せた。

フローティングマーケットは半分以上がお土産舟で、何も買う気がない私達にはもひとつ退屈であった。きゅうきゅうに混み混みの市場をぬけて、大きなお寺へ行く。とっても観光地なお寺で、揚げ豆腐を一つ買おうとしたら50Kyatと言われてびっくり。昨日まで毎日食べてたサモサは5Kyatだったんだもん。100Kyat出して10皿以上あるセットメニューを食べていたのよ。

もうひとつ、本当の名よりもJumping Cat Monasteryという名で知られるお寺へ行く。ここのお坊さんは(余程ヒマらしく)、何匹もいる猫を、輪っかをくぐって跳ぶように訓練しては、観光客に見せているのである。猫は大小取り混ぜていろいろおり、可愛かった。そして大きいのも小さいのも、確かにぴょんぴょん跳ぶ。ここでは客にお茶と炒り大豆を馳走してくれるので、ついついみんな長っ尻になる。しかし猫の有無にかかわらず、ここが最も良かった。みごとな木造の本堂に、十を超える様々な様式の釈迦像があった。

二時過ぎに町に戻り、軽く食事をして町の市場に行ってみるも、賑わうのは午前中だということで、ずいぶん閑散としている。みかんと木瓜を買って、本日はおしまいである。お湯が出ないので、風呂にも入れない。

1997年1月5日日曜日

Inle湖畔の集落に到着

朝4時半発のバス、のはずだったが、結局バスがBaganを離れたのは六時すぎである。午前中には乾いた平原をひたすら走っていたが、昼食のあとしばらくして、道は上りの山道に変わった。くねくねしたつづら折りの、舗装があちこち剥がれた道で、雨が降ればすぐ流れていきそうだ。午後四時頃から道はややなだらかになり、広い盆地を二つ抜けて、Shwenyaung到着。ここからバスをトラックに乗り換えて、Inle Lakeへ南下するのだ。30分ほど。

六時前にInle湖畔の集落に到着するも、G/HがBaganよりなお高い。基本的にひとりUSD5で、ダブルでUSD10。タイやインドネシアだと、ダブルベッドの部屋にひとりで泊まっても二人で泊まっても同じ値段なので(タイではひとりで泊まって女性を連れ込むとその費用を取る宿はある)、安くついていいのだが、ミャンマーではそうはいかんようだ。

ダブルUSD6の宿が一軒、しかしあまりキレイではない。バス・トイレが共同なら、事実上外国人専用の宿でないとちと困る。トイレの使い方がね。使ったら流してほしいの。ここはどうやら外国人を泊めるライセンスを取ったばかりのようで、滞在客はいまのところ現地人のほうが多かった。他の旅行者から勧められていたので探しあてたInle InnのダブルUSD8の部屋は、改修とともになくなっており、Joy InnのUSD8にチェックイン。Baganの宿よりはやや広い。運河に面したベランダに、椅子がいくつかと机が置いてあるのがまずまずありがたい。

夜九時、こてんと眠る。

1997年1月4日土曜日

休養日

今日、Inle Lake(インレー湖)へむけて発つ予定だったが、チケットが昨日時点で売り切れであったため、一日余計に滞在することになった。市場などをぶらぶらし、お茶を飲む。休養日。

1997年1月3日金曜日

抗生物質を探しに市場へ

朝から市場に行って抗生物質を探し直す。(抗生物質を探しに市場へって、書いててもなんかおかしい)。中国製だがアンピシリンが見つかった。一粒3Kyat、もう少し探すとタイ製が4Kyatであった。値段の安さにも驚くが、なにより抗生物質の粒売りというのも初めてだ。これまではだいたい10カプセル1シートのセット売りを買っていた。もっと無いのかいろいろ見ているうちに、bronchitisに効くと明記してある、そして香港でも見覚えのある薬が出てきた。これは高く(笑)、一粒7Kyatもする。とりあえず30粒買った。

昼からまたしてもチャリを借り、例のAnanda寺前のめし屋で昼ごはん。相棒は薬がとても強いらしく、寺院の木陰でうとうとと昼寝。いい気持ち。夕刻、白いベル型の大きな塔のある寺院から夕陽を見て、本日の活動はおしまい。宿付近にはろくなメシ屋がないため、朝、市場で買いおいたパパイヤふたつとトマト5つを食べて、眠る。

1997年1月2日木曜日

仏塔で大理石の床石を奉納

相棒、気管支炎だろうか。呼吸のたびに痰がごろごろ鳴っていいて、咳もあり、しんどそう。夜によく眠れない。今日は朝起きられずに、朝ごはんを食べはぐった。Teashopでサモサを食べる。揚げたてはおいしいのだが、昨日揚げて一晩たったのはちょっとね。

私達を宿まで連れてきてくれた三輪タクシーのおじさんと市場で会う。村に医者がいるというので場所を教えてもらったが、医者(白衣も着ていない)に診療費を聞くとUSD25と言うので相棒が速攻で引き下がった。香港でもわたしらが行くような医者はもうちょっと安いがな。USD25というと4000Kyat強ぐらいか。結局市場で薬局を発見し、中国製の、漢字表記しかなくてイマイチようわからん抗生物質を買った。それも怖いけどねえ。タイで買いだめしてきた咳止めがまだたくさんあるので、それで乗り切ることにする。

チャリを借りて再びBaganへ向かう。ぐるぐる回る。赤茶けた、乾いた地に朽ちかけの塔がぽつぽつと並ぶ。不思議な光景である。一昨日の店で昼ごはん。前回は13皿だったが、今日は11皿だ。そしてその消えた2皿が美味かったのである。くやちい。

今日はガイドブックを忘れてきてしまったので何が何やらさっぱりわからないまま、仏塔をいくつも巡る。ある仏塔で大理石の床石を一枚50Kyatで買い、名前を書いて奉納した。マレーシアのペナンや、タイのチェンマイでも同じように瓦に名前を書いて奉納したことがある。瓦も床石も、私達が死ぬ日まで、そして死んでもなお、私達の名とともにそこにあるだろう。新婚旅行にはふさわしい記念だ。(そうか?)

レリーフの美しい、眺めの良い仏塔で一休み。それから、最も大きな仏塔へ、何度も道に迷いながら行く。たどり着き、塔から夕焼けを見る。

1997年1月1日水曜日

相棒の体調よろしからず

宿の朝ごはんを食べ足りず、なじみのTea Shopでサモサを食べる。揚げたてはおいしいね。

相棒が喉が腫れ始めたというので、市場へ薬を買いに出かける。探し回るも、大した薬が見つからない。タイ製ののど飴と、インドネシア製の咳止めシロップを買う。このシロップは小分けパックになっていて、見た目がシャンプーの小袋そっくりだ。チューナーが壊れていた相棒の短波ラジオを修理。100Kyat。

新年ということでちょっといいものを食べようという話になり、LPご紹介のレストランへゆく。豚肉と黒豆の料理が200K、魚の天ぷらが350K、お茶が20K等々。中華屋ではなかったので、味はどうもなんか食べ慣れない味であった。合計680Kyat。

夜、他の日本人旅行者と屋台の麺を食べに行く。脂っこかったがまあまあの味、しかしにんにくたっぷりで、歯を磨いていても口が臭くてイヤ。でも50Kyatでスープ付きは安いよな。