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書き続けている日記のうち、旅行記をここにまとめておきます。右サイドメニューの「その他の旅行」から各旅行の目次に飛べます。サイドメニューの下のほうの「痩公胖婆400天渡蜜記」は、一年と少し(1996/03/31 - 1997/06/01)にわたった新婚旅行の記録の目次です。気が向いたときにぼちぼちあげています。

1996年12月31日火曜日

チャリでバガン観光

ここの朝食は、やはりUSD3の差が大きく、マンダレーよりかなり劣る。パンがインドネシアで見た6-7センチ四方の薄くて小さい食パンである。もちろんおいしくない。卵は一つ、フルーツはバナナだ。パンは2枚でおかわりなし。しかし私達、だんだんせこくなるなあ。一円一銭を争う旅になってきた。

自転車を借りる。100Kyat/日。インド製の座高の高いチャリで、私にはちょっと怖かったが、まあなんとか乗る。Niang UからOld Paganまでの道をえっちら走り、いくつかの仏塔を見る。どれも美しいが、なにしろ2500個ぐらいあるので、どこから手を付けてよいやら全くわからない。とりあえず目についたものから手当たり次第に見物してゆくのみである。

ヒル、道端のビルマめし屋でひるごはん。ベジタリアン100K、ノンベジ150Kとのことで、それぞれ一つづつ頼んだ。そしたら出てくるわ出てくるわ、皿が13皿、スープが2杯、ご飯が山盛り。食べきれない。しかしあとから来た日本人が値段を確認せずに注文してふたりで550K払っていたので、客によってお勘定が違うというのはもしかするとビルマのめし屋では一般的な習慣なのかも知れない。ようわからん。

めし屋の向かいの、Ananda Payaに行く。11世紀の木製の、9.5mもある仏像(珍しく立ち姿)が四体あった。しかし、ここで私が嬉しかったのは実は仏塔でも仏像でもなく、またしても「リス」なのであった。遺跡の周りの木から降りてきて、そのへんをたかたか走り回っていた。可愛いグレーのリスだった。

自転車で走り回ったにもかかわらず、昼食を食べすぎたため、夕食をとる気が全くおこらず、木瓜(パパイヤ)を買ってきて食べて寝る。なんと寂しい大晦日であろうか。しかも相棒、またしても体調よろしくなく、薬を飲んで10時ごろには就寝。

1996年12月30日月曜日

仏教遺跡の地Paganへ

朝9時のバスでマンダレーを発つ。くそう、なんてこったい補助席ではないか。しかも背もたれの具合が悪く、もたれると後ろの人とぶつかりそうになる。

目的地はNyaung-U、Pagan観光の拠点となる町である。何度かの休憩&タイヤ交換の後に、夕方6時前にようやく到着。輪タクは50Kyatで宿まで運んでくれた。マンダレーの宿でオランダ人女性が教えてくれた宿に入る。New Paganから来たと言ってUSD10のBagan Area入場料を逃れる。これも他の旅行者から教えてもらった方法である…・部屋は各部屋で、窓が二面にあるダブル。こんなに安いんなら、もっと早くマンダレーから引っ越してきても良かったな。

しかしうまくいかないもので、マンダレーと違って安くてウマいメシ屋が見つからない。結局田舎なので、印僑・華僑がおらんのだ。インドメシ屋は安いし、中華屋はウマいが、ビルマめしはどうものう…。

屋台に毛の生えたようなめし屋に座り、150Kもする鶏と白ごはん二つを頼んだら、値段を確認してから注文したにもかかわらず360Kを請求され(マンダレーの中華屋でたらふく食べてもそんなに払ってない)、白々しく大げさに驚いてみたら客中の視線を浴びた女主人は流石にきまりが悪かったのが、即座に210Kに要求を下げた。それでも安くないと思うぞ。

1996年12月29日日曜日

バックパック改造と翡翠市場

相棒のバックパックには鍵がかからない。私は以前からそれが心配だった。相棒も気にかかっていたらしく、鎖を使って鍵をかけられるように、デイパックに簡単な改造を施すことにした。五ヶ所にベルトを輪っかにした舌を取り付けてもらい、そこに鎖を通して南京錠を掛けられるようにする。改造は30Kyat、一メートル強ほどの鎖を60Kyatで購入。

玉器市場(Jade Market)があるというので、二キロほど歩いて見物に行く。香港と違って店どころかアーケードも何もなく、道端に男たちが固まって立っているだけだった。近寄ると、白い紙の上にいくつかの翡翠を乗せたものを手のひらの乗せて、通行人に見せるともなく見せつつ、石をいじくる。石は、素人の私がどうこう言えるものでもないのだが、色が薄かったり、透明ではなかったり、日々が肉眼で見えたりなどして、あまり香港人好みではなさそう。言い値はだいたい40000Kyatぐらいから。

夕食は昨夜の店の「インドか日本かイギリスかわからないカレー」。なにしろおいしくて、そしてたったの40Kyat(30円)なのだ。

1996年12月28日土曜日

マンダレーのビルマおやつとお茶

このホテルは朝ごはんがいい。インドネシアの朝ごはんは申し訳程度だったが(ビスケットのように小さくて薄いトーストが二枚、お茶、バナナなど、運が良ければ卵がつく)、ここでは立派な焼き立てトーストが三枚(追加可)、ジュース一杯、お茶かコーヒーが二人でポット一杯、ミルクは別にミルク入れに一杯、卵は二つで、調理方法は注文できる(ボイルドエッグ、5分、とかね)。果物は日替わりで、冷たいオレンジ、パパイヤ半分、バナナ2本など。バターは自家製と思しきやつが小皿にでん!と盛られてくる。ジャムも、アプリコット、いちご、オレンジなどが日替わり。

今日はビルマおやつを食べ歩いた。小さい揚げパンみたいなのや、コメの粉を練ってあげたやつ、もち米を竹の筒に詰めて蒸したあと、5-6センチの長さに切ってやはり揚げたもの(これは白米のと紫米のと両方ある)、などなど。しかし実は一番美味しかったのは、「なすび・じゃがいも・苦瓜の天ぷら」なのであった、

本日の私のひらめき。バックパックやデイパックのほころびを、道端ミシン屋さんに直してもらえば、私が繕うよりずっとうまくて丈夫ではないか!私っておりこう!!!

そこで二箇所破れている私のデイパック、一箇所破れている相棒のバックパックを持って市場に行き、なんと30Kyatできれいに修理してもらった。りんごひとつ分のお値段である。
修理を待つ間、市場横のお茶屋でビルマ茶を飲む。激甘激濃のロイヤルミルクティーだ。ちっちゃいカップで飲むこの濃厚なお茶は、乾いた気候に合ってばつぐんにウマい。ものすごく薄い、なんとかチャパティに似たおやつは温泉せんべいに似た味がした。かまどで30秒ぐらいでカリカリに焼き上げてくれるので、香ばしい。

夜、道端インド人の店でビリヤーニとポテトカレーを食べる。このポテトカレーがまた、日本のカレーそっくりの味で私は驚いた。日本のカレーはイギリス風らしいので、イギリスの植民地であったビルマに残る、イギリス風カレーということなのだろうか?

相棒はココナッツライスを頼み、これが彼的には大失敗。わたしが名前から予想したとおりの味である。ビーフジャーキーも食べてみた。まあまあ。私の体調は完全に回復したが、代わって相棒の体調がよろしくない感じに。

1996年12月27日金曜日

旧都Amanapuraへの日帰り旅行

旧都Amanapuraへの日帰り旅行。トラック改造バスで30分、1.2kmの木造橋を見にゆく。基本的な橋桁は200年前の木材で、しかも作った当時からして新しい木材ではなく、遷都後の旧王宮の廃材を利用して作ったという。湖を横断して、手すりなしの木橋を、対岸まで歩く。床は木材をきっちり詰めてあるわけではなく、それぞれ2-3センチずつ隙間が空いているので、下を見るとなかなか怖い。途中いくつかの四阿があって、アイスクリームやバナナなどを売っていた。

マンダレーに戻り、いつものごはん屋に行く。LPではShan料理を紹介されていて、確かに看板にはShan Dishとか傣族菜(中国の傣族はShan/Thai/Lao、どれに近いのだろう?)とか書いてあるが、どうみたって華僑経営の中華である。オヤジも従業員も中国語だ。

つまり我々にはとても美味い。しかも、通っているうちにどんどん安くなってきたので可笑しい。外国人には120の皿が、私達には80だと気付いたら、以前には200と言われてそのときには食べなかった豚足が、今日頼んだら120だった。そして野菜も今日から80から70に下がった。

今日は、以前からやってみたかった「トラックの荷台のステップ立ち乗り」できてちょっと嬉しかった。次は荷台の天井にチャレンジしてみたいものだ。

1996年12月26日木曜日

Mingunの塔と鐘

6時起床、7時に船着き場に向かい、集まってきた人々と共同でボートをチャーターして、Mingunへと向かう。ビルマ最大の仏塔跡がある遺跡である。イラワジ川を遡ること一時間、イラワジカワイルカが見られればいいなーと思っていたが、そんな幸運はなかった。マンダレー対岸のMingun到着。

仏塔は完成すれば高さ150mの巨大パコダになる予定であったが、LPによると王の死により中止、中文ガイドブックによると予言者が塔の完成とともにビルマは滅びるだろうと予言したために中止、記載の差はあるがとにかく中止されて、今は土台の方形部分だけが残っている。しかしまあ、なんと巨大な台座であろうか。この台座部分には1800年台の地震のためにひどい割れ目があちこちに走っており、それがまたいっそう諸行無常的で見ものなのであった。観光客用の階段は、この割れ目に沿うように作られている。上まで登ると、頂上からの長めもまた素晴らしい。

Mingunのもう一つの見どころは、世界で二番目に大きな鐘。一番大きな鐘はモスクワにあるが、それは割れているそうなので、割れていない鐘としてはこれが世界最大だそう。この鐘は90トンあるそうです。

この鐘も、仏塔を作ろうとした王が作ったものだそうで、よくよくでかいものが好きな王だなあ。予言の「国が滅びる」というのも、こういうのが国力を疲弊させると隣国とかに攻め込まれますよ、という警告であるかもしれず、王の死とはそれを心配した即金なり王族なりが、王を暗殺しちゃったのかも知れない。妄想妄想。

帰りに市場で巨大な西瓜を買い、二人で交代でふうふういいながら持って帰ってきた。西瓜には解熱効果があるため、なかなか下がらない私の微熱が下がるようにとの相棒の配慮か、単に自分が食べたかったのかどちらであろう。

果たして熱は下がった。

1996年12月25日水曜日

宿のクリスマスディナー

どうも具合がよろしくなく、引き続き薬を飲む。鼻水がひどい。

相棒はここの市場がお気に入りのようだ。大きな市場がふたつもあり、売っているものも幅広い。ミャンマーではどうやらまだスーパーが普及していないため、すべての商品がとりあえず市場で売られているようなのだ。

昨日の手作りアイスクリーム屋のアボガドアイスが大ヒット。いくつでも食べられそう。

今日はクリスマスなので、ホテルが宿泊客にクリスマスディナーを振る舞ってくれた。ステーキとチップス、野菜、パン、どれもおいしい、心づくしの晩餐だった。ごちそうさまでした。

1996年12月24日火曜日

マンダレーの丘に登る

クリスマスイブです。だからといって何があるわけでもなく、特別なことを言えば私が久しぶりに気道感染を起こし、喉が腫れ上がっていてつばを飲み込むのもつらく、黄緑色のねとねとの鼻水がつまっていて顔の上部前面が重く頭痛がし、歩くと振動のたびに歯が痛いという、それだけのことである。

しかし体はなんともないので、とりあえず抗生物質(タイの薬局ならどこでも勧められるアモキシシリン)を飲んで、午前は安静に。午後からマンダレーヒルに出かける。門票はUSD4もしくは400Kyatであったが、昨日のセコ作戦を本日もやってみた。成功。なお相棒はこの日Longyi(ミャンマーの民族衣装、男性も穿く巻きスカート)を穿いていた。腰が細いのでよく似合う。

丘をふうふう言いながら登る。山裾には何百もの仏塔を従えた大仏塔や、広大な王宮跡が広がっており、長めのよろしいことと言ったら無い。また、マンダレー盆地がみごとにぺったんこの盆地である地形も見て取れる。

落日は美しかった。登ってきたのとは別の道を降り、バスがなかったので通りかかった三輪で帰ってきた。ここの三輪タクシーは、自転車の横のサイドカーに、二人背中合わせに座る形式である。初めて見る形。

アイスクリームとばんごはんを食べて、本日は終了。

1996年12月23日月曜日

マンダレー到着

なんとも驚いたことに、バスは死ぬほど寒かった…。但しガラガラだったので、ゆっくり横になって眠れた。これは助かった。

朝の7時ごろにマンダレー到着、ホテルの集まった通りまでのトランスファーがバスチケットに含まれており、2-3軒見て歩く。ヤンゴンより安くてほっとする。ツインUSD8の宿に投宿。マンダレー市内から、郊外のマンダレーヒルまで一望できる明るい部屋で、壁は薄いがまあまあの広さであった。但しエレベーターなしの六階である。六階には広めのベランダが付いていて、洗濯を干すのに都合がよろしい。

シャワーを浴びて眠り。バスで風邪を引いたらしく、昼ごはんの後にもまた眠った。寒くて仕方がないので相棒の毛布を貸してもらい、相棒は買ったばかりの寝袋で寝た。

1996年12月22日日曜日

シュエダゴン・パヤを見物

マンダレー行きのバスチケットを書いにゆく。LPではUSD10もしくは1000Kyatというあったが、言ってみるとUSD12もしくは1500Kyatと値上げ兼Kyatの為替レートが安くなっていた。しかしながら闇レートではUSD1=167Kyatなので、Kyatで払えば私達にとっては実質値下げなのである。このへん、経済がしんどい国は安定するまでしんどいねえ。

ビルマ最大のSwedagon Payaという、高さ90何メートルかの金の塔を拝みに行く。外国人用の門票USD5。タイだとこういうのは無料か10-20Bぐらいなんだがなあ。そこでせこい作戦をねり、これまで二日間で相棒が現地の人に現地人と間違えられまくっていることを利用して、私が二人分の荷物を持って係員の目を引きつけている最中に、相棒は現地人に無理やり話しかけてさもその連れのような顔をして入るという計画を立てた。大成功。ははっ。日曜だったので人がいっぱい。でもそれなりにいろいろ見るものがあり、拝むところもあって楽しかった。バチが当たらないように、よく拝んでおいた。

乗合バスは2K(1.4円ぐらい)で、路線上ならどこまでも乗せてくれることがわかった。これで横にベタッと広い市内をスカスカ移動できる。今日はどう見ても華僑とインド人だろうと思われる二人のおじいが、仲良く手をつないで道を渡っているのをみて和んだ。多民族都市っぽい空気を感じる街である。さて夕方五時、マンダレー行きのバスに乗車。

1996年12月21日土曜日

ヤンゴン市内をうろうろ

ビルマでは中国にならって、二重貨幣制を採用している。外国人が両替をした場合に手にするのはFEC(Foreign Exchange Currency)といい、国内貨幣であるミャンマーチャット(Kyat)とは紙幣がちがう。この2種は表向きは等価とされているが、闇マーケットでは違ったレートで取引されている。海外からの輸入品などはFECでしか購入できないため、常にFECの方が価値が高い。

ミャンマーのFECは中国で印刷しているそうで、活字以外は大きさも色もデザインも中国のとそっくり。本日は、これをローカル通貨に交換しにいく。チャイナタウンでFEC166、USD167と言われ、粘るがレートは変わらない。相場なんだろうな。とりあえず換える。

ヤンゴン市内を流して歩く。もっと安い宿を探すも、どこもちょっと勇気がいるほど汚かったり、臭かったり。しかも別に安くなく、YMCAはいい選択だったようだ。

インド大使館でビザを訊く。USD20。タイよりやや安い。自分で申請できるとのことで、エージェントに支払う手数料も節約できるうえ、申請当日に即日受け取りなのだそうだ。3~4日待ちのタイより、かなりいい条件である。帰りにここでビザを取ろう。

ビーマンでカトマンドゥ行きをリコンファーム。

YANGON DUTY FREEという看板が街のあちこちにあり、入ってみると噂どおり酒が激安。もっとも、二人ともほとんど飲まないほうなので、移動中に割れても心が痛まないよう、USD8のロシア製ウォッカを購入。相棒は飲めばかなり飲めるが、ほとんど飲まない男である。

1996年12月20日金曜日

ヤンゴン到着

無事ネパールビザを受け取り、さてさてビーマン・バングラディシュ航空に搭乗である。

前回乗ったのは92年、成田-バンコクを友人のエアインディア半券(もちろん友人名義)を譲ってもらい、帰りにバンコクで買ったバンコク-成田往復。バンコク-成田便なのに、シンガポール経由でストップオーバー不可というスバラシイ条件。ボーディングパスに座席指定がなく、半信半疑で確認すると、自由席。搭乗すると座席と座席の隙間がまちまちで、前のほうは結構ゆったりなので、後ろがキツキツという、なぞの座席なのであった。当然だが機体は古く、乗客は大量の荷物を抱えたインド亜大陸系のひとびとばかりであった。

なお、このときの半券はエアインディアをくれた友人に返し、友人はシンガポールまで乗ってそこからオーストラリアへのワーホリに旅立った。テロ対策のセキュリティに厳しい今から考えると牧歌的な話だが、当時だって航空法かなんかの違反だろうと思う。

さて今回。曲がりなりにも先進国である日本に向かう機体には、なるべくマシなものを使っていたのであろうか。今回の機体はさらに古く、メンテが全く行き届いておらず、上の荷物入れのふたがほとんどまともに閉まらない。あっちを閉めれば振動でこっちが開き、こっちを閉めれば…の繰り返し。乗員と乗客の努力と協力でなんとか閉め終わり、ようやく離陸にこぎつけるも、離陸時の振動であちこちの荷物入れのふたがパタパタ開いてしまい、まるでドリフのコントである。洗面器落ちてきそうなやつ。機内はもちろん大爆笑。

機内食にオーセンティックなカレーを期待していた私たちはがっかり。パンとカステラとお茶と水であった。空腹をかかえてビルマ入り。空港で悪名高き強制両替、一人USD300のところを、私はUSD200に、相棒はUSD100に値切って通過。ワゴン(1USD)で市内へ。YMCAが意外にも一番安く、NON A/CダブルがUSD14、With A/CがUSD16。安いといってもタイの相場の2~3倍。NON A/Cが空いておらず、A/Cダブルに投宿。屋台で炒米粉を食べて就寝。ベット硬い。

1996年12月19日木曜日

「やはり寝袋は必要」

相棒が「やはり寝袋は必要」と言い出したので、ロビンソンデパートまで買いに行く。私はZero Pointのを持ってるので。

以前から欲しがっていた680Bのがセールで544Bになっており、ほくほくしながらそれを買う。よかったね。私は私で銀と琥珀のピアスがどうしても欲しくなり、350Bのを290Bに値切って買う。なくさないようにしよう。

1996年12月18日水曜日

ネパールビザ申請

朝からネパールのビザを取りに行く。バーツのみ受付で700B。但し、2日かかるとこのことで、受け取りがビルマへ発つ日の朝になる。一つ間違えるとエライことなのでドキドキしちゃうが、結局頼むことにする。ネパール大使館は市の中心から離れていて、とっても不便な場所である。そしてバンコクの朝の渋滞は有名だ。どうなるのであろうこのいきあたりばったりぶり。

1996年12月17日火曜日

飛行機を予約

バスは朝6時ごろ、ホアヒンへ出発したのと同じバスターミナルへ到着した。New Merry V G/Hへ行き、140Bのツインに入る。預けてあった冬荷物もピックアップ。相棒ご贔屓の豆醤+油条屋で朝ごはん。生姜湯を掛けた豆腐花がうまいうまい。

旅行会社を何軒かまわり、ラングーン経由カトマンドゥ行きのBimanをリクエストするも、以前の5700Bより少し上がっていて、5850-5900Bとなっていた。プラス、以前は南部のチッタゴン経由だった空路がラングーンから直接ダッカへ向かう路線に変更になり、それに伴いダッカでの一泊が二泊に変更になったという。トランジットビザで泊まれるホテルの宿泊費のうち、一泊は航空会社が持つが、もう一泊は料金上乗せで+500Bだと言う。バンコクからカトマンドゥ直行だと他にも航空会社はあるのだが、ミャンマーは以前からずっと行きたいと思っていた国で、しかも現在、以前よりずっと旅行しやすくなっているという話なので、しょうがないですね。予約。

1996年12月16日月曜日

バンコクへ移動

荷物を整理し、バスターミナルへBangkok行きのチケットを買いに行く。368Bの政府バスは夕方5時半発、4時のと5時のは570BのVIPバス。五時半のを買った。すっかりおなじみのプーケット市内に別れを告げるべく、そぞろ歩く。前から欲しかった水筒を買うも、水を入れてみると漏れ漏れで大失敗。しかし18Bだし文句も言えまい。

1996年12月15日日曜日

今日もエビの日

今日もエビの日。15センチ大のが9匹、昨日のよりずっとおいしい。しかし現金なもので、キロあたりの値段が倍以上するのであった。

五ヶ所ぐらい破れていたぼろぼろのパンツ(ズボンではなく下着)を繕う。パンツを繕うのは生まれて初めてである。四箇所破れているデイパックを、三ヶ所まで修理する。残りの一箇所もなんとかしたいが、なにかあて布が必要だ。相棒のジーンズの尻ポケットのほころびを繕ってやる。財布を入れて歩くせいで、四角く破れている。ジーンズは布が厚い上、裏がせないポケット部分だったので、四苦八苦して繕った。指がへとへとである。

肩ゴリゴリで眠ったせいか、枕元に誰かの裸足が横たわっているという不気味な幻想のような夢を見、次の瞬間金縛りで息もできなくなった。うんうん言ってるうちにやっと解けたので、はあはあ息をつきながら寝直す。私は金縛りを心霊現象だとは考えておらず、単なる生理現象だと思っているが、しかし何であろうがしんどくて苦しいことは嫌である。

1996年12月14日土曜日

エビと鯵と西瓜の日

昨日のイカの日に引き続き、本日はエビの日。12センチぐらいのを13匹。これも焼いて食べた。うまいうまい。相棒は午後にはアジに似た魚を買ってきて焼いていた。これもウマい。何匹かは卵を持っていた。西瓜を買う。1kg8B。

1996年12月13日金曜日

イカと果物と薬の日

朝から相棒がイカを1kg買ってきた。いくら安いからと行って1kgもイカを買ってどうする。手のひらサイズが9匹だ。屋台のイカ焼きを二人で9本食えないでしょうが。ちなみに65B。相棒が持ち歩いている電熱で、焼いて食べる。

プーケットには潮州人が多いので、相棒が子供の頃食べていたのとよく似た福建省のお菓子が売られている。いろいろ買って食べてみた。どれも甘い。でかいザボンが25B、三角形のよくわからん果物が1kg30B、、みかんは25B。

ビルマ、ネパール、インドへ渡る前に、薬の買いだめをする。かゆみ止め、鼻炎の薬、タイガーバーム、上気道感染用の抗生物質など。コンタックを売っていたのでそれも買った。

晩御飯を屋台で食べて、久しぶりに映画を見にゆく。101匹ダルメシアンズの実写版。ずたずたに来られていて一時間ちょっとしか無いせいもあろうが、期待ほど面白くなかった。まあ、字幕なしのタイ語だし。締めのあたりで悪者が肥溜めに落ちたり、密閉された護送車の中でスカンクが一発やらかしたりするところは、往年のドリフターズ並みの下世話さで、ちょっとディズニーにしてはシモの方に寄りすぎたんじゃないですかって感じ。ダルメシアンの仔犬は本当に可愛いが、芸をさせるのはやはり無理がある。特撮も浮いてていまいちであった。

1996年12月12日木曜日

おなじみTavong Hotel

朝のバスでプーケットを目指す。はず、が、バス停にはTrang行きのバスしかなく、取り合えずそれに乗って北上する。Trangまでひとり35B、チケット売りは二人いて、先輩と後輩らしい。先輩が後輩に指図して私達にチケットは渡されず、70Bは先輩のポケットに入った。あーあ。

Trangでプーケット行きのエアコンバスを捕まえる。140B。やはり高い。しかし速い。

プーケットタウンではおなじみTavong Hotelの2247号室へチェックイン。百貨店向かいの屋台へご飯を食べに行き、おかず三品と白ご飯二つで70B、果物を買って帰り、洗濯をして寝る。

1996年12月11日水曜日

Hat Yai到着、眠る

シュワルツネッガーはコメディのほうがあってるような気がするな。Eraserはシリアスすぎてもひとつだった。ヒロインが白人ではなかったので、新しい観客層開拓か?ってな感じだ。しかし、二人の間に恋愛感情みたいなものはついに生まれなかったように見えたので、それはそれでリアリティあってよろしい。

バスはSadaoを通過して、順調にHat Yai到着。Cathey G/Hはもひとつふたつみっつよっつぐらいイマイチだったので、別のところを探すべくウロウロしていると、私達の手のLPを見た白人が寄ってきて、宿を探してるんならいいところがあるよと教えてくれた。行ってみると新興振旅館という華人宿で、確かに広くてクローゼット、ソファ、鏡、コンセントといるものは何でも揃っていて、タオルケットもあり、真っ白なタオルも二枚提供されて、シャワールームもピカピカ清潔、これで150Bは確かに安い。

難点は唯一空いていた部屋がエレベーターなしの六階であるというところだ…。しかし、高い階なので窓を開けても騒音がなく、空気の通りがよろしい。うるさくて汚かったCahteyも150Bだったことを考えると大ヒットなので、さっさとチェックインしてシャワーを浴びて、でかいベッドでコテンと寝てしまった。何しろバスの上では映画、ごはん、マレーシア通関、免罪店、タイ通関といろいろやることがありすぎて、ほとんど眠らせてもらえなかったのだ。

生理中の私は相棒が目を覚まして買い物に行ったり買い食いに行ったりしている間もこんこんと眠り続け(私は生理のときはいつも十時間は眠る)、ようやく目を覚ましたら夕方六時だったので我ながらびっくり。今日まる一日は一体どこへ行ってしまったのであろうか。

夕食をとって今日は終わり。もっとびっくりしたのはごはんを食べたあと、またしっかり眠くなり、夜10時には寝ちゃったことだ。どうなっておるのだ。

1996年12月10日火曜日

マラッカからKL、そのままハジャイ

11時半のバスでKLへ。二時間で到着。バスターミナルでHat Yai(ハジャイ)行きのバスを探すと、夜の10時半発、朝の8時着で30RMというやつがあったので、それを買い、荷物を預ける。

中華街をウロウロして過ごす。百貨店をぶらつき、本屋をはしごする。中文書籍の品揃えが結構豊富だ。しかし、香港・中国の本は当たり前だが香港で買うよりずっと高いので、買わない。台湾の本の品揃えが香港より良さげなのがおどろきである。星の王子様の中文版11RM、550円ぐらいか。ソフィーの世界などもあった。でも本を買うと荷物が増えるしなあ。マレーシアリンギットも、もうあまり残っていない。

星州日報を買って読む。1RM。これはシンガポールの星州と同じかと尋ねると、シンガポールの新聞のマレーシア持ち込みは禁止なんだよ、と。香港のだいたいの新聞を中国に持ち込めないようなものか。しかしちがうのは、香港の新聞は過激で下世話な路線だが、シンガポールの新聞はどれも大公報のような記事ばかりであった。シンガポールででちょっと意外だったのは、私はシンガポールは香港と違って福祉の行き届いた国だと思っていたのだが、物乞いこそ見ないものの、オープンエアのレストランなどではティッシュを買ってくれと回っている老人や体の不自由な人を結構見た。年金的なものは無いか、不十分だったりするのだろうか。

とうとうお金がなくなり、夕食はマクドナルド。それも二人分頼むだけの現金がなく、ビッグマックセットを二人で分け合って食べた。

KLからHat Yaiのバスは初めて乗る1-2シート(横に3つしか無い席)のVIPバスだった。30RM(1500円ぐらい)したもんな。でも夕食はついていなかった。テレビでシュワルツネッガーのEraserをかけてくれたので、眠るまで退屈せず。

1996年12月9日月曜日

マラッカの僑生会館

生理痛で歩行困難。寝ても起きても腰が痛いので、それでも寝たり起きたりしながら本を読む。獄医立花登シリーズの1と2、林真理子、ノンノと、あるものをさらえるように読んだ。夕方から歴史公園、Tan Tun Cheng St.などを歩く。この通り、私が今まで歩いた中華街の中では最も印象深いものであった。いつかこの通りにある僑生会館(BABA HOTEL)に泊まってみたい。BABAとは南洋生まれの華人のこと。

1996年12月8日日曜日

マラッカへ移動

八時起床。9時40分にバスターミナルへ行き、10時に乗車。11時にはジョホールバルの税関を通過したあと、半時間ほどでマレーシア側の長距離バスターミナルに着くも、ターミナルはタイのそれのようにはよく統一されておらず、各旅行会社がそれぞれ窓口を持って自分の会社のバスチケットを売っている、という形式。私達は一時半のチケットを買った後に、12時半に別の会社のバスが出ることを知った。ううう、ミスった。なおマラッカまで9.8RM。

約三時間でMalaca到着。スタダイス(赤い洋風建築群)の有名な街である。バスターミナルの客引きにもらったチラシと、行こうと思っていたゲストハウスがまたしても同じだった。路線バスでそこへ行き、最後のトリプルをツイの値段にしてくれるというので、喜んでチェックイン。18RM.

宿には日本語の本が何冊かあった。ASIAN JAPANESEの二冊目があったのでさくっと読む。

1996年12月7日土曜日

シンガポール動物園

窓を開け放して眠ったため、Fanの部屋なのにたいそう寒かった。起床して今夜の宿代を払うと、昨日両替した分がもう殆ど残っていない。無駄遣いは一切していなくて、シャンプーと歯ブラシを買ったぐらいなのになあ。やはりシンガポールの物価は先進国だ。

昨日の両替屋ヘ。店が開くまでをセブンイレブンで買った新聞を読んで過ごす。両替後にMRTに乗って動物園へ向かうも大雨。MRTを降りてバスに乗り換えるともっと大雨。私達にとっては贅沢な出費である入場料を無駄にしたくないので、入り口で小止みになるまで待ち(ならんかったら入らない)、二時前ごろ、小降りになったのをみはからって入った。

Singapore Zoological GardenはOpen Zooとして有名で、檻や柵をほとんど見えるようには作っていない。危険ではない動物はできるだけ放し飼いにする方針で、孔雀なんかはそのへんをいっぱい歩き回っている。小さいサルもいる。丹頂鶴もいた。それと、動物園のいたるところに小川や滝があり、水の流れる音がとても気持ち良い。

インドネシアでは見に行かなかったKomodo Dragonもここで見た。ホッキョクグマやアシカ、マナティ(超かわいい♥)、ピグミーカバ、クロコダイルなどは、半分水槽になっている部屋の中で買われていて、きれいで透明な水を通して、ガラス越しに泳ぐところを見られるようになっている。ホッキョクグマはかっこよく、アシカは目立ちたがりだ。ガラスのてっぺんに乗ったりしているので、その気になれば脱走できそう。マナティーはきっと、オランウータンと好朋友になれるタイプだと思う。

3-4mぐらいあるクロコダイルの腹は牛よりでかくてぞっとする。普通のカバは2000kgを超えるのに、ピグミーカバは180kgしかない。とてもちっこいかわいいカバ。しかも泳ぎが苦手なのだそうだ。

雨にもかかわらずとても楽しめた。天気のよい日にまた来たいなあ。

1996年12月6日金曜日

言葉が便利すぎて外国という気が

起床、荷物をまとめてフロントに預け、両替できる場所を探してうろうろする。どこもHKD100=SGD18未満であって、よろしくない。諦めずに歩き、$18.10のインド人の両替屋を発券して両替。そのあたりでおいしくご飯をすませ、バードパーク、鶏専門の動物園へと向かう。よくできていて、たいそうおもしろかった。オウムのコレクションがすごい。

どうも、言葉が便利すぎて外国という気が全然しない街である。

一日中歩き回り、へとへとになって帰ってくる。宿の主人が確保しておいてくれたFanの部屋のドミトリーに移り、眠る。

1996年12月5日木曜日

首都到着、そのまま獅城へ飛んだ

五時半到着予定が少し遅延して、六時半。歩いてJalan Jaksaへ行き、10000Rpのこれ以上無いと言うぐらいの狭いツイン、もちろんバス・トイレ共同にチェックイン。荷物置き場もないほど狭い。シャワーを浴びて一休みし、シンガポールまでのチケットを買いに行く。一番安いAir India、Pakistan Air、Bimanの三社はすでに満席だった。メッカ巡礼の季節なのだそうだ。仕方なく、QantasをUSD85で買う。T/Cで支払った。

インドネシアルピアの手持ちがほとんど底をついた。カップラーメンと牛乳とピーナッツと水を買って6500Rp、空港までのバス代が8000Rp、空港税が50000Rpで、そこまで払うと私達の手元には紙のお金が一枚も残らず、見事に使い切ったのでありました。

スカルノ・ハタ空港は巨大で豪華な空港でした。私は初めて乗る、発展途上国ではない国の国際線にわくわくだ。これまで乗ったのがAir India、Biman、中国民航、ましなところでDragon Air、KAL、GULFだ。カンタスはオーストラリアの会社だからなあ。あ、でもそういえばルフトハンザに乗ったこともあるんだった。しかもなぜかアップグレードされてビジネスクラスだ。あれはなぜだったのだろう。

カンタスのサービスは良いとも悪いとも言えない感じでした。よく言えばめちゃめちゃ明るくてフレンドリー、はっきり言うとめっちゃラフ。若い女性FAというのがひとりもいなくて、若い男の子と年配女性ばかり。やることやったらずーっと仲間内でおしゃべりしているうちに、ジャカルタからシンガポールへの短いフライトは終わった。

大量のインドネシア人乗客の乗機が遅れたせいで(国内線乗継遅れ?)、到着も一時間遅れ。すで日が暮れている。空港バスの乗り場に向かうと、白人のおばあちゃんが私達に”Japanese? Koriean?"と声をかけてきた。そしてLee Travellers G/Hの地図と住所を印刷した紙をくれて、ここのベッドは安いわよと勧めるのだ。白人の、しかもおばあちゃんの客引きというのも珍しい。Lee Travellersは正にたまたま私達が行こうとしていたゲストハウスなので、16番バスで向かうことにする。ドミトリーはすでに埋まっており、一番安いツインは25$であった。近所もいくつか当たってみたが、Lee Travellersが一番清潔そうに見えたので翌日のドミトリーを予約してそこに泊まる。ドミはFan部屋が$7、A/C部屋が$8であった。

麺を一碗すすって、本日はこれまで。

1996年12月4日水曜日

ジャカルタ行きの夜行列車

目が覚めるともうすでに七時。13時間も寝たのか。ジャカルタ行きの夜行列車のチケットは33000Rpプラス手数料の1500Rp、二人で69000Rpだった。夕方四時乗車。インドネシア語ではビジネスクラスのことはBISNISと言うらしい。でもリクライニングシートじゃなかった。

1996年12月3日火曜日

スラバヤは中文名を泗水

スラバヤは中文名を泗水という。日本の熊本にも同じ地名がありますね。元は孔子の聖地を流れる川の名前です。ここは大都市なのでなんとショッピングセンターなどがある。行ってみた。殆ど香港と変わらないような店構え、しかしながら物価は恐ろしく高く、私達の結婚指輪と全く同じものが、ほぼ倍の値段で売られていた。

ウィンドウショッピングのあとにスーパーで実用的なお買い物、そして銀行に両替に行く。米ドル以外のT/Cは受け付けていなかったり、日本円はOKでもAMEXのみ(私達が持っていたのはトーマス・クック)だったりして、なかなかうまくいかない。この後のインドやパキスタンでは日本円はますます両替しづらいはずなので、今は米ドルを減らしたくないのだ。ジャカルタのほうがレートがいいことはわかっているので、結局香港ドルを少量替えることにした。

夕方六時、横になるとすぐに眠ってしまった。暑いからだな。

1996年12月2日月曜日

とうとうJava島帰還

10時チェックアウト、行くところもなし、郵便局へ行った後に、昨夜のレストランに長っ尻。幸い客は私達だけだ。

11時半、相棒がSurabayaまでのチケットを買いに行く。事前のリサーチでは、旅行会社を通すと35000Rp、運転手に聞くと30000Rp、地元のおばちゃんに聞くと20000-25000Rpということであった。これまでの経験上、私も一緒に行くとあまり値切れないことがわかっているんで、相棒単独の挑戦である。私が金持ちに見えるとはとても思えないので、ようは女であるということで足元を見られているのでしょう。

さて相棒、エアコンバスをなんと23000Rpで買ってきた。でかした! これまでのルートでは、いろいろぼられてたんだろーなー。

二時乗車、二時半発、四時頃デンパサール到着、テレビでインド映画を見ながら過ごす。毎度のことだがインド映画を見ているとめっちゃむかつく。なんでかというと、出てくる女が全員弱いからである。ガッツのない、ひ弱な、やられっぱなしのヘタレばっかりであるからだ。インド人の考え方を反映しているからであろうが、心の底から怒りがたぎってくる。無性に暴れまわりたくなる。ひとりぐらい、麻宮サキとかヴィクトリア・イフィゲニア・ウォーショートスキーみたいな女はおらんのか。

その点香港の映画は総じて女がそこそこ強いのでよろしい。方世玉のお母ちゃんとか。私が鞏俐を好きなのは、彼女の演じる訳が物理的に武術が強いというわけではなくとも、意志の強さ、生命力の強さを感じさせる役ばかりであるからだ。それは鞏俐自身の個性がそうであるからだと思う。だから余計に、それを押しつぶしてしまう中国文化の恐ろしさが際立つわけですが。菊豆、覇王別姫、大紅燈、老婆橋、みなそうだ。ま、エンタメ映画と文芸物を同じ皿に乗せてもしょうがないですね。

バリ時間四時半、ジャワ時間三時半にSurabaya到着。毎度おなじみバスターミナルのWaiting Roomで夜明けを待つ。こんなに早く着くとは思わんかった。デンパサールから九時間かかってない。

Patas P1でJalan Pemudaへ向かい、Bomoe Dem Youth Hostelにチェックイン。めっちゃ狭い二段ベッドのドミが5500Rp、同じく二段ベッドのツインルームが12500Rpもするのであった。ツインに入ったが、上のベッドは雨漏りで湿っており、とても横になれる状態ではない。仕方なく、下のベッドに二人で寝た。Surabaya、二泊するつもりだったが明日出よう。

1996年12月1日日曜日

今日は11月31日じゃないのか?

相棒がもうすっかりボケているらしく、「今日は11月31日じゃないのか?」だと。

水が戻ってきたので泳ぐ。砂浜で、四角い基盤を2つ重ねた上に丸いものが乗っかっている砂の城を作っていたら、小さい女の子が「あなたはボロブドゥールを作っているの?」と。ビンゴ!そのとおり! しかし、すぐに潮が満ちてきて、私のボロブドゥールはすぐにただの小山になった。

昼からまたしても雨。どこへも行けず、夕食をしかたなくすぐ隣の見た感じ最も高そうなレストランに入る。入ってびっくり、一番安いのである。しかも、一番美味しい。ううう、しまった、今まで入らなかったのは大間違いだ。

私は鶏肉、相棒はイカの料理を注文し、サイドディッシュに揚げ豆腐を二皿頼んだ。これと大瓶の水一本で11200Rp、高くなーい。

1996年11月30日土曜日

ヤモリ大王との邂逅ふたたび

ここにもヤモリ大王がいて、夜中に目が覚めた。王様の声は本当にでっかいのだ。

朝、小さいビーチへ行く。このごろは大干潮らしく、沖のサンゴ礁まで干上がっていて、泳ぐどころではない。汗だけかいて帰ってきた。宿に二箇所だけある、真水の蛇口から水をくんできて水浴び。おばあちゃんとおばちゃんが布を担いで売りに来た。寝るときに便利そうなイカットと、水浴び用のバティック、20000Rpまで下がったのでついつい買ってしまった。荷物が増えるとしんどいのは自分であるよ。よく考えようよ。

1996年11月29日金曜日

バリ島まで帰ってきた

六時半に目が覚めた。食事の前に目の前の砂浜に散歩に出る。今日は大干潮の陽らしく、沖の方まできれいに干上がっていた。露出した岩場では、地元の人がサザエをひろっていた。私のこぶしよりも大きな、巨大なサザエだ。

相棒は早速自分の探しに行った。サザエは見つからなかったのだが、8センチぐらいのつるつるした子安貝を見つけて、嬉しそうに帰ってきた。宿に帰り、これは食べられるのかと尋ねると、もちろん、とてもおいしいよとのことである。そして茹でてくれた。雲南省の細工物である私の銀のかんざしを使って、肉をほじくり出して食べた。子安貝の外側はワックスを掛けたようにぴかぴかで、茶色の地にこげ茶色の斑点がポンポン浮かんだ模様である。記念に持って帰ることにする。

さて移動。ボートでロンボック本島に戻り、すでに知っているルートを逆にたどって馬車、ミニバス、Bemoを乗り継いでSwetaへ。SwetaでLember行きのバスを捕まえ、四時のフェリーに乗り、八時半にPadanbai到着。夕食をとってシャワーを浴びようとしたら、ここの水も塩の味がした。石鹸が泡立たない。

1996年11月28日木曜日

無残なサンゴ礁

宿替え。宿の前の海へ相棒が泳ぎに行ってみると、100m沖に出ても太ももまでの水深しかない。サンゴ礁もなし。しかし、波打ち際にはさんごの破片が累々と積み重なっていて、さて、どうしたことだろう。

LPによれば、最近になって火薬を使った漁と漁船の錨が、サンゴ礁をどんどん破壊しているのだという。以前には島の周囲全体を取り巻いていたサンゴ礁が、胃またもういくつかの場所でしか見られなくなってしまった。サンゴ礁が波を殺さなくなったため、砂浜にはより大きな波が打ち寄せられるようになり。波はもちろん砂をさらっていくので、砂浜はあっという間に痩せてしまった。私たちがピーピー島には劣るなあと思ってしまったのも、無理はないのであった。

サンゴの墓場で貝を拾う。幅二十センチぐらいの二枚貝の片方である。ふちが波々になっていて、シャコガイだと思われる。今夜の宿の庭には洗面器より大きいに海外が無造作においてあった。私が今まで見た中で一番大きな回は、プーケットのTavong Hotelのロビーに置いてあったシャコガイで、小型のトランクぐらいの大きさがあった。相棒は故郷のコロンス島で、南洋帰りの人の庭に、それより大きな貝に花を植えていたのを覚えているという。

さて今夜のお宿、シャワー浴びたら昨日とは比べ物にならないぐらい水がしょっぱかった。石鹸がまるで泡立たない。部屋代が安いのも無理はない。あとで聞くと、島で真水に近い水が出る井戸は、島の中央部から北部にかけてしかないのだそうで、このお宿は南から数えて二軒目である。明日、朝ごはんのお茶はどんな味だろうか。

1996年11月27日水曜日

Gili islandsに行ってみる

昨日昼寝をしているときに、せっかくぐーすか寝てたのに、ポーチでガサゴソ音がして目が覚めた。カーテンに映る影。誰かが私達の部屋の前の椅子に座っている。そうっと起き上がり、こっそりカーテンをめくると、日焼けした上半身裸の男が私達の部屋のポーチの椅子に座っているのだ。なんてこと!ここは私達の場所なのに!!!

追い出してもらおうと振り返ってベッドを見ると、あれ?相棒がいない?もう一度カーテンをめくると、不審な男は私の夫その人であった。ははは。

Sengigiを去る。もっとキレイな海だと思っていたのだが、砂は灰色だし水は濁ってるし、宿は安くない。

BemoでAmpenanまで一旦戻り、そこからBemo、Minibus、馬車、ボートと乗り継いで、Gili三島のうち、一番大きな島へ。船着場の近くの宿でとりあえず荷物を下ろす。15000Rp、ベッドまあまあキレイで、部屋が広かった。ビーチへ行くと白い砂とサンゴ礁がひろがっていて、よしよしヨッシャヨッシャという気分であるが、でもまあピーピー島ほど見事なわけではない。魚は、タイでは見なかった種類のものもいた。

今夜の宿は長居には理想的とはすこし言い難く(ちと高い)、別の宿を探す。集落ハズレにバンガローがあり、中を見せてもらって7000Rpだというので予約した。木と竹のバンガローで、トイレとシャワー付き。

ごはんを食べて、シャワー浴びる。話に聞いていたとおり、水は塩の味がする。

1996年11月26日火曜日

Lombokへ渡る

バスは朝六時のバスに乗ってロンボックへ渡った。Swetaには10時ごろ到着。そこで降り、BemoでAmpenan Bemo Terminalまで移動。500Rp。そこからぼろぼろのトラックに乗ってSengigiまで500Rp、Pondor Sintaという宿にとりあえず投宿。狭い部屋が12000Rp。

海岸に出てみると、ホワイトサンドビーチとは程遠い灰色の海岸で、水も濁っていた。ちょっとがっかり。ご飯を食べてとりあえず眠る。四時ごろ海岸に出て、見事な夕焼けを見る。対岸バリのAgung火山がきれいな円錐形で、太陽はその横を水平線に向かってひゅうっと降りていった。

1996年11月25日月曜日

Sumbawa島へ向かう

朝八時のフェリーでSumbawa島へ向かう。対岸の小村のSapeからどうするかはまだ決めていない。バスがあればそれを捕まえてロンボックへ向かうつもりだ。船は来たときと違って日本製で、静かだった。最上階は3000Rpのエクストラチャージがかかるので私達含めて六人しか座っておらず、快適であった。私はかなり船酔いするほうなので、横になれる場所を求めて贅沢をしてみた。

船は五時ごろSapeに入港した。なんにもないところのようなので、バスでBimaへ向かうことにする。七時到着。食事をして七時半、Damri(インドネシア国営バス)のバスでロンボックのMataram(バリの対岸)まで直接行くバスがあるそうなので、それに乗ることにする。Bima→Mataramが25000Rp。再び13時間の夜行バスだ。

1996年11月24日日曜日

Labuhanjayoへ戻る

朝六時半のバスでLabuhanjayoへ戻る。昨日のバナナをぱくぱく食べていたら、9時半ごろに早くも食事休憩が入った。羊スープがおいしかった。ヤギかも。おいしいはインドネシア語でバグース!といいます。

なぜかは知らねどあと二時間で到着だというのに二時過ぎ、またしても食事休憩があり、そんなに何度も飯は食えない。

五時、到着。Hotel Wista、とても清潔な部屋にシーリングファン付き、12500Rp、狭いがよしとしよう。食事を併設のレストランで食べたら2500Rp多めに請求され、聞いたら今日の魚はでかかかったから、だと。時価なら時価と書いとこうよ。結局それは払わなかった。よしとしないぞ、と。

1996年11月23日土曜日

Bajawaへ降りる

朝十時のバスでBajawaへ降りる。食事休憩があるものとばかり思っていたのだが、なかったので、四時過ぎに到着した頃には目がくらむほどお腹が空いていた。Koriwa Homestayにチェックインして、よろよろと食べ物を探しに行く。空腹時に市場を通りかかってしまったため、ついつい巨大なバナナの房をふたつと、でかいオレンジを六個も買ってしまった。食事後には確実に食いきれんぞこれ。どうすんの。

夕食の後、頭痛が始まったのでパラセタモールを飲んで夕方六時、こてんと眠る。

1996年11月22日金曜日

イカット(インドネシア絣)

Kelimutu火山を見にゆくための、朝四時のバスを予約したと思ったら、迎えに来たのは外国人を満載したボロボロのトラックだった。意思の疎通がいまいちうまくいってません。でも大丈夫。容赦なくうちかかってくる道端の木の枝を腕で避けながら二時間、展望台の下でトラックは停まった。この頃には周囲はすっかり明るくなってはきていたが、日の出はまだ先である。

展望台の階段を駆け上る。半キロぐらいかな。そうすると、朝日が「じゃーーーーーーん♪」という感じで登ってきた。同時に霧がひゅうっと飛んで、眼下に、明るいトルコ色の湖がぱっと現れた。その向こう黒っぽい色の湖も見える。が、すぐにかかってきた薄い霧のむこうでよく見えない。そうこうしているうちに、たちまちのうちに霧がすべてを隠してしまった。

ケリムトゥの三色湖は、ガイドブックによると、現在一番大きい湖が明るいターコイズブルー、次がオリーブグリーン、小さな湖が黒、だそうだ。不思議なのは湖それぞれが色が違うことだけではなく、それらがしばしば色を変えることで、数年前まではそれぞれ青・えんじ・黒、そして六十年代には深い青・茶褐色、カフェオレのような白っぽい茶色・だったそうな。なぜ色が変わるのかは、あまりよくわかっていない。

色の変化は現在も進行中であるように見えた。というのは、再びだんだん晴れてきた霧のおかげでじっくり観察できたのだが、オリーブグリーンの湖は今や緑色が濃くなりすぎてブラックコーヒーのような色、そして小さい黒の湖はふちのほうからだんだん明るい黄土色に変化しているようだったからである。

それにしても変わった色なのは、ペンキみたいに透明感ゼロのトルコ石色の湖で、なんでこんな色なのだろうか。ご丁寧に、水面に硫黄らしき筋が何本も走っていて、余計にトルコ石っぽいのだ。

さてさて意外なことに、Mt. Kelimutuの絵葉書はMoniには全く売っておらず、どこかで見たら絶対買おう。

クレーターの周りをぐるぐるめぐり、じっくり湖を見てから下山。徒歩で二時間半ほどの下り道で楽ちんなのだが、久しぶりに靴を穿いてようやく気付いたのが、足の爪が伸びすぎていて下りのときに痛くて痛くてしょうがない。非常に不自然な歩き方で降りてきたたために、えらい疲れました。

宿で朝ごはんの後に昼寝、それから温泉に行って体を洗ってきました。

帰りに「イカット(インドネシア絣)を買う!」と宣言、小ぶりのものを買うつもりが、ビンロウでまっかっかになった唇と歯のおばあちゃんのお店で、暖色系のでっかいベッドカバー大の布にひとめぼれ。マンゴーとかで値段を聞くと75000Rp。値切ってみると55000Rp。けっきょくこれに7500Rpの布を二枚付けて、65000Rpで買いました。

1996年11月21日木曜日

Moniの滝と温泉

目が覚めたら8時、12時間も寝たのか。

朝食を食べて、10時ごろに東バスターミナルへ行く。バスは11時ごろに出発して、渓谷沿いの小さな道をぐるぐると巻く。二時間ほどで到着。Moniは村と呼ぶのもためらうほどの、街道沿いに家がいくつか立ち並んでいるだけの場所だった。食道楽の相棒が、ここの豚はうまいにきまってると言う。子豚なら50000Rpぐらいだと宿の人が言うので。

その子豚を宿の裏手に見に行った。とっても可愛い可憐な黒子豚(体長30-40センチぐらい)が、木につながれていた。この子を食べる気にはとてもなれない…。裏庭には子豚のほかに、鶏、七面鳥、サルなどが買われていて、サル好きの相棒が早速マンゴーを買ってきて、与えていた。子豚と違ってどうなのその扱いの差。

インドネシア語では、ブタはBabiという。小さいはanakである。そして子豚はBabi anak-anakというのだ。

滝を見に行く。10メートルほどの立派な滝があり、その下の淵になっているところでは楽しく泳げそう。滝の上流には温泉(Air Panas=熱い水)があるということなので行ってみた。小さな水たまり的なものが二つあり、透明な水が溜まっていた。水は熱くなく、ぬい。でも水浴びには十分だ。ちょっと残念だったのは、地元の人が個々で頭を洗うたびに、シャンプーの小袋をそここに捨てていることで、周囲はゴミだらけ。それさえなければ風情のある場所なのだが…。捨てても自然に分解しないものが生活に入ってきたのが、最近なのだろうから、まだしょうがないのだけれど。

そして私達は現地のおっちゃんと子供がじーっと見ているので、温泉に入るのを諦めて帰ってきた。タオルも用意してたんだけど。

1996年11月20日水曜日

Ende泊

朝六時出発のはずのバスは、七時半にようやく出発してくれた。昨日と同じで混み混みのローカルバス、にわとり、あひる、ヤギなどと同乗である。途中で大きな広場で市がたっており、半時間ほど停車。バナナと見たこともない果物を買う。いちじくとマンゴスチンを合わせたような味と中身の、丸い果物であった。6つで500Rp、とてもおいしい。もっと買えばよかった。

バスは黒い砂の海岸を右手に見ながら突っ走った。途中で三メートルほどのクジラを陸揚げ解体しているのを見た。正午ごろ、Ende西バスターミナル到着。時間的にもここからすぐにMoniに行こうと思えばいけるが、Moniは山の中なのでおそらく寒いはず、一方我々は二日間風呂に入っておらず、できれば今日入っときたい。そこでEndeに一泊することにした。

広ーーーーーーーーーーいダブル、Mandi(バスルーム)付き、朝食込みで12500Rp。よし!すぐに風呂に入った。シャワーではなく、水溜めからミルクパンみたいな柄杓みたいな道具で水をくんで体を洗うスタイル、日本人の私は慣れていて平気だが、相棒は文句たらたらである。洗面器より使いやすくて私は好きだよ。

さてキレイな体になったところで食事に行く。Ayam Goreng(鶏の唐揚げ)が4500Rpと、やはり便利な都市部に比べて安くはない。おなかいっぱいになったところで薬を飲み、ちょっと横になったつもりが、そのまま深い眠りに引き込まれてフェイドアウト。

1996年11月19日火曜日

Bajawaまで移動

朝六時のバスでBajawaへ移動。フローレスの住民は、海岸部のムスリムを除くと95%がキリスト教徒であるそうな。彼らはマレー系ではなくメラネシア系の民族で、漆黒の縮れた髪、より黒い肌をもつ。顔立ちも大きな黒い目と広い鼻で、マレー系とはだいぶ違っている。太平洋の小島に来ているような感じだ。

Bajawaに着いたのは夕方四時頃で、市場でバナナとマンゴーとパパイヤを買って夕食とすることにする。今日の宿は狭い部屋だが、廊下を子猫が四匹も走り回っていて、とても楽しい。

1996年11月18日月曜日

フローレス島へ

宿の主人が朝三時半に起こしてくれた。もう目は覚めていたが。超混み混みのミニバスに乗ってSapeへ。みんな同じ船に乗るんだな。バスは五時半ごろにSapeに到着し、朝食を食べてから船に乗ることが出来た。船賃は11500Rp也。

船はKomodo島に寄港して(Komodo島には港がないので、小さい舟に乗り換えて降りる)、フローレス島に付いたのは夕方六時半ごろ。

丘の中腹に立てられたゲストハウスにチェックイン。暑い。死ぬほど暑い。しかも島なのに、海のそばなのに空気が乾燥していてカラッカラである。そこで夕陽を眺めやりつつ最高にごきげんなビールを飲んでいると、太陽が落ちると同時に気温もさーっと、音を立てる用に落ちた。めちゃくちゃ極端な気候である。昼は目がくらむほど暑かったのに、夜は寒くて服を着かさねて寝た。

1996年11月17日日曜日

Bimaで一泊

早朝五時、無事Bimaへ到着。まだ夜が明けていない。暗いうちは動くなの鉄則通り、バスターミナルで夜明けを待つ。夜明けと同時に、馬車!でRosmen Komodoという宿を目指す。Lonely Planetでずいぶん褒めている宿なのだが、ベッドがあまりキレイではなくてう~ん。しかし7500Rpで文句を言うてはバチが当たるであろう。それにふたりともヘトヘトで、別のところを探しに行く気力もないのであった。チェックイン。ばたりと眠る。

起きたら11時。フェリーピアのあるSapeへ行く手段を講じるべく、相棒がでかけてゆく。あちこち走り回って聞きまわった挙げ句に、LPに書いてあるのと同じ情報を得て帰ってきた。先に読んどこうよ。

明日の朝Sape行きのバスに乗る。今日は硬いうんこが出てよかったなあ。

1996年11月16日土曜日

Bimaへの移動開始

汗をたくさんかき、眠り続け、服を着替え、と安静にしていたことと、やはり医者の薬はよく効くため、熱は下がり、悪寒も筋肉の痛みも吐き気も全てなくなった。しかし軟便は軟便で、おなかもくるくる鳴りっぱなしだ。大事をとって抗生物質とパラセタモール、胃保護薬を飲む。

しかしトイレに何度も駆け込むと言う状況でもないので、Bimaへは出発することにする。二時乗車、三時発車。体調よろしくないので乗り物酔いが始まり、窓の外の流れ行く景色を見ても、気分がすぐれない。

五時半に島の反対側に到着、バスごと船に乗る。7時ごろに対岸のSunbawa島に到着。日が暮れている。9時ごろに夕食の時間となり、辛い辛いぶっかけご飯を食べて眠る。夜中の1時に目を覚ますと、バスが停まっていた。何かの修理中だ。新しそうに見えた日野バスなんだがなあ。二時ごろようやく再出発。エンジンの音を聞いてまた眠る。

1996年11月15日金曜日

ロンボックの華人医師

早朝四時ごろ、吐き気で目が覚めた。めんどくさいので吐き気をこらえつつ眠っていると、おなかがくるくる鳴り出した。体全体に力が入らず、なんだかとてもいや~~~~~~な感じだ。しかも寒い。南緯8度で寒いはずないのに。

トイレに行くときっちり下痢。昨夜食べた何が悪かったのか、さっぱり見当がつかん。下痢止めを飲んでもう一度寝る。

六時ごろ、悪寒に目が覚めてうーうー唸っていると、相棒が正露丸を出してくれた。五粒飲む。八時、医者に行こうと起こされて、やだ、と言ってみるも、起き上がって咳き込んだはずみにものすごい吐き気に襲われ、こらえるのに苦労、同時に汗が滝のように湧いて流れたので「こらあかん」

幸いウブドゥとは違って大きな病院があり、なんと外国人用診断室まであったのである。医者は40歳ぐらいに見えたが54歳だという華人で、五世代目だというのに国語が上手で助かった。血圧120-180、体温38℃、脈拍85/分、呼吸20回/分といずれも高く、西洋医風に言うと細菌性腸炎、中医学風に言うと水土不合とのこと。病歴や薬物に対するアレルギーを聞いた上で、五種類の薬を処方してくれた。

1. 下痢で失われた水分補給用の電解質塩
2. 抗生物質
3. 解熱剤
4. 抗ヒスタミン剤(皮膚も診てもらったため)
5. 胃腸保護薬

医者は日本語の歌まで歌ってくれた。祖父が日本に留学していたのだそうだ。奥さんもお医者さんで、奥さんはチャイニーズ、ニアスニーズ、マレー、オランダの血を引くそうだ。

診察費は12000Rp、薬代が35000Rp。USD20ドルぐらいか。帰ってすぐ薬を飲んだが昼までには熱は下がらず、今日の移動は諦め、一日眠り続けた。

1996年11月14日木曜日

ロンボック上陸

ロンボック行きフェリー、朝イチ8時半のに乗船。4時間半で到着。客引きを振り切ってBemo(移動用ミニバン)をキャッチするのに成功。Swetaまで700Rp、さらに乗り換えてCakraまで250Rpという前情報だったが、このBemoはCakraまで1000Rpでと交渉がまとまった。ラッキー。大荷物なので乗り換えの手間は減らしたい。

BemoがCakraで下ろしてくれたのは、できたてのきれいなロスメン(安宿)の前。完全なバリ建築で、バリ人がオーナーなのは一目瞭然である。綺麗すぎて高いだろうなあと思ったら、やっぱり安くはなかった。ダブル、Mandi(バスルーム)、朝食付きで17500Rp。一泊だけなので泊まることにする。しかし荷物をおろしてから気付いてちょっと嫌な気分になったのは、こんなに新しくてキレイなロスメンなのに、ベッド横の壁に血をなすりつけたと思しき後が残っていたこと。虫がいる可能性…。血は古そうなので昨夜の人が、というわけではなさそうだが、ああやだなあ。

さてさて、バスターミナルへチケットを買いに行く。27500Rpを25000Rpに、という話にうまうまと乗ってしまい、BIMA行きの夜行バスのチケットを買ってしまった。昼の2時半出発、朝5-6時ごろ到着という15時間の旅だ。さて、どうでるか。

1996年11月13日水曜日

パダンバイへ移動

下腹部にも帯状に湿疹が出てきた。果たしてこれは虫刺されなのか、それともじんましんかなにかなのか。痒くてツライ。

朝11時のバスで、ロンボック行きのフェリーが出る村、パダンバイへ移動する。二時間もかからず到着。パダンバイは小さな円形の湾を持つ村だった。バスを降りてすぐの客引き(言い値:バス・トイレなし10000Rp、あり15000Rp)を振り切って浜辺までゆくと、小さいながらもトイレ付きダブルに朝ごはんまでついていて、しかも海に面している部屋が8000Rp、トイレなしhが7000Rpだった。トイレ付きの部屋に泊まった。

部屋の前で座っていても、小学生のコドモが鉛筆やら舟の模型やらを売りに来る。ここの漁舟はたしかにとても特徴のある舳先だ。カヌーのように細い帆舟の舳先が、カジキマグロのようにくちばしの長い魚の形になっているのだ。魚なのにまつ毛付きの目がついていて、長い口が開いていて、開けた内側を赤く塗っている。かわいい。

男の子がその魚の顔の舟の模型を、女の子が魚とか三日月とかペンギンとかが付いた鉛筆などの小物を売りに来る。鉛筆は一本500Rpだったので子供相手だし値切らずに六人から一本ずつ買って退散願ったら、五分とたたんうちに別の一団に取り囲まれた。私は自分の部屋の前の椅子に座って書きものをしている最中だったので、逃げようがない。でもいらない荷物は増やせない。手持ちのビスケットをみんなに配るととても嬉しそうな様子だったので、全く仕方なく袋ごと全部進呈すると、全員の目が輝いた。可愛い。そして早速どこかに行ってくれた。

しかし彼女たちは一団や二団どころではなく、また一度や二度の来訪で諦めてくれたりは全くしなかったのだが…。

海岸なので魚が安い。バラクーダって日本語で何ていう魚なのであろう。一匹3200Rp~3500Rpぐらい。相棒が、これは香港ではわりに高い魚だという。

久しぶりに乾いた気候なので(ウブドゥは湿度が高かった)、ビールを二本も飲んで寝てしまった。大変な贅沢だ。

1996年11月12日火曜日

ヤモリの王様

相棒本復、私は生理痛でダウン。明日はバリの東部、Padanbai(Lombok行きのフェリーが出る漁村)へ移動することにする。

相棒、九日間の風呂断ちを本日めでたく破ってシャワーを浴びる。よかったね、と言ってほしいのはわたしである。毎晩おんなじベッドで寝てた身になれい。

私はヤモリは全く平気だし、蛇も毒蛇でないとわかっている場合にはまあまあOKだが、相棒は爬虫類が嫌いである。怖くはないが好きではないの。そこへ昨日のヤモリの王様がまた現れたのでとっても不機嫌。一方私は虫が苦手で、特に夜飛ぶ虫は自分でも不思議なぐらい怖い。なぜだろう。そしてこれは自分でも納得いかんのだが、クモは平気。なぜだ?やはり虫を食べてくれるからだろうか。

そこでヤモリの王様の話に戻るが、王様がバスルームの電灯に集まる大きな飛ぶ虫をかたっぱしからパクパク食べてくれているのを見て、私は言った。「壁虎大王是我的朋友(王様は私の友達だ)」相棒が言った。「你不是我的老婆(おまえは俺の嫁ではない)」

しかし王様、鳴き声がとっても大きいので、私達は長いこと「郭公(カッコウ)」だと思っていた鳴き声が、実は王様のヤモリにしては桁外れにでかい鳴き声だとようやく気がついた。げっこー。

今日は暑い。とても暑い。

バリはフォトジェニックな島なので、絵葉書を16枚も買ってしまいました。

1996年11月11日月曜日

夫婦で体調わるし

相棒、風邪やや好転か。まあ、油断はできぬ。

相棒はさておき、私は食べた何が悪かったのか、プロボリンゴの悪夢再び、である。太もも裏、またしても大変なことになった。昨夜夜から始まって、今朝見た相棒が「うっ」と行った。私は痒く痒くて、昨夜ほとんど眠れなかったのだ。

相棒が試してみようと買ってきたのが塩だった。熱いお湯で患部をよく洗い、塩を力任せに塗り込む。すでにあちこちの皮膚を掻き破っているので激痛が走る。私はうーうーうーとうなりつつ体をひねり、相棒は掻くからじゃばかたれと、無情である。熱い湯で洗い流し(これも激痛)、再び塩で洗い…ということを繰り返し、最後に熱い湯でよく絞ったタオルで水気を拭き取って、抗ヒスタミン剤をベタベタ塗って、飲む抗ヒスタミン剤も飲んでおしまい。私はへっとへとに疲れたのと、昨夜よく眠れてなかったのでこてちんと寝てしまった。

目覚めると昼。しかし食欲は全くわかないので、昨日買ったスイカを食べる。西瓜、上出来である。中落ちした甘い味だった。

さてこんどは相棒が昼寝。医者でもらった薬がとても強いらしく、飲むとてきめんに眠くなるのだそうだ。私は昨日買ってきた「結婚のオキテ」を読む。私は自分が25歳で結婚するとは、夢にも思わんかったなあ。しかしながら姓も変えておらず、子も生んでおらず、夫婦で職にもついておらず定住もしておらずの現状では、結婚してるとかしてないとかにあまり意味はないのであった。

夕刻、激烈な生理痛が始まったため、行く予定だったKecakを見に行くのをやめにする。2キロも離れた劇場までよう歩かんわ。

飲む抗ヒスタミン剤のかわりにバファリンを飲んで寝たので、深夜に再び痒みがぶり返してきてツラカッタ。しかし、見た目はかなり回復してきた。相棒も風邪の具合がだいぶマシになったようで、今夜は熱が出ていない。

夜、30センチちかいヤモリ科の大親分みたいなやつがバスルームに出てびっくり。薄緑色の地に、ピンクの水玉模様がもりもり盛り上がっているという賑やかなやつである。しかもまるまる太ってる感じ。

1996年11月10日日曜日

診察と宿替え

相棒の風邪、芳しからず(しつこい)。朝夕に微熱が出る。もちろん水シャワーを浴びるどころではないので、風呂断ち七日目だ。頭だけは昨日洗わせたのだが。

とうとう諦めて医者に行く。地元の人は西洋医にはあまりかからないのか、医者は明々白々に外国人向けだった。10分ほどの簡単な診療のあと、薬を二種類、3日分。USD10。薬はインドネシア製なので、包装はたいせつに保管しておいて、続きは薬局で買うことにしよう。

さて宿替え。何の気なしに別のゲストハウスをのぞいていると、素敵な部屋を見かけたのだ。渓谷に面してテラスがついていて、谷のそこにはせせらぎが流れている。向かいの丘はややなだらかで、棚田になっている。

渓谷自体はちょっとした森になっていて、なんとも嬉しいことに森にはリスがいっぱいだ。屋根の上をたかたか走ってゆく音も聞こえるのだ。向かいの棚田には牛もにわとりもいて、夜にはホタルがたくさん飛び交っていた。いいところだなあ。うっとり。

1996年11月9日土曜日

レゴン・クラトン

相棒の風邪芳しからず。こやつが最後に風呂に入ったのは確か11月3日のことであるから、今日で6日目か。臭いやつになってきた。現地の薬を飲んではいるのだが。

郵便局ではがきを出そうとすると、このサイズのは600Rpではなく1000Rpであると言われ、以前に出していたのはちゃんと届いているのだろうかと、ちと心配になる。

猿森、Monkey Forestへ散歩にでかけ、しっぽの長い猿たちを見物。基本的によく慣れている猿たちではあったが、ココナッツのみをサッカーボールのようにして遊んでいる猿をいつまでも見ていると、ココナッツを取られるとでも思ったらしく、歯をむき出しにして襲いかかってきた。もちろん本気の衝突ではなく威嚇なのだが、私は慌てて本などで思いリュックを足元に落とし、リュックに猿の注意を向けて逃げた。リュックはさるより重そうで、持って行かれる心配はなしと考えたため。相棒が木の枝を拾い上げると、猿は逃げた。

広場に猿の水飲み場になっている小さな池があり、そのほとりに植わっている木が、枝を池の中央に向かって伸ばしていた。ある子ザルがその枝から池に向かって勢いよくジャンプ、ばちゃーんとあがる飛沫の音を聞きつけてか、森から小猿たちがたくさんあらわれて寄ってきた。子ザルの飛び込み大会だ。池の水が減るぐらい、いきおいよく飛び込んでいる。猿ってこんなに水を恐れないものだったのか。

読み終えた原寮を売りに行くと、滝口康彦「謀殺」が出ていた。買い取って帰り、相棒が寝ている間にまたたく間に読み終えてしまった。

七時半から王宮劇場で、バリ舞踏の代表作「レゴン・クラトン」を見る。このダンスはバリの伝説にその材をとっていて、ダンス自体は非常に象徴的なので、ストーリーを知らなければ何が何やらまるでわからない。

ある王が隣国の姫をされって連れ帰り、王妃となるようせまる。姫はそれを拒み、このことが原因であなたは死ぬだろうと予言する。隣国との戦争が始まり、姫の兄から決闘が申し込まれる。王はこれを受け、戦いに赴く途中、森のなかで不吉なあかしを持った鳥に出逢う。王は鳥を無視し、決闘の場、死の運命へと進んでゆく。舞踏はこの物語のうち、王が姫に触れようとして拒否されるところから、森のなかでの鳥の出逢いまでを、八歳から十四歳までの三人の少女の舞によって表現する。

説明によれば、レゴンとは少女の三人舞を、クラトンとは宮廷を意味するという。レゴンは何種もあるというが、この宮廷のレゴンが、その最も完成された形であるという。

まず一人目の少女が登場する。彼女は王宮の侍女であり、後に王が森のなかで出逢う、死を告げる鳥となる。侍女はその舞により、物語前半のあらすじを語る。次に王と姫が登場する。といっても少女たちは双子のように全く同じ色違いの衣装を身に着けていて、服装によって男女の演じ分けをするわけではない。侍女はここで退場する。王と姫はときに接し、ときに離れ、ときに合わせ鏡のように舞う。やがて王は姫の後ろについて舞い始め、隙をついて姫の腰帯に手を触れる。打ち鳴らされるガムランの太鼓とシンバル。姫はきっと振り返り、心外なという表情で王をにらみつける。以上はもちろん即物的な動作ではなく、高度に昇華された優雅な動きで表現されるわけだが、想像してみてください。金糸銀糸のあでやかな布に身を包んだ初潮前の少女たちによリ演じられる、王と姫の性的な攻防。なんといという倒錯。この場面は何度も繰り返され、そのたびに姫の険しい拒否の表情に、観客はどぎまぎする。

やがて姫は征服されぬままに退場し、入れ替わりに侍女の少女が、両手に翼を付けて現れる。彼女は鳥なのだ。王は死の鳥を無視しようとしてできず、ともに舞い、やがて王の死を暗示して舞いは終わる。

なんというお耽美な見世物であろうか。特に侍女役の少女が絶世の美少女で、私はうっとりと見惚れたよ。

もうひとつみごたえがあったのはトペン・クラス、仮面舞である。森のなかの魔物だ。こやつが舞台正面の開け放しの門からそろりと姿を表した瞬間、観客席の観光客の子供がいっせいに、火のついたように泣き出した。赤い顔、大きく見開いた目、長生き場、顔から直接足が生えているかのように見える衣装。

異形のものが異様な身振りで動き出したときには、さらに何人かの子供が泣き始めた。地上に降り立った魔物はひとしきり舞うと、満足げに去っていった。

もしかすると同じ踊り手だと思うのだが、舞台の最後にも仮面舞があった。今度は白い面に長い長い爪を付けた白い手袋をしている。解説によればこの踊りは森でひとりで遊ぶ魔物の即興舞であって、舞いがガムランをリードするのだという。確かに、ガムランの奏者たちは舞い手を注目しながら演奏していた。とくに若い太鼓の叩き手と舞い手はお互いを挑発しあっているようで、太鼓が舞いをうながすように何度も誘いのリズムを打つと、ま物は俺の遊びに口を出すなとばかりに太鼓をけとばす真似をしたりして、それまでの舞いとは趣きがたしかに違っていた。でも緊張感の高さはやはり同じなのだが。

この力強い足と大きくて長い指を持つ舞い手が舞台から降りて仮面を取ったところを見てびっくり。還暦はゆうに超えているとおぼしき老人だったのである。名人なのだ。子供が泣き叫ぶわけだ。

あとはBarong DanceとKecakをぜひともみたいなあ。


1996年11月8日金曜日

バリの美術館

相棒の風邪のぐあい芳しくなく、積極的にどこへ足を伸ばそうという気もおこらない。

朝食においしいバナナパンケーキとパパイヤ・バナナ・パイナップルのフルーツサラダを食べて、から、すぐ近くの美術館までぶらぶら歩く。峡谷に掛けられた小さな橋を渡って対岸へ渡ると、美しく設えられた庭と池が美術館の建物を取り囲んでいた。すべての展示物が絵画で、ドキドキするような刺激的な絵が並んでいた。すべてバリニーズアートの傑作ばかり。監視員は監視するともなく入り口に座り込んで、ガムランの木琴をぽこぽこと練習していて、落ち着いた緑の庭にピッタリのBGMになっていた。こんなところに住めたらなあ。

昼食を取り、古本屋で原寮の「私が殺した少女」を購入。というか、日本語の本はそれしかなかった。5000Rp。読了後は店に持っていけば半額で引き取ってくれるという、安宿の多い地区にはよくあるシステムだ。

相棒は薬を飲んでベッドへ、私は買ってきた本を読み始めた。本日の活動はこれにて終了。

1996年11月7日木曜日

Ubudへ移動

バリは建物の装飾が美しく、ジャワ島よりも味わい深い感じの町並みである。昼前にチェックアウトして、Ubudへ向かう。広いポーチ付きのダブル、久しぶりにシャワーとトイレ付きの部屋が朝食込みで10000Rps、多分10%のTaxがつくんだろうが、それにしても一人275円である。安い安い。

相棒の風邪がよろしくない。Bromo山が寒すぎたのだろう。やはり私と違って肉襦袢を着込んでいないので寒さに弱い。インドネシア製の薬をせっせと飲んでいるのだが、効き目はもう一つである。かわいそうだなあ。というわけで、本日はご飯を食べては眠り、またご飯を食べては寝て過ごす。明日はバリ舞踊を見に行きたいもんである。

1996年11月6日水曜日

ジャワを離れ、バリへ移動

ブロモ山群を見下ろせる山まで往復6時間のトレッキングに参加する予定で早朝4時に起床したが、天候が大変よろしくない。そこで諦めて寝なおすと変な夢を見た。

福建のどこかを旅行していて、大勢の日本人の女の子と連れになる。しかし全員そろって山賊に捕まり、山賊のアジトに連行されて、金目のものをすべて取られる。その後、山賊は我々にB4ぐらいの八笑福(日本の七福神に似た中国の神様グループ)が描いてある紙を一枚づつ渡し、そこにご飯を盛って食べさせてくれたのだが、食べ終わったあとで私と相棒の紙をよく見ると、極彩色の絵なのに寿星(福禄寿)だけが真っ白である。相棒が叫んだ。「俺の寿星は白いぞ!」山賊が立ち上がって叫んだ。「しまった!」「誰だ、こいつらに白い寿星をやったのは!」なんでも福建の風習では白い福禄寿はラッキーアイテムで、それを得たものはなんでも一つだけ周りに要求できるのだという。ヨーロッパの「陶器の魚が入っているケーキの一切れを食べたものは一日王様ゲーム」ですな。釈放の要求のうち「全員」というのは却下され、私だけがアジトの外に放り出された。警察を探しにあてども無く歩き回り・・・というところで目が覚めた。朝6時。

8時のバスでProbollingoへ下り、10時のVIPバスでバリへ出発。VIPバスは25000ルピア。15000ルピアのエアコンバスとちがい、寄り道をしないので1時間ほど早く到着することと、食事がついているのがメリット。

午後4時半、Java島東端に到着。バスごとフェリーに乗る。Bali時間はJava時間よりも一時間早いので、30分で対岸に到着するともう6時、そこから100キロほど離れたデンパサールにたどり着くと、夜8時であった。ワゴンを拾ってAdi Yasa Hostelへ向かう。かわいらしい中庭つきの、いい感じの民宿であった。ばたりと眠る。

1996年11月5日火曜日

ブロモ山登頂

早朝4時。真っ暗な中をクレーターへ向かう。馬はシャンシャン走ってゆくが、歩きの私たちはそうはいかない。クレーターの中の火山灰はクリームのように柔 らかく、とても歩きづらい。霧は深く、10メートル先も見えないぐらいだ。白く塗られた石を頼りに歩くと、一時間ほどでブロモ山の真下に到着。ここから急 勾配の階段を上ることになる。このころから空が急速に白んできた。

しばらく上ると、ブロモ火口が吹き上げる硫黄を含んだ煙るが階段に沿って降りてきて、死にそうになった。息はできないし、目は涙であふれる。鼻水はだだ流 れになるし、げほげほずるずるくっちゅーん、はあはあげほげほ・・・と、布を口で押さえてうずくまってしまった。階段にいた全員が同様の体勢で口を押さえ てうずくまりつつ、じりじりそろそろt階段をにじりあがって行く。にじりあがった頂は、見事なクレーターになっていて、かみそりの刃のように細い細いク レーターの周辺をたどって、その最も高いところに立つ。標高2392メートル。

見下ろすと、外側の巨大なクレーターの内側部分は雲海に覆われて底が見えない。

外クレーターから昇る朝日は幻想的に美しかった。振り返って、ブロモ山のクレーター(直径1キロほどかと推測)の底は外クレーターと同じく平らな底で、亀裂が何本も走っていた。亀裂が交差したところからもくもくと絶え間なく白煙があがっている。今噴火したらやだな・・・。

再び歩いてホテルに戻る。7時。軽い朝食を取って眠る。起きたら12時で、雨がざあざあ降っていた。どこへも行くところが無く、そこらじゅう走り回っている立派な鶏を見た相棒が、食べたいと言い出した。ゆうべ夕食をとったメシ屋で、全く通じない会話で無駄な時間をだいぶ費やした挙句、絵を描いたら一発で通じた。鶏の絵。鍋でスープを煮ている絵。横にBerapa?(インドネシア語で「いくらだ?」)。

たくさん集まってきていた人々の「おおー!」というどよめきとともに、小さいのが10000ルピアという回答がすぐ出た。現物を見せてもらう。最初につれてこられたのが年取っためんどりで、卵穴を確認すると結構広がっていたので、若くないなーと難色を示してみた。別のをリクエストすると、すごく小さいめんどりが二羽出てきた。これは小さすぎる。700グラムぐらいしかなさそう。私たちが首をひねっていると、オヤジが大きな大きな立派な立派な雄鶏を連れてきた。首が長く、脚も長くそして太く、どう見ても闘鶏である。相棒が、闘鶏の肉は特別の味がする、肉が粘っこいんだと食指を動かしたが、この鶏はどうみても3キロちかくあり、二人で食べきれる量ではない。この店の持ち鶏はあと一羽、ちいさめの雄鶏だが、オヤジはこちらはさばきたくないという。多分、将来性のある闘鶏なのであろう。最初のめんどりで妥協することにした。中サイズなので12000ルピア、料理代が1000ルピア、しめて13000ルピア。しかしやはりといえばやはり、このめんどりは肉が硬かった。

1996年11月4日月曜日

ブロモ山頂へ移動

暑い。日本の熱帯夜の1.5倍ぐらい暑い。寝汗が目に染みて痛い。そして太ももは痒い。死にそうだ。夜中に暑さで目が覚め、水を飲み、思い付いてもう一度薬を飲んで眠る。

夜が明け、相棒は洗濯にとりかかったが私は薬のせいかもひとつ体に力が入らない。朝食はトースト三枚、バター、ジャム、ゆでたまご、ポット一杯の熱いインドネシア茶と、質素ながらたっぷりの量で、8000ルピアのなのにこれでちゃんとモトが取れてるのかフシギ。などと言いながら22500ルピアの部屋をみると、そっちはゴハンに5品ぐらいのおかずが付いてくるがっつりゴハンだった。なるほど。しかし朝から激辛パダン料理よりは、トーストとゆで卵のほうが有り難い。

薬を飲んでバルコニーで風に吹かれていると、また太ももがかゆくなってきた。やはり汗をかくのがマズイようだ。再び水風呂を浴び、薬を塗ったくって椅子に浅く浅く尾骶骨のはしっこだけで腰掛けて休む。その他の症状は無いので、かゆいだけなら気合で乗り切ろう。

一方、大問題は別にあった。明日はブロモ山頂付近に泊まって日の出を見る予定であるが、日の出ごろの予想気温は3~5℃だ。そして私たちは夏装備しか持って来ていない。

私が持っている長袖は3枚。2枚はタイで買ったスケスケうすうすコットンで、とても防寒の訳には立たない。一枚は厚手のシャツだが、やはり綿。相棒はレインコート兼ウィンドブレーカーを1枚持っているだけ。だから私の長袖を一枚貸してやらざるを得ないだろう。そうするとわたしはTシャツ2枚、うすうす長袖1枚、綿シャツ、レインコートの装備で5℃の気温に挑むことになる。

さて山頂へ出発。ワゴン車に相乗りして山頂へ向かう。ワゴンはぐんぐん山を駆け上り、気温はぐんぐん低くなる。ブロモ山は巨大なクレーターの中に三つの火山があり、クレータ周辺にも火山がいくつもあるという面白いカルデラ地形をしていた。クレーターの中でもくもくと煙をあげているのが最高峰であり、明日の登山目標である。クレーターのなかはぺったんこの砂の海で、ヒンドゥー寺院があった。バリ以外におけるヒンドゥー信仰って、どんな具合なのだろう?(参考)

カルデラのすぐ外にあるホテルCemoro Lawangに投宿。明日は4時起床である。

1996年11月3日日曜日

ブロモ火山へ出発

列車は中国の硬座とよく似ていた。しかし、痰をはく人が居ないので清潔である。これでゴミを床に捨てるのをやめてくれたらなあ。座席は硬く、直角で、硬座そのもの。93年に昆明から元謀まで10時間移動したときも、こんな硬座だった。あのときは往復だった。今回は片道で助かった。

もちろん空調などはなく、酷暑。汗をダラダラ流しながらぐーすかねむっているうちに到着。インドネシアの駅は駅名表示が一箇所しかなく、しかも到着時のアナウンスなどもないため、到着時間が近づくとドキドキする無事プロボリンゴで下車。コルトで大通りまで出るのにY300ルピア。めっこをつけておいたホテルまで500m。二段ベッドだがとても清潔な部屋が朝食付きで8000ルピアと、ガイドブックに載っていた通りたいへんお買い得。シーツも真っ白だ。

で、列車にのっていたときから痒くて痒くてしかたがなかった太もも裏を見る。鳥肌が立つほど悲惨なことになっていた。100匹ぐらいの薮蚊に太もも裏だけを集中攻撃されたらかくもあらんという感じ。腫れていない地の皮膚が無いぐらい満遍なく刺され、盛り上がっている。ボコボコの直径は2センチぐらいと結構大きく、また上への盛り上がりも大きい。全体としてザボンの皮を拡大したと言おうか、滑らかなワニの背中といおうか、相棒が「ぜひ写真を」と言うのを却下して、急いで水風呂を浴びにいく。消毒石鹸で念入りに洗い、抗ヒスタミン入り軟膏をぺたぺた塗る。新しいチューブが半分カラになった。

しかし何なのだこれは。相棒は南京虫ではないかと言う。夕べの宿で自分も刺されたと言って、刺され痕を見せてくれたが、米粒大のが三つだ。絶対に同じ原因のものとは思えない。私は列車の木の座席に虫がいたか、夕べ食べたシシリア風ピザのトッピングの貝が原因かどっちだろうと悩みながら、とりあえずアレルギーの薬を飲んだ。海鮮にはやかましい相棒に香港で仕込まれたせいで、ああ、これは新しくないなあ。。。と思いながら食べていたのだ。

さて、まともな食事を取るべく出かける。華人経営らしき店を探し、きのこと鶏の炒めもの、紅焼豆腐を食べる。私たちの中国語を聞き付けて出てきた親父は、自分は黄世強だと名乗り、名前の意味は黄種人、世界上、強大国だと胸を張った。海南人だそうだ。

部屋に帰りもう一度薬を飲んで就寝。

1996年11月2日土曜日

列車のチケット手配、買物

朝からブロモ火山行きの列車のチケットを予約。朝7時半発。10時間はかかるというのに300円ぐらいの切符を渡され、なんだかとても嫌な予感がする。ジャカルタからジョグジャは9時間乗って1000円ぐらいだった。今度はどんな列車なのであろうか。

午後から買い物。手染のバティックを購入。32000ルピア。宝物の様なシルクのバティックは230000ルピアと値札にあり、値段を交渉する以前に諦めた。

ボロブドゥールで買った水牛の角の腕輪がお気に入り。1500ルピア。

1996年11月1日金曜日

ボロブドゥール観光

本日はボロブドゥール観光。プランバンナンはヒンドゥ遺跡であるが、こちらは仏教遺跡。上から見ると曼陀羅になっているという構造。丘がまるごとひとつ石組みの遺跡なのだ。しかしなんと暑いのだろう。濃い色の石が太陽熱を吸収するため、日中の気温は40度を超えるそうだ。私たちは午後に行き、暑くて暑くてもうへっとへと。遺跡は10年かけて解体整備されたそうで 保存状態は悪くないものの、タイのスコタイ遺跡よりはずっと痛みは激しい。しかしその痛みが激しいところが私の好みに合っている。

1996年10月31日木曜日

プランナンバンのヒンドゥ遺跡

この部屋、大きな欠点があることがわかった。目と鼻の先にモスクがあり、そこの屋外スピーカーから流れるアザーンの直撃を食らうのだ。朝5時前に飛び上がって目を覚ました。世の中うまくいかんものである。

昨日の残りの食パンとホットマルキッサで優雅でしみったれた朝食を楽しみ、ツーリストインフォメーションへ。ボロブドゥールとプランバンナンへの生き方を 確認。すると!プランナンバンの野外劇場のラーマーヤナは、本日が今年最後の公演であることがわかった。今日を逃すと来年の5月まで無いのだという。なん たる幸運。見に行かねば!

昼食をその名もRama Restoran(←インドネシア語の綴り)で取った。名に反していきなり中華。

プランナンバンのヒンドゥ遺跡は素敵であった・・・。無残に崩れ落ちた遺跡の石塊には美しいレリーフが無数に残っており、つはものどもが・・・そのままの 光景である。夕暮れの淡い空に尖塔が幾つも立ち並んでいる様子は鳥肌が立つほど荘厳であった。野外劇ラーマヤナも、予想より見ごたえがあった。悪者の「俺 たちは~、悪いやつ~♪」的な踊りはコミカルで、ヒーロー&ヒロインのダンスは優雅であった。日が落ちた後の暗闇で、炎を使った見せ場もよかった。うむ、 今日はいい日だ。

1996年10月30日水曜日

ジャカルタを離れる

早朝5時起床。5時半に宿を出て駅へ向かう。しかし間に合うのかちと不安にになり、折りよく通りかかったBajak?(タイのTuk Tukみたいなオート三輪)をつかまえる。駅まで2000ルピアぐらいだが、早朝なので3000ルピア。無事到着、乗車。列車のビジネスクラスは快適で あった。阪急の特急みたいな座席だ。テーブル付き。しかしエアコンはないので暑い暑い。一時間遅れで3時すぎに到着。

駅前の安宿街を見て回り、二階建ての建物の部屋がダブルベッドで抜群に空気がよかったので、そこにする。なにしろ広い広い屋上をすべて独り占めできる好位置で、周囲はすべてここより低い建物ばかりだ。屋上には椅子とテーブルがあり、くつろげる。8000ルピアなり。

西瓜とマルキッサと夏みかんとジャックフルーツを買って帰る。私たちが買った西瓜は4500ルピアほどの小ぶりのものだったが、10000ルピアほどでため息の出るほどの大玉があり、買ってみたくて仕方が無かった。きっとうまいにちがいない。

1996年10月29日火曜日

ジョグジャへの移動確保

起床。洗濯。普通の洗濯はすぐ済んだが、油を吸った布二枚、タオル一枚、デイパック、ポーチは洗っても洗っても油臭く、どうにもならない。大量の洗剤を溶かした水に、しばらく付けておくことにする。

列車のチケットを買いに、Gimbor駅へテクテク歩いていく。徒歩15分ぐらいか。明日朝のチケットが10分ほどですんなり買えた。ビジネスクラスが二人分で49000Rp、約8時間の旅である。ジョグジャまで何キロあるのかな。列車はどんな感じなのだろう。

それにしてもジャカルタは暑く、バンコクのように逃げ込めるスーパーやデパートがなく、バンコクより市内バスが不便で、しかも賑やかな場所の面積がバンコクよりどうやらべったり広く、そしてバンコクよりもずっとメシ屋が少ないのであった。とくに最後のやつは痛い。

安くてそこそこ清潔そうなメシ屋というのが安宿街であるJalan Jaksaにしか存在せず、それ以外となると突然マックとかKFCとかの外資ファストフードになってしまう。それ以外で探すと、相棒の苦手な作りおき&激辛パダン料理となる。さらにそれ以下の価格帯となると、中国の路傍で鍛えられている我々もたじろぐほどの衛生水準の屋台となってしまう。そしてフォークとかスプーンは提供されないので手で食べることになる。(私は場合によりOKだが、相棒は絶対に駄目)

高  高級レストラン
い  レストラン
   KFCとか
普  マクドナルドとか
通  ★Jalan Jaksaの貧乏な外人向けめし屋★
   ★このへんが充実してない★
安  パダン料理
い  屋台

タイだと★印のあたりが充実していて、氷も大抵はキューブアイスなので、冷たいものがそれなりに飲める。ジャカルタではキューブアイスを見かけず、ということはそれは水道水であるという可能性が高く、いまのところ歯ですらミネラルウォーターで磨いているのにそんな冒険はできない。この日二人でミネラルウォーター1.5Lを三本カラにし、コーラ2杯とオレンジジュース1杯、ビールを大瓶一本飲んだにもかかわらずトイレの回数は通常と変わらず朝昼晩の三回だけであった。気をつけて水分をとっていないと、あっというまに脱水症状になりそうだ。

さて余った時間にJakarta→Singaporeのエアチケットの値段を調べに行く。最も安いパキスタン航空がUSD65と格安であった。しかしそれは夜11時半頃にシンガポール到着という時間の悪さなのです。その他にはカンタス、インド、ガルフなどなどがあり、USD100ほど。ガルーダはいろいろ時間があったけど、USD160ほどもする。

1996年10月28日月曜日

ようやくJalan Jaksa(安宿街)到着

時間はとてもゆっくりと過ぎる。私達がいますぐTAKSI(Taxi)に乗る気がないとわかったTAKSIの運転手たちが去ると、派出所前のベンチのあたりは静かになった。

農民の親父が話しかけてきた。彼は母、妻、娘の四人連れで、三人の女性に世話を焼かれっぱなしのなんだか可愛いオヤジであった。しかも当初私達が外国人だと気づいておらず、インドネシア語でどんどん話しかけてきていたのである。とてもおかしい。田舎の人なんだろうな。最後にまわりの人に注意されてようやく気づき、「おお~~~~!」と。

彼らがBundong行きのバスに乗るのを手を振って見送ると、私は荷物に手足を通して少し仮眠をとった。目を覚ますと、隣にとてもかっこいいムスリムが座っていた。いやいや、インドネシアなのだから皆さんムスリム(が多数派)だと思うのだが、どうも様子の違う感じの人達だったの。インドネシア人よりアラブ人に近いような彫りの深い顔立ちで、でも小柄であった。ウール地のような深緑色の布で、パキスタンの男性がよく着ているシャルワール・カミーズのような形に長めに仕立てたものを、しかしズボンなしで着ている。足は素足で革靴。長袖の袖口はきっちりしたシャツ仕立てで、立て襟の首から下は、胸元が途中まで開くようになっている。胸にはなにかのバッジをたくさん付けていた。帽子が硬い布の三角錐で、頂点に収束するようなしましま柄である。そして帽子の縁にはターバンを巻いていて、すそを背中側に長く垂らしていた。なんともいえずかっこいい。

連れの女性は三人とも、頭を覆うスカーフだけではなく、目からしたすべてを覆う布を別布で付けていた。服もマント型。

夜が明け始めた。一応POLISIに、もうTAKSIに乗っても大丈夫だと思うか?と尋ねに行くと、夜にはいた英語を話す警官はいなくて、別の警官がTAKSIは15000-17000Rpだけど治安に保証はできないから、バスにしなさい、バスは300Rpと、バス乗り場を教えてくれた。しかしバスはやはり怖いな~~~。私の荷物はどうってことないが、相棒のカメラバックは「カメラが入ってます!」と一目瞭然である。フル荷物移動の日は安全策を取りたい。ジャカルタのバスは5-6人グループでカバンを切る強盗だらけだと聞いたので、やはりタクシーに乗ることにする。

客引きをしているタクシーのたちがわるいのは全世界共通だと思われるので、ターミナルの外の通りで流しのタクシーを捕まえた。なんでインドネシアの運転手さんは坂田明(色黒)はかりなのであろうか。この坂田さんは制服を着ていたので個人タクシーではないと思われる。昨夜周囲の人にリサーチした結果だと、目的地までは10000Rpぐらいだという話であり、昨夜の客引きの運転手の言い値は20000Rpであったが、坂田さんはメータ通りの7800RpでJalan Jaksaまで行ってくれた。全く遠回りなしだ。その他にも荷物をトランクに出し入れする手伝いをしてくれたり、運転中の態度も友好的だったりでとても助かったので、10000Rp出しておつりを1000Rpだけ受け取った。そしたらとってもうれしそうに「てりまかしー(ありがとう)」、私達も「さまさまー(どういたしまして)」、そしてどちらともなく握手をして、「ばいばーい!」

さてJalan Jaksa到着が朝の6時半ごろ、宿はバンコクよりかなり割高で、めちゃめちゃ狭いダブルの部屋、シャワーとトイレ付きで20000Rp。チェックインして軽く朝食を取り、シャワーを浴びて眠ることにする。10時ごろ横になり、こんこんと眠り続け、起きたら夕方の5時であった。少しごちそうを食べようぜという話になり、鍋料理を食べに行く。海鮮セットと鶏セットで24000Rp。宿に戻り、相棒は洗濯、私は睡眠。




1996年10月27日日曜日

34時間かかってJakarta到着

早朝5時、バスはモスクの前に停まり、女性ばかりが全員降りていった。トイレ休憩か?私もモスクに入っていいの?しかし同時に、ボリューム全開で音楽をかけるのはやめて欲しい。

6時、バスは再び停まって朝食。食欲が湧かず、バスで眠り続ける私たち。再び走り出すバス。夜はあんなにエアコンをかけまくるのに、昼間はなぜ落とすのだろうか。やや暑い。12時、バスは昼食のために停車し、我々は始めてパダン料理を食べた。チキンカレー、大ヒット。ブロイラーではなく、放し飼いの鶏の味だった。バスの長旅、これぐらいしか楽しみが無いですな。

一時間の昼食休憩の後、バスは再び走り出した。運転手(色黒の坂田明)に、いつジャカルタに到着するのか尋ねると、かたくなに「夕方6時」と言う。そんなはずは無いではないか・・・。30時間で付いたとしても、夜8時や。

さて、その夕方6時に我々がどこにいたかというと、ようやくスマトラの南端である。ここからフェリーに乗る。バスから降りてフェリーに乗り、バスがフェリーに積み込まれるのを確認した。フェリー出発は7時半。

フェリーの上で、華人が話しかけてきた。ジャカルタの治安について尋ねると、「華人はあまりバスには乗らないからね」とのお答え。狙われやすいんだそうだ。夜中にジャカルタ到着にあたり、腕時計ははずしておいたほうがいいだろうとの忠告を受けた。そういえば、その二人の華人も時計はしていない。バスターミナルには警察があるが、夜中の市内は治安が非常に悪いので、どうせ出国の際にジャカルタに立ち寄るなら、バスターミナルから次の目的地に直接出発したらどうかとも勧められた。ふむ、それも一手か。バナナチップスを一袋もらった。

フェリー上でバスに乗り、隣の席の客に質問。ジャカルタにはバスターミナルが三つあるが、どれも市内から10キロ以上は慣れている。市内へ移動するとして、タクシー代の相場はいくらか。隣席の客は、10000ルピアぐらいだが、夜中は危ないから乗るなと、ナイフで首を切るジェスチュアをしてくれた。朝を待って乗れ、とのことだ。特に、私たちが目指すJalan JakusaのあるMONAS(記念塔)付近は強盗が非常に多いとのことだ。難儀だなあ。

フェリーは10時ごろジャワ島に到着。ここからジャカルタまでは約二時間。私はぐーすか眠ったが、相棒は緊張で眠れなかったそうだ。危ないのはバスを降りてからなのだがら、今は寝ればいいのに。

真夜中の12時、バスはようやくターミナルに到着。ここで夜明かしをする人でいっぱいだ。警察署に行き、「タクシーでJalan Jakusaまで行きたいんだけど…」と言ってみると、二人の警官は黙って私たちの顔をじーっと見ている。慌てて「夜明けを待って、朝になってからね?」と付け加えると、「それはグッドアイデアだ」とうなづいた。やっぱそうか。

そこで、POLISI(インドネシア語で「警察」)の前のベンチで夜明かし。タクシーの運転手がうるさくよってくるのを「明日!明日!」と追い払いつつ、ここまで書いた。

バスは結局34時間かかったことになる。いままでの記録は昆明からシーサンパンナまでの26時間。時間は今より短かったが、リクライニングでもなんでもないバスの、直角の硬い背もたれにもたれてのタブだったので、今回よりずっとつらかった記憶がある。

荷物を枕にしてベンチに横たわった。眠いから、朝まで仮眠を取ろう。

1996年10月26日土曜日

大きな間違い…

私たちはなにか大きな間違いを犯したのではないだろうか。

飛行機が二時間弱で一万五千円相当。一番いいバス(カラオケ付き)が30時間で5000円相当。エアコンバスが同じく30時間で3500円相当。ノンエアコンが35時間で2300円相当。

そこで飛行機にのるつもりはまったくなく、かつカラオケの騒音を恐れた私たちはエアコンバスにのることにしたのである。朝10時発で、翌日の夕方4時に到着するという触れ込みだ。そしたらなんてことだろう。もうすぐ昼の12時半だというのに、私達はまだパダンでバスを待っている。なんでや?なんでこうなるんや???

一番いいカラオケバスはもう2代も出発してしていってしまった。カラオケを恐れ、かつ1500円ケチったためにあれに乗れず、こんなに暑くて臭くてハエがいっぱいのところで、じーっとテレビのインド映画を見ながら、いつ来るかわからんバスを待つなんて…。文房具店で見つけて跳びついて買った星の王子さまノートを旅日記にしたので、いいことをまっさきに書きたかったのになあ。

しかし1500円の差と書くと大したことはないように思えるが、二人で3000円→60000Rpsと考えると、数日分の宿代である。ケチりたくなるのも無理はないではないですか。そしたらこのざまなんだけど。

最大のミスは、我々はこのバスがPADAN始発だと考えていたことであった。席を予約できるバスだったから。オンラインシステムなんかあるわけないので、そう考えたくなるじゃないですか。しかしバスの様子を見ていると、おそらく我々の乗るバスはMEDANを起点とし、MEDAN→PARAPAT→BUKITTINGIと、Trans-Smatra-Highwayをフルに走ってPadanを通過し、Jakartaへ至るらしい。Padan-Jakarta間には大都市は無いから、ほぼノンストップで突っ走るのであろうという希望…。しかしPadanの前ではいくつもの街で止まり、食事をし、トイレ休憩を挟んで走ってくるのだ。

Medan→Paparatが4-5時間ぐらい、Paparat→Bukittingiが8時間ぐらい、Bukittingi→Padanが2時間だから、合計約15時間。プラス食事や何やらで16-17時間ぐらいというところだろうか。それが20時間になることもあるよ~ん、ということなんだろうな。あ~ああ、いやになっちゃうな~~~~、あ~ああ、おっどろいた~~~~~。

しかし冗談ではないのは到着時間のほうで、当初の目論見では夕方4時にJakarta到着、つまり明るいうちに、噂に聞く混乱した、巨大な、治安の悪い首都にたどり着く心づもりでいたのだが、バスを待っている現在すでに1時近い今、いますぐバスが来たとしても30時間語には夜の7時、すでに陽は落ちている。だけではなく、Jakartaでは夕方5時~9時ごろまでは世界最悪のBangkok並みのラッシュが始まるはずで、間違いなくそれに巻き込まれるだろうから、予定している安宿街への到着は運が良くて深夜の10時や11時頃になってしまう。下手すると真夜中を超えるやも知れず、しかもバスターミナルは市中心から12キロ離れているから移動はタクシーで、宿代より高くつくであろうタクシー代はまだいいとして、問題は安全である。

バスが来た。チケットをキャンセルして明日出直すべく、窓口で交渉している最中であった。すでに一時半だ。バスは思ったとおり私達をPadanまで運んできたやつと同じタイプのバスで、嗚呼!!!(天を仰ぐ)という気分であった。座席は湿っていなかったが、エアコンが入ると上から水が降ってきた。

2時、出発。実に4時間の遅れである。

以下の行程は悪夢そのものの体験であったので、非常にマゾヒスティックな気持ちで記録しておく。

バスは予想よりボロく、汚かった。窓は予想通り開けられないタイプ、いわゆるはめごろしというやつだ。エアコンをかけると同時に、上から水がボタボタボタっという感じで落ちてきた。結構な量だ。冷たいので、用意していたサロン(腰巻き用の布)を二枚、膝にかけて寝ようと、上の棚に載せてあったデイパックを下ろすと、なんてこと!!! 灯油か軽油のような匂いがして、油が中まで染み通っている。デイパックに入れていたサロンは二枚とも油でしっとり湿っていた。星の王子様ノートも表紙がしわしわに!このひどい油の匂いとともに30時間を過ごすのか…。うんざりと同時に、前後の客がたばこを吸い始めた。油を持ち込んでいる客がいる以上、危険であるのも当然だが、窓の開けられないバスでは換気も出来ないため、真剣に気分が悪くなった。おまけにリクライニングシートが壊れていて背を立てられず、これから30時間ずっと寝っぱなしなのである。

日が暮れた。夜、エアコンが次第に強くなり、油と水を吸ったサロンはどんどん私の体温を奪いだした。なにしろ冷たい強風が膝にもろに吹き付けてくるのだ。夜中に寒さで目覚めた私は、荷物からレインコートを引っ張り出して着込んだ。なんでバスの中で雨合羽…。

そうこうしているうちにいちばんいい「スーパーデラックス フルエアコン TV カラオケ リクライニング2-1シート エグゼクティブバス」がどんどん私達のバスを追い越してゆく。私達のバスが本当に30時間で到着するとしたら、あれは25時間ほどで済むのではないだろうか。ということは、あれの所要時間が30時間である場合、私達のこのバスは???

1996年10月25日金曜日

海岸沿いの都市パダン

毛布引っかぶって寝てるのに寒い!我慢できん!暑い熱いあついとこへ行く!れっつごーパダン! パダンは海沿いの低地だ。暑いはずだ。

赤いコルトでバス停へ。でかバスでパダンまでは2時間半、2000ルピアであった。ふたつの3000メートル級の火山の間を抜け、道は下る一歩だ。松林が姿を消すとともに、椰子とバナナの木が増えてきた。パパイヤの群生の見送り、たわわにみのるジャックフルーツの横をすりぬけ、そうこうしているうちにうっすらと汗がわいてきた。風が、湿り気を帯び始めた。熱帯だ。熱帯だ。

パダンは海岸沿いの都市である。人口約70万。大都市だけあってホテルが安くなく、バス・トイレ共同のツインが12,000ルピア。しかしとても暗い部屋で、手入れも行き届いていないし嫌な感じだ。隣のホテルは窓も大きく、もうちょっとマシであったが16,500ルピア。タイだと160バーツ出したらバス・トイレはついてるぜくそう。

しかしまあ、一泊のことなんでとりあえず後者にチェックイン。風呂だ。4日ぶりの風呂だ。

風呂はいわゆるMandiスタイルで、銭湯のタイル張りの浴槽に似たものに水が張ってあり、プラスチックの手桶で体を洗うというもの。張ってあるのが湯ではなく水だということ、水につかってはいけないことを除けは日本の風呂とかわらんので、私にとってはどってことないのだが、シャワーじゃなきゃイヤの相棒が不満たらたらだ。

風呂から上がって街に出る。ミスった。暑いんでついノースリーブを着てしまったのである。肩の部分の広い、ゆったりしたデザインだったがノースリーブはノースリーブ。インドネシアでは目立ってしまった。街に出たら人が見ること見ること、100人のうち98人までが肩のあたりを見つめている。とくに殿方の視線ときたら、もしかして私、服着るの忘れて外出してるのか?というぐらいであった。

おかしいのが相棒で、怒ること怒ること。エサの皿を守るブルドッグのようにガンを飛ばしまくりながら、私の手を引くのである。無理すんなって。

ジャカルタ行きのバス、エアコンなしが45,000ルピア、エアコンバスが70,000ルピア、「スーパーデラックス フルエアコン TV カラオケ リクライニング2-1シート エグゼクティブバス」が100,000ルピアであった。このバスの名は真実だ。横っ腹にそう書いてあるのだ。ちなみに飛行機は245,000ルピア。

夜行バスでカラオケが始まってはかなわんので、普通のエアコンバスにしたのだが、30時間のタフな長旅の予定なのに、明日のバスはトイレの前の席しか空いておらず、なかなか暗雲たれこめる出だしである。

現地の食べ物で相棒が食べられるものが何も無く、私も安めし屋のパダン料理にはもひとつ食指が動かんので、なんとびっくりKFCへ行く。相棒が自分からファストフードを提案するなんて、信じられないことである。ところがKFCの看板目指して歩いていると、200メートル手前にCFCという現地資本らしき店があり、店もまあまあキレイなのでそっちに入ってみることにした。

チキン1ピース1500ルピア、紅茶1200ルピア、アップルパイ1600ルピアと、日本人の感覚からすると鶏安すぎて不気味ではあるが、味はKFCとどっこいであった。

1996年10月24日木曜日

起きたら2人とも大風邪

起きたら2人とも大風邪。特に相棒。鼻水とくしゃみの連発だ。朝9時までベッドでうだうだしていたが、薬を飲むためには胃に何かを入れねばならず、昨日の豆腐を食べに行く。食後に市場へ向かい、ビスケットなどをささやかに購入。昼食を奮発してガイドブックお勧めの中華屋へ行くも、とても中華とは思えない料理が出てきて相棒と2人で声が出ない。「o古老肉」を頼んだら、揚げた豚肉にケチャップがてんこもりで、その横にきゅうりの薄切りとバナナチップス がついている皿がでてくるとは、中国人なら誰が予測できるでしょうか。味?…オーストラリア人の料理評なぞ、クソの役にもたたんわい。結局この店でいちばんおいしかったのはお茶。ポット一杯1000ルピア。

これで三日連続風呂に入っていない。水シャワーを使える気温ではないのだが、ホットシャワーの使える部屋は35000ルピアもするので泊まれない。寒いからくさくない。と自分に言い聞かせつつ、眠る。

1996年10月23日水曜日

果物、シルバーバック、揚げ豆腐

朝からG/H、LOSMEN、WISMA(どれもインドネシア語で安旅館)をめぐり、 Murni'sが8000ルピアで窓が大きかったので移ることにする。2階で空気もいいし。しかし空気は乾燥していて、相棒はカゼ、私は顔がばりばりに乾燥し、鼻の下はがさがさ、くちびるはぱりぱりでほっぺたはかさかさというムザンな様相を呈した。見た目もさることながら、痛い。痛くて仕方がない。

本日は週に2度の定期市の日、市場がにぎやかだ。健康のためと称して果物をどっさり買い込んだ。みかん大3000ルピア、小1500ルピアをそれぞれ半キロづつ、パパイヤ3キロで1500ルピア、バナナがひとふさ1200ルピア、ドリアンまるごと 3500ルピア、アボガドふたつで1000ルピア、マンゴー1キロが3000ルピア。どうすんねん!2人で食うんかい!?何キロあるねん???

パパイヤが激安であった。スイカのようにでかいのに、ひとつ75円。市場へ運んでくるだけでも苦労だろうになあ。

夕方から、オランダ植民地時代の砲台まで散策に出る。砲台を見学し、木橋を渡って動物園。管理がよくなく、狭くて臭いオリに入れられた動物を見て心が痛む。特に、巨大なオランウータンが一頭いて、それが狭い狭いオリの中でじーっとしているのを見るのは辛かった。顔の横に野球のグローブのように大きなこぶが盛り上がっていて、体は非常にでっかい。その体全体に30センチから50センチぐらいの体毛がどっさり生えてたれさがっているのをはじめてみた。これ、普通の状態だったらすり切れてしまうはずの毛が、運動不足によって伸びっぱなしになってるんじゃないのかなあ。両手をあげるとエルビス・オンステージ状態。のっそり立ち上がるとマントをつけているようだ。それがゆっくり、ゆっくり動くようすを見ていると鳥肌がたった。一種荘厳な眺めである。

ゴリラのシルバーバックとか、クジラとか、象とか、ある種の老人とか、文句無しに大きなもの、美しく老いたものに対する畏敬の念をいだかせるに充分な風格のオランウータンなのだが、それが観光客食べ残しのおべんとうをもらっている姿には涙が出る。そしてオリの狭さ。シンガポールのオランウータンはオリに入っていない。香港公園のオランウータンはオリ住まいだが、オリが充分に広く、高さがあるのであまり惨めな感じはしない。

…気分を変えよう。揚げ豆腐に唐辛子ソースを塗って食べさせる店を発見。 10個で1000ルピアと非常にリーズナブルなのでどんどん食う。ハラいっぱいまで豆腐を食うって、どんなだ。帰ってきてちょっと横になるなり、2人でこてんと寝てしまった。夜中の12時ごろにごそごそ起き出して葉を磨き、顔を洗って再び寝る。

1996年10月22日火曜日

赤道通過、ブキティンギに到着

27000ルピアも取りくさってなんという破車(ボロ車)なのだ。時速40キロぐらいしか出てないではないか。ふたりでぶつくさ言う。途中、温泉で休憩タイムがあったが、あまりの汚さにちょっと入る気にはなれない。(湯が汚いんではなくて施設が。)

朝6時ごろ出発して、夕方6時ごろ赤道を通過。赤道というぐらいやから地面に赤い線でも引いてあるんだろうと、漢字文化圏の我々夫婦は勝手に思い込んでおった。別にそんな線は引いてなかった。しかも高地なのでたいそう涼しく、なんだかもの足りん赤道であった。

夜8時、ブキティンギに到着。客引きを振り切ってSingglang Hotelにチェックイン。ダブル8000ルピアで共同マンディ(風呂)。しかし運の悪いことに、ドアのすぐ前がテーブルとイスをしつらえた休憩スペースになっており。夜中までラフなオージーたちが騒いどる。明日はホテルを移ろう。

1996年10月21日月曜日

トバ湖を去る。

トバ湖を去る。相棒、食べられるものが食べたいんだそうだ…。昼のフェリーで対岸のパラパットへ渡り、翌朝6時のバスを予約する。これしかなかったのだ。

魚の切り身のフライを発見!ひとつ1500ルピアもするのに、5つも買った。これは海の魚だそうだ。トバ湖には小魚しかおらんのやと。街道沿いの小さな街をぐだぐだ歩いて時間をつぶす。

1996年10月20日日曜日

散歩で一日

徒歩でアンバリタという隣村まで散歩に出ようと思ったが、5キロも離れているので途中でへたれて引き返した。帰ってきてやはりトゥクトゥクで昼食。トゥクトゥクはいいところだが、食事が貧しくて困る。炒飯・炒麺・炒菜すべてのレストランのシェフが私並みの腕前である。つまり、救いようがない。炒麺に至ってはインスタントラーメンの麺をふやかして炒めてあり、味付けはもちろんその調味料だ。ううう。しかも注文してから出てくるまでに、コーヒーですら少なくとも半時間はかかるので、いらちの相棒はカンカンだ。このあたりに泊まってるのはほとんどオージーズ、舌が大雑把なんでしょうね。相棒には耐えがたい。

夕方、トゥクトゥク半島を一周してみた。美しいところだ。今度はお金持ちになって、一番いい宿のCalolinaとやらに泊まってみたい。

1996年10月19日土曜日

トバ湖も寒い

ベラスタジの寒波(←大げさ)を避けてやってきたトバ湖だが、同じくらい寒い。暑かったら泳げるのに。透明な湖水がもったいない。相棒、熱があるようで、食事以外はずっと眠っている。私も少し鼻カゼ。3日ほど前から下唇にできていた炎症はかなりよくなった。やはり野菜不足か。

階段で足をくじき、ちょっと痛い。相棒がずっと眠っているので、私は湖水を見下ろすテラスで繕い物。小物入れの巾着袋、ボロボロのデイパック、ジーンズのおけつ(両名とも)などなど。デイパックは18歳の時から使っている骨董品だ。これであちこち行ったなあ。

1996年10月18日金曜日

世界最大のカルデラ湖、トバ湖へ

これではまるで風邪を引くためにベラスタジまで来たようなものである。相棒の体調よろしくなく、登山どころではない。といっても、ずっと臥せっているほどひどいわけではなく、ハンパな体調なんだけれど。タイからこっち、2人とも体が熱帯仕様になってしまったようだ。もともと相棒は亜熱帯育ちだしなあ。

で、昼1時のバスでここを離れることにする。世界最大のカルデラ湖、トバ湖までのバスチケットは一人15000ルピアもした。途中、シプソ・シポ滝とかつての王族(豪族?)の宮殿などを見学。

トバ湖ほとりの街、パラパットに到着したのが5時。6時のフェリーで対岸のトゥクトゥク半島へ渡った。今夜の宿はABADI'S G/H、すべての部屋が湖に面しており、すべてバルコニー付き。一番安いダブルはなんと4000ルピア、しかし私たちは両名ともに風邪を引いているのでちょっとゼイタクをし、ホットシャワーが使える大きな部屋に泊まることにした。ゼイタクったってたかが10000ルピア、 500円以下である。

チェックインが7時過ぎ、すぐシャワーを浴びて8時にはばたりと就寝。

1996年10月17日木曜日

相棒、きっちり風邪。

相棒、きっちり風邪。寒さに弱いやつだ。私は長袖を着ていたし、先手を打って薬も飲んでいたので何とも無し。

本日は天気が悪く、火山に登るはやめ。というか、外国人ツーリストがもう10何人遭難しているというのでびびったのである。天候の悪い日に温泉へ下るルートをとると、危険なのだそうだ。最も危険なのは火口から温泉へ向かうくだり道で、死亡事故はすべてこのルート上だそう。しかし雨さえ降らなければなんてことはない山道であって、そこで人びとはやっぱり「登山の後の温泉」に惹かれてこのルートをとる。ところが山の天気は極めて変わりやすく、一天にわかに掻き曇り…で、10何人である。さて、どうしよう?

どっちにしろ相棒の体調が思わしくないので今日はムリ。本日はミニバス(コルト?オプレット?)でリンガという近所の村を訪問。古い民家がたくさん残る、飛騨の合掌村のようなところだ。一番大きな家を見せてもらったら、いろりがなんと5つもあった。ひとつの囲炉裏は2組の夫婦で共有するそうなので、ここには10組の夫婦およびその子供たちが住むことになる。出産のときにつかまる木の取っ手なんかも見せてもらった。

帰ってきて相棒、倒れる。午後中眠りつづける。大丈夫か?夕食後、9時にもならないうちにまたしても眠る。毛布を一枚余分にもらい、さらにバティックを2枚かけてやる。それでも寒そうなので、私の長袖シャツを2枚を着せて、粗織りシルクのマフラーを巻いてやった。大丈夫なのか?

1996年10月16日水曜日

メダン経由でべラスタジへ

Jungle Innはカネの無い長期旅行者向けによく作られており、特に天然木の面白さを生かした建て方や、イスや机は私にはとっても楽しかったのだが…。なにせ泊まっているのが腐ったガイジンーズ、相棒が最も毛嫌いする人々なので、全くお気に召さないようである。

隣室を見せてもらった。部屋自体は今の部屋と同じくらいだが、川に突き出たテラスに丸太を切った机とイスが置かれてあり、ハンモックがあり、ベンチもありと、同じ値段なのにお買い得である。しかも部屋と同じくらいの広さの愉快なシャワールームがついていてびっくりした。部屋から階段を下りると白と黒のタイルを市松模様に並べた目の覚めるような床の、丸いシャワールームにつながっている。円の中心にヤシの木が植わっていて、シャワーノズルがその木に取り付けられているのだ。トイレは隅っこにある。そしてなんとなんと屋根が半分しかなく、対岸の丘、森の木々とサルとオランウータンを眺めながらシャワー、あるいは用便が足せるのであった。私はこの部屋に一目ぼれしたが、相棒がトイレがどうしてもイヤというので断念。

午前中はもう一度オランウータンを見に行った。それから速攻で荷物をまとめ、 11時のバスでメダンへ。1時半ごろ到着。すぐに乗り換えてベラスタジへ出発。トラック改造型のバスに横5人がきちきちに座っての旅であった。尻が四角くなりそうだった。

ベラスタジ到着。高原の町である。涼しい。とういか、寒い。 Chinese Restaurantと書いてあるので入ってみたら、濃ゆいインドネシア顔の従業員ばっかり。身振り手振りで炒麺とコーヒーを頼んだというのに、食べ終わって店を出るころになって「従o那里来的?」先言えよー!

夜、涼しいとはいえなくなってきた。長袖を着込み、食堂で今夜の上映「アポロ 13」を見る。アメリカ映画はやっぱりよくできてるなあ。

1996年10月15日火曜日

オランウータン堪能

朝起きたら8時近かった。ウータンがエサ場に来るのは朝8時-9時、午後3時-4時。今から許可証をとって公園に行くには、ちょっと寝坊である。

あきらめてゆっくり朝ゴハン。それからしばらくぶりの洗濯。ジーンズにシャツ3枚、下着3セットでへとへとになった。シャワーを浴びて昼食。やはり一時間かかった…、でもすんごくおいしいマッシュポテトだ。いらちの相棒は…(以下略)。

タイよりもさらに腐った外人の多いところである。というか、悪いけど、どうしてオージーガールズってあんなに頭の悪そうなインドネシア男が好みなのだろう。まさに頭が悪そう「だから」か?しかし、どう見ても悪いのは頭だけじゃなさそう…。根性とか健康状況とか。病気か虫かどっちか持ってそうである。反対に、こちらの女性はタイとちがって身持ちが固いので、男性旅行者にとってはタイほどおいしい国ではないようだ。

とまで書いて、対岸を見やると、あ!オランウータンだ!!!若いオランウータンがゆっくりと木を伝って降りてきた。急いで双眼鏡を出してみたが、2-3分でまた丘の向こうへ帰っていった。でもラッキー。のそのそ~とスローモーな動きがとてもご愛嬌。とシアワセにひたっていたら、また降りてきて、結局20分ぐらい私たちを楽しませてくれた。

3時前に自然公園に出かける。木のカヌーで対岸へわたり、恐ろしくぬかるんだジャングルを30分ほど歩いて、オランウータンのエサ場へ。公園の従業員がリュックからバナナを出すと、子連れの若いオランウータンがやってきた。いやあ、かわいいなあ。それにしても私たちがどろどろの地面の上をそろりそろりと歩き、何人かはきっちりすべってころんで泥まみれになっているというのに、オランウータンの自由自在なことよ。赤ちゃんウータンでさえも、ひょいひょい枝を飛び移り、体を支えるのに足一本さえあれば充分なのだ。

満足。しかし動物には食材としての興味しかない相棒がぽつりと私に尋ねた。「…満足?」付きあわせて悪いなあ、私は、とっても、満足。ぐはは。

1996年10月14日月曜日

ブキ・ルアワンでオランウータン見物

結局ミニバスが見つからず、歩いてバンクオブセントラルエイジアへ。1US$がRps2,310、T/Cが2,290なり。この国もT/Cのほうが安いのか。ふむう。とりあえず現金をUS$500替えた。ペナンではRps2,250、ペラワンではRps2,200、昨日聞いた両替商でもRps2,200であった。差がRps110で500替えたからRps55,000の差。おお、でかいぞ。

Oplet64に乗ってピナン・バリスへ。すんなり行けた。ただし正規料金Rps500のほかに荷物代Rps250とられたがこれが外人料金か現地人でもそうなのかどっちだ。どっちにしろ10円ぐらいの差だが。

バスターミナルへ入るのに、100Rpsの入場料。なんなんだこれは。ブキ・ルアワン行きのバスは久しぶりに中国なみの超ボロバスでなんだか楽しい。80キロに3時間かかったぜ。

ブキ・ルアワンは玉川峡(めちゃローカル)ぐらいの川沿いにあり、水は濁っておらず、美しい。泳げるところもある。上流へ20分ほど歩いたところにある Jangle Innにチェックイン。シャワー・トイレつきダブルが10000Rps、ちと高いが川に面しており、外に座れるところもある。OK!

対岸の丘を見ていると、尾の長いサル、ニホンザルよりもずっと体の小さいサルがたくさん降りてきた。時折、オランウータンも散歩にやってくるそうだ。

ここはだいぶ奥まったところなので宿附きのレストラン以外にろくなメシ屋がない。そして、ここはおいしいことはおいしいのだが、スパゲティを料理するのに1時間ぐらいかかる…のだ。イラチの相棒はカンカンである。

1996年10月13日日曜日

アザーンにたたき起こされる

宿代に含まれている朝食(パン+コーヒー)を食べてると、向かいに座ったスペイン人女性が「朝4時からスピーカー最大にして歌っているあのキチXイは誰?!」と怒りを隠さない。まあ、知ってていっているのだとは思うが、あれはアザーンだ。私も夜明け前にベッドから飛び起きたよ。たそがれ時に遠くから聞こえてくるヤツは旅情をそそるが、夜明け前に真横のスピーカーから聞こえてくるのはなあ。とほほ。

ところでガラムというのはインドネシア特有のタバコで、煙草の葉にクローブ(丁子/丁香)を混ぜてある、甘い、独特の香りを持つタバコだ。吸いこむとクローブがパチパチはじけ、のどの奥にちょうどよいタバコの辛さがにじむ。と同時に、甘い、甘い、ちょっとほかに類を見ないような煙の味が口の中に広がって、なぜだか知らんがこれが南国のけだるい雰囲気によくあうのだ。そして煙を吐いた後に、舌の先や唇に、クローブのかすかな甘さが残る。それを舌の先で愛撫して、次の一本を取り出すまで余韻を味わう。不思議なタバコ。今まで愛飲してきたMOREのメンソールはちょっと辛すぎた。こっちに乗り換えだ。

朝から博物館。あまりたいしたことは無かったが、チケット売り場がどう探しても見つからず、結果としてタダ見となってしまったので、あまり無理はいわないことにしよう。

生理痛がひどく、帰って鎮痛剤を飲んでこてんと眠る。なにしろ朝4時に一度、アザーンでたたき起こされているため、寝不足なのだ。

午後から別のホテル探し。いくつかまわったが、今のところ以上のものはなさそうだ。値段と設備の折り合いを考えると。

ブキ・ルアワンへの行き方もだんだんわかってきた。しかし、皆言うことが微妙に違うので、どこかで「あ、アカン」「あ、話が違う」という苦労をするかも。しかし行ってみよう。私はオランウータンがめちゃくちゃ好きなのだ。

明日、ミニバスでBANK OF CENTRAL ASIAへ。そこからバスでピナン・バリスバスターミナルまで。そこからブキ・ルアワン行きのバスが出ているはずだ。これで行けるか?

1996年10月12日土曜日

海路で国境越え

朝10時の船は10時半に出港、上出来。しかし4時間のはずだったが6時間かかった。途中からシュワルツネッガーの映画を放映し、退屈しのぎで助かった。スマトラのペラワン港へ入港。60日ビザをもらってひと安心。しかし、人口が多いとどこも中国並みの人品骨柄になってしまうのかのう。イミグレでぶつくさこぼしてしまったら、隣にいたインドネシア華人に「その通りだ、ここは貧しい国なんだよ」と北京語で言い返されてしまい、びびった。

しかしひとあたりよい人々もたくさんいる。メダンでバスを降り、モーレツにトイレに行きたくなってしまった私が通りすがりの華人女性に、トイレに行けるようなショッピングアーケードかホテルかはないかと訊ねると、それは御困りでしょうと、自分ちのトイレを貸してくださったのだ。うひー、ありがとうございます。本当に助かりました。そしてほんとにすみませんでした。

オート輪タクに乗った。途中で加油。先の細いじょうろにまず透明な油を大カップ一杯、それから黄色い油を小カップ一杯、ぐるぐるかきまぜてガソリンタンクに注ぎ込む。なんなんだ、あれ?ガソリンは赤、ディーゼルは無色透明だと思うのだが。

シャワー・トイレ付きダブルが1,5000Rps、US$1=2,250Rpsで替えたので、US$6.66666…か。しかし部屋は狭く、もひとつである。2階の広いほうの部屋は25,000Rpsだったが、安いほうに泊まることにする。

華人は多いが、ごはんにはもひとつの街である。夜市へ行ってみるもたいした収穫無し。部屋へ帰るとすることもなし、相棒はピーナッツをもそもそ食っており、私はガラムを吸っている…

1996年10月11日金曜日

極楽寺観光

フェリーピアで直接買えば安いのでは?と行ってみたが、却って高かった。ぷんすか。いい観光になったけど。

観音廟に御参り。それから極楽寺へ行く。山の中腹にあって、ふもとの店屋のおばさんに道を聞いていたら、「あんたら、マレーシア人じゃないね?」と聞かれた。広東語のアクセントがマレーシア華僑とは違うんだそうだ。ふうふう言いながら登ると、「極楽寺」というベタな名前に名前負けしてないよ~んという感じの、タイガーバームガーデンのでかいやつがどどーんと現れ、なんだか脱力して笑ってしまった。笑たらあかんがな。佛罰があたるぞ、また。

豪華絢爛というようりは豪華キテレツな本堂とか、下が中華風で真中がタイ風、下がビルマ風の白塔とか、亀が1,000匹ぐらいいそうな池とか、山の中腹でにっこり微笑む大観音とか(←ささってるように見える)。

インド人がいっぱい参観に来てたが、おかしくない、おかしくない、御釈迦さまだってインド人。しかしインド人としては「ここはヒンドゥー寺」と見なして来ているのか、それとも「仏教寺だけど観光に」来ているのか、どっちだろう。やっぱ観光かな。

フェリーチケットは、結局オーストラリア人女性の店で買った。MR90で港税込み、送迎バス付きである。それにしてもぺなんはごはんがおいしい。ついつい食べ過ぎてしまうぜ。サテー。けーてぃうー。そのたいろいろー。

1996年10月10日木曜日

陸路で国境越え

朝9:30のワゴンでペナンに向かうはずが、ワゴンがハジャイを出たのが11時。むう。客を引いて回っていたのだ。やめてくれよなあ。

1時間で国境サダオに到着。国境を抜けてしばらくはゴム林を抜けてのドライブである。このゴム林はどっち領に属するのだろう?マレーシア側国境へ。私は三ヶ月、相棒は2ヵ月のビザが出た。2-3日で抜ける国のビザはこんなに簡単なのになあ。

バタワース(北海)到着。カーフェリーで15分。ペナンのジョージタウンの、ルブ・チュリア(チュリアストリート)スイスホテル前で下車。そのままスイスホテル2階正面の気持ちのいい部屋にチェックイン。MR21。(MR=マレーシアリンギット)

近くにヤオハンがあった。ヤオハンはシャングリラと繋がっているので、なんだか笑ってしまう。ヤオハンとラグジュエリアスファイブスターホテルなあ。太古ジャスコとグランドプラザホテルぐらいなら釣り合い取れてるが。

覚悟していたが、インドネシアへ渡るフェリーはMR90(=4,000円)もするのだ。高いなあ。

1996年10月9日水曜日

ハジャイへ向かう

朝7:40の普通バスでハジャイへ向かう。9時間かかって4時半ごろ到着。駅前まで歩いて、Cathey G/H(国泰旅社)へ投宿。

街歩き。街ごとチャイナタウンという感じで、辛い辛いタイ料理にうんざりだった相棒、生き生きしている。中国語もよく通じるし。

1996年10月8日火曜日

相棒、上出来のさし歯を受け取る

私のじんましんは引かず、鼻水まで出てきたので、アレルギーの薬を飲み、相棒に頼んでAnti-Arellgicの塗り薬を買ってきてもらう。魚ではないとしたら、もうひとつの可能性は洗濯に使っている洗剤だ。というわけで、今日の洗濯はせっけんでしてみた。

昼食はえび。20-30センチぐらいのやつを、相棒の宝物、電熱コンロで焼いて食べた。うまいうまい、肉がたっぷりだ。1人3匹づつ。

それから歯医者へ。相棒は「使い心地は、よい。」とうれしくなさそうに言う。めし屋に直行し、ご飯を食べてみたが、はずれたりずれたりは全くしないそうだ。痛くもなく、噛み合わせもOK。相棒よ、香港より安かってんから、それで納得しなさい。

1996年10月7日月曜日

プーケットへ戻る

朝食を取ってロングビーチへ。パンを撒きながら泳ぐと、魚がくることくること。

12時に宿に戻り、1時にチェックアウト。昼食をとって船の時間までHair Braidingをさらに追加。乗船。2時半に島を離れた。

4時半、プーケットに到着。Thavong Hotelのもとの部屋へチェックイン。すぐに歯医者に行くも、今日は予約がいっぱいでだめと言われ、相場の倍も取りくさって見れんというかと、相棒がぶつくさ言うこと。もちろん歯医者を出てから。

ひさしぶりに実家に連絡(前回は9/12)。もっとも苦手とする作業である。

潮州料理屋で3品+ごはん+水で105B。店のおばちゃんに、見事に黒と白やなあと言われた、なんのことかというと、短いタンクトップの下から見えている腹の色と、それ以外の肌の色のことだ。ワンピース型の水着を着るとこうなるのね。

しかし、コサムイで始まったかとおぼしきじんましん、散発的に発生している。おしりと内ももにじんましんのような、アトピーのようなぽつぽつがさがさが出ている。本日はまたそれが特別痒い。宿で見たら真っ白なけつに見事なバラ色のてんてんがぶわあと広がっていて、見るだけで痒くなった。しばらくは魚もひかえてみよう。

1996年10月6日日曜日

Hair Braidingをやってみた

朝からロングビーチへ行きたかったのだが、相棒が「しんどい」「めんどくさい」とぐずぐずしている。朝食を取った後、早速昼寝(朝寝?)を始める始末だ。カゼでもひいてんのかと思い、私はそっとしておいてやった。で、マニキュアとペディキュアのぬりなおし。

昼から出なおそうと思ったが、昼食後もぐずぐず言って腰をあげやがらない。なんじゃいこいつは!私は朝食前にすでに水着を着こんで待っているのに。魚用のパンも用意したのに。

業を煮やした私は、相棒の最もキライなこと(私がやるのを嫌がること)、つまり肌を焼くためにビーチへ出た。1時から3時まで裏表ともじっくり焼いたが、もはやちっとも痛くならない。この色が私の限界か。

結局今日はロングビーチへは行かずじまい。3時過ぎから大雨が降り出したのだ。ざざぶりのだだぶり。小降りになったのをみはからって夕食に出る。本日は最後の夜なので奮発してごちそうだ。清蒸・紅焼+黒豆醤・かじきまぐろのBBQ、以上。

帰りにHair Braiding(細いみつ編をして先にビーズをつける)を両方に少しやってみた。これも相棒が嫌がるのでいままでやってなかったのだ。

1996年10月5日土曜日

一日ツアーにおでかけ

木船でまず対岸のピーピーレーへ。燕の巣がいっぱいの洞窟を見学。ジャンクの壁画があった。燕の巣を買い付けに来た中国人が描いたという伝説あり。

ピーピーレーの入り江でシュノーケリング。このとき借りたフィンは昨日のプラスチック製とちがってゴム製で柔らかく、足にぴったりで、泳ぐと耳の横を水が流れて行くのがはっきりわかった。きもちいいいー!

さてそれから、ピーピー・レーからピーピー・ドンをぐるっと回ってバンブーアイランドへ。沖合いに停泊し、シュノーケルをつけて海に入ると、なんと見事な珊瑚礁。ロングビーチよりももっとすごい。そして透明度もおそろしいほど。ツアーガイドが船の上からパイナップルの芯をなげると、魚がどどどどどどどどーーーという感じで押し寄せてくる。ピラニア状態。こっちが教われそうな勢いである。

バンブーアイランドで昼食。ランチボックスのフライドライスとパイナップル、ボトルウォーター一本が、ツアー料金に含まれている。それとマスクとシュノーケルとフィンでB250。同行はオーストラリア人の女性5人と、日本人男性一人、そして我々2名。

昼過ぎからはバンブーアイランドのビーチで泳ぐ。波が全くなく水はキレイで、調子に乗って泳いでいて、ふと下を見て悲鳴を上げそうになった。なまこ。巨大な、ぶっとい黒いやつが数百本、白砂の上に横たわっている。死屍累々。死んでないけど。しかもあまり水深がなく、ひょっとすると足が届くかも。届いてたまるか!!!全速力でなまこのいない水域へ。

再び船に乗り、ピーピー・ドンへ帰る。今度はロングビーチ沖で停泊。やはり岸に近いところよりもずっと魚が多く、楽しい。でも岸からここまで泳いでくるのはちょっとこわいなあ。

ロンギビーチから帰ってきて、ツアーはおしまい。なかなか楽しい一日であった。ばんごはんはトムヤム。45B。魚と遊ぶために袋一杯の古いパンを買った。明日遊ぼう。

1996年10月4日金曜日

スノーケリングの日

朝食をとってのんびりし、はやめの昼食をとってロングビーチへ。本日はゆっくり一日を過ごすつもりで、本を2冊と水を持ってきた。そしてフィン(中国語では鴨子脚)を借りた。

しかしあしびれ、思ったより固くて使いにくい。しかも私と相棒ではもちろん脚のサイズがちがうので、私にはぶかぶかで相棒にはきつくて痛いようだ。ひたすら泳いで本日は終わり、へっとへと。なのに、またしてもけちって山道を2キロ歩いて帰ってきた。へっとへと。

1996年10月3日木曜日

勝手にに台所をセットアップ

朝食をとってから村へ。昨日見かけた岩波の唐詩選(中)を40Bで買った。読むのに時間がかかりそうなので、安上がりでヨロシイ。

相棒は村に2軒ある魚屋で、ジャックフィッシュがレストランの三分の一ぐらいで売られていることを発見。こぶりのを2匹買った。48B。しかしね、レストランのは調理代に場所代込みなのだから、比べるわけにはいかんだろう。相棒聞く耳持たず、さっそく調理開始である。バンガローにはコンセントがないので、外にあるブレーカーをいったん落として、照明用の電線から勝手に電気を引くというゴーインさだ。ホアヒンの工具屋で何をあさってたかと思ったら、こういう道具かい。良い子は真似をしてはいけません。

鼻歌交じりで勝手にコンセントをつくってしまい、油と塩と調味料にご飯を買いこんできて、昼ご飯の支度である。私はビーチでねっころがって、さっそく唐詩選を読む。もうすっかり焼けてしまい、私ってこんなに黒くなれるのねというぐらい色がかわっている。もはやいくら日に焼いても、全然痛くならないのだ。今日はタイ人に「マレーシア人?」と聞かれてしまった。(マレーシア華僑かという意味であろう)

昼からボートに乗ってロングビーチへ足を伸ばした。行ってびっくり、なんちゅうきれいな海だ。10m先までくっきり。それに、3m入ると足がつかなくなる深さがあって、泳ぐのにもぴったり。しかもここには大規模な珊瑚礁があり、わくわくしながら泳いでいってみると、うっひゃー!!!

コサムイなんかとは、魚の大きさも量もケタがちがう。こわいぐらいにたくさんの魚がいた。そして、鬱蒼と茂るサンゴの森。しゃこ・巻貝・うに・ひとで・なまこ、海の生き物たち。色とりどりの魚は、私がじーっとみつめつつ浮いていると、なんじゃい?という顔をして集まってくるのだ。私のほうが怖くなってくるぐらい。

1組しかないスノーケルを相棒にバトンタッチ。見といで!と送り出すと、珊瑚礁の上の海面で、くるくるまわって喜んでいる。水きれいやし、波は静かやし、ばつぐんやなあ。

4時間ほどたっぷり泳いで、さあ帰ろうと波打ち際で砂を流していたら、でっかいしゃこ貝を見つけた。私のでかい顔よりさらに大きな白い貝。写真をとって、波打ち際に流した。相棒があまりびっくりせんので、なんでや?と聞いたら、さっき珊瑚礁で同じ位の大きさの生きたやつが口をあけたり閉じたりしてるのをじっと見てた、だって。貝を海に戻すときに、なにかが光っていたので拾い上げると、キレイな5角形の水晶だった。今日は素敵な日だなあ。

丘を越えて、機嫌良く歩いて帰ってきた。ボートなら5分だが、歩くと山道を2キロだ。

1996年10月2日水曜日

泳ぐ。釣る。食べる。

目の前のビーチが大変な遠浅であることが判明。300m沖まで行っても腰までの水。子供をあそばせるには絶好だが、大人にはもちろんちと物足りない。

村で昼食を取り、島の反対側を散策。マングローブの林があり、また違った雰囲気だった。片方のはさみだけが大きなカニがうじゃうじゃいた。帰ってまたひと泳ぎ。それからフェリーピアに釣りに行く。竿なしで、糸と針と錘だけで釣ったが、入れ食いというやつで、うじゃうじゃ釣れた。大き目のおいしそうなやつだけを残し、あと一匹釣れたら帰ろうというところで見事に真っ黒の男の人がやってきて、「ここは釣り禁止です。」

ごめんなさい。知らなかったの。確かにフェリーピアの柱にそう書いてある。どおりでこんなにたくさんの魚なのに、どうして誰も釣ってないんだと思った。釣果をすべて放し、すごすご、しおしおと帰ってきた。

ゆうべの店でばんごはん。ジャックフィッシュとかいう魚、大120B、小70Bをふたつで160Bにしてもらって食べた。この値段は調理費込みなのでとってもおトクだ。大は醤油焼、小はBBQでお願いする。昨日の魚より肉がやわらかくておいしい。

1996年10月1日火曜日

本日で出発よりちょうど半年。

ピーピー島へ向かう日だ。船は8時半に出港し、10時過ぎにピーピー・レーにツアー客を下ろした後、ピーピー・ドンに到着したのが10時半。船酔いをしてしまった私は、タイガーバームの小瓶をずっと鼻にかぶせていた。

フェリーピアから歩いて10-15分、Phi Phi Don Resortというバンガローに150Bのこましな部屋があり、チェックイン。後であちこち回って知ったことだが、値段と設備とロケーションの折り合いを考えると、私たちには理想的なところだった。これより安いと、木と竹で編んだ掘建て小屋になってしまい、同じ価格帯のほかのところは、よそのホテルの発電機の音が一日中うるさかったり、丘の上でビーチからほど遠かったりする。ここは目の前がビーチである。

500Bまでなら出そう!と決心して値段を聞いた素敵なバンガローは、なんと1300Bであった。

しかし、5年ほど前に相棒が始めてきたときには静かな漁村だったというピーピー島も、すっかりにぎやかになっていて、レストラン・土産物屋・ダイブショップなどなどがいっぱい。それでも海は驚くほどきれいで、普通、水がキレイではありえないはずのフェリーピア付近の透明度がすごい。橋げたが砂に突き刺さっているのが、くっきりと見える。

夜、ビーチのレストランで魚を食べた。30センチぐらいのホワイトスナイパーが100B。清蒸にしてもらった。うまいがやや肉が固い魚だ。テーブルを出しているビーチに、でっかいカニがいっぱいいてそろりそろり歩いており、そしてなにかびっくるすることがあるとびゅーっと大変な速度で穴に隠れに行くのがおもしろかった。

1996年9月30日月曜日

ブルーな気分を打破

ブルーな気分の打破のため、市場でカニを5杯購入。甲羅の幅10センチぐらいのこぶりのやつ。190B。大きさの割に肉がつまっていて、おいしかった。

本日は1日ツアーに出かける。プーケット北部のパン・ンガというところから船に乗って007の撮影が行われたという小島に行くのだ。そこはタイ語の名前よりもジェームズ・ボンド・アイランドという名前で有名なのだそうだ。が、私、007の映画ってひとつも見たこと無いんですよ。

バスで2時間、ボートで1時間半、島は思ってたよりずっと小さかった。それよりは、見事なマングローブの群生や、海面から直接ぼこぼこ立っているカルスト岩のほうがおもしろかった。ムスリムの水上村で昼食。えび・かに・キャベツ・スープ・ごはん、量もけっこうあり、満足のゆくご飯だったが、同じテーブルの白人ときたらご飯とキャベツしか手をつけず、しまいにはチャーハンを作ってくれ、コーラはないのかとか言い出したりして、気の毒な味覚であった。

プーケットタウンに戻ってから、ピーピー島までのチケットを探しに、何減価の旅行会社をまわる。往復にフェリーピアまでん送迎をつけて、400Bのところで購入。

1996年9月29日日曜日

相棒がさし歯を作る

夕べ泣きすぎて目が痛い。やはり一緒に住んで3年、こういうときの慰め方が相棒、だんだんおざなり~になってきた。昔はもっとリキ入ってたぞ。私がそう言うと「おまえかって昔は口答えなんか全然せえへんかった。越来越不像話」と言う。阿呆、それはせえへんかったのではなく、語彙がたりなくてできなかっただけだ。

お互いさまである。

相棒が峨眉山でなくしたさし歯をやっと作る気になったので、歯医者へ行く。若い女性の医者であった。相棒は歯医者は女性のほうが細工が丁寧という信仰をもっているので、さっそくお願いすることにする。してみてびっくり、4000B。うっひゃあ。香港よりやや安いか?というぐらいで、ほとんど変らない。しかしまあ、診療器具も見たところ日本とかわらんし、清潔な医院なのでそんなもんなのだろうかと半分思いつつ、半分はガイジンと見てふっかけてるなーと思いつつ、しかし歯医者なんかで値段交渉をして適当なやつをつくられても困るので、私の心は千々に乱れた。しかしだな、いいものであれば何年も、そして毎日毎食つかうのだし、それにだいたい私のではないのだ。歯の悪い相棒の、せめてものさし歯なので、いいものをつくってやりたい。

そこで相棒が「高すぎる。別の医者へ行って値段を聞いてみよう。」と言ったときに、「ええから作りなさい、歯は大事なもんやねんし、健康の基本やねんから。」と、医者にゴーサインを出してしまった。型をとってデポジットの2000Bを払って出てきてから、その辺の店で新聞(タイでは中文紙が結構どこでも買える)を買うついでに、店のおばちゃんと交わした会話。

相棒「このへんで入れ歯つくったらどのくらいするの?」(廈門語)
おばやん「長いこと作ってないから知らんけど、100Bぐらちゃうの?」(潮州語)
私「それは30年前の価格やろ」(大阪弁)
相棒「今そこの歯医者で入れ歯つくってもらったら、4000Bって言われたぞ。」(廈門語)
おばやん「ああ、4000Bあったら全部作れるねえ」(潮州語)
相棒「全部ちゃうねん、一本だけ。」(廈門語)
おばやん「なんやて?」(潮州語)
相棒「だから、一本で4000B。」(廈門語)
おばやん「ひょえええええええええ!!!」

吉本そのままのような驚き方をするおばやんであった。そしてさっそく、ちょうどそのとき新聞を買いにやってきたご婦人にご注進。潮州語とタイ語こもごもで、たった今の驚くべきトピックを報告している。ご婦人もあちゃーという顔で我々を見て絶句。

私「医者で値段交渉ってするもんなんでしょうか、タイでは?」(普通語)
ご婦人「できますよ。」(普通語)
相棒「あああ、俺は阿呆や、なんで正直に香港から来たって答えたんやろ。中国人やって言えばもっと安かったかも知れんのに」(普通語)
私「算了ba、こんなけ払った一番ええのを作ってくれるやろ。一分銭、一分貨やで。」
ご婦人「そうそう、安いかわりに質の劣るものを買っても仕方が無いですよ。」
相棒「普通はどのくらいするもんなんですか?」
ご婦人「2000Bぐらいでしょうか。でも、交渉次第では1500Bとか1000Bでもできると思いますよ、品質が違うでしょうけど…。一番高くて3500Bぐらいでしょうかね。よく知らないけど…」
相棒「香港では医者で値段交渉というのはないので、高いと思いつつ言えなかったんですよ。」
ご婦人「算了、タイの記念と思って忘れなさい。」

ご婦人が教えてれた相場は、我々の気持ちを慮って言ってくれた価格だと思う。この日一日にとどまらず、翌日も相棒はご機嫌が悪かった。別に私にあたるわけじゃないけど。これで終わりじゃなく、一週間後にはまたこの医者に行ってさし歯を合わせてもらい、残りの半額を支払わねばならない。私はなぐさめてあげようと思って、だまってバスタオルを洗ってやった。

1996年9月28日土曜日

2時間ほど相棒のひざで大泣き

6時半起床!シャワーを浴びてバスに乗り、ドンサック経由でスラートへ。スラートで下車すると、すぐにソンタウの運転手が寄ってきて、プーケット行きのミニバンの乗り場まで20Bと言う。同じバスの白人二人はそれに乗ったが、私たちは空腹だったのと、なんかうさんくさかったのでパス。

めし屋で昼食。めし屋のおやじにプーケット行きバスの乗り場を聞くと、なんと目の前。しかしおやじは、ミニバスに乗れ乗れと言う。エアコンバスはここから出ておらず、普通バスかミニバンかの選択になるんだと。普通バス77B、エアコン139B、ミニバン150B。普通バスは6-7時間、エアコンは5時間、ミニバンは4時間だそうだ。

バス停のミニバンチケットカウンターで160Bと言われ、10B高いなあと思いつつ購入。バンに乗り、30mほど離れたところで止まったそこが本来のミニバン乗り場らしい。乗り場に英語表記は無く、必死でタイ語を読むとプーケットまで150Bとあった。って、そこってさっきバスを降りたところから10mと離れてません。うぬう、そうきたか。

ミニバンは11人乗り。本当に4時間でプーケットに着いた。が、おっそろしい運転で、私も相棒も二度とあれには乗りとうない。

Thavong Hotel、エアコンが壊れている部屋がスペシャルディスカウントの200B。広ーい、きれいなダブルで、ソファと椅子とデスクとたんすとバルコニーがついている。ゲストハウスではなく、久しぶりのホテル。ちなみにエアコンありの部屋は330B。相棒が街を探索に出かけている間に、えらいことを発見してしまった。やられた。旅先でちょっとしたものをやられたのはこれが初めてではないが、被害額では今回の比ではない。

母からもらった金のネックレス(それは母が二十年前に初任給で買ったものだ)。同じく母がくれたひすいの指輪。相棒が買ってくれた金のピアス。ラオスで買ったガーネットのピアスとネックレス。以上5点。もう2度と見ることは無いのか。

2時間ほど相棒のひざで大泣きをした。金のネックレスは大学時代に母にもらってから、身につけていない日のほうが少ない ― ほとんどずっと付けていたのだ。途中から金の装身具をはずし、しまいこんでいたのが仇となった。もちろん荷物にはカギをかけていたのだが、所詮はちいさな南京錠である。

もちろんナトーンの売春宿でだ。被害額がどうこうというより、母に申し訳無くて仕方が無い。ああ。

1996年9月27日金曜日

ひさしぶりに見事な売春宿

チェックアウトしてナトーンへ。バスの時間を聞くと、プーケット直行はなく、スラート乗り換えになるとのこと。それだと到着がうまくいって9時、へたすると11時を過ぎてしまう。明日の朝イチの便に乗ることにして、本日はナトーン泊まり。

Sea View G/H。"None of the rooms actualy have seaview."とLPに書いてあるとおりであった。本日は旧暦8月15日。夕方7時ごろから海南公所(海南華僑の互助団体であろう)がにぎやかなので行ってみたら、海南語でチャイニーズオペラを上演していた。お題は「金花女」。以前に台湾で見たやつと同様、やたらやかましくにぎやかな、ちょっとコメディくさい劇であった。めったやたらにハデな衣装と楽しいオーバーアクションが、私にはとても興味深く、ばつぐんに笑かしてくれる見世物であった。

帰って木瓜(パパイヤ)食べて消灯。この宿、ひさしぶりに見事な売春宿で、きれいな娼婦のおねえさん方でいっぱいだ。

1996年9月26日木曜日

一日中曇天なり

宿の食事(確かにヒドイ。私の料理よりヒドイ。)に業を煮やした相棒、朝から鶏卵を買ってきて卵焼きを作った。昨日ラマイで買ってきたパンといっしょに食す。ふむ、美味い。そして安上がりだ。自分でする気はないけど。

本日は日和がよろしくなく、一日中曇天なり。相棒が泳ぐのを横目で眺めながら、ビーチで寝そべって借りてきた本を読んでいると、宿の犬かずうずうしくもいきなり乗っかってきたたまげた。鳥も寄ってきた。それから相棒が漁村へ行き、えびといかを入手して帰ってきた。おいしかった。

明日はここを離れる。

1996年9月25日水曜日

ラマイの町はFalangだらけ

いらちの相棒が、そろそろ場所をかえたくなってきたらしい。この人は「コオロギは農民が売りに来るのを買うもの」というような環境で育ったため、田舎には耐えられないようなのだ。せっかく街から離れた宿なのに、日に何度も乗合トラックで買い物に出かけて行く。私はビーチで本を読んだり、昼寝をしたりだ。

朝から昼過ぎまでがんばって泳ぎ、へとへとになる。相棒、釣った魚が例外なく不味いので釣りをあきらめた。昼食のあと、ラマイの町まで買い物に行く。パン・ミルク・マッチ・水・おやつなどなど。9Bの切手は10Bだというので買わなかった。

ラマイの町はFalangだらけ。それも、旅先で壊れたヒッピー(死語)くずれとか、トップレスのどでかいおねえちゃん/おばちゃんとかである。こういうタイプの人々とはあまり中国には来ないから、久しく目にすることが無かったのだ。が、タイにはいっぱいいる。相棒はこういうガイジンがことのほかキライである。

ビーチを2キロも歩いて帰ってきたため、へとへとに疲れた。距離もさることながら、白い砂浜は強烈な照り返しだ。

1996年9月24日火曜日

海水は最良の消毒薬?

私は泳ぎに、相棒は市場へ買い物に。一時間ほど泳ぎ、半時間ほど体を焼いて部屋に戻った。シャワーを浴びてルーフで絵葉書を書いていると、昨日の男がまたしてもやって来たので、「我々の国の習慣では、主人の留守中に婦人は男性の客を迎えられないのだ」と申し渡してお帰りいただく。後で帰ってきた相棒がそれ聞いてゲラゲラ笑うこと。

世界各地の難民キャンプで働いてるような人が、Short Wave Radioを知らんはずはなかろう。

岩場で転んだ足のケガ、普段の私ならたちまち化膿して腫れあがって膨れ上がってえらいことになるはずだが、今回は全く腫れもしない。体調がいいのか、抗生物質軟膏がよく効いているのか、相棒が言うとおり、海水は最良の消毒薬なのか。

1996年9月23日月曜日

またしてもサギ師である

「猪のように眠るなあ、おまえ」(中国語で惰眠をむさぼるという意の慣用句)と言われ、むっとする。原付しかもってない私が、クラッチつきのバイクをタンデムして40キロも離れた街まで往復したから疲れたんじゃい。

朝から泳ぐ。場所を変えて岩場にも行ってみた。相棒の釣りと、私のスノーケリングの両方にいいかなと思ったのだ。しかし釣果は8センチぐらいの小魚一匹。かわいそうなのでリリース。そして岩場で滑った私、岩に張りついているフジツボでむこうずねを大根おろしのようにおろしてしまい、たいへんな流血。おまけに水着のお尻に小指が入るぐらいの穴をあけてしまった。気にせず一時間ほど泳いでいたが、陸に上がっても血がぼとぼと。けっこう深手であった。相棒が、「香港やったらいっぱつでサメの餌食」と、イヤなことを言う。

部屋に帰って、抗生物質入りの軟膏をぺたぺたぬる。昼食を取っていると、たいへんなスコールとなった。が、いつまでもやまず、バンガローに帰れない。ちょうどTVでメル・ギブソンのブレイブハートが始まり、ヒマつぶしに見る。(私の好みの映画ではない。どっちかというと好みはこっち。)私は、主人公はてっきり良きライバルの王子に助けられて死刑台を脱出し(もちろんライバルはそのために死ぬ。お約束。)、お姫様をかっさらって新しい土地へ旅立って終わり、かと思ってたらこの主人公、死刑台でえらいゴーモンをされまくった挙句、「Freedoooooooooooooooooooooom!」と叫んで首を落とされるのであった。ありゃりゃ。読み違えた。

男らしくてかっこよくて悲劇のヒーローの主役…で、エンディングのクレジットの冒頭が「監督:メル・ギブソン」。やっぱり、ナルシストでないと役者なんてやれないんだろうなあ…。

小降りをみはからって買い物に。貸し本屋で本を借りてきた。ルーフで涼みながら私は本を読み、相棒は短波でVOAだかBBCだかの普通語放送を聞いていると、隣のバンガローの客が話し掛けてきた。

東チモール人で現籍はポルトガル。現在はノルウェーに住み、人権擁護団体のボランティアをしているという。タイのビルマ難民キャンプ、カンボジア難民キャンプなどで働いたことがあるというふれこみだ。インドネシアによる東チモールでの人権抑圧状況などについて語っているあたりはよかったが、私は死刑に反対しているととくとくと主張し始め、かと思うと毛沢東を尊敬していると言い出したり、ノルウェーでアウンサン・スーチーや柴玲に会ったことがある、インドネシアには20年以上帰っていない、東チモール独立運動のブラックリストに載っているのだ、こないだ香港へ行ったときには、SCMPのミリンダ・ローに会いたかったが留守中だった、マカオでカジノを見学したときには、警察がボディガードについてくれた、英・仏・伊・葡・西・ノルウェー語が話せる(←英語そんなにうまくなかった)、名古屋に留学していたことがある、祖母はマンチュリア(満族)だ、という時点で手持ちのネタをすべて振り尽くしたのか、「香港の知り合いが引越しをしたらしく、連絡が取れない。手助けしてもらえないだろうか」と切り出した。相棒と二人で、「またか。」

またしてもサギ師である。我々って、そんなにまぬけにみえるのだろうか。東洋人はスレた白人よりだましやすいのか、それともはっきり、日本人の女(←私だ、いろんな意味で一応)がだましやすそうに見えるのか、さあどうだ。でも私ってば、もはや少なからぬサギ師と第X次接近遭遇(c)唐獅子株式会社を経験してるので、とりあえず適当にあしらったのであった

1996年9月22日日曜日

Palm Resort G/H、150B。

朝、借り物のスノーケルを返しに行くと、日本語の本があった。文庫本一冊100B前後、レンタル料はその30%。読み終えるまで何日でもその値段。ということは、冊数が必要な私には割高なシステムだ。

宿を移動。近所にもっと広くて安い部屋を見つけたからというのと、なぜか私がこの宿のマネージャーのおかまちゃんに嫌われてしまったからというのと…。なぜだ。ひょっとして相棒を気に入りでもしたか?

Palm Resort G/H、150B。おそらくラマイビーチでは最も安いのではないか。これ以下だとシャワー&トイレが共同になってしまうが、電気コンロで料理をする都合上、水場はどうしても必要なのだ。それとコンセント。ここはシャワールームがやや広くて料理に便利な上、コンセントがふたつあってばっちりの部屋であった。

バイクでナトーンへ。スノーケルを取替えに行く。お金を追加して、もちっといいのを買った。その足で海へ入り、試す。おっけー。

帰って来たもののなにやら非常に疲れていて、泳ぐ気力が出ず、ビーチに寝そべって相棒を眺めるだけで終わってしまった。3時ごろ遅い昼食を取った後、ぐたりと寝てしまう。夜中に一度目を覚ますもまたすぐ寝てしまい、起きたら翌朝8時。16時間の爆睡であった。

1996年9月21日土曜日

バイクを借りておでかけ

マスクとスノーケルを借りて泳いだ。水がキレイなので楽しい楽しい。10センチぐらいの熱帯魚、白と黒のしましま、メダマ模様、黄色と黒のしましま、黒のフリルふりふりなどなど、カニもいた。スノーケルは500Bほど。一方、借り賃は1日50Bなので、10日以上遊ぶなら買ったほうが安い。顔との相性(水漏れとか)もあるので、やっぱり買おうかな。

昼からバイクを借りておでかけ。100ccのホンダドリーム、4クラッチ。バイクは一日150Bなので、スノーケルと比べるとレンタル料のコストパフォーマンス良すぎである。しかし、わたしはてっきり相棒がバイクぐらい乗れるもんだと思っていたのだが、乗るなり30秒でコケた。発進すらできなかったのだ。試しに一人で乗らせてみると、ふらふら非常に危なっかしい。そっかー、原付も乗ったこと無いねんもんなあ、と自分を納得させつつ、両手のひらの擦過傷、右足の大きな擦り傷、買ったばかりのレイバンのサングラス(乱視用レンズ入れたから高かったのよー)のつるか大きくゆがみ、やや怒っている私であった。

仕方が無いので私が前に乗ることに。私だって二輪は原付の免許しか持ってないのだ。友人のバイクで教えてもらって、クラッチの扱いはなんとか知ってるけど。後ろに乗せてると怖いなあ。ぼやきつつナトーンへ。

スノーケルとマスクのセットを購入。TABATAというメーカーのだが、日本のメーカー?台湾製であった。店先でよく確かめたつもりだったのだが、帰って海へ出ると水もれまくり。うえーん。

1996年9月20日金曜日

コ・サムイに到着

早朝7時にドンサックのフェリーピアに到着。フェリーは8時発なので、船着場でぼけぼけ1時間を過ごす。フェリーは一時間ちょっとでコ・サムイに到着し、またまたバスに乗り込んでコ・サムイで一番大きな街、ナトーンへ。ここで食事を済ませてから、ソンタウでラマイビーチへ向かった。

ラマイビーチのはじっこ、Sunrise G/Hとやらのバンガロー、狭いがきっちり海に面した素敵なロケーションのを200Bで。海は絵のように美しかった。水は透明で済みきっており、砂はどこまでも白い。にもかかわらず、相棒はソンタウに乗って町へご飯を食べに出かけようと言うのだ。そのへんのゲストハウスに、海に面したレストランがいくらでもあるのに。変なやつだなあ。

本日はナイトバス明けなのでとりあえず死に寝。

1996年9月19日木曜日

夜10:30のナイトバスでコ・サムイへ

起床。例によって海南鶏飯。ビーチで泳ぐ、と、クラゲにさされまくった。といっても腫れるほどではない。ちょっとピリピリするぐらい。このビーチにますます未練が無くなり、心置きなくコ・サムイへ行ける。

ところで、話に聞いていたがやはり、タイの女性は泳ぐとき水着一枚にはならない。Tシャツ・ショートパンツでばちゃばちゃばちゃと水際で遊び、そのまま帰って行く。不思議だ。一方白人は堂々のトップレス。私にはやっぱり「ローカルに失礼」に見えてならない。

日焼けがヒドイので日焼け止めを買いに行く。(←遅いって。)ニベアのSPF20のを180Bにて購入。焼けてしまった肌ケアローションを55Bで。本日はクロスタービアを飲んでみた。60B。ををを、高級な飲み物だ。豚の耳20B。

夜10:30のナイトバスでコ・サムイへ。冷房がんがんで泣きそう。チェンマイ→バンコクで乗ったVIPバスとちがて座席の幅も狭く、もちろん夜食なども無し。

1996年9月18日水曜日

でかい蟹を自炊でランチ

相棒がタイ料理全くだめなので、中華屋を探しては海南鶏飯を食す。こればっかり。ビーチを散策、あまりの暑さにへばって帰ってきた。

私がガイドブックをつらつら眺めているうちに、相棒がまたしてもなにやらさげて市場から帰ってきた。でかい蟹。昼食はこれか。

2匹で320B、うーん、けっこうな値段である。小鍋で一匹づつゆでた。私にはどれもこれも同じように見える蟹だが、相棒に言わせると何種類も有り、肉がうまいやつ、卵がうまいやつ、ミソがうまいやつ、はさみの肉が特別うまいやつ、いろいろあるんだそうだ。今日買ったのは「卵になる前の部分がうまいやつ」だそうだ。私は蟹のオスとメスの見分け方すら知らんよ。

甲羅を開くと、鴨卵の黄身みたいにオレンジ色のほくほくしたやつがむちむちにつまっていて、かにみそもたっぷり。これに酒を注いで飲むを抜群にうまいのだと、相棒が日本人と同じことを言いよった。私も大賛成だ。それにタイなどこにでもあるライム(でもタイ人はレモンだと言い張る)をきゅっと絞ってもいいんじゃないの?などと、シアワセなことを言い合う。

今泊まってるゲストハウスは五階建て、私たちは最上階に泊まっているため、部屋よりずっと広いバルコニーが専用で使えるのだ。椅子と机があり、海が見えて見晴らしもばつぐんによい。コンセントがあるので、料理もここでやっている。周りはほとんど平屋建て、このゲストハウスより高い建物は、向こうのほうに見えている1泊3000-5000Bの高級ホテルだけである。

相棒「今あのホテルに孤独な一人の老人が泊まってて、俺らが仲良くカニを食べてる姿を見て、激しく嫉妬してるねん。」と勝手なことを言う。カニは肉もたっぷりで、はさみも特別でっかく、一匹食べると本当におなかがいっぱいになってしまった。

明日か明後日あたりコ・サムイに移動するつもりで、スラターニー行きのバスの時刻表を調べると、コ・サムイ直行バス(バスごとフェリーに乗る)があることがわかった。エアコンバスが191B、VIPバスが300B。エアコンバス、安すぎるなあ。フェリー代だけでも40Bはするはずなのになあ。といぶかりつつもエアコンバス購入。

足の腫れ、不思議な展開を見せている。腫れはほとんど引かず、硬くふくれているのだが、表面にキズは全く無し。しかし化膿に付きものの熱は引いてしまい、さわるとひんやりしているのだ。しかし押すとぐりぐりし、痛い。なんなんだこれは。なんか変な寄生虫とか入ってんとちゃうやろなあ。

1996年9月17日火曜日

満潮の時間を割り出す方法?

市場でご飯。海南鶏飯(英語ではハイナニーズチキンライス)が20B、コーヒー5B。水着に着替えてビーチに出かける。水が意外とキレイじゃないのでがっかり、透明度50センチぐらいだ~。相棒が言うには、今干潮で泥が沈んでないからだってさ。満潮時にはもうちょっとマシのはずとのこと。そう言って島育ちの相棒は旧暦の日付から満潮の時間を割り出す方法を教えてくれたが、これが通用するのって廈門だけじゃないのかなあ?

旧暦の日付に8をかけて、例えば4日なら32で3時の2の字=3時10分、13日なら104で10時の4の字=10時20分。16日以降は日付から15を引いて同様に、だそうだ。ほんまか。

水が最もキレイなのは、満潮の1時間ぐらい後だということだ。水位は旧暦1日と15日に最も高くなるのだそうだ。私は潮の満ち引きが日に2回あるということも知らなかったよ。

朝からばちゃばちゃ泳いでいるうちに、上半身がすっかり焼けてしまった。ビーサンの跡がくっきりの足をなんとか焼いてごまかしたいのに…。雨がパラついてきたので宿へ戻り、相棒は再び市場へ出かけ、なにやら貝を買いこんできた。二枚貝。ちなみに中国語では普通、「貝」は二枚貝しか意味しない。海の巻貝は「海螺」、淡水のは「螺子」である。でもカワニナはなぜか「川貝」だなあ。

私は気がつくと右足のすねが、なぜか傷口も無いのに見事に化膿していて、直径7センチぐらいがぱんぱんに腫れあがっている。熱をもっていて非常に気持ちが悪い。こういう日は魚介類は食べたらイカンのだと相棒が私にいい聞かせつつ、買ってきた貝の調理を始めた。ドイツ製コイルヒーターに見切りをつけた相棒、電気コンロを90Bで購入したのである。まず小鍋に湯をかんかん沸かし、火をとめて、沸騰水の中へ貝をぼちゃんぼちゃんと落とし、ぐるぐるっとかきまぜて、はいできあがり。

これで終わり? 火、通ってないやん!

相棒は「没問題没問題~、この貝は「血貝」と言って、開けると血がぼたぼた落ちる~」とかなんとかかんとか言いつつ貝をこじあけると、鼻血のような血がぼたぼたぼたぼたっ…、それに口をつけてうまそうにすする相棒。なんてスプラッタな貝だ。眉をひそめて見つめる私に、「生魚よりマシ。」と言い返す相棒。

私は市場へ出かけ、なんきんの煮付けと白ごはんを食べた。うまうま。どうしてこんなにおいしいタイ料理(正確にはタイテイスト潮州菜)、相棒はもひとつ気に入らんのだろうか。

本日はへそ出しタンクトップを着用におよび、日中のそのそ歩き回ったため、上半身が見事に焼けてしまった。

1996年9月16日月曜日

12時20分のバスでホアヒンへ

19路でトンブリ北区へ渡り、7路エアコンに乗り換えて南バスターミナルへ。12時20分のバスでホアヒンへ向かう。16時到着。田舎町であるが、新しい、立派なホテルがけっこうどっさり建っている。

相棒、さっそく小鍋を購入。大きなえびを市場で買って来た。1kg320Bだと。香港の半額だが、タイの所得水準を考えるとすんごいごちそうだ。そこでコイルヒーターの登場!

ところが相棒のドイツ製コイルヒーター、私の台湾製に比べて明らかに沸きが遅いのであった。おそらく、より安全に設計されているんだろうと思う。が、料理には不向きである。私はお茶を入れるために買ったので、えびをゆでるためには貸してやらない。結局相棒は鍋をあきらめ、カップで一匹づつちまちまとえびをゆでていた。ゆであがったえびはもちろん私も食べた。食べごたえがあってうまいなあ。

本日はこれで洗濯をして終わり。Tシャツ2枚、パンツ一枚、長袖シャツ1枚、タンクトップ2枚。以上。

1996年9月15日日曜日

朝からウィークエンドマーケットへ

あまりの暑さと人ごみに死にそう。みやげ物エリア、服エリア、電気製品エリア、食べ物エリア、動物(ペット)エリア、USアーミー放出品エリア、などなど。

動物エリア!うさぎ、鳥、犬、とかげ、ヘビ、そしてリスなどなど。ここで見たリスはすべて日本で言うタイワンリスに似ていて、シマリスはいなかった。タイワンリスは目がでっかく、顔が長くて、よく見るともひとつ私の好みではなかった。つか、ネズミに似ている。やたらでかいし。オリの中でも人間の手の上でもじーっとしていて、シマリスと習性もかなりちがうようだ。

ネズミもいた。ハツカネズミ。まっしろで眼がぽちんと赤い。

コイルヒーター発見!以前見たのと同じ台湾製だが、少し大きくて長い。150Bの値札で見ていたら140Bまで下がったが、私はなるべく小型のもの欲しいし、相棒は100B以下の差ならドイツ製を買うとのことで、結局ここでは見送り。金属製のかわいい洗濯バサミ(12B)とイカ焼き4本を買っておしまい。

バンランプーへ戻り、私の眼鏡のレンズ交換。HOYAのHILEX=IIというやつがペアで1400B。高いのか安いのか。ロンリーープラネットのインドネシアを450Bで購入。小さいコイルヒーターもやはりここにあり、150B。相棒はシーロムまでもういちど足を伸ばしてドイツ製を買うことにしたようだ。そしてなんとびっくり、へそが見えるタンクトップを2枚も購入した私である。黒とグレー、@70B。頭がすっかり南の島。

1996年9月14日土曜日

シーロムのセントラルで水着購入

一泊220Bというのはタイで泊まった中では最も値の張るG/Hということだが、そのぶん抜群にキレイであった。ドアを開けるとテラス廊下で、下は緑とブーゲンビリアが素敵な(他人ん家の)庭。遠くにワットアルンまで見渡せるという眺望付き。20Bの差で昨日の宿とはおおちがい。

チャオプラヤ・エクスプレスでGPOへ。今日はいい服(ってほどでもないけどさあ)を着て化粧をちょこっとしたので、2回もサギ師に声をかけられた。いい気分だ。シーロムロードのセントラルデパートメントで水着購入。950B。さあ海だ!

1996年9月13日金曜日

タイに帰るぞお。

夕方4時の便。朝から税務署へ出向き、本年度の税額を訪ねる。正確な税額を算出するのに1時間ほどかかるそうなので、昼食後に来てくださいといわれ、税務署38階の大家楽で食事。大家楽のくせにフルシービュー。1時15分、窓口を再訪すると、なんとびっくり昨年2年分払ってたぶんから調整されて、日本の年末調整のように帰ってきた。払いに行ったのに帰ってくるなんて~。幸せ。

帰りのGULFも乗り心地良かった。到着。空港向かいの駅から列車に乗り、ホアランポーンで3.5Bの23番に乗り換えて、バンランプー西で下車。New Marry G/H シャワー・トイレ付240Bを、3泊660Bに値切って泊まった。

1996年9月12日木曜日

朝からパスポート受け取り。

朝からパスポート受け取り。5分で済んだ。CIが3カ国しかビザ免除を受けられないのに対し、BNOは80余ヶ国のビザ免除がある。これから行くマレーシア・インドネシア・パキスタンも然り。つーか、インドネシアはCIでは事実上個人での入国ができない。さあ、これでどこへでも行ける。エンジンかかったぜ。

昼食を前の職場のA氏と。日本料理屋で食べていると、案の定知り合いに見つかってしまう。天重定食HK$90+10%であった。

1996年9月11日水曜日

GULFエアは美男美女ぞろい

昼12:10のフライト、10時にチェックインのため、8時の空港バスを予約。私はいつもどおりバスと列車の乗り継ぎで充分だと思ったのだが、今回ばかりは乗り遅れては話にならんので、相棒の意見を入れる。しかしバスは70B、バス+列車なら8.5Bだ。

GULFのボーイング767はピカピカの新品だった。なんとなくエアインディアとかビーマンから類推していた私を許して欲しい。産油国だよね、みなさん。フライトアテンダントはすっげえ美男美女ぞろいで、サービスもばつぐんによかった。ごはんもおいしく、ワインのミニボトルも出た。(←普段どんなキャリアばっかり乗ってるのか) これでなんで安いのだろう?

尖沙咀ミラドールマンションの中のG/H、エアコン+シャワー+トイレ+TV+窓ありの狭いダブル、HK$240なり。パキスタン人経営。馬馬虎虎。

1996年9月10日火曜日

コイルヒーターを探す

今最も欲しいもの。コイルヒーター(携帯湯沸し。電熱のコイル部のみに電線とコンセントがついたもの。カップの水に浸して使う)。みつからない。本日デパートで発見したのはドイツ製の230Bもするやつで、赤と白の変なデザインでしかもあまりコンパクトではない。私はお茶を沸かすためだけに欲しいのでちっこいやつでいいのだが、料理用に利用できないかともくろんでいる相棒が、けっこう悩んで見ている。それで料理って、何する気や?

ワールドトレードセンターでさしみを買って帰る。鯛・イカ・鯖。全部で150Bぐらい。相棒に嫌がられながら、部屋でちみちみ食べた。

1996年9月9日月曜日

朝から香港行きのチケット探し。

一番安いのがJALとGULFで、JALは週3便、GULFはデイリー。ともに5,600-5,700Bぐらい。JALはいい空きがみつからず、GULFに。どんな乗り心地だろう?明後日9/11発、9/13帰の便をとった。私はバンコクに残りたいのだが、相棒に信用されておらず、手綱を放してもらえない。

1996年9月8日日曜日

バンコク北バスターミナルに到着

記憶にあるものよりもずいぶん遠く、おまけに大通りよりずいぶんひっこんだところに入っていくのですこし戸惑った。しかも、夜がまだ明けきっておらず、あたりは暗い。ターミナルの職員に「バンランプー!」といろんな発音、アクセントで言ってみた。やっと通じた。「プー」を英語のシャンプーのように、きつく発音するのがコツのようだ。

90何番かのバスで記憶にある北バスターミナルへ。そこから3番バスへ乗り換え。3番バスはまだ明けやらぬバンコクを突っ走り、土地カンのまったくない我々には、どこがどこやらさっぱりわからない。適当なところでやみくもに降りたら、なんとぴったしバンランプー。神様。

適当に探し、適当にチェックイン。200B。汚くて狭い。やはりバンコク、こんなものか。夜行バスの疲れを癒すために、とりあえず眠る。午後まで眠った。しかし、空気の悪い部屋だ。長所といえば本棚に日本語の本が何冊かあったことだけ。

土地カンを取り戻すため。歩き回り、バスに乗った。夜、香港にTelしてびっくり、相棒のパスポート、もうできあがってるやん。4ヶ月はかかるとかいうハナシはどーなったのだ。一ヶ月どころか1週間で通知が来たそうな。へなへなへな~。

1996年9月7日土曜日

本日はチェンマイを発つ日

本日はチェンマイを発つ日である。なんだか慌しいが、ふたりとも南タイのビーチが恋しくなっちゃって、一日でも早く陽に灼かれ、潮風に吹かれたくなってしまったのだ。チェンマイ、また来よう。

夕方6時すぎ、バスターミナルへ。8時のバスに乗車。

1996年9月6日金曜日

動物園に出かける

朝から動物園に出かける。私は動物園がメインのつもりだが、相棒は動物園の横の丘にあるお寺参りがメインのようだ。年寄りくさ…。さて動物園は丘の斜面につくられてあり、規模は小さいのだが道が非常に込み入っていて、結局私たちはすべてを見て歩くことができなかった。坂道ばっかりで疲れちゃったのだ。オランウータンをみのがしたことが惜しい。

動物園でもっともうれしかったのは、柵の中の動物ではなく、そのへんにいっぱいいたリス。シマリスではなくて、タイワンリスに似た体の大きなリス。今度飼う時にはあれでもいいなあ。

寺はキンピカで、どうでもよかった。丘の上なので、ながめはよかった。

そうそう、動物園では日本ザルに似た、でもしっぽの長いサルがいて、一匹だけでオリに入れられているかわいそうな若いサルが、手に持った棒を軸にしてくるくる回る踊りをいつまでもいつまでも踊っていて、面白くもあり哀れでもあった。

あと、仔象に鼻でたたかれた。「よう、元気?」ってな感じの叩かれかた。相棒は鼻水をかけられてた。象の鼻はおもしろい。鼻の先の上と下をきゅっと閉じて、手のように物をつかむのだ。


夜、ナイトバザールでお買い物。昨晩めっこをつけておいたものを、それぞれ1+2)あわせて300B、3)80B、4)150B、5)180Bで購入。買い物はうれしいなあ。

1996年9月5日木曜日

チェンマイナイトバザール

チェンマイナイトバザールは、つまりは香港の女人街であった。しかもふっかけがすごくて、例えば私が60Bで買ったコットンのパンツを、260Bと言ってきたりする。しかしとりあえず欲しいものをチェック。

1)綿厚手の長袖ブラウス白 260B
2)綿薄手の長袖ブラウス緑 200B
3)荒織シルクのスカーフ緑 180B
4)銀ピアス 280B
5)銀ブレスレット 320B

とにかく欲しいものだらけで目移りする。とくにコットンの着やすそうな服。シルクもいいが、高いし、長い旅行での酷使には向かないので、スカーフだけ買う事にする。上の値段はとりあえずの開価(opening price / 言い値)。

1996年9月4日水曜日

チェンマイ到着。

本日は移動日。しかしめざましが壊れてて、朝7時のバスに乗るはずが、起きたら7時半。そごうで買った日本製のシチズンなのにー!

仕方が無いので8時半のバス。パイを経由して北ルートでチェンマイに向かうバスは、南ルートのバスよりずっと小さく、二人がけの席では通路にお尻がはみでちゃう。交代で座った。

この道はWWⅡのころに日本軍がビルマ戦への補給路として突貫工事で開いたものだという。ジェットコースターのようにカーブとアップダウンの激しい道で、香港のピークあたりの道が8時間続くとお考えください。白花油を鼻の下に塗りつけて過ごした。

パイで一時間の昼食タイム。小さな街だがメーホンソンよりFarang(ガイジン)が多い。見たところ静かでいいところだが、なんかあるのか。あと、ムスリム人口が多そうで意外だった。

チェンマイ到着。市街への3番バスに、方向を間違えて乗ってしまい、反対側の終点まで行ってしまった。かわいい中学生の女の子が声をかけてくれなければ、状況を把握するのにもっと時間を食ってただろう。正しい方向へ、東門で降りてDaret G/Hへ。シャワー・トイレ付きの部屋がなんとびっくり80B。部屋は広くはないがとっても清潔で、シーツと枕カバーは淡い薔薇模様(笑)。1階はオープンレストランで食事と夜の一杯に便利。

1996年9月3日火曜日

ロングネックカレン族

カレンの村のうち、ひとつはバイクで自力で行けるそうである。でも私は原付しかのれませーん。貸しバイクのホンダドリームにはクラッチついてるよなあ…。しかも道は舗装されてない山道で、雨であっちこっちぬかるんでるはず。旅行社でジープの借り賃を効いたら750-1000Bであった。ちなみにバイクは 150B。しかし旅行会社の人が言うには、すべての村は入場料250Bをとるそうである。


そこで私にはむくむくと疑問が湧いてきた。その村は本当に村なのか?それとも深センの「世界之窓」「錦繍中華」「中華民族村」のプリミティブなやつなのか?


LPを開いてみるとこうあった。「旅行者たちをひきつけてやまないミャンマー国境とロングネックカレン族の村は、はっきりいってまやかしである。何時間かのたいくつな風景ののちにあなたが出会うのは、カレン族の香具師たちによって囲われている事実上の奴隷たちだ。」やっぱそうか。


すっぱりあきらめて市場の屋台でご飯を食べていると、首の長い女の人が買い物にやってきた。首には金属のわっかがどっさりはまっている。ものすごく重そうだ。(7kgほどあるそうだ) 首は極端に前に向かって突き出されており、バランスのためか背中はずいぶん曲がっている。TVや写真で見たときには、へんなのー、すごいなー、しんどそうー、程度の感想で済んだが、実物を心の準備無しに見てしまった私の感想は、これは観光にしてはいけないやつだ、というものだった。だから、行かなくてよかったんだと思う。


湖のほとりを散策していると、白と灰色のまだらのガチョウが3羽いた。とってもきれい。近づこうとすると相棒が「気をつけろ、ガチョウは人を攻撃するぞ」。言い終わらんうちにガチョウが襲い掛かってきた。背の高さが私のふとももあたりまであり、けっこうでかく、なかなかこわい。飛ぶし。羽をひろげるとさしわたし1mはゆうにあり、ばっさばさばさと風圧をうけると真剣にこわくなって、走って逃げた。


昔、チェンライからのトレッキングで泊まった村で、ヒヨコにちょっかいをだしてめんどりに背中を蹴られたことがある。あれは痛かった。こどものころ、川で泳いでいてアヒルに襲われたこともある。私と家禽類との相性は悪いのか。

1996年9月2日月曜日

メーホンソン到着

10時半出発のはずが、11時を過ぎてもバスが来ない。たぶんチェンマイからのバスで、メーサリアン経由なんで遅れてるんだろうとのんびり待っていたら、 11:10、私の苦手なエアコンバスが来た。窓が開かないがしょうがない。次のバスは12:30だ。お昼をはさんでの長旅になるので、おやつをどっさり買いこんで乗車。

乗ってびっくり109B。窓の開けられる普通のバスなら47Bなのに~。3時すぎにメーホンソン到着。しかし雨。ガイドブックの地図をよくみておいたのでどかどか歩いて Jong Kham G/Hにとびこむ。シャワーとトイレは共同だが、シャワーはなんとホットシャワー。でかいベッドの部屋が80B。相棒の嫌いな床ベッドだが、清潔なのでよしとしよう。

市場へ出かけると、串焼き状のものがいろいろ出ていてひゃっほう!焼き鳥・焼肉・焼き魚。豚の腸にもち米をつめて焼いたもの。なまずの塩焼き。モツ。などなど。30センチぐらいのなまずの塩焼きを、相棒とひとり一本づつ食べた。うは。きわめて美味なりなり。

ひさしぶりのホットシャワー、中国を出て以来だ。宿に客引きに来たトレッキングガイドはKMT(国民党)とリス族のハーフ、くびながカレン族の村に行かないかーとしきりに誘う。一日ツアーで500B。ちょっと行ってみたいが私たちには安くはない。他に方法がないか調べてみよう。


1996年9月1日日曜日

ホテルはリヴァーサイド♪

メーサリアンでの宿はRiver Side G/H。120Bの部屋が広い! 古びた木の家、ぴかぴかに磨かれた木の床、12畳ぐらいありそうな部屋に3畳ぐらいありそうな床ベッド(寝返り5回ぐらい打てそう)。私には心地よい限りだが、相棒は木造建築も床ベッドもキライである。

本来ここに来たのは、ビルマ国境の町までソンタウを乗り継いでゆき、国境の川を2時間ほどボートトリップしてカレン族の村を見て帰ってくるという一日か二日のツアーの出かけたかったからなのであった。しかし、G/Hでは今はもうやってないと断られた。国境での小競り合いが激しくなり、治安上の問題があるからだとのこと。自力で国境まで行くことは可能ですよといわれたが、そこまでして行きたくは無いなあ…。で、計画はお流れ。

町は小さくて、お寺がふたつみっつ、あとは川が一本流れているだけ。ゲストハウスからの川の眺めは抜群で、ホテルはリヴァーサイド♪川沿いリヴァーサイド ♪食事もリヴァーサイド♪WOWOWOリヴァーサイド♪♪♪と歌ってしまいたくなるほどであった。対岸は一面の湿地帯で、見渡す限りの緑なのだ。

することがないので朝からごちそうを食べてみる。105B、私にはすんばらし-!味であったが、何しろタイ味 Hot&Spicy&Sweet、相棒がむっとしている。薬屋の親父が普通語ができたので、滴鼻薬と虫除けをリステリンを買うのがラクチンであった。いつもうこうはいかんだろうから、あとで辞書を調べとこう。虫除けはベトベトだが効きそうだ。滴鼻薬は香港の1/5のお値段でよく効いた。リステリンはタイ製。ちょっと薄味のような気がする。おやじはなぜか合計から1Bまけてくれた。端数を切ったというわけでもない。

J&J社が蚊取り線香を出していたので買ってみた。あけてびっくり真っ黒な蚊取り線香。しかも匂いが違う。多分、除虫菊を使っていないのだと思う。箱には(1)Less Smoke (2)No Smellと書いてあり、これは外人の発想やで・・・煙も匂いも無い蚊取り線香はさみしいやろ。部屋に帰ってさっそく点火。蚊とそれ以外の羽虫がたちまちバタバタおちてくるので、効き目に感心するよりなんだか不安な気分になった。人体に害は無いのか。そして部屋つきのヤモリには。

明日は朝10時半のバスでメーホンソンへ移動だ。めんどくさがりの私は、たぶんトレッキングには行かないと思う…。

1996年8月31日土曜日

メーサリアンへの移動日

メーサリアンへの移動日。けっこう時間がかかった。まずは朝8時のエアコンバスでチェンマイへ。到着が14時半だったから。6時間半もかかったことになる。チェンマイ15時発のバスにのってメーサリアン到着が19時半。4時間半かかっている。計11時間。うんざりだ。

軽く夕食を食べて寝る。

1996年8月30日金曜日

体調崩して死に寝。

日記をつける気力も無かったらしい。

1996年8月29日木曜日

メーソットへの移動日

本日はメーソットへの移動日。しかしスコタイからに直行バスはなく、まずがタックへ向かい、そこで乗り換えだ。朝10時のバスでタックへ。ガイドブックにはタックには見るべきものは何も無いと無情なことが書かれてあったので、私たちも着くなりバスを乗り換えた。

タックからメーソットへの交通はワゴン車であった。15人乗りぐらいか。たいへんな山道をぐるぐるまわり、途中で見事な見晴らしの峠を越えてメーソット到着。ところが不運なことに、私は猛烈にトイレに行きたくなってしまっていたのだ。で、めったにないことだがサムローに乗り、宿まで連れていってもらった。エアコンつきが200B、なし100Bと高くはないが、100Bの部屋は木と竹でずさんに作った小屋状の建物。もひとつ清潔ではなく、しかもベッドが相棒が嫌いなマットを床置きタイプであった。で、やめにしてそこから歩いて街中のホテルにゆく。普通の安ホテルに投宿。100B。

1996年8月28日水曜日

スコタイ歴史公園にゆく

スコタイ歴史公園にゆく。トラック改造型乗合バスで5B、ガタガタ揺られて30分、そこから一日20Bのチャリを借りて公園へ。

公園はかつてスコタイ王国の首都であった遺跡を、ユネスコが整備・修復かつ保護しているもので、修復といっても余計な修復はせず、朽ちたものは朽ちたまま、これ以上荒廃しないように手入れをほどこしたうえで、見学しやすいように回りを整備してある。この「修復しすぎていない」ところがいい感じであった。

柱だけが立ち並ぶ回廊にはかつては屋根があったのだろうが、そこは復元されていない。朽ちて高さがふぞろいになった柱はローマやギリシャの遺跡のようだが、純白の大理石とちがって赤茶けた素材のこちらのほうが、アジア味があって私は好きだ。

公園の中にはいくつも寺院があり、スコタイ王朝が仏教を保護していた様子がうかがえるが、最も見ごたえのある遺跡は公園の外にあった。スコタイ期の大仏(実際には釈迦ではなく聖人らしいが)で、私が今までに見た大仏の中では最も優雅なものだ。

大仏は、柳の葉のような不思議な形の入り口を正面に座っていた。入り口の幅は人がひとり入れるほど、高さは建物の2/3ほどに達している。建物正面から見ると、入り口の隙間から座っている大仏が窺える。はっきりいうと、私はこの入り口の形状から、すぐ女陰を想像した。バチあたりですね。なにより優美だったのは大仏の右手。2メートルぐらいあるけど。

タイは両替がすごく便利だ。街のほとんどの銀行で両替が可能。すばやさでは香港に劣るかもしれないが、どこでも応対が丁寧でよい。遅いといっても中国のように非効率なまでに遅いわけではないし。

1996年8月27日火曜日

スコタイへ移動

孫文の遺墨について宿のおねえさんに訊ねると、じいちゃんが海南島出身で、孫中山・蒋中正両名と親交があったそうである。しかしおばあちゃんはタイ人なのでこのむすめさんももはや中国語はなにも話せない。

博物館へゆく。けっこうおもしろい。それからバスに乗ってスコタイへ。16Bなり。スコタイは宿の安い街だと聞いていた。バスルームつきで120B、なしで80B。なしのほうに泊まってみた。まあまあだ。ピサヌロークを出る前に飲んだ鼻炎の薬のせいで、死ぬほど眠い。街で15Bの炒麺を食したあと、宿に帰って夕方まで爆睡。相棒曰く、熱あったぞとのことである。

6時すぎにのろのろ起きだして、夜の街をうろうろする。タイではどこもそうだが、日中の暑さを避けて、街は夜のほうがにぎやかだ。二人とも香港で買ったHK$15.9のサンダルがあちこち壊れてきたので、タイ製のすっごく履きやすいサンダルを購入。185Bなりなり。

しかしどうしたことだ、うまいめし屋がみつからない。屋台で麺。おいしいことはおいしいのだが、カロリーだけたっぷりで、その他の栄養の足しにはならんことは確かだ。くだものやジュースをなるべくとるよう心がけよう。私はサプリをとっているが、相棒は飲んでいない。

1996年8月26日月曜日

孫中山遺墨に遭遇

ドミに180Bも払うのはおまぬけなので、もちっと安いG/H探し。鉄道駅そばのASIA HOTEL、清潔な部屋に広めのシャワールームがついて150B。部屋が広いのでデスクと椅子2脚、洗濯物干し、クロゼット、全身鏡と顔鏡、すべてシンプルなデザインの古い木製の家具付きである。シャワールームにはタオルとせっけんつき。角部屋なんで窓は2面。ひゃっほう!

中国名を「亞州大酒店」という。つっても3階建てのちいさなホテルだけど。華人というのはどこにでもいるなあとロビーに飾ってある横長の額の漢字を読んでいたら、なんぞの決意表明のような文章がつづってあり、最後に「孫文[印]」。

げ、孫中山!?左横に若い軍服姿の男性の写真があり、横に小さく「蒋中正敬贈」と書いてある。げー、蒋介石ー!そういえばこの顔…。

相棒と二人で顔を見合わせてしまった。相棒曰く「ここの先代か先々代はどうやら革命家やったみたいやなあ。この手の南洋華僑は美しい理想を持って帰ってきて、文革のときにエライ目におうたんや…廈門にもいっぱいおった。しかし、こんなもん中国で玄関に飾ってみい、翌朝にはあらへんで。タイは治安ええなあ。」

外で書店に入るとなんとびっくり読売新聞があり、65Bもするのに買ってしまう。中文紙は10B、英文紙は15Bであった。

ランブータン、13Bで大きなビニール袋いっぱいどん!と手渡された。食いきれん。ドリアン中サイズひとつ95B。なつかしのメンソール天花粉HULA HULA!を17.5Bにて購入。実は勝手にBORA BORA!だと思いこんでおり、見つけたときは照れた。

お寺へお参りに行ったらなぜか体重計があったので計ってみた。66kg。5ヶ月で-13kgか。

1996年8月25日日曜日

相棒、タイ料理が全くダメなことが判明。

朝から魚の干物を4枚(3Bx4=12B)も買ってきて、ベランダで猫と一緒に食べる。この白猫はハラボテで、しんどそうに一日中横たわっているのだ。

貸し本屋は古本屋もかねており、Lonely Planetのタイ篇を購入。今日はウドンターニーへ向かうのだ。バス代15B、あっという間に到着。ところがウドンターニーのバスターミナルは街から結構離れており、なんだかめんどうになった私は10分で気が変って、そこへきたチェンマイ行きのバスに飛び乗ってしまった。といっても、チェンマイまで行く気はなく、スコタイで途中下車するつもり。バスのおっちゃんは、「6時にほにゃらららんに着く。そしたら7時にはスコタイだ。」と推測されるようななにかを言いつつ、腕時計を指した。ウドンターニーに着いたのは12:20、このバスは12:30発。よろしい。

バスは中国や、ましてやラオスとは比べ物にならない性能と手入れの良さでスカスカ走り、夕刻6時、なにやらバス停にとまった。そしてそこで私たちは無理やりおろされてしまったのである。!!??!!

ここはどこ?

バス停で地図を手に茫然と立ち尽くす我々。まわり中にききまくってやっとここがピサヌロークという街だとわかった。そこでLPの登場だ。あってうれしいガイドブック。

LPべたぼめのユースホステルへ。ドミ50Bなのだがノンメンバーフィーが40B加算され、90Bx二人で180B。ちっとも安くない。しかも「素敵な庭」だった場所にレストランが開業していて、なかなかけっこう繁盛している=やかましい。むむう、時はすべてを変えてしまうのか。とりあえずゴハンを食べて寝よう。そのレストランで。

相棒、タイ料理が全くダメなことが判明。

1996年8月24日土曜日

読書、市場めぐり、買い物。

「C.W.ニコルの旅行記」「剣客商売」「今夜、すべてのバーで」と快調。が、本を読んでいても向こう岸のりすぞうのことばかりが思われる。ベッドの足のところなどに、いるはずのないりすぞうを思い浮かべてじーっと見てしまうのだ。すごくさびしい。「子供に先立たれた母親」そのまんまである。相棒が不愉快そうに私を見ている。

街に3つある市場のうち、ふたつを朝からめぐってみた。ひとつはメコンに面した観光用のマーケット。ラオスのものがたくさん売られているのもこっちであった。私がルアン・プラ・バンで買った布が、きっちり倍額で売られていた。

まちはずれにあるほうは、もっと地元民むけだった。小花を散らしたえんじ色のノースリーブブラウス、綿100%でやわらかくて着やすい前開きのを50Bにて購入。(ちなみにこのブラウスはこの後5年間着たおされた挙句、任期の最後の1年を息子の布おむつとして活躍、ついに惜しまれつつ引退することになる。)

1996年8月23日金曜日

国境越え。タイ東北部へ。

りすぞうが見つからないままに、この地を去ることとなった。後悔で胸をかきむしりそうである。どうしてドアのすきまを確認せずにりすぞうを放したのか。いや、そもそもなぜこんな暑いところに連れてきてしまったのか。どうしてつれて旅行などというかわいそうなことをしてしまったのか。

もう殺されたか、食べられたかしたかなあ。あのかわいらしいくしゃみや、背中をかく時に床を打つたんたん言う音が聞こえないかあちこち耳をすませたが、聞こえない。ドーナツぐらいの大きさになって、丸くなってどこかで眠っているのだろうか。

今日数えたらゲストハウスには猫が4匹、犬が二匹。遅かれ早かれ彼らの餌食だ。私がりすぞうを捕まえるのに、いつも3分とかからないもの。あんな警戒心のないどんくさいリス、あっというまにつかまってしまう。あるいはシマリスをしらないラオス人に、ねずみとまちがわれて殺されてしまうか。

ああ、どこで何してるのかなあ。もうこの世にいないのかなあ。ごはんにありつけてるかなあ。きもちのいい隠れ家はみつかったのかなあ。涙でそう。

ゲストハウス→バスターミナル 500Kip
ビエンチャン→タドゥア    200Kip
タドゥア→タイ側イミグレ   300kip
イミグレ→ノーンカーイ    US$1

Mut Mee G/H、バストイレ共同で130B。いい感じの木造の二階建ての上の部屋。メコンに面していて、庭にはオープンレストランがある。レセプションではアメリカ人がバイトをしていた。オーナーはタイ妻を持つイギリス人だそう。

大通りからG/Hへ入る小道の途中に、アメリカ人経営の貸本屋があり(つか、こんなとこで経営は成り立ってるのか)、日本語の本も結構あった。早速借りる。「どこにもない短編小説集」「政治的に正しいおとぎばなし」「復讐のような愛がしてみたい」

1日15Bであったが、3冊借りたら45Bではなくて、一日何冊借りても15Bなのだと。ええんか?わし読むで?どっさり読むで?

1996年8月22日木曜日

ヴィエンチャンの街をうろうろ

本日は市場で国境行きのバス乗り場を確認。パリの凱旋門を模したというでっかいアーチに登って、ビエンチャン市街を見下ろした。それから金色の大塔のある寺まで2キロを歩き、あやうく日射病に。ビエンチャンくそ暑い。タイはもっと熱いんだろうなあ。つらいなあ。

また別の市場へ行き、ThaiFoodという看板の店でタイによくあるぶっかけごはんを食す。あまりうまくない。

私の感じでは、ラオスでいちばんおいしいのはフランスパンだ。バゲットにいろいろはさんだサンドイッチ、これが最高。そして濃いコーヒー。冷たいやつもいい。この二つがあれば朝ご飯はパーフェクト。

1996年8月21日水曜日

ViengTiane到着

朝通りすがりのトラックにバッテリを貸してもらって発進。6時半ごろ、バスは再出発した。

9時、ViengTianeに到着。バスに同乗していた4人のスウェーデン人と、あわせて6人でTukTukをシェア。安いゲストハウスまで連れて行ってもらった。TukTukの運転手は英語が皆目わからず、料金交渉はフランス語。私と相棒だけじゃお手上げであった。バス・トイレ付き8ドル。なし6ドル。6ドルの部屋は窓無しの1階しかあいておらず、2階の8ドルの部屋に入る。

朝市へ。目も眩むような手織り布の洪水であった。シルク、きらびやかな光沢、細かい編み込み模様、田舎で見た布とは格がちがう。値段も格がちがったが。首都到着を祝ってBeerLaoで乾杯。

銀細工のアクセサリーをを1200Kipで購入。アメジストのネックレスと銀のブレスレットを合わせて32ドルで。やはり酒の上の買物はあかんなあ。アメジストのピアス、6ドルをを3ドルにねぎって購入。

悲しい出来事がひとつ。りすぞうが脱走した。ドアの下の隙間から、どっかへいっちゃったのだ。ここでは犬も猫もいっぱい放し飼いになっているというのに。

りすぞうの大きな黒い瞳や、目と鼻と口のピンク色の小さな亀裂のところや、小さい頭蓋骨や、長くてきれいなしっぽや、背中のはげや、私を見上げて「なんですか?」という顔をするところや、かわいらしい前歯や、おまけみたいな耳や、食べ物をあげると顔を横にしてかぶりつくところや、ほっぺたに食べ物を入れすぎてすごいぶたりすになっているところや、おしっこをするときにしっぽをぴっと上に持ち上げるところや、背中のくっきりした5本のシマシマや、寝る前と起きた後、小さいくしゃみをなんべんもするところや、歩くときの小さなかさこそいう音や、丸くなって寝ているところや、大の字になって安心し切って寝ているところや、そんなときにおいしいものをあげると目を閉じたまま、横になったままさくさく食べるなまけものぶりや、私の枕の下でいい場所を探してごそごそするところや、毎朝早朝から物音をたてて私達をおこしてくれる目覚まし時計かわりのところや、いったんカゴに入れると顔をだしても「出たらあかんよ」と言うとおとなしくひっこんでゆく聞きわけのよさや、私があんまりやつを手荒に扱うと「くう」と鳴いてわたしの指にぱくっとかみつくところや、でも決して痛いほど噛んだりしないところや、つまようじをあげるといつまでもくるくる回しながらかじっているところや、ごはんの後には手をきれいに舐めて口を拭いてまた手を舐めて、顔をこすってまた手を舐めて、耳の後ろをくるんとこすってまた手を舐めて、足で背中をたんたん掻いて、足を舐めて、おなかを舐めて、最後に両手で尻尾を根元から先っぽまでしごくようにして点検して(一度、食べ残しのキャンディが尻尾にくっついていたときはおかしかった。はっ!?という顔で一瞬止まり、きれいになるまであせってせかせかしっぽなめつづけていた。)、それからやっと安心するところなどを考えると、悲しくてなかなか眠れない。相棒は「ねずみがどっか行ったー」と能天気にうれしそうだ。

1996年8月20日火曜日

本日はVangViengへ行く…はず。

本日はVangViengへ行く日である。朝起きてTukTukでバス停まで行った。するとなんとびっくり!「バス」があるじゃないの。それも世界を駆ける日野バスだ。チケットはVanViengまで9000Kip、運転手は力強く「VanViengまで6時間、VienChangまで10時間」と言い切った。

さて私達は、バスは朝9時半出発ということを確認した上で、全然知らん都市に日が暮れてから着くのはまずかろうと、VamViengで途中下車することに決定。明るいうちに着けるだろうという観測である。

ところが。力強く言い切ったこの運転手、ものすごーく運転がへたくそで、何てことない道なのに30Kmぐらいのスピードでしか運転しないのであった。しかも発車のたびにギアをバックに入れ間違うというどんくさぶりで、私達の肝を冷やしてくれる。大丈夫なんかい。

道は霧がすごかった。高山を細々と走る道では、3m先も見えないほどの霧。不幸中の幸いは、車両が極端に普及していない国なので、対向車がほとんどない事だ。だからといってもちろん油断は禁物なのだが、とりあえず何事もなく通過、ひと安心。

道が大きく地崩れをおこしている個所を通過。写真参考→。そしてわたしはすっかりのしょうべんの達人だ。 さて、ところがバスは道の悪さと運転手の腕のせいで遅れに遅れ、VangViengに到着したのは夜7時ごろ。すでにまっくら。しかもバスは市内に入らず、川を隔てた対岸の、真っ暗な田んぼ道で客を下ろし始めたではないか。私達はこんな所で降りるのはまっぴらである。

で、やはり首都ViengTianeまで乗ることにした。これはまちがいだったのか正しかったのか。というのは、 VangViengを出て2時間ほどの場所でバスは夕食の為に30分ほど休憩し、そしてまた走りだし、10時前、客を下ろすために停車した後、どうにもこうにも動かなくなっちゃったのである。

相棒が言った。「バッテリーがあがっとる。」

なるほど。しかし民家の灯りが遠くにひとつ二つ見えているだけのこの野っぱらで、いったいどうするねん。電気が通っているのが御の字で、どう考えても電話はなさそう。

相棒が言った。「ギアをセカンドに入れて、後ろから押せば発信できる。ここは坂道だから都合がよろしい。」

うむ。そういえばそのようなことを自動車学校で習ったような気がする。大昔に。

そして運転手が言った。「SLEEPING!」

「え!?」と声を出したのは私だけで、人々は皆妙に嬉しそうに歌を歌い出したり、懐中電灯を取り出したりして、それぞれに寝場所を確保し始めた。あるものは床で、あるものはバスの屋根の上で。私と相棒はラッキーにも椅子の上で眠る事が出来たのであった。って、ラッキーなのか?

今日、宿とゴハンにありつけると思っていたので、りすぞうにやるものはなにもない。かわいそうだ・・・

1996年8月19日月曜日

ビザの延長に失敗

月曜になったので、イミグレにビザの延長願いに行った。朝8時のオープンと同時に入り、延長してー、してー、と粘る。対応してくれたお姉さんはとても感じのいい人だったが、この人には権限がないらしく、私たちの事情を聞いてくれた上で、午後2時にもう一度いらっしゃいということであった。何日かあげられるかもしれない、ということだ。しかしイミグレの壁には「1995年8月23日をもってルアン・プラ・バン・イミグレーションオフィスは旅行者ビザの延長に関するすべての業務を停止しています。首都ビエンチャンのツーリスト・オーソリティー・オブ・ラオだけがビザに関する相談を受け付けています」と大書してあり、望み薄そう。

おかしかったのは、その横に「どうかジェントルにしゃべってください、そして私たちに対して尊大な態度をとらないでください」というお願いも貼られていたことで、これが役人から外国人旅行者に対してのお願いなのである。実際、ラオスで銀行でも店でもなんでも、腹の立つ対応というのを今のところされたことがない。ラオス人というのは非常に人当たりの軟らかい応対の人々である。これが常識のところに、大声を出す何人とか態度がでかい何人とか、やたら偉そうな何人とか(何人だろう?)がどっさり来て、本当にびっくりしてるんだろうな。

さて朝食を例の春聯サンドイッチ屋で済ませ、旧王宮博物館でも行ってみるべいと出かけるも、朝8時に前を通ったときには開いていたのにもうしまっている。門の前で中をのぞいていると、ジョージとクリスがやってきて「博物館に入るには許可証を取ってガイドを雇う必要があるのよ。あっちのツーリストオフィスで相談してごらん」と教えてくれた。めんどくさい国やのう。急いでツーリストオフィスとやらへ行き、許可証発行を求めると、ここではなく泊まってるホテルの主人が保証書を書く必要があるとのこと。ガイドを雇う必要はないとのことであった。

ゲストハウスに引き返し、保証書というのか許可証というのかを書いてもらって博物館へ。しかしこの博物館、開館時間がなんと8時半~10時限定というもったいのつけぶりで、いったいそれは見せたいのか見せたくないのかどっちなんだ。結局タイムアウトで入館できず。

相棒が昨日丘の上から見えたという、郊外の金色のストゥーパまで散歩に出る。3kmぐらいか。

雨でぬかるむ道を、へとへとになりながら登る。

ストゥーパの中は4階だてになっていて、1階には地獄の絵が稚拙な克明さで描かれていた。うちひとつ、やや大きな絵があり、男性が木の枝にぶらさがって、蜂の巣からしたたる蜜を舐めている。しかしその枝は根元を2匹のねずみにかじられており、いまにも折れてしまいそうなのだ。しかも男性の下の地面には大きな穴があいていて、毒蛇がそのなかで男性が落ちるのを待ちうけている。穴の外では白い象がひざまずいて男性をみつめており、その後ろに寺院が見える。判りやすい比喩である。

ストゥーパの上からの眺めはすばらしかった。一面の緑・緑・緑!人口圧力の高い中国からやってきた身には、目に沁みるような光景であった。

へとへとになって丘を降り、ゲストハウスに帰って風呂!藍染めのサマードレスに着替えて、イミグレに行く。小姐は「やっぱりここでは延長できません」と、残念そうに言ってくれた。但し、ViengTianeでの延長は1日 USD3で可能、Over stayもUSD5で1週間や10日は問題ないとのこと。

私達のビザは21日までだが、21日午後までにViengTianeに着くのはちょっと不可能。うーん、アイスコーヒーでも飲んで考えよう。バゲットがいっぽん1200Kip、コーヒーが100Kip、そしてアイスコーヒーは400Kipであった。アイスコーヒー、えらい高いなあ。中に入ってるキューブアイスの値段だろうか。

市内のお寺をいくつか散策し、メコンのほとりのテラスレストランでBeerLaoを1杯。BeerLaoが1200Kip、フレンチフライズが500Kip。明日は移動日だ。

1996年8月18日日曜日

朝から霧雨。中国語でマオマオユイ(毛毛雨)。

ルアン・プラ・バンはルアン・ナム・タやモン・サイに比べるとケタはずれに大きい街であった。にもかかわらず、都市では、やはり、ない。静かで美しい田舎町だ。街の中央部に小高い丘があり、旧王宮(現博物館)はその丘を背に、メコン河に面して建てられている。風水的には抜群の位置なのだろう。

朝から霧雨。中国語でマオマオユイ(毛毛雨)というやつだ。レインコートを着て街歩きに出かける。緑の多い美しい街並みで、住み心地のよさそうな家が立ち並んでいる。ラオス式の高床式のデザインと、フランス植民地時代の様式らしきデザインがほどよくまざりあっていてとても優雅である。

しかし昨日は昼食にも夕食にもありつけず、中華を食べたい一心の相棒が春聯(中国で縁起の良い対句を赤い紙に書いて門の両側に貼るもの)をめざとく見つけた。しかし残念なことに広東人のおとうちゃんは昨年亡くなっていて、いまはラオ人のおかあちゃんの娘さんがフランスパンのサンドイッチとコーヒーを売ってる店であった。相棒、かわいそう。

しかし、そのサンドイッチは意外な美味さであった。豚ひき肉に薄甘く味をつけたもの・ピクルス・きゅうり・とうがらし・豚の耳などをはさみこみ、なんと醤油をたらして食べるのである。和洋折衷ならぬ老法折衷(中国語でラオス・フランスはそれぞれ老過・法国)の味。その後何度も食べて確認したので、これは当方の空腹による過大評価ではない。

さらにおいしかったのがコーヒー。ラオス国産のコーヒー豆を煎って煮出した、エスプレッソよりもまだ濃いどろどろのコーヒーに、コンデンスミルクを3センチぐらい入れてくれるのである。めちゃ苦めちゃ甘の、コーヒーも甘い物のダメな人が間違えて飲んだら泣いてしまいそうな味であった。私にはとてもおいしかった。

バゲット半分(一人だとこれで満腹)が600Kip、コーヒーは100Kip。

マンダリンを話せる娘さんが、街に1軒しかないという中華料理屋を教えてくれたので昼から行ってみた。うーん、安くなかった。2000Kipもする魚のフライを注文したら、ひとくちサイズの切り身が4つだけ出てきたので相棒と顔を見合わせた。河べりの街なのに…。濡米飯(もち米ご飯)が一碗500Kip、中華というよりラオス味のチキンスープ(トムヤムみたいにすっぱいヤツ)が2500Kip、合わせて5000Kipなりなり。

相棒は腹ごなしに丘へ登りにいき、私は洗濯(←もちろん自分のだけ)。泥の中を歩いた靴下、すすいでもすすいでも水が黄色く濁る…

夕食は屋台を探そう!とでかけてみたが、おいしそうな物は並んでいるものの、すべてビニール袋に入れてお持ち帰り仕様。その場では食べられない。マグカップとスプーンで食べることにして、ごはん・きのこのカレー・すっぱい野菜が入った薄味スープ・豚肉のブロック煮込み二切れ、以上を購入。13元、あるいは 1300Kip。

部屋で食べた。どれもおいしかった。これとビア・ラオでパーフェクトな夕食。

マーケットで布を買う。5000Kip。店の人はコットンのシルクだというが、私はコットンの麻の混紡だと思うなあ。サーモンピンクの絣で、染めは天然染料ではなさそう(安いし。)。これはバスタオルにするつもりである。

今日は結局一日中雨だった。

1996年8月17日土曜日

ルアン・プラ・バン到着

朝食をまた別の店で取る。麺を注文。やはり5元。しかし今朝は肉が入っていた。どんどんさもしく、セコくなってゆく私たち。

店で例のノン・キウかナンボックかという件を尋ねると、この二つの地点は10キロほどしか離れておらず、同じトラックで行けると言うことだ。但し現在は河の水位が高く、ルアン・プラ・バン行きのボートはナンボックに着岸できないのだそうだ。だからナンボックを通過して、ノン・キウまで行きなさいということであった。ちなみにノン・キウまでは3500Kipとのこと。こういう事前の料金調査は大切である。

8時乗車。昨日のカップルもいる。ご主人がジョージ(ほんとはゲオルグ)、奥さんがクリス。私がトラックの車種を確認して「トヨタだ。」と満足げに言うと、ジョージの方に「やっぱり日本人は日本製品を信用してるんだね」と冷やかされ、「そんなことないですよ。ドイツ車だってエクセレントだし、私のカメラなんかほらカール・ツァイスレンズ搭載。」と、社交辞令を返す。

ところでこの二人も新婚旅行なのだそうだ。濃ゆい新婚旅行やなあと、自分らのことを棚に上げて感心する。

発車は例によって客が一杯になった9時ごろ。雨がひどく、幌はきっちりおろしっぱなし。つづらおりで穴だらけの山道なので酔ってしまい、かなり苦しい。それに寒い。昨日相棒が買ってくれたレインコートがなければ風邪をひいていただろう。

2時間半ほど走ったところで、道が見事に流れていた。ぬかるみの深さは大人のひざ(白人標準)から太もも(ラオス人標準)といったところ。車が入れる深さではない…。見ると、ぬかるみの向こう側でもトラックが立ち往生している。運転手同士の会話で、どうやら客をまるごと交換することに話が決まったらしい。

というわけで、靴を脱ぎ、ひざ上まで泥に浸かってぬかるみを渡った。皆いさぎよく入って行くが、私は破傷風とかを考えてぐずぐずし、結局靴下をはいたまま渡ろう!と自分を納得させ、渡った。気持ち良いような悪いような、非常に変な気分でござる。ここまでのトラックに2000Kip支払った。

さて、さっきより小さいトラックにさっきと同じ人数が乗ったため、きっちきちのきっちきち、えらい無理な状態で一時間。山道を抜けて盆地へ出たが、今度はぬかるみではなく泥水が人のふとももぐらいまで溜まっている。それがどこまで続いているのか、終わりが見えない。どうするんだろうと思ったが、トラックはそろりそろりと水溜りを渡り始め、子供がうれしがって泳いでいる横を抜け、本来水田であったのではないかと推測されるところを大人が船に乗って渡っている横を通って、やっと路面が見えることろまで出た。もう大丈夫だ!

と、思いきや、同じようなところをさらに二箇所、そろりそろりと通り抜けねばならなかった。しかしOK!

一時半ごろ、トラックはノン・キウに到着。このトラックに1500Kip払い、見事に小さい村(っていうか家が5軒ぐらい…)で下車。念の為トラックに確認したが、やはりルアン・プラ・バンにはこのトラック(というか陸路)ではたどり着けないとのコト。

川べりに小さなあずまやがあり、外国人3人が船待ちをしている。しかし、船が着岸できるような施設がきっぱりさっぱり何もない。ただの草の生えた斜面。雨でぬるぬるどろどろの。どんな船がくるんや?

船待ちをしていた彼らによると、船はこの二日間大雨で水位が非常に高く、流れが急で危険なため、なかったそうだ。なんてこと!

3時までそこで待ち、あずまやに座っていたラオス人(キップ売りのお役人らしい)が「今日も船はなし!」と宣言したため、あきらめて村の宿屋に泊まることにする。宿屋といっても山小屋のようなもので、蚊帳を吊った狭い部屋に全員ごろ寝。それだけならまだしも、船待ちをしていた3人のアメリカ人+宿にいたオランダ人が明々白々にクスリをやっており、特にこのオランダ人、男性だがすべての爪をまっかっかにマニキュアしていて、変な服で、しかもめちゃめちゃ臭かった。ジョージとクリスはごくごく普通の人なので、すごーくイヤそうな顔をして、荷物を置くと、出ていった。

私は生理痛と車酔いで吐きそうだったので、薬を飲んで横になり、30分ほど眠った。アメリカ人3人(女性1男性2)、こんなとこでおっぱじめるのはやめてください。オランダ人、それを私たちにも勧めるのはもっとやめてください。

やっとれんので外に出ると、宿のおやじが売人らしく、ヤク中らしき現地人が宿の周りにいっぱい。

川べりの橋まで行くと、ジョージとクリスがいた。私が「あのゲストハウス、泊まりたくないよねえ」と言うと、クリスも「もちろん私たちもよ。だから船がこないかどうか、ずっとここで見てるの」と言う。私たちも橋の上から上流に目をこらす。と、6人ぐらいが乗れるサイズの細いボートが3艘、あずまやの前の岸に停泊した。あれは!

「あれ、スピードボートじゃないの? 水位が高いって言っても、運賃に色をつけたら出してくれるんじゃない?」「交渉してみましょう!」この時点で午後4時。案の定、スピードボートは私たちをルアン・プラ・バンまで乗せて行くことに同意した。しかしここで降りる客はほとんどいなかったから、席は限られている。急げ!その席取った!とジョージが叫び、私とクリスはチケットを買いに走り、男性二人は宿まで荷物をとりに走った。料金は一人12000Kip。

どろどろの斜面を滑り落ちるようにして乗船。ひとつの船には客が6人、船頭が一人の7人しか乗れない。乗客はペラペラでぐっしょり塗れたライフジャケットを着用させられ、ヘルメットをかぶらされた。そして気の毒なことに、あの3人のアメリカ人の席はついになかったのである。クリスが「I'm sorry!」と叫ぶ中、スピードボートは出発。ほんまに速いっ!目を開けていられないぐらいだ。

水位は普段より3mも高いそうで、あちらこちらに浮いている流木をあっちに避け、こっちに避けしてボートはかっとばす。コーヒー牛乳色にむんむんと濁った水は沸きかえるように流れ、渦を巻き、あるいは濁流となって轟々を音をたて、ボートはその上をすべるように突っ走る。めっちゃスリリング!つーか、単にとても危険。

私はずっと般若心経を唱えていた。

途中1箇所、広い水面一杯に流木がうずを巻いているところがあり、船頭が3人、あまりにも危険だと判断したらしく、乗客は全員ボートを降りて流木の無いところまで30分ほど歩かざるをえなかった。しかしそことて船をつけられる施設など何もない泥の斜面で、降りるのも大変、乗るのも大変、私たちはすでにドロドロである。

日が暮れた。

7時過ぎ、ルアン・プラ・バンの灯りが見えた。しかし船頭はそこまで行かず、手前の民家付近で停船。そこから乗客全員でトラックをシェアし、街の中心に入った。1000Kip/人であった。

ジョージとクリスはもともとルアン・プラ・バンに荷物を置いて、モン・サイまで飛行機でサイドトリップを楽しみに行っていたのだそうだ。帰りがこんなことになるとは思いもよらなかったと笑っていた。彼らが泊まっているのは一泊USD35の素敵なホテルだそうなので(新婚旅行じゃフツーそうだよな)、ゲストハウスをいくつか教えてもらって別れた。

街の真ん中のPongsub G/H、バス・トイレ共同の部屋が7000Kip。すっごく清潔だ。主人と奥さんは英語とフランス語ができるインテリであった。

今日はさすがにへとへと、夕食を取りに街へ出るも、田舎町のことで食べられそうな店が全く見当たらない。しかたなくゲストハウスのホームメイドヨーグルトを2瓶づつ食べて、本日はおしまい。

泥だらけの靴。

1996年8月16日金曜日

ルアン・ナム・タからモン・サイへ

朝7時にバス停(正確にはトラック停か)へ行き、モン・サイ行きのトラックに乗りこむも客が集まらず、結局8時半ごろ出発。道は恐るべきボッコボコ道で、しかも雨が降り出した。我々は荷台の一番前に乗っていたので、幌を上げればずぶぬれ、下げれば車酔いという、前門のなんたら後門のうんたらみたいな状況で、幌を上げたり下げたりちょっとめくってみたりと、ツライツライ5時間を過ごした。しかも、狭い荷台に10人以上も乗っており、それぞれがでかい荷物を持っているので身動きも取れない。きっちきちである。

私は本日は暑いだろうとナンの根拠も無く予想、朝からけっこうたくさんの水分を取っていた。そしたらトラックは山をぐんぐん登りだし、高地で涼しい上に小雨まで降り出して、トラックががんがん走ると冷たい風がびゅうびゅう吹き込み、結局トリハダが立つほど寒い一日となってしまた。私、半袖一枚。そうこうしているうちに、さあ大変、トイレだ!どこにあるねんそんなもん。

人口密度が高く、無人の地というのがめったにない中国では、質の高下さえ問わなければ公共交通機関が走っているような道で公衆トイレに困ることはない。今まで中国でのぐそやのしょうべんをたれたことというのは一回もない。しかし今はラオスの山の中である。

結局ドライバーに頼んでトラックを停めてもらい、衆人監視のなか見えないところまで走って行って、道の端で済ませた。車などめったに走っていない道路でよかったなあ。しかし立小便のできる体に生まれたかったことよ。

つづらおりの山道をもうええわというぐらい堪能した後、トラックはモン族の集落で一旦停車。緑の水田がどこまでも広がる、美しい盆地だった。水田に点在する民家の屋根は一方が垂直で一方にのみ傾斜がついており、ヨットの帆そっくりであった。黒い服を着たモン族の女性たちが、何名か下車していった。

一時半ごろモン・サイに到着。運賃はここまで3500Kipであった。ここの住民はラオ族。しかし中国からの移民が多いらしく、中国人や漢字の看板をちらほら見かける。さて急いでルアン・プラバン行きのトラックを探すも、なんと誰もが「ルアン・プラバンには陸路では行けない」というのだ。地図で見たらほんのちょっとの距離なんですよ。

さらに突っ込んで聞きまわると、モン・サイからトラックでひとまずノン・キウ(ノン・キャウ?)まで行き、そこからボートで河を下れ、との指示であった。モン・サイからノン・キウまではトラックで5時間、ノン・キウからルアン・プラ・バンまではスロウボートで4時間、スピードボートで2時間とのことであった。では本日中にノン・キウまで行くトラックはあるのかと聞きまわるも、これも無し。

イミグレのおじさんが「飛行機にしなさい」と強力に勧めていた理由がだんだん実感されてくる。

というわけで本日は不本意ながらもモン・サイで一泊。目に付いたキレイなホテルで値段を聞くと13000Kip、うひょう。すごすごと引き返し、メインストリート沿いの旅社(華人経営)で6000Kipもしくは60元あるいはUSD8.00。バス・トイレ付き、ホットシャワーだというのでチェックイン。2年前に思茅(西双版納の北にある漢族の街)から移民してきたという家族の経営だけあって、きわめて中国くさい宿であった。

ここでも麺は昨夜とおなじく一杯500Kipであった。しかも具は肉なしの卵だけ。中国より食の物価がかなり高い気がする。銀行へ両替に行くとまだ3時なのに現金が無いので明日明日と言われ、マーケットの闇両替屋を探すと1軒目1USD=900Kip、2軒目940Kip、田舎ではレートが悪いのが一般的だろうから、とりあえず50ドル替えてみた。

さて、することもないので村外れまでのたのた歩く。ドイツ人男性とアメリカ人女性の夫婦に出会った。彼らも今日、ルアン・ナム・タからトラックで来たという。明日ルアン・プラ・バンへ向かうと言うので、どうやって?と尋ねると、LP(Lonley Planet)によればここからナンボックという村へ行き、そこからボートに乗ると書いてあるとのこと。ナンボック?そんなの初耳だ。

私たちが今日聞いたノン・キウの話をすると、彼等はそれは初耳だと言う。とりあえず明日朝8時ごろにバス停(トラック停やって)で、と言って分かれた。

ノン・キウ、ナンボック、どっちだ?

夜、ラオス人のレストランで炒米粉5元、卵焼き2つ分5元というさみしい夕食を取る。やっぱ意外と物価高いような気がするこの国。結構寒く、風呂にも入らずに寝る。

1996年8月15日木曜日

敗戦記念日、本日は国境越え。

朝9時のバスでモンラーを出発、昨日と同じく素敵な風景が広がっている。バスは11時前に国境の村ボーハンに到着、ここで中国側イミグレ手続き。相棒の香港CIが珍しがられて、けっこうてまどる。香港人がここを越えるのは初めてだそうだ。

さてそれからトラックの背に乗せられて約10分、 ラオス側イミグレのあるボーテンまで山道を揺られる。このトラックの運転手は何人だ? このトラックの籍はどちらに? 税金はどっちに払ってるのだ?(払ってるのか?)

ボーテンもボーハンとどっこいの小村で、ちびぞうが見つかったらどうしよう・・・などという私の杞憂は笑かした。イミグレ職員よりも牛のほうが多いぞー!荷物はノーチェック。

ここでラッキーなことに、もともと5日間のトランジットビザですが7日間あげましょうという申し出を、向こうからされる。そこで相棒と二人で、7日間で首都ビエンチャンまで行ってみようとゴー!と話し合う。そうすると私がまだ行ったことのないタイ東北部イサーンへ直接入れるし、都合がよろしい。しかしその件をイミグレのお役人に言うと、「わが国の公共交通はあまり発達していないので、それは飛行機を使わない限り難しい。トラックの荷台に乗っての移動はしんどいし、今は雨季だから道はあちこちで不通になってるよ。飛行機にしなさい飛行機に。」と、現地人からのアドバイスをされてしまった。むう、トラックの荷台?

ここで私たちは中国のド田舎(チベットとか新彊とか)でヒッチするときのように、でかいボロトラックの後ろで、振動に耐え兼ねて立ったり座ったりしながら移動する、そういうやつを思い浮かべ、ああ、辛苦なな旅になりそう・・・とため息をついたのであったが、そうではないことはすぐわかった。

ボーテンからルアン・ナム・タまで3時間乗った乗合タクシーが、つまりこれだったのだ。トヨタとかニッサンとかいすゞとかのピックアップトラックの荷台に屋根と座席をつけたもの、アジアでよくあるやつである。中国国産トラックと違って、割と新しい日本車なので、まあまあの乗り心地であった。

ルアン・ナム・タ到着。なんにもない小村である。美しい庭のあるホテルに泊まった。80元。人民元がまだ通じた。ラオス入国を祝して、とりあえずビア・ラオで一杯。

1996年8月14日水曜日

国境の町・モンラー

昼一時のバスでモンラーへ向かう。ミニバスは緑の田園地帯や熱帯的に牧歌的な村々やゴムの木林やバナナの群生など、目に美しいものたちのあいだをすりぬけて5時間で到着。

四川省からやってきた家族の経営するめし屋にて、最後の中華料理を食す。かっらーい!

1996年8月13日火曜日

シーサンパンナ到着

このボロバス、遅れまくりである。一般的に寝台バスは24時間で到着するはずなのだがドライバーは「うーん、26時間ぐらいかなあ。」 しかし地図と照らし合わせた進みぐあいチェックにより、それは明らかに嘘。途中、すれちがったトラックが跳ね上げた小石がフロントガラスを蜘蛛の巣にするなどの不運も重なり、ようやく到着したのは日も暮れてから。

版納賓館、80元。以前に長居したバストイレ付き24時間ホットシャワーしかもお湯をためて浸かる気になれる程度に清潔なバスタブ付きおまけに花の咲く中庭に面したベランダ付きツイン…ではなく、かつてドミトリーだった手入れの悪いバンブーハウスがこのお値段なりなり。ちなみに以前はそのツインが40元、ドミが10~15元ぐらいであった。どうりで貧乏そうな旅行者が減っている・・・。

ちびぞうを部屋に放す。うれしがってかけめぐっているが、網戸をがさごそとブサイクに駆け上っては、結局降りられなくなって私の助けを待っているのはとてもリスとは思えない情けなさ。

安い宿がないか探すも、収穫無し。貧乏旅行者が泊まっているのは町外れにあるタイ族経営ゲストハウスのようだ。竹で編んだバンガロー、もちろんバストイレ共同が40元。しかし、せまい敷地にバンガローがきちきちに建っているのはもひとつチャーミングではない。

1996年8月12日月曜日

ラオス領事館でビザ受け取り

朝10時、ラオス領事館でビザ受け取り。私のは普通にパスポートに押してあったが、相棒のは屏風折りになった厚紙であった。パスポートのページが減らなくていいなあ。そのままバスターミナルへ行き、2時発の西双版納行きの寝台バスを買う。RMB161.00也。3年ぶり。しかしやってきたバスは平舗ではなく、神経質な相棒はややしんどそう。

1996年8月11日日曜日

相棒の日記を覗いてみよう。

特筆すべきこと無し。つーか、当時の日記帳にこの日の記述がない。相棒の日記を覗いてみよう。

「(太陽の下に雲の絵) AM在街辺的小餐庁吃飯。今天在市里流連、現街上有些鼠輩之類?過路人騙銭、為数足外来客。小販也開始霧売了。此赴三箇月?????、?児只有天?不想。住宿??看来???複雑。蛇鼠之類随処可見会辺人有不大安全感。大衆之素質同以前一様人性極差。」

悪筆のせいで読めないところだらけ。しかしこの内容、この日なんかあったのか?なんか痛い目みたっけわしら?

1996年8月10日土曜日

テレカ電話で詐欺られる

洗濯後、ちびぞうと遊ぶ。首輪をはずして温室のようなガラス張りのベランダに放してやったので、少しは気が楽だ。また少し成長した。

金龍飯店のスーパーマーケットに行く。欲しい物がどっさりあって困ってしまう。外国製のクッキー、アールグレイのティーバッグが25包で23元、マクスウェルのフレンチバニラ味が16元、おつけものとかつくだにとか豆板醤とかの小瓶がいろいろ、まだ飲んだことのないプレミアム青島ビールの小瓶。結局買ったのはクッキーとちりめんじゃこの豆鼓味の瓶だけ。

ロビーのテレカ電話で日本へ国際電話をかけるも、全然かからんうえに何時の間にかテレカが40元以上も減っておる。怒髪天。ホテルに抗議するも、電話は郵電局の管轄なのでウチではわからんといわれ(それもそうだが)、ではここ中国で郵電局まで行って抗議してなにがどうなるものかというと、どう考えても時間の無駄としか考えられんので、あきらめる。

ちなみにこの当時は中国でテレカが普及し始めてあまり間のないころ。当時は各省ごとにちがった規格のテレカと公衆電話を開発しており、テレカは全国共通ではなかった。また、通話中に2枚続けて使うということができず、少し長時間の国際電話などでは非常に不便だったものだ。公衆電話の故障も多く、テレカを吸いこんで吐き出さない電話や(杭州で電話をかけようとしたところ、電話の脇で新聞を売っていた老婆が注意してくれたことがあった)、私が広州駅前で愛用していたように、いくら話してもテレカ度数が減らない電話などもあった。

1996年8月9日金曜日

5日間のトランジットビザ申請

ラオス領事館、本日は開いててほっとする。申請費は私がUSD49、相棒はUSD40であった。この差はなんなのだ。いずれも5日間のトランジットビザである。

帰りにサクラ百貨大楼でお買い物。生活必需品や水牛の角の櫛、羊の角のバレッタなどなど。スターチスと小さい百合をを買ってかえり、スターチスでちびぞうをなぶって遊ぶ。ちびぞう、とびついて花をむしる。中の蜜がおいしいらしい。

1996年8月8日木曜日

見込み違いで昆明滞在

朝からラオス領事館(あのにっくき茶花賓館敷地内にある)へ出かけるも、なぜかは分からないがしまっている。本日申請して明日受け取るつもりが、予定が狂ってしまった。土日をはさんでの受け取りとなってしまう~。昆明でそんなに過ごしてもしょうがないのに。

1996年8月7日水曜日

5時間遅れで昆明到着

6時半ごろ起床。7時ごろちびぞうが脱出を図る。列車は遅れ気味で、2時間遅れで貴州についた後、ゆっくり徐行で安順を経て六枝でなぜか1時間ほど停車。この時点で4時間の遅れ。水道水、飲料水ともになくなってしまい、非常に不便。昆明到着は本来夕方7時だが、列車員の予想では11時ずぎになりそうだ。

その後、対向車を交すために(単線なので)あちこちで停車。列車は12時を大きく回っての到着となった。昆湖飯店ドミのチェックインして眠る。

1996年8月6日火曜日

桂林から昆明へ移動

7時起床。陽朔から桂林へ。駅で水・おせんべい・ビスケット・干したさつまいもなどなどを購入。相棒はパンとタバコも購入していた。乗車時点ですでに30分ほど遅れており、柳州到着時点でそれは45分となっていた。昆明到着時には何時間の遅れになっているだろうか。

私は下舗、相棒は中舗、上舗はフランス人女性。向かいの上中下舗はなんと新彊から旅行できているという3人家族。いかにも典型的な新彊に住む知識人漢族らしく、気持ちのよい人々であった。見事に躾の行き届いた頭のよさそうな16歳の娘さんに、人のよさそうなお父さん、中国北方系女性には珍しくものやわらかなお母さんは英語ができるひとであった。フランス人女性も交え、話をする。